愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題264 句題和歌 18  白楽天・長恨歌(12)

2022-05-30 09:42:36 | 漢詩を読む

物語は、いよいよ後半の部に入り、ここで<第四段 一>と段構えを執る書もある。絶句で言えば“結句(第四句)”の書き起こし部に当たるか。募る玄宗の想いを酌んで、夢にさえ姿を見せない楊貴妃の魂魄を探し求めて、神仙の方士が異世界で力を尽くします。 

 

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<白居易の詩> 

   長恨歌 (12) 

75臨邛方士鴻都客、 臨邛(リンキョウ)の方士 (ホウシ) 鴻都(コウト)の客(カク)、 

76能以精誠致魂魄。 能(ヨ)く精誠(セイセイ)を以て魂魄を致(イタ)す。 

77爲感君王展轉思、 君王の展轉(テンテン)の思ひに感ずるが為に、 

78遂敎方士慇勤覓。 遂に方士をして慇勤(インギン)に覓(モト)めしむ。 

79排空馭氣奔如電、 空(クウ)を排(ハイ)し気を馭(ギョ)して 奔(ハシ)ること電(イナズマ)の如く、 

80昇天入地求之遍。 天に昇り地に入りて 之(コレ)を求むること遍(アマネ)し。 

81上窮碧落下黄泉、 上は碧落(ヘキラク)を窮(キワ)め 下は黄泉(コウセン)、 

82両處茫茫皆不見。 両処茫茫(ボウボウ)として 皆見えず。 

 註] 〇臨邛:蜀の地名、四川省邛崍(キョウライ)市; 〇鴻都:後漢の都洛陽の宮門の名、 

  “鴻都客”は、ここでは大都長安に旅寓していた人の意か?; 〇精誠:まごころ、 

  ここでは道家特有の精神集中法を言う; 〇致:招来する; 〇展轉:寝返りを打つ、 

  異性を慕って寝付かれぬ思いをいう; 〇慇勤:“慇懃”に同じ、丁重に; 〇排空 

  馭氣:大気を押し開いてそれに乗る、“馭”は“御”と同じく馬を操る事; 〇碧落:大空、 

  空の最上層、道教の語; 〇茫茫:広々として果てしがない。 

<現代語訳> 

75宮廷へ招かれた客・臨邛の道士は、 

76精神を統一して 使者の魂を呼び寄せることができる。 

77貴妃を失い眠れぬ夜の続く帝のため、 

78かの道士を召して 貴妃の魂を丁寧に捜させることにした。 

79道士は空を切り裂き 大気を御し 稲妻の如く駆け巡り、 

80天空に昇り 地下に潜り、隈なく捜し求めた。 

81上は蒼空の彼方、下は黄泉の国まで窮めたが、 

82どちらもあてどなく拡がるばかりで、貴妃の姿は見えない。 

               [川合康三 編訳 中国名詩選 岩波文庫 に拠る] 

<簡体字およびピンイン>  

75临邛方士鸿都客、 Lín qióng fāngshì hóng dū ,      [入声十一陌韻]

76能以精诚致魂魄。 néng yǐ jīngchéng zhì hún. 

77为感君王展转思、 Wèi gǎn jūnwáng zhǎnzhuǎn sī, 

78遂敎方士殷勤觅。 suì jiào fāngshì yīnqín .          [入声十二錫韻]

79排空驭气奔如电、 Pái kōng yù qì bēn rú diàn,     [去声十七霰韻]

80升天入地求之遍。 shēngtiān rù dì qiú zhī biàn. 

81上穷碧落下黄泉、 Shàng qióng bì luò xià huángquán, 

82両处茫茫皆不见。 liǎng chù máng máng jiē bù jiàn. 

xxxxxxxxxxxxxxx 

 

貴妃の魂魄を求めて、雲の彼方の碧落から黄泉の世界まで隈なく駆け巡ってみたが、勝れた方士を以てしても、捗々しい成果を得ることは叶わなかったようである。この先、どのような展開となるのか、白楽天の筆に期待することにします。

 

長恨歌のこの部分に触発されて、この方士に先駆けて(?)、自分の幻が、海を隔てた遥かの恋人のところまで波路をわけて通った とする句題和歌を詠んだ人がいます。鴨長明(1155?~1216)でした。今回は、鴨長明およびその歌について触れます。

 

鴨長明の父は、若くして下鴨神社の神官・正祢宜惣官(ショウネギソウカン)を務めた鴨長継、しかし長明の20歳前後に早逝する。のちに、長明は、50歳前後の頃、河合社(下鴨神社の付属社)の祢宜(ネギ)に と後鳥羽院の推挙があっても叶わず、失意のうちに出家します。

 

