愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題33 漢詩を読む ドラマの中の漢詩19 『宮廷女官―若曦』-7

2017-03-20 17:12:56 | 漢詩を読む
横道に逸れますが、ちょっと毛沢東について触れます。意外と本邦と浅からぬ繋がりを持つ人のようです。

毛沢東は、改めて述べるまでもなく、中華人民共和国を建国した人で、20世紀の偉大な人物の一人と数えられる人でしょう。本稿では政治に関する事柄はさておいて、文化・社会的な面で、筆者の関心を引く点に触れます。

1893年、湖南省湘潭県韶山村で生まれ、小学校時から故郷を離れ、1912年(18歳)には長沙の高等中学校に入学しています。その折、本邦、幕末の釈月性の漢詩「将東遊題壁」を基に自ら作った詩「留呈父親」(15歳時の作とも)を父に送ったと言う。両詩は、読み下しと現代語訳を合わせて末尾に示してあります。

釈月性(1817~1858)は、周防国(現・山口県)の人で、仏教の布教に努め、『仏教護国論』の著書がある。幕末に尊王攘夷の説を主張、憂国の念が強く、特に、海防を論じ、海防僧と呼ばれていたようです。また漢籍詩文についても、豊前(現・福岡)、大阪に遊学して修めています。

釈月性の掲題の詩は、筆者もかつてよく口遊んだ記憶があります。ただし、その折は、第2,3句は、それぞれ、“学 若し成る無くんば 死すとも 還らず;骨を埋むる 豈(アニ)墳墓の地のみならんや”であったように記憶していますが。

毛沢東は、日本の明治維新に高い関心を持っていたという。15~18歳の青年期に、釈月性の詩を目に留めていて、それを基に自ら作詞していることを思えば、漢詩に関わる資質もさることながら、日本への関心の高さが窺い知れます。

以後、師範学校に進むが、その在学中、1917年(23歳)、雑誌『新青年』に「体育の研究」と題する論文を発表しています。その論文の趣旨は:

「我が国の国力は極めて弱く、軍事は振るわず、民族の体質は日を追って悪くなっていく。まことに憂うべき現象である。…….体育は、徳育・智育と同様大事であり、体がなければ、徳も智もない」 と。

中国では、体を動かすことは下品であると考えられていたようですが、体育(運動)の重要性を説いたことは、画期的であったと言えます。この論文の中で、加納治五郎の創始した柔道やその理念を高く評価しているとのことである。

運動を通じて身体を鍛えようという考えは、1800年代半ばの清に遡って認めることができます。当時、王族・貴族は、運動をすることはなく、贅沢な暮らしをしていて、体が弱く、病気がちであった。

拳術が滅法強く、各武派が挑戦したが敵無しのため、“楊無敵”と異名をとっていた楊露禅という人がいた。清政府は、この楊露禅に請うて、拳術を通して王族・貴族の体力向上を図ろうとしています。

しかし王族・貴族は、体が弱いばかりでなく、忍耐力もなく、一向に拳術が上達する気配がなかった。そこで、拳術の型式を長袖・辮髪の格好でも動きやすく、ゆっくりと演技ができる健康体操の形に改良した。

すなわち“楊式太極拳”のひな型の誕生である。このひな形は、さらに息子や孫が改良を加えていき、88型式(套路)にまとめられて、健康増進、さらには拳術・太極拳の入門書としての“楊式太極拳”となった。

時代は下って、中華人民共和国の成立後、毛沢東の治世下では、目は指導層の人ばかりでなく、一般庶民にも向けられて、全国民が実践でき、健康増進に役立つ運動の工夫・確立が図られました。

1954年、政府体育運動委員会において、88型式の“楊式太極拳”を基に、さらに型の選定、運動法の検討が始まり、健身性、大衆性を備えた運動として24式(型)からなる、“簡化24式太極拳”の誕生を見ています。

