横道に逸れますが、ちょっと毛沢東について触れます。意外と本邦と浅からぬ繋がりを持つ人のようです。
毛沢東は、改めて述べるまでもなく、中華人民共和国を建国した人で、20世紀の偉大な人物の一人と数えられる人でしょう。本稿では政治に関する事柄はさておいて、文化・社会的な面で、筆者の関心を引く点に触れます。
1893年、湖南省湘潭県韶山村で生まれ、小学校時から故郷を離れ、1912年(18歳)には長沙の高等中学校に入学しています。その折、本邦、幕末の釈月性の漢詩「将東遊題壁」を基に自ら作った詩「留呈父親」(15歳時の作とも)を父に送ったと言う。両詩は、読み下しと現代語訳を合わせて末尾に示してあります。
釈月性(1817~1858)は、周防国(現・山口県)の人で、仏教の布教に努め、『仏教護国論』の著書がある。幕末に尊王攘夷の説を主張、憂国の念が強く、特に、海防を論じ、海防僧と呼ばれていたようです。また漢籍詩文についても、豊前(現・福岡)、大阪に遊学して修めています。
釈月性の掲題の詩は、筆者もかつてよく口遊んだ記憶があります。ただし、その折は、第2,3句は、それぞれ、“学 若し成る無くんば 死すとも 還らず;骨を埋むる 豈(アニ)墳墓の地のみならんや”であったように記憶していますが。
毛沢東は、日本の明治維新に高い関心を持っていたという。15~18歳の青年期に、釈月性の詩を目に留めていて、それを基に自ら作詞していることを思えば、漢詩に関わる資質もさることながら、日本への関心の高さが窺い知れます。
以後、師範学校に進むが、その在学中、1917年(23歳)、雑誌『新青年』に「体育の研究」と題する論文を発表しています。その論文の趣旨は:
「我が国の国力は極めて弱く、軍事は振るわず、民族の体質は日を追って悪くなっていく。まことに憂うべき現象である。…….体育は、徳育・智育と同様大事であり、体がなければ、徳も智もない」 と。
中国では、体を動かすことは下品であると考えられていたようですが、体育(運動)の重要性を説いたことは、画期的であったと言えます。この論文の中で、加納治五郎の創始した柔道やその理念を高く評価しているとのことである。
運動を通じて身体を鍛えようという考えは、1800年代半ばの清に遡って認めることができます。当時、王族・貴族は、運動をすることはなく、贅沢な暮らしをしていて、体が弱く、病気がちであった。
拳術が滅法強く、各武派が挑戦したが敵無しのため、“楊無敵”と異名をとっていた楊露禅という人がいた。清政府は、この楊露禅に請うて、拳術を通して王族・貴族の体力向上を図ろうとしています。
しかし王族・貴族は、体が弱いばかりでなく、忍耐力もなく、一向に拳術が上達する気配がなかった。そこで、拳術の型式を長袖・辮髪の格好でも動きやすく、ゆっくりと演技ができる健康体操の形に改良した。
すなわち“楊式太極拳”のひな型の誕生である。このひな形は、さらに息子や孫が改良を加えていき、88型式(套路)にまとめられて、健康増進、さらには拳術・太極拳の入門書としての“楊式太極拳”となった。
時代は下って、中華人民共和国の成立後、毛沢東の治世下では、目は指導層の人ばかりでなく、一般庶民にも向けられて、全国民が実践でき、健康増進に役立つ運動の工夫・確立が図られました。
1954年、政府体育運動委員会において、88型式の“楊式太極拳”を基に、さらに型の選定、運動法の検討が始まり、健身性、大衆性を備えた運動として24式(型)からなる、“簡化24式太極拳”の誕生を見ています。
この“簡化24式太極拳”は1956年に発表され、たちまち広く普及し、人気を博したようです。かつて「体育の研究」論文で、国民の健康状態を憂いていた毛沢東の想いが反映されたものでしょう。