一時、大原に隠棲、間もなく伏見・日野法界寺の近くに方丈(約3m四方)の庵を構えて、住し、そこで執筆されたのが『方丈記』(1212成立)である。長明の代表作とされ、後の兼好の『徒然草』(1331頃成立)と並ぶ、隠者文学の双璧と評されている。

 

歌人としての長明は、後鳥羽院歌壇で多くの歌合(ウタアワセ)に参加するなど活躍、藤原定家や家隆など有力な専門歌人とも交わり深く、後鳥羽院によって再興された和歌所の寄人(ヨリウド、職員)にも任命されている。30歳代に勅撰集『千載和歌集』(1187成立)に一首入集し、初めて勅撰歌人となり、後『新古今和歌集』に10首入集されている と。

 

もう一つの著書に1211~没年の間に成立したと考えられる歌論書『無名抄(ムミョウショウ)』がある。作歌の技術論、先人の逸話や同時代歌人についての論評など多岐にわたる随筆風の内容で、約80項に分けて論じている。

その一項、“第12項”に「千載集に予一首入るを喜ぶこと」があり、勅撰集に入集したことを非常に喜んでおります。勅撰集への入集に対する歌人の想いがいかに強いかが窺い知られて、参考になります。その喜びようを部分的に引用します:

 

<千載和歌集には私の歌が一首入りました。「これといった重代(代々歌詠み)の歌人でもない。巧みな歌人でもない。また差し当たって人に認められた数奇者でもない。それなのに一首でも入ったのはたいそう名誉なことだ」>。(久保田淳 訳注 『無名抄』;角川文庫)

 

続けて、長明の琴の師・中原有安(アリヤス、楽人、歌人)による論評が語られている:<……いい加減に言われるのかと思ううち……、本当にそう思って仰るのであろう。ならばこの歌の道できっと冥加がおありになるに違いない人だ。……道を尊ぶには、まず第一に心を美しく使うことにあるのである。……>。

 

“奢ることなく、自らを非力と謙遜しつゝ、勅撰集入集を素直に喜んでいること”を評価しているということでしょうか。評価する道理が延々と語られていますが、素人の解説文では誤解を招く恐れがあり、ここで留め置きます。関心お有りの読者は、該書をご参照頂きたく想います。以下、千載集に入集した長明の和歌を今回の句題和歌として取り上げます。

 

[句題和歌] 

 

  隔海路恋といへる心をよめる 

思ひあまり うち寝る宵の まぼろしも 

  浪路を分けて 行きかよひけり  鴨長明(千載集 恋五・936) 

 (大意)恋に思い悩みつゝ 寝(ヤス)んでいる自分の幻も 海を隔てた恋人のもとへ 

     波路を分けて通って行ったよ 長恨歌の方士の如くに。 

 

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閑話休題263 句題和歌 17  白楽天・長恨歌(11)

2022-05-23 09:18:47 | 健康

霜が降り、朝夕寒さを覚える頃。秋の夜長、共寝する人もなく、中々寝付かれずに、孤独の想いに耐えかねている玄宗皇帝です。死別して幾歳も経つと言うのに、貴妃が夢にさえ現れたことがない と玄宗は憂えています。

 

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<白居易の詩> 

   長恨歌 (11)     

67夕殿螢飛思悄然、  夕殿セキデン)に蛍飛びて 思ひ悄然(ショウゼン)たり

68孤燈挑盡未成眠。  孤燈(コトウ)挑(カキタ)て尽くすも未だ眠りを成(ナ)さず

69遲遲鐘鼓初長夜、  遅遅たる鐘鼓(ショウコ) 初めて長き夜 

70耿耿星河欲曙天。  耿耿(コウコウ)たる星河(セイガ) 曙(ア)けんと欲する天 

71鴛鴦瓦冷霜華重、  鴛鴦(エンオウ)の瓦(カワラ)は冷ややかにして 霜華(ソウカ)重く

72翡翠衾寒誰與共。  翡翠(ヒスイ)の衾(シトネ)寒くして 誰と共にせん

73悠悠生死別経年、  悠悠たる生死 別れて年を経(ヘ)たり

74魂魄不曾來入夢。  魂魄(コンパク) 曾て来(キタ)りて夢に入らず

  註] 〇蛍:『礼記』月令、季夏(六月)の条に「腐草 蛍と為る」とあるように、 

   薄気味悪さを伴い、しばしば人の不在の代わりにあらわれる; 〇挑:消え 

   かかる燈心をかきたてる; 〇鐘鼓:時を告げる鐘や太鼓の音; 〇耿耿: 

   鮮やかに輝くさま; 〇星河:牽牛と織女を隔てる天の川; 〇鴛鴦瓦: 

   おしどりの装飾を施した瓦、“鴛鴦”は夫婦和合の象徴; 〇霜華:花のように 

   結晶した霜; 〇翡翠衾:翡翠の刺繍を施した布団、“翡翠”は男女和合の象徴; 