この“簡化24式太極拳”は1956年に発表され、たちまち広く普及し、人気を博したようです。かつて「体育の研究」論文で、国民の健康状態を憂いていた毛沢東の想いが反映されたものでしょう。

1959年には、早々に日本に紹介されています。この年「新中国成立10周年」行事が催され、日本代表団も中国を訪問しています。その折、周恩来首相と日本代表(松村謙三ら)の間で、日本での普及が約束された由である。

今日、“簡化24式太極拳”は、中国や日本ばかりでなく、世界各国で広く普及して、国民の健康増進に寄与していることは衆知のとおりである。筆者が主宰する健康体操教室でも実践しています。

話は変わって、今年(2017)新年早々、“「ピンインの父」、周有光氏が死去”として次のような短い記事が新聞紙上に載りました。

<中国で普及している漢字の発音のローマ字表記ピンインの成立に主導的な役割を果たし、「ピンインの父」とも呼ばれた言語学者の周有光氏が1月14日、北京で亡くなった。112歳だった。周氏は江蘇省出身で1933年から2年間、日本へ留学していた。(毎日新聞)>

周有光は、本来経済学者であったが、’55年から言語・文字を専門に研究するようになった。中国文字改革委員会に招かれ、漢字ピンイン方案委員会の委員を担当した。3年かけてピンイン方案を策定し、’58年にその方案は全国人民代表大会で承認された。

ピンインが誕生する以前は、中国人の85%が非識字者であったと言われているが、漢字の簡略化などの文字改革に加えて、一連の教育政策が打ち出され、中国は現在世界で識字者が最多の国になっている と。

ピンインの導入により、中国語を学ぶ中国の子供や外国人の苦労が軽減されたばかりでなく、パソコンやスマホで数万に及ぶ漢字を入力する上で、非常に大きな役割を果たした点、特筆すべきでしょう。

これら文化・社会面における毛沢東治世時の治績は、非常に華々しいものがあります。特に、一般市民に政治の目が向けられていた点、中国の歴史上、特筆すべきであるように思われます。

ところが、1966年からほぼ10年にわたり「文化大革命」の嵐が吹き荒れた。先に挙げた「ピンインの父」周有光も批判の対象とされたようです。将に秦始皇帝時代の焚書・坑儒に匹敵する毛沢東の負の業績と言えるでしょう。

先に毛沢東の詩「沁園春」では、“今日英雄的な人物を数え上げるとすれば、なほ また現王朝をみよ”と、壮大な気宇を示した毛沢東ではあったが、いかなる魔が差したか?「文化大革命」がなかったなら、彼は、彼が挙げた歴代の皇帝をはるかに凌ぐ人物と評されたであろうと思われます。惜しまれます。

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将東遊題壁     将に東遊せんとして壁に題す  釈月性

男児立志出郷関  男児 志を立てて 郷関を出ず
学若無成不復還  学 若し成る無くんば 復(マタ) 還(カヘ)らず
埋骨何期墳墓地  骨を埋むる 何ぞ期せん墳墓の地
人間到處有青山  人間(ジンカン) 到る処 青山有り

現代語訳
男子がひとたび決意して郷里を出たからには、
志の成就するまでは再びもどらない決心である。
骨を埋めるのにどうして故郷の墓所を期待しようか、
世間どこへ行っても青々とした墓地があるのである。

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留呈父親     留めて 父親に呈す   毛沢東

孩兒立志出郷關, 孩兒(ガイジ) 志を立てて郷関を出づ,
學不成名誓不還; 学びて 名を成さざれば 誓って 還らず;
埋骨何須桑梓地, 骨を埋むるに 何ぞ 桑梓(ソウシ)の地を須(モチ)いん,
人間無處不靑山。 人間 処として 靑山たらざる 無し。
註] 桑梓の地: 昔、将来の子孫の生活の助けとなるように、家にクワやアズサの木を植える習慣があった。故郷のこと。