1959年には、早々に日本に紹介されています。この年「新中国成立10周年」行事が催され、日本代表団も中国を訪問しています。その折、周恩来首相と日本代表(松村謙三ら)の間で、日本での普及が約束された由である。
今日、“簡化24式太極拳”は、中国や日本ばかりでなく、世界各国で広く普及して、国民の健康増進に寄与していることは衆知のとおりである。筆者が主宰する健康体操教室でも実践しています。
話は変わって、今年(2017)新年早々、“「ピンインの父」、周有光氏が死去”として次のような短い記事が新聞紙上に載りました。
<中国で普及している漢字の発音のローマ字表記ピンインの成立に主導的な役割を果たし、「ピンインの父」とも呼ばれた言語学者の周有光氏が1月14日、北京で亡くなった。112歳だった。周氏は江蘇省出身で1933年から2年間、日本へ留学していた。(毎日新聞)>
周有光は、本来経済学者であったが、’55年から言語・文字を専門に研究するようになった。中国文字改革委員会に招かれ、漢字ピンイン方案委員会の委員を担当した。3年かけてピンイン方案を策定し、’58年にその方案は全国人民代表大会で承認された。
ピンインが誕生する以前は、中国人の85%が非識字者であったと言われているが、漢字の簡略化などの文字改革に加えて、一連の教育政策が打ち出され、中国は現在世界で識字者が最多の国になっている と。
ピンインの導入により、中国語を学ぶ中国の子供や外国人の苦労が軽減されたばかりでなく、パソコンやスマホで数万に及ぶ漢字を入力する上で、非常に大きな役割を果たした点、特筆すべきでしょう。
これら文化・社会面における毛沢東治世時の治績は、非常に華々しいものがあります。特に、一般市民に政治の目が向けられていた点、中国の歴史上、特筆すべきであるように思われます。
ところが、1966年からほぼ10年にわたり「文化大革命」の嵐が吹き荒れた。先に挙げた「ピンインの父」周有光も批判の対象とされたようです。将に秦始皇帝時代の焚書・坑儒に匹敵する毛沢東の負の業績と言えるでしょう。
先に毛沢東の詩「沁園春」では、“今日英雄的な人物を数え上げるとすれば、なほ また現王朝をみよ”と、壮大な気宇を示した毛沢東ではあったが、いかなる魔が差したか?「文化大革命」がなかったなら、彼は、彼が挙げた歴代の皇帝をはるかに凌ぐ人物と評されたであろうと思われます。惜しまれます。
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将東遊題壁 将に東遊せんとして壁に題す 釈月性
男児立志出郷関 男児 志を立てて 郷関を出ず
学若無成不復還 学 若し成る無くんば 復(マタ) 還(カヘ)らず
埋骨何期墳墓地 骨を埋むる 何ぞ期せん墳墓の地
人間到處有青山 人間(ジンカン) 到る処 青山有り
現代語訳
男子がひとたび決意して郷里を出たからには、
志の成就するまでは再びもどらない決心である。
骨を埋めるのにどうして故郷の墓所を期待しようか、
世間どこへ行っても青々とした墓地があるのである。
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留呈父親 留めて 父親に呈す 毛沢東
孩兒立志出郷關, 孩兒(ガイジ) 志を立てて郷関を出づ,
學不成名誓不還; 学びて 名を成さざれば 誓って 還らず;
埋骨何須桑梓地, 骨を埋むるに 何ぞ 桑梓(ソウシ)の地を須(モチ)いん,
人間無處不靑山。 人間 処として 靑山たらざる 無し。
註] 桑梓の地: 昔、将来の子孫の生活の助けとなるように、家にクワやアズサの木を植える習慣があった。故郷のこと。
現代語訳
子供が心を奮いおこして、故郷の門を出たからには、
学問をして名を成せないようならば、誓って還ることはない;