   〇悠悠:遠く離れたさま。     

<現代語訳> 

67日の暮れた宮殿に飛び交う蛍に心は沈み、

68侘しい灯火をかきたてかき立て、灯りが尽きても眠りは遠い。

69遅々として鐘太鼓、長くなり始めた秋の夜、

70白々と冴えわたる天の川、夜明けの迫る空。

71おしどり模様の瓦は冷え冷えとして、霜の花も重たく敷く、

72カワセミの縫い取りの衾も冷たく、共にくるまる人もいない。

73生と死に遠く隔てられて はや幾星霜、

74貴妃の魂は一度たりとも夢に現れてくれない。 

              [川合康三 編訳 中国名詩選 岩波文庫 に拠る]                

<簡体字およびピンイン>   

67夕殿萤飞思悄然  Xī diàn yíng fēi sī qiǎorán      [下平声一先韻]

68孤灯挑尽未成眠  gū dēng tiāo jǐn wèi chéng mián 

69迟迟钟鼓初长夜  Chí chí zhōng gǔ chū cháng yè 

70耿耿星河欲曙天  gěng gěng xīnghé yù shǔ tiān 

71鸳鸯瓦冷霜华重  Yuānyāng wǎ lěng shuāng huá zhòng   [去声二宋韻]

72翡翠衾寒谁与共   fěicuì qīn hán shuí yǔ gòng 

 73悠悠生死别経年  Yōu yōu shēng sǐ bié jīng nián 

74魂魄不曾来入梦  húnpò bù céng lái rù mèng      [去声一送韻]

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“蛍”と言えば、直にゲンジボタル、ヘイケボタルが思い出されて、やがて川の辺での“ホタル狩り”の季節を迎えます。雑木の鬱蒼とした陰で、暗闇の中、点滅しながら光が舞う情景は神秘な感に打たれます。

 

 “蛍”は川の清流で“幼虫”として育った後、地上に上がり、腐食した落ち葉などの下の湿潤な環境で“蛹(サナギ)”として成長、やがて羽化して成虫の蛍となる。今日、我が国ではほぼ常識として識られている事柄と言えようか。 

 

中国や他国では、“幼虫”の時期から地上の腐食した落ち葉の下、湿潤の環境で生育する とのことである。すなわち、日本の蛍は“水生“、中国はじめ他国では”陸生“と言うことである。なお世界で知られている約2000種の蛍の内、“水生“は10種ほどで、そのうち3種が日本種で、ゲンジボタル・ヘイケボタル・クメジマ(久米島)ホタルがそうである と。

 

いずれにせよ、蛍はある時期、落ち葉下の湿潤地で育つということである。その観察を基に、紀元前200年頃に書かれた『礼記(ライキ)』月令(ゲツリョウ)で、「季夏の月(六月) 腐草 蛍となる」とされ、長い間、蛍は、腐草が転生したものと信じられていたようである。 

 

人は死後、土葬されていた時代、暗闇の中、点滅しながら舞う蛍火の神秘的な情景、加えて、湿地で腐草が転じて蛍となる との思いから、中国では、蛍火は、人魂・鬼火である との迷信が長い間活きていたようである(瀬川千秋:『中国 虫の奇聞録』大修館書店)。

 

「67夕殿螢飛……」に関連して、[註]にあるように「螢が、“……人の不在の代わりに現れる”(=“人魂”?)」。その一方、「74魂魄不曽来入梦」の句と読み合わせると、孤独感に苛まれる主人公・玄宗皇帝への同情の念が一層掻き立てられるように思われる。

 

長恨歌中、この下りの部分で、平安期の読者も思いを深くしていたように思われ、比較的多くの歌人が句題和歌を残しています(千人万首asahi-net.or.jp)。ここでは、以下、勅撰和歌集に多くの歌が採られている歌人たちの歌・3首を読みます。

 

なお歌人・藤原定家(閑話休題―156)、慈円(同―153)および伊勢(同―173)については、それぞれ、先に詳細を紹介してあります、要に応じてご参照ください。

 

[句題和歌] 

〇(67・68句) 「夕殿蛍飛思悄然、秋灯挑尽未能眠」に思いを得た和歌: 

 暮ると明くと 胸のあたりも 燃えつきぬ 

   夕べのほたる 夜はのともし火(藤原定家『拾遺愚草員外』)

  (大意) 暮れても明けても 胸は痛み、燃え尽きる思いである、ちょうど 

     夕べの蛍火や夜半過ぎの灯(トモシビ)のように。 

〇(72句)「旧枕故衾誰与共」に思いを得た和歌:

 如何にせん 重ねし袖を かたしきて 

   涙にうくは 枕なりけり(慈円『拾玉集』) 