現代語訳
子供が心を奮いおこして、故郷の門を出たからには、
学問をして名を成せないようならば、誓って還ることはない;
骨を埋めるのは、どうして郷里であるとする必要があろうか、
人の世では、どこであっても墓所としないところはないのだ。
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閑話休題32 漢詩を読む ドラマの中の漢詩18 『宮廷女官―若曦』-6

2017-03-09 16:14:54 | 漢詩を読む
ドラマの舞台は清・第4代康熙帝の時代の宮廷・紫禁城です。そこに毛沢東の詩が登場します。それがドラマの展開に溶け込んでいるから面白い。

ドラマの進行を追います。

第八皇子邸の中庭で、第十皇子の誕生パーテイーが開かれます。皇子たちばかりでなく、ご婦人たちも集まってにぎやかです。そのさなか、第十皇子と若曦は、示し合わせていたようで、宴席を抜け出し、若曦の部屋に行きます。

色とりどりの折鶴や提灯などで部屋いっぱいに飾られています。第十皇子は驚き、かつ喜びを満面にしています。若曦は、第十皇子の手を取り、“ハッピーバースデイ トウユー”と歌って誕生日を祝います。勿論、メロデイーは同じだが、歌詞は中国語“祝你生日快乐Zhù nǐ shēngrì kuàilè”でした。

第十皇子が、「これは何の歌?誕生日を祝う歌として、“麻姑献酒”以外聞いたことがない」と問えば、「誕生日を祝う歌よ、私が作ったの」と若曦は答える。「麻姑献酒」とは、中国神話で長寿の象徴である仙女・麻姑(まこ)が、西王母の誕生祝いに美酒を贈る話のようです。

部屋に第十三、十四皇子が侵入してきて、この密会(?)は散会となります。“アホの第十皇子”と、兼々つぶやく若曦ですが、堅苦しい紫禁城内にあって、若曦にとって、なんの気張ることなく、打ち解けて話の出来る相手は、現在のところ、第十皇子だけなのです。

宴会場から続く、池の傍に設けられた太鼓橋の上。若曦が通り過ぎようとすると、明玉が通せんぼして行く先を塞ぎます。明玉は、第八皇子の正室の妹で、当時の名家、郭洛羅(かくらくら)家の出で、気位が高い。

右に左に と行く道を塞ぐのに対して、「道を開けないつもり?」と抗議する若曦に、明玉は、「礼儀がなっていないわ、いやらしい妓女と同じよ」と言い返した。そこで若曦が明玉の横ビンタをパシッと平手打ちした。

それをきっかけに、両者組んず、解れずの取っ組み合いが始まった。終には頭をぶっつけ合って、両者ともフラフラと足元が定まらなくなった。組み合ったまま、橋のたもとへ、さらに池の中へドブンと落ちて行った。

宴会場から駆けつけてきた人々が、やれ、「引き挙げよ!」、やれ、「助け上げろ!」の大騒ぎ。やっと皇子たちが総出で助け上げることができた。陸に上がった両者はにらみ合いが続くが、耐えられず、明玉はその場で泣き出します。若曦は、明玉の前に進み出て、指さしながら、「ウルサイ!!」と一喝。若曦の剣幕に圧倒された明玉が泣き止んで、別れて行って、一件落着。

この事件(?)は、若曦の“武勇伝”として、紫禁城一円に伝えられていったようです。紫禁城では、“命知らずの十三皇子”に因んで、若曦は、“命知らずの十三妹”と命名されて、通用するようになります。

時は移って、中秋の名月を祝う宮中での中秋節の宴。康熙帝を上座にして、皇子たちをはじめ多くの宮廷人たちが居住まいを正しています。先の“武勇伝”を聞き知っていたらしい皇帝の特別の計らいで、若曦も列席する機会を得ました。