骨を埋めるのは、どうして郷里であるとする必要があろうか、
人の世では、どこであっても墓所としないところはないのだ。
毛沢東は、改めて述べるまでもなく、中華人民共和国を建国した人で、20世紀の偉大な人物の一人と数えられる人でしょう。本稿では政治に関する事柄はさておいて、文化・社会的な面で、筆者の関心を引く点に触れます。
1893年、湖南省湘潭県韶山村で生まれ、小学校時から故郷を離れ、1912年(18歳)には長沙の高等中学校に入学しています。その折、本邦、幕末の釈月性の漢詩「将東遊題壁」を基に自ら作った詩「留呈父親」(15歳時の作とも)を父に送ったと言う。両詩は、読み下しと現代語訳を合わせて末尾に示してあります。
釈月性(1817~1858)は、周防国(現・山口県)の人で、仏教の布教に努め、『仏教護国論』の著書がある。幕末に尊王攘夷の説を主張、憂国の念が強く、特に、海防を論じ、海防僧と呼ばれていたようです。また漢籍詩文についても、豊前(現・福岡)、大阪に遊学して修めています。
釈月性の掲題の詩は、筆者もかつてよく口遊んだ記憶があります。ただし、その折は、第2,3句は、それぞれ、“学 若し成る無くんば 死すとも 還らず;骨を埋むる 豈(アニ)墳墓の地のみならんや”であったように記憶していますが。
毛沢東は、日本の明治維新に高い関心を持っていたという。15~18歳の青年期に、釈月性の詩を目に留めていて、それを基に自ら作詞していることを思えば、漢詩に関わる資質もさることながら、日本への関心の高さが窺い知れます。
以後、師範学校に進むが、その在学中、1917年(23歳)、雑誌『新青年』に「体育の研究」と題する論文を発表しています。その論文の趣旨は:
「我が国の国力は極めて弱く、軍事は振るわず、民族の体質は日を追って悪くなっていく。まことに憂うべき現象である。…….体育は、徳育・智育と同様大事であり、体がなければ、徳も智もない」 と。
中国では、体を動かすことは下品であると考えられていたようですが、体育(運動)の重要性を説いたことは、画期的であったと言えます。この論文の中で、加納治五郎の創始した柔道やその理念を高く評価しているとのことである。
運動を通じて身体を鍛えようという考えは、1800年代半ばの清に遡って認めることができます。当時、王族・貴族は、運動をすることはなく、贅沢な暮らしをしていて、体が弱く、病気がちであった。
拳術が滅法強く、各武派が挑戦したが敵無しのため、“楊無敵”と異名をとっていた楊露禅という人がいた。清政府は、この楊露禅に請うて、拳術を通して王族・貴族の体力向上を図ろうとしています。
しかし王族・貴族は、体が弱いばかりでなく、忍耐力もなく、一向に拳術が上達する気配がなかった。そこで、拳術の型式を長袖・辮髪の格好でも動きやすく、ゆっくりと演技ができる健康体操の形に改良した。
すなわち“楊式太極拳”のひな型の誕生である。このひな形は、さらに息子や孫が改良を加えていき、88型式(套路)にまとめられて、健康増進、さらには拳術・太極拳の入門書としての“楊式太極拳”となった。
時代は下って、中華人民共和国の成立後、毛沢東の治世下では、目は指導層の人ばかりでなく、一般庶民にも向けられて、全国民が実践でき、健康増進に役立つ運動の工夫・確立が図られました。
1954年、政府体育運動委員会において、88型式の“楊式太極拳”を基に、さらに型の選定、運動法の検討が始まり、健身性、大衆性を備えた運動として24式(型)からなる、“簡化24式太極拳”の誕生を見ています。
この“簡化24式太極拳”は1956年に発表され、たちまち広く普及し、人気を博したようです。かつて「体育の研究」論文で、国民の健康状態を憂いていた毛沢東の想いが反映されたものでしょう。