  (大意) 自分の袖を重ね、枕にして一人寝ていると 枕が涙で濡れるのを 

      どうしようもない。

〇 句題の提示なし: 

 玉簾 あくるもしらで 寝しものを 

    夢にも見じと ゆめ思ひきや(伊勢『伊勢集』) 

  (大意)夜が明けたのも知らずに寝ているのに 夢にさえ見ないとは 

    思いも寄らぬことであった。 

 

<注>「68孤灯挑尽未成眠」および「72翡翠衾寒谁与共」は、書物により、それぞれ「68秋灯挑尽未能眠」および「72旧枕故衾誰与共」[=旧(フル)き枕 故(フル)き衾 (シトネ)誰と共にせん」]と部分的に違いがあります。その原因・由来は不明である。

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閑話休題 262 飛蓬ー150 京都嵐山三绝 其二 竹林小径 次韻蘇軾《驪山三絶 其二》

2022-05-16 09:47:53 | 漢詩を読む

若い頃の宋代の詩人・蘇軾(1037~1101)の詩《驪山三絶》に次韻した詩《京都嵐山三绝》の詩作に挑戦しています。名勝地・京都嵐山の気に入ったスポットに焦点を当てて、漢詩として表現してみたいと心積もりしております。

 

先に、嵐山の名称に拘って、名にそぐわず、静寂な山中であることに触れました(閑話休題257)。今回、比較的人通りの多い場所でありながら心の休まる“竹林の小径”(写真参照)を主題にしました。

京都嵐山 竹林の小径

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  次韻 蘇軾《驪山三絕 其二》   [上平声十灰韻]

     京都嵐山三绝 其二 竹林(チクリン)径(コミチ) 

凍結厳寒猶不灰、 凍結の厳寒 猶(ナ)お灰(オトロエ)ず、 

直而青青一清哉。 直(チョク)にして青青(セイセイ)たり 一(イツ)に清き哉(カナ)。 

令人感穏竹林徑, 人を令(シ)て穏(オダヤカ)な感にさせる竹林の径(コミチ), 

香気告春竹筍胎。 香気 春を告(ツ)げる竹筍(タケノコ)の胎(タイ)。 

   註] 〇竹林径:京都嵐山の名所の一つ、小径の両脇の竹林がまるで緑のトンネルの  

  ようで、心休まる散歩径である; 〇灰:衰える; 〇直而青青:竹は、曲がらず

    まっすぐに伸びる性質をもち、また厳寒の冬にも葉を落とさず青々としていること

    から“四君子”の一つとして称えられている; 〇胎:新芽。

<現代語訳> 

 蘇軾《驪山三绝 其二》に次韻す 

   京都嵐山三絶 其二 竹林の小径  

水が凍結する厳寒の中でも猶 意気が衰えることがない、

まっすぐに伸びて 青々と茂っており、なんと清らかなことか。

小径を行けば 竹間を抜けたそよ風が頬を撫ぜ、心休まる思いがする、

筍の芽がそっと顔を覗かせて 香気が漂い 春の訪れを告げる。

<簡体字およびピンイン> 

  次韵苏轼《骊山三绝 其二》 Cīyùn SūShì 《Lí shān sān jué  qí èr” 》  

   京都岚山三絶 其二 竹林径  Jīngdū Lánshān sān jué  qí èr  Zhú lín jìng  

冻结厳寒犹不灰、 Dòng jié yán hán yóu bù huī,   

直而青青一清哉。 zhí ér qīng qīng yì qīng zāi.  

令人感稳竹林径, Lìng rén gǎn wěn zhú lín jìng,  

香气告春竹笋胎。 xiāng qì gào chūn zhúsǔn tāi

 

ooooooooooooo  

<蘇軾の詩> 

 驪山三絶句 其二      [上平声十灰韻]   

幾変彫牆幾変灰、     幾びか彫牆に変じて幾たびか灰に変ずる、

挙烽指鹿事悠哉。     烽を挙げて 鹿を指す事 悠なる哉。

上皇不念前車戒、     上皇は前車の戒を念はず、

却怨驪山是禍胎。     却て怨む 驪山是れ禍胎と。

 註] 〇彫:彫る、彩色を施してある;  〇烽:のろし;  〇上皇:皇帝の父、 

  天帝;  〇前車:前方を進む車、前の人と同じような失敗を後の人が繰り返す 

  こと、前轍を踏む;  〇禍胎:禍根。  

<現代語訳>  

 驪山三絶句 其二 

幾たび彩色を施した壁を築き また幾たび灰に変じたことであろう、 

烽火を挙げ、鹿を追うこと まことに長閑(ノドカ)なことだ。 

天帝は 前者の戒めを思わず、 

却って驪山が禍根であると怨んでいる。 

<簡体字およびピンイン>

 骊山三绝    Líshān sān jué  

几変雕墙几変灰、 Jǐ biàn diāo qiáng jǐ biàn huī. 