皇帝は、開口一番、「そこの者!!」と、右腕を一直線にして若曦を指差します。列席者全員の目線は若曦に注がれ、部屋には緊張が走ります。隣にいる姉の若蘭に促されて、若曦は皇帝の前に進み出て、平伏します。

「そなたが噂の“命知らずの十三妹”か!緊張しているが、怖いか?」との皇帝のお声に、「名君であられる陛下をなんで恐れましょう。ただ皇宮が厳かで圧倒されたのです」と若曦が答える。重ねて皇帝に、「名君と申したな!なぜ朕を名君と思う?」と詰め寄られて、答えに窮して無言が続く。

若曦は、胸の内で、康熙帝の歴史上の事跡について思いめぐらすが、返答となるような事柄が思いつかない。宮廷内は緊張に包まれ、列席者全員が固唾を飲んで、俯き加減になる中、明玉だけが、「それ見たことか!」と、言わんばっかりに、ほくそ笑んでいる風です。

皇帝は、「どうした?」とやや気色ばんで返答を促す。やっと若曦の口から衝いて出たのは、「惜しむらくは秦皇漢武、やや文才に劣る。……、」と、毛沢東の詩『沁園春 雪』の一節でした。

若曦が詠じた部分の漢詩は末尾に現代語訳とともに挙げた。詩中省略した部分は、現代語訳中で要約して示し、詩全体の流れが掴めるように計らった。なお、この詩については、主にネット上、碇豊長『詩詞世界』を参考にした。

この詩は、毛沢東が、国民党の包囲を逃れ、いわゆる長征(1934.10~)の末、1年後陝西省北部の根拠地に着いた、その4ケ月後、1936年2月の作とされています。雪・氷に閉ざされた北國の風景は、過去の封建社会の圧政を象徴するとされています。

過去多くの英雄が現れ、王朝を開き、建国を進めてきたが、誰も大したものではない。「英雄を数え上げたいというなら、今日の人を見よ」と結んでいます。“今日の人”とは、“長きにわたる封建社会を打ち破り、新しい「新民主主義」の社会を築く”という理想に燃えた“毛沢東”自身のことであり、気概の強さの発露と解釈されるのではないでしょうか。

ドラマでは、康熙帝を“今日の人”と暗に示していると考えてよいでしょう。

当時、毛沢東は、「新民主主義」国家の建設を志していたようですが、1950年代以降、社会主義社会の建設へと邁進していきます。いずれにせよ、この詩は、毛沢東の一連の長征詩の中で、もっとも優れているものとして評価が高い詩のようです。

ドラマに返って。この詩を聞いた皇帝は、「これが答えか!「アッハッハッハッハ」と高笑いして、「評判とは随分違うではないか、…..。尭・舜の例えは聞き飽きたが、若曦の言葉は非常に新鮮だった!と。この詩は、後世の作品であり、‘新鮮な’とは自然な感想と言えよう。

さらに、皇帝は「そなたは度胸だけでなく、学もあるようだな。褒美を!!」と、ご満悦であった。宮廷内の緊張も解けた。ただ、明玉は複雑な表情であった。

傍の姉・若蘭が、自分の手を若曦の手に重ねて、「手が震えている!お褒めの言葉だけでなく、褒美も頂いたのよ!」と声をかけると、「一つ間違えると死を賜ったかも。今思い出しても怖くなる」と、若曦はなお緊張から解放されていなかった。

以後、「家とは国家の基礎、家なくして国家なし、天下を治めることなど不可能だ。家が乱れれば国の行く末は危ない。臣下の礼と兄弟の義を重んじることをしかと肝に銘じておくことだ。では朕と共に大いに酌み交わそう。楽にせよ。」と皇帝のお言葉があって、乾杯を機に、賑やかな中秋節の宴となった。[『宮廷女官―若曦』第3話から]

xxxxxxxxxxxxxxxx
沁園春 雪        毛沢東

<原文>      <読み下し文>
……
……(省略)
……

惜秦皇漢武,    惜(オシ)むらくは 秦皇(シンコウ) 漢武(カンブ)は,
略輸文采;     略(ホ)ぼ 文采(ブンサイ)に輸(ヤブ)れ;
唐宗宋祖,     唐宗(トウソウ) 宋祖(ソウソ)は,
稍遜風騒。     稍(ヤ)や 風騒(フウソウ)で遜(ユズ)る。