1959年には、早々に日本に紹介されています。この年「新中国成立10周年」行事が催され、日本代表団も中国を訪問しています。その折、周恩来首相と日本代表(松村謙三ら)の間で、日本での普及が約束された由である。
今日、“簡化24式太極拳”は、中国や日本ばかりでなく、世界各国で広く普及して、国民の健康増進に寄与していることは衆知のとおりである。筆者が主宰する健康体操教室でも実践しています。
話は変わって、今年(2017)新年早々、“「ピンインの父」、周有光氏が死去”として次のような短い記事が新聞紙上に載りました。
<中国で普及している漢字の発音のローマ字表記ピンインの成立に主導的な役割を果たし、「ピンインの父」とも呼ばれた言語学者の周有光氏が1月14日、北京で亡くなった。112歳だった。周氏は江蘇省出身で1933年から2年間、日本へ留学していた。(毎日新聞)>
周有光は、本来経済学者であったが、’55年から言語・文字を専門に研究するようになった。中国文字改革委員会に招かれ、漢字ピンイン方案委員会の委員を担当した。3年かけてピンイン方案を策定し、’58年にその方案は全国人民代表大会で承認された。
ピンインが誕生する以前は、中国人の85%が非識字者であったと言われているが、漢字の簡略化などの文字改革に加えて、一連の教育政策が打ち出され、中国は現在世界で識字者が最多の国になっている と。
ピンインの導入により、中国語を学ぶ中国の子供や外国人の苦労が軽減されたばかりでなく、パソコンやスマホで数万に及ぶ漢字を入力する上で、非常に大きな役割を果たした点、特筆すべきでしょう。
これら文化・社会面における毛沢東治世時の治績は、非常に華々しいものがあります。特に、一般市民に政治の目が向けられていた点、中国の歴史上、特筆すべきであるように思われます。
ところが、1966年からほぼ10年にわたり「文化大革命」の嵐が吹き荒れた。先に挙げた「ピンインの父」周有光も批判の対象とされたようです。将に秦始皇帝時代の焚書・坑儒に匹敵する毛沢東の負の業績と言えるでしょう。
先に毛沢東の詩「沁園春」では、“今日英雄的な人物を数え上げるとすれば、なほ また現王朝をみよ”と、壮大な気宇を示した毛沢東ではあったが、いかなる魔が差したか?「文化大革命」がなかったなら、彼は、彼が挙げた歴代の皇帝をはるかに凌ぐ人物と評されたであろうと思われます。惜しまれます。
xxxxxxxxxxxxxx
将東遊題壁 将に東遊せんとして壁に題す 釈月性
男児立志出郷関 男児 志を立てて 郷関を出ず
学若無成不復還 学 若し成る無くんば 復(マタ) 還(カヘ)らず
埋骨何期墳墓地 骨を埋むる 何ぞ期せん墳墓の地
人間到處有青山 人間(ジンカン) 到る処 青山有り
現代語訳
男子がひとたび決意して郷里を出たからには、
志の成就するまでは再びもどらない決心である。
骨を埋めるのにどうして故郷の墓所を期待しようか、
世間どこへ行っても青々とした墓地があるのである。
xxxxxxxxxx
留呈父親 留めて 父親に呈す 毛沢東
孩兒立志出郷關, 孩兒(ガイジ) 志を立てて郷関を出づ,
學不成名誓不還; 学びて 名を成さざれば 誓って 還らず;
埋骨何須桑梓地, 骨を埋むるに 何ぞ 桑梓(ソウシ)の地を須(モチ)いん,
人間無處不靑山。 人間 処として 靑山たらざる 無し。
註] 桑梓の地: 昔、将来の子孫の生活の助けとなるように、家にクワやアズサの木を植える習慣があった。故郷のこと。
現代語訳
子供が心を奮いおこして、故郷の門を出たからには、
学問をして名を成せないようならば、誓って還ることはない;
骨を埋めるのは、どうして郷里であるとする必要があろうか、
人の世では、どこであっても墓所としないところはないのだ。