挙烽指鹿事悠哉。 jǔ fēng zhǐ lù shì yōuzāi.   

上皇不念前车戒。 Shànghuáng bù niàn qián chē jiè.  

却怨骊山是祸胎。 què yuàn líshān shì huòtāi.

ooooooooooooo 

 

中国故事成語に“胸有成竹”(胸中成竹あり)がある。宋代の文人画家“文与可(ブンヨカ/同)”の描画の模様を蘇軾が評した成句で、蘇軾の『文与可画篔簹谷(ウンタンダニ)偃竹记』中に見える。「竹の絵を描く時、文与可の胸の内には既に絵にする竹の完全な姿ができあがっている」との意で、「青写真があって初めて事は成る」の意で応用されている四字熟語である。

 

文与可は、竹の絵を水墨で描く「墨画/文人画」が得意であった。彼の画に魅せられた蘇軾は、彼の画中に、絵に題した詩を書き添える、または彼の画を手本にして自らも描いていた という。「文人画」は、唐代末に始まったようであるが、完成されたのは宋代で、その発展・完成に、文与可及び蘇軾の力が大きく関わったようである。

                                                                                                                                                                                                                                                                               

本来、君子とは、徳と学識、礼儀を備えた人を指し、文人はみな君子になることを目指していた と。草木のうち蘭、竹、菊及び梅の持つ特性が、君子の要件と似ることから、それら四草木は「四君子」と称され、「墨画/文人画」の素材として好まれた。 

 

中でも、曲がることなくまっすぐに伸びて、寒い冬にも色あせることなく、青々とした葉を保つ竹(前掲写真参照)は、文人の理想とする“清廉潔白・節操”を具現する一つとして、好んで画題とされたようである。

 

京都嵐山の“竹林の小径”では、数m幅・約400m長の径の両側に竹林が繁り、径がやや湾曲しているため、はるか前方では径が消え、竹林のまっただ中に身を置いているような錯覚に襲われるのである。夏季には、竹林を抜けるそよ風に、命の洗濯を実感させられる。筆者一押しのスポットで、竹に纏わる諸々の事柄を思い出させる空間でもある。 

 

蘇軾の「驪山三絶 其二」は、新進気鋭の若き官僚の気概を詠った詩と言えようか。春秋戦国時代から唐代に至る間、驪山界隈は、懲りることない幾多の戦乱に巻き込まれ、宮殿を含む諸建築物が建てられては灰に帰することが繰り返されてきた。

 

また西周王朝最後の幽王と笑わぬ愛妾・褒姒(ホウジ)の件、および秦の二世皇帝・胡亥に対する宦官・趙高(チョウコウ)の不忠などの世を狂わせる事件があったにも関わらず、唐代の玄宗皇帝は、それらの事件からなんら学ぶことがない と悲憤・慷慨の念を詠っています。「安史の乱」を招いた失政を指しているのでしょう。

 

蛇足ながら、詩・承句の“挙烽指鹿”については追加説明が要るであろう。“挙烽”について:褒姒の笑いを誘うため、幽王は、度々偽の烽火を挙げていた。実の敵の来襲に際し、「また偽か」と諸侯は参ずることなく、幽王は驪山で殺害され、西周は滅んだ(771BC) と。

 

“指鹿”について:四字熟語“指鹿為馬”(鹿を指して馬と為す)で語られる、司馬遷『史記』に拠る故事成語を指しています。実権を握った趙高は、群臣の自分に対する従順さを推し量るために、「馬を献上します」と言いつつ、鹿を胡亥に差し出した。胡亥の疑念に同調して「馬ではなく、鹿だ」と具申したまっとうな群臣はみな趙高に誅殺された と。

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閑話休題261 句題和歌 16  白楽天・長恨歌(10)

2022-05-09 09:19:48 | 漢詩を読む

栄華を誇った然しもの長安も、今や目にするのは秋草が繁茂した寂寞とした情景のみ。和歌に表現するとするなら、さしずめ“霜枯れの浅茅(アサジ)が原”と言う所でしょうか。安史の乱の傷跡は、さほどに深いものであった。

 

音楽好きであった玄宗が、自ら直接指導を行い、育て上げた年若き楽人たち・「皇帝梨園弟子」、さらには楊貴妃に侍っていた、華やかな装いの後宮の女官たち、頭には白髪が混じり、黛も消えて老いを隠しようがなく、時の移ろいを実感させられるのである。

 