一代天驕成吉思汗, 一代の天驕(テンキョウ) 成吉思汗(ジンギス・ハン)は,
只識彎弓射大雕。  只(タ)だ 弓を彎(ヒ)きて大雕(オオワシ)を射(イ)るを識(シ)るのみ

倶往矣,      倶(ミ)な往(ス)ぎに矣(ケリ),
數風流人物,    風流人物(フウリュウジンブツ)を數(カゾ)うるには,
註]
秦皇:秦に始皇帝・嬴政 (BC259-BC210);
漢武:漢の武帝・劉轍(第7代皇帝;BC159-BC87);
唐宗:唐の太宗・李世民(第2代皇帝;599-649);
宋祖:宋の太祖・趙匡胤(初代皇帝;927-976)
成吉思汗:モンゴル帝国(初代皇帝;1162?-1227)

<現代訳>
……(要約)……
2月の北国は万里の彼方まで雪・氷に閉ざされ、
長城の内外は一面広々とした銀世界、
黄河の上下流は、河水が凍り付き滔滔とした流れはない、
晴れた日の秦晉高原は、絹織物を纏ってひときわ艶やか。
多くの英雄がこの山河(祖国)のために尽くしてきた。

惜しむらくは、秦の始皇帝、漢の武
やや文才に劣る。

唐の太宗、宋の大祖は、
やや文化面の政策が劣っている。

一時代中、希代の英雄ジンギス・ハンは、
ただ弓を引いてオオワシを射ることを知っているだけだ。

みな過ぎ去ってしまった。
今日英雄的な人物を数え上げるとすれば、
なほ また現王朝を見よ。
参考] 碇豊長『詩詞世界』(http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/maoshi11.htm)

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閑話休題32 漢詩を読む ドラマの中の漢詩18 『宮廷女官―若曦』-6

2017-03-09 16:14:54 | 漢詩を読む
ドラマの舞台は清・第4代康熙帝の時代の宮廷・紫禁城です。そこに毛沢東の詩が登場します。それがドラマの展開に溶け込んでいるから面白い。

ドラマの進行を追います。

第八皇子邸の中庭で、第十皇子の誕生パーテイーが開かれます。皇子たちばかりでなく、ご婦人たちも集まってにぎやかです。そのさなか、第十皇子と若曦は、示し合わせていたようで、宴席を抜け出し、若曦の部屋に行きます。

色とりどりの折鶴や提灯などで部屋いっぱいに飾られています。第十皇子は驚き、かつ喜びを満面にしています。若曦は、第十皇子の手を取り、“ハッピーバースデイ トウユー”と歌って誕生日を祝います。勿論、メロデイーは同じだが、歌詞は中国語“祝你生日快乐Zhù nǐ shēngrì kuàilè”でした。

第十皇子が、「これは何の歌?誕生日を祝う歌として、“麻姑献酒”以外聞いたことがない」と問えば、「誕生日を祝う歌よ、私が作ったの」と若曦は答える。「麻姑献酒」とは、中国神話で長寿の象徴である仙女・麻姑(まこ)が、西王母の誕生祝いに美酒を贈る話のようです。

部屋に第十三、十四皇子が侵入してきて、この密会(?)は散会となります。“アホの第十皇子”と、兼々つぶやく若曦ですが、堅苦しい紫禁城内にあって、若曦にとって、なんの気張ることなく、打ち解けて話の出来る相手は、現在のところ、第十皇子だけなのです。