西宮とは宮城の大極殿(=大極宮、西内)、南苑とは興慶宮(=南内)を指すと思われる。興慶宮には、牡丹の名所“沈香亭”があり、曽て玄宗と楊貴妃の花見の宴で、玄宗に所望されて李白が詩・“雲には衣裳を想い、花には容(カタチ)を想う…(清平調子)”と詠じた所である。

 

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<白居易の詩> 

   長恨歌 (10)

63 西宮南苑多秋草  西宮(セイキュウ) 南苑(ナンエン) 秋草(シュウソウ)多く、

64 落葉滿階紅不掃  落葉階(カイ)に満ち紅(クレナイ)掃(ハラ)はれず

65 梨園弟子白髮新  梨園(リエン)の弟子(テイシ) 白髪(ハクハツ)新たに

66 椒房阿監靑娥老  椒房(ショウボウ)の阿監(アカン) 青蛾(セイガ)老いたり 

   註] 〇西宮南苑:西の御殿、南の御苑; 〇梨園:玄宗が設けた宮中の歌舞教練所; 

    〇弟子:歌舞教練所で学んだ楽人; 〇椒房:皇后の居所; 〇阿監:後宮を 

    監督する女官長; 〇靑娥:青黒く描いた眉。 

<現代語訳> 

63 西の御殿、南の御苑には秋草ばかりが生い茂り、 

64 階(キザハシ)に散り敷く紅葉は掃き清められることもない。 

65 歌舞団の練習生たちは白髪頭になり始め、

66 後宮の女房は黒く描いた眉に老いがかすめる。

               [川合康三 編訳 中国名詩選 岩波文庫 に拠る] 

<簡体字およびピンイン> 

 63 西宫南苑多秋草  Xī gōng nán yuàn duō qiū cǎo     [上声十九皓韻]

64 落叶满阶红不扫  luò yè mǎn jiē hóng bu sǎo

65 梨园弟子白发新  Lí yuán dì zǐ bái fà xīn

66 椒房阿监靑娥老  jiāo fáng ā jiàn qīng é lǎo

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玄宗皇帝は、歌舞・音曲を好み、また才能も豊かであったようである。国際都市・長安は、外交にも力を入れ、外国との事物の交流も盛んとなり、音楽もその一つであった。特に中央アジアやインドからシルクロードを通り、西域の音楽・胡樂が齎された。

 

玄宗は、自ら作曲も行い、輸入された胡楽については中国風に編曲も行っていた。その代表的な例に、「霓裳羽衣(ゲイショウウイ)の曲」という宮廷音楽の舞曲がある。原曲は、インド起源の「波羅門(バラモン)」という曲である と。

 

“霓裳羽衣”とは、仙女や天女が着る、鳥の羽でできた軽い衣(“羽衣”)で、その裾が虹のように美しい(“霓裳”)という意味で、女性用の薄絹で作られた美しく軽やかな衣装をいう と。この曲は、最愛の李玉環(のちの楊貴妃)の為に作られた曲であるとされています。

 

なおこの曲は、李玉環が特別な存在であることを群臣に意識させるべく、玉環のお披露目の宴で披露され、また後々楊貴妃もこの曲に合わせてよく踊っていた と。まさにお二方の愛の思い出がぎっしりと詰まった曲と言えるのでしょう。なお、安史の乱以後は、「不祥の曲」として忌避され、その楽譜は散逸してしまった と。

 

玄宗は、中国古来の音楽と胡楽を癒合させた“法曲”という新ジャンルを確立、それを学ぶための専門機関を設置する。本来、音楽を扱う部署には、雅楽(伝統的な儀式音楽)および燕楽(宴席の音楽)を司る「太楽署」と宮女たちが技芸を学ぶ「内教坊」があった。

 

新設の教習機関では、太楽署の燕楽に属する者から秀でた者300名、内教坊の宮女から容貌、芸にすぐれた者数百名を選抜、玄宗皇帝自ら直接指導に当たった由。前者は、太極殿の梨木が植わった庭園(梨園)に集められて指導を受け、「皇帝梨園弟子」と称された。

 

なお、日本の歌舞伎界を「梨園」と呼ぶのは、この唐の宮廷音楽家養成所「梨園」に拠る と。

 

[句題和歌]

平親清四女( タイラノチカキヨノシジョ)の和歌を紹介します。どの句と指定はないようですが、表面的に、敢えて関係の深い句とすれば、64句でしょうか。他の句も含めて、長恨歌の底流にある思いを詠っているように思われる。 (千人万首asahi-net.or.jp に拠る)  

 

恋ひわぶる 涙の色の くれなゐを

  はらはぬ庭の 秋の紅葉(モミジ)ば(平親清四女『親清四女集』) 

 (大意) 恋に思い悩み、血涙で紅に染まった涙を拭くことも忘れているが、庭に散り

     敷いた紅のもみじ葉も掃き払われないままであるよ。

 