宴会場から続く、池の傍に設けられた太鼓橋の上。若曦が通り過ぎようとすると、明玉が通せんぼして行く先を塞ぎます。明玉は、第八皇子の正室の妹で、当時の名家、郭洛羅(かくらくら)家の出で、気位が高い。

右に左に と行く道を塞ぐのに対して、「道を開けないつもり?」と抗議する若曦に、明玉は、「礼儀がなっていないわ、いやらしい妓女と同じよ」と言い返した。そこで若曦が明玉の横ビンタをパシッと平手打ちした。

それをきっかけに、両者組んず、解れずの取っ組み合いが始まった。終には頭をぶっつけ合って、両者ともフラフラと足元が定まらなくなった。組み合ったまま、橋のたもとへ、さらに池の中へドブンと落ちて行った。

宴会場から駆けつけてきた人々が、やれ、「引き挙げよ!」、やれ、「助け上げろ!」の大騒ぎ。やっと皇子たちが総出で助け上げることができた。陸に上がった両者はにらみ合いが続くが、耐えられず、明玉はその場で泣き出します。若曦は、明玉の前に進み出て、指さしながら、「ウルサイ!!」と一喝。若曦の剣幕に圧倒された明玉が泣き止んで、別れて行って、一件落着。

この事件(?)は、若曦の“武勇伝”として、紫禁城一円に伝えられていったようです。紫禁城では、“命知らずの十三皇子”に因んで、若曦は、“命知らずの十三妹”と命名されて、通用するようになります。

時は移って、中秋の名月を祝う宮中での中秋節の宴。康熙帝を上座にして、皇子たちをはじめ多くの宮廷人たちが居住まいを正しています。先の“武勇伝”を聞き知っていたらしい皇帝の特別の計らいで、若曦も列席する機会を得ました。

皇帝は、開口一番、「そこの者!!」と、右腕を一直線にして若曦を指差します。列席者全員の目線は若曦に注がれ、部屋には緊張が走ります。隣にいる姉の若蘭に促されて、若曦は皇帝の前に進み出て、平伏します。

「そなたが噂の“命知らずの十三妹”か!緊張しているが、怖いか?」との皇帝のお声に、「名君であられる陛下をなんで恐れましょう。ただ皇宮が厳かで圧倒されたのです」と若曦が答える。重ねて皇帝に、「名君と申したな!なぜ朕を名君と思う?」と詰め寄られて、答えに窮して無言が続く。

若曦は、胸の内で、康熙帝の歴史上の事跡について思いめぐらすが、返答となるような事柄が思いつかない。宮廷内は緊張に包まれ、列席者全員が固唾を飲んで、俯き加減になる中、明玉だけが、「それ見たことか!」と、言わんばっかりに、ほくそ笑んでいる風です。

皇帝は、「どうした?」とやや気色ばんで返答を促す。やっと若曦の口から衝いて出たのは、「惜しむらくは秦皇漢武、やや文才に劣る。……、」と、毛沢東の詩『沁園春 雪』の一節でした。

若曦が詠じた部分の漢詩は末尾に現代語訳とともに挙げた。詩中省略した部分は、現代語訳中で要約して示し、詩全体の流れが掴めるように計らった。なお、この詩については、主にネット上、碇豊長『詩詞世界』を参考にした。

この詩は、毛沢東が、国民党の包囲を逃れ、いわゆる長征(1934.10~)の末、1年後陝西省北部の根拠地に着いた、その4ケ月後、1936年2月の作とされています。雪・氷に閉ざされた北國の風景は、過去の封建社会の圧政を象徴するとされています。

過去多くの英雄が現れ、王朝を開き、建国を進めてきたが、誰も大したものではない。「英雄を数え上げたいというなら、今日の人を見よ」と結んでいます。“今日の人”とは、“長きにわたる封建社会を打ち破り、新しい「新民主主義」の社会を築く”という理想に燃えた“毛沢東”自身のことであり、気概の強さの発露と解釈されるのではないでしょうか。

ドラマでは、康熙帝を“今日の人”と暗に示していると考えてよいでしょう。

当時、毛沢東は、「新民主主義」国家の建設を志していたようですが、1950年代以降、社会主義社会の建設へと邁進していきます。いずれにせよ、この詩は、毛沢東の一連の長征詩の中で、もっとも優れているものとして評価が高い詩のようです。

ドラマに返って。この詩を聞いた皇帝は、「これが答えか!「アッハッハッハッハ」と高笑いして、「評判とは随分違うではないか、…..。尭・舜の例えは聞き飽きたが、若曦の言葉は非常に新鮮だった!と。この詩は、後世の作品であり、‘新鮮な’とは自然な感想と言えよう。

さらに、皇帝は「そなたは度胸だけでなく、学もあるようだな。褒美を!!」と、ご満悦であった。宮廷内の緊張も解けた。ただ、明玉は複雑な表情であった。

傍の姉・若蘭が、自分の手を若曦の手に重ねて、「手が震えている!お褒めの言葉だけでなく、褒美も頂いたのよ!」と声をかけると、「一つ間違えると死を賜ったかも。今思い出しても怖くなる」と、若曦はなお緊張から解放されていなかった。

以後、「家とは国家の基礎、家なくして国家なし、天下を治めることなど不可能だ。家が乱れれば国の行く末は危ない。臣下の礼と兄弟の義を重んじることをしかと肝に銘じておくことだ。では朕と共に大いに酌み交わそう。楽にせよ。」と皇帝のお言葉があって、乾杯を機に、賑やかな中秋節の宴となった。[『宮廷女官―若曦』第3話から]

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沁園春 雪        毛沢東

<原文>      <読み下し文>
……
……(省略)
……

惜秦皇漢武,    惜(オシ)むらくは 秦皇(シンコウ) 漢武(カンブ)は,
略輸文采;     略(ホ)ぼ 文采(ブンサイ)に輸(ヤブ)れ;
唐宗宋祖,     唐宗(トウソウ) 宋祖(ソウソ)は,
稍遜風騒。     稍(ヤ)や 風騒(フウソウ)で遜(ユズ)る。

一代天驕成吉思汗, 一代の天驕(テンキョウ) 成吉思汗(ジンギス・ハン)は,
只識彎弓射大雕。  只(タ)だ 弓を彎(ヒ)きて大雕(オオワシ)を射(イ)るを識(シ)るのみ

倶往矣,      倶(ミ)な往(ス)ぎに矣(ケリ),
數風流人物,    風流人物(フウリュウジンブツ)を數(カゾ)うるには,
註]
秦皇:秦に始皇帝・嬴政 (BC259-BC210);
漢武:漢の武帝・劉轍(第7代皇帝;BC159-BC87);
唐宗:唐の太宗・李世民(第2代皇帝;599-649);
宋祖:宋の太祖・趙匡胤(初代皇帝;927-976)
成吉思汗:モンゴル帝国(初代皇帝;1162?-1227)

<現代訳>
……(要約)……
2月の北国は万里の彼方まで雪・氷に閉ざされ、
長城の内外は一面広々とした銀世界、
黄河の上下流は、河水が凍り付き滔滔とした流れはない、
晴れた日の秦晉高原は、絹織物を纏ってひときわ艶やか。
多くの英雄がこの山河(祖国)のために尽くしてきた。

惜しむらくは、秦の始皇帝、漢の武
やや文才に劣る。

唐の太宗、宋の大祖は、
やや文化面の政策が劣っている。

一時代中、希代の英雄ジンギス・ハンは、
ただ弓を引いてオオワシを射ることを知っているだけだ。

みな過ぎ去ってしまった。
今日英雄的な人物を数え上げるとすれば、
なほ また現王朝を見よ。
参考] 碇豊長『詩詞世界』(http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/maoshi11.htm)

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