作者・“平親清四女”の生没年は不詳。父は、桓武平氏の正五位下加賀守平親清(タイラノチカキヨ)。母は白拍子出身で、権中納言“西園寺実材(サネキ)の母”。

 

少々解り難いが、“西園寺実材の母”は、当初、平親清との間で“平親清四女”を設けていた。後に“西園寺実材の母”は、太政大臣・西園寺公経(1171~1244)の側室となり、5男・西園寺実材を設けた。平親清四女と西園寺実材とは、父違い・同母の義姉弟ということである。

 

“西園寺実材の母”は、家集『権中納言実材卿母集』を遺しており、“平親清四女”も、母の歌才をしっかりと承け継ぎ『親清四女集』を遺している。

 

西園寺公経は、公家、歌人。鎌倉vs.京都の間で争われた「承久の乱」(1221)の前後でうまく立ち回り出世を果たし、巨万の富を築いた傑物で、今日にその威容を伝えている京都北山の鹿苑院(金閣寺)の建立者である(閑話休題229 参照)。

 

西園寺公経は、 “藤原公経”の別名で、“西園寺(=金閣寺)”を建立し、そこに住まっていたことから、以後、子孫代々“西園寺”姓を称し、公経は“西園寺”家の始祖とされている。百人一首には“入道前太政大臣”の名で、96番歌として次の歌が採られている: 

 

花さそふ あらしの庭の 雪ならで 

      ふりゆくものは 我が身なりけり (『新勅撰和歌集』雑・1054) 

    (大意) 花を吹き散らす嵐の日の庭に“降り”積もっていくのは、雪かと思いきや、

          “老(フ)り”ゆくのはわが身なのだ。

 

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閑話休題260 句題和歌 15  白楽天・長恨歌(9)

2022-05-02 09:14:32 | 漢詩を読む

安史の乱が勃発(755)、安禄山が長安に迫ると、玄宗皇帝一行は蜀に逃れる。途中、皇太子・李亮は、馬嵬(バカイ)から霊武に向かい、朔方節度使・郭子儀と合流、安禄山に対する。756年7月、李亮は、側近・李輔国の建言を容れて皇帝に即位した(粛宗)。ただこの件、玄宗の承諾は得ておらず、玄宗は事後承諾するほかはなかった。

 

757年、粛宗は、長男・李俶(のちの代宗)、次男・李係や郭子儀らと共に長安や洛陽の奪還に成功。粛宗は10月、玄宗は12月に長安に帰還した。都・長安の佇まいは、以前と何ら変わることはなかったが、今は亡き貴妃の面影に涙するばかり、と。

 

乱勃発の当時、李白は江南の地・九江廬山に隠棲していたが、玄宗の第16子の永王・李璘の幕僚として招かれた。王維、杜甫、李白は、3人3様に乱に対処しています。

 

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<白居易の詩> 

  長恨歌 (9)    

57 帰来池苑皆依旧、  帰り来たれば 池苑(チエン) 皆(ミナ) 旧に依る、 

58 太液芙蓉未央柳。  太液(タイエキ)の芙蓉 未央(ビオウ)の柳。 

59 対此如何不涙垂、  此に対するに如何(イカン)ぞ涙の垂れざらん、 

60 芙蓉如面柳如眉。  芙蓉は面の如く 柳は眉の如し。 

61 春風桃李花開日、  春風 桃李 花開く日、 

62 秋雨梧桐葉落時。  秋雨(シュウウ)梧桐(ゴトウ) 葉落つる時。 

   註] 〇太液:太液池のことで、蓬莱池とも呼ばれる。中国の歴代王朝の宮殿に 

    あった池の名、漢代には長安城外の未央宮内に、唐代には大明宮内にあった; 

    〇未央宮:漢代に作られた宮殿で、唐代には宮廷の内に入った。 

<現代語訳> 

57 都に帰ってみると、宮中の池も苑も昔のまま、

58 太液池の蓮の花は咲き、未央宮の柳も緑の枝を垂れている。

59 これらに対して、どうして涙を流さずにいられようか、

60 蓮の花は楊貴妃の顔のようであり、また柳は眉のようなのだ。

61 春の風に桃や李(スモモ)の花が咲き染める日や、

62 秋の雨に梧桐(ゴドウ)の葉が散る時には、わけても悲しみが募る。

                        [石川忠久監修 「NHK新漢詩紀行ガイド」に拠る] 

<簡体字およびピンイン>  

     長恨歌          Chánghèngē  

57 归来池苑皆依旧  Guī lái chí yuàn jiē yī jiù 

58 太液芙蓉未央柳  tài yè fúróng wèi yāng liǔ   

59 对此如何不泪垂  Duì cǐ rú hé bù lèi chuí                  [上平声四支韻]

60 芙蓉如面柳如眉  fúróng rú miàn liǔ rú méi  

61 春风桃李花开日  Chūn fēng táo lǐ huā kāi rì  

62 秋雨梧桐叶落时  qiū yǔ wú tóng yè luò shí   

xxxxxxxxxxxxxxx 

 

後世、“開元の治”と称される唐代の絶頂期を築いた玄宗であったが、世の推移に棹さすことができぬまま、乱世を経て都に帰ってきました。待っていたのは、復位を恐れた李輔国による軟禁と側近の流刑であった。玄宗は、孤独のうちに762年に77歳で崩御した。

 

先に則天武后(624~705)は、科挙試験の門戸を貴族に限らず、庶民、いわゆる“寒門”にも開くという画期的な制度を定めていた。その期に始まり登用された“寒門”の人材が玄宗時代の“開元の治”に花を咲かせ、芳醇な汁を含んだ実を実らせたと言えようか。張説(チョウエツ)、賀知章(ガチショウ)、張九齢(チョウキュウレイ)、……、王維、杜甫、李白、……と。

 

就職活動中の李白は、友人の尽力で、玄宗への謁見が叶い、偶々宮中で待つ間に詩壇の長老・賀知章と居合せた。詩の談義が交わされたのでしょう。賀知章は、玄宗に対して、李伯を “謫仙人(タクセンニン、天上界から追放された仙人)也”と紹介、即“翰林供奉”として宮仕えが叶った(742)。 

 

李白の出自については、諸説唱えられているが、詳細は不明である。生母は、李白を懐妊した折、太白(金星)の夢を見たので、夢に因んで名と字(太白)がつけられた と。青少年期は、蜀の青蓮郷で活動、読書のほか、剣術を好み、任侠の徒と交際していたようである。25歳の頃、蜀を離れて、長江流域を中心に中国各地を放浪していた。

 

732年、安陸の名家で、高宗の宰相であった許圉師(キョゴシ)の孫娘と結婚、長女李平陽、長男李伯禽を設けている。742年、先述のような経緯で“翰林供奉”に任じられ、詩を作り、詔勅の起草などに当たり、宮廷文人としての活躍が始まった。

 

しかし李白の泣き所、恐らくお酒の上のことでしょう、礼法を無視した放埓な言動が災いして、宦官・高力士らの讒言を受け、宮仕え3年後に長安を追われる羽目に陥った。自由の身となった李白は、放浪中洛陽で杜甫に会い意気投合、以後1年半ほど、高適を交えて山東・河南一帯を旅している。

 

“安史の乱”勃発後の757年、廬山に隠棲していた李白は、玄宗の第16子・永王李璘(リリン)から幕僚として招かれた。李璘は、玄宗に無断で行われた粛宗の即位を認めず、粛宗の命令を無視した。そこで反乱軍と見做されて追討を受け、斬られた。

 

李白も捕らえられ、潯陽(ジンヨウ、現九江氏)で獄に繫がれた。旧友たちの助力で数か月後釈放されるが、改めて粛宗の朝廷から夜郎(現貴州省)への流罪が宣された。幸いに配流の途上、白帝城付近で罪を許されて、今来た路を戻り、帰還することになる。

 

赦免後、長江下流域の宣州(現安徽省南部)を拠点にして再び流浪の旅に出る。その途上、762年宣州当塗県の県令・李陽冰の邸宅で病死した、62歳であった。一伝説では、舟上、酒に酔って、水面に映る月を捉えようとして舟から落ち、溺死した と(促月伝説)。

 

[句題和歌] 

 

次の歌は、句題として、長恨歌58,59、60句に関わると思われるが、主に60句かな?当歌は、宇多天皇の命により描かれていた長恨歌の屏風絵に詠んだ歌である と。

 

帰りきて 君おもほゆる 蓮葉(ハチスバ)に

   涙の珠(タマ)と おきゐてぞみる(伊勢『伊勢集』) 

  [大意] 帰っては来てみたが、君はすでに無く、君の面影を宿す芙蓉を 涙なしには  

    見ることができない。 

 

歌の作者・伊勢(872?~938?)は、平安時代初期の歌人で、第59代宇多天皇の中宮・温子(オンシ)に女官として仕えていた。非常に情熱的で、波乱万丈な生涯を送った才色兼備の女性であったと伝えられている。華やかな恋愛遍歴の中で生み出された秀歌も多い。

 

三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に数えられており、藤原定家撰になる『百人一首』には次の歌が採られている(閑話休題173参照、漢詩付き)。

 

19番:難波潟(ナニワガタ) みじかき芦(アシ)の ふしの間も

     あはでこの世を 過ぐしてよとや (伊勢 『新古今集』恋・1049) 

    [大意] ほんのちょっとの間の逢う瀬さえなく、生きていきなさいと仰るのか。 

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