98番 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
みそぎぞ夏の しるしなりける
従二位家隆(『新勅撰和歌集』夏・192)
<訳> 風がそよそよと楢の葉に吹きそそぐ楢の小川の夕暮れは、すっかり秋らしさを感じさせるけれど、折から行われている禊の行事が、夏であることの証だなあ。(板野博行)
ooooooooooooo
夕暮れともなると、神社境内の杜の楢の木の葉が、そよそよと風に揺れて、そばを流れる楢の小川の川面を涼やかに風が吹き抜けていく。肌で感ずるのは、すっかり秋の気配だ。でも小川では六月祓(ミナヅキハラエ)の行事の真っ最中であり、まだ夏なのだよ。
季節の変わり目にあって、微妙に戸惑いを感じている風である。自律神経の微調整中というところでしょうか。作者・藤原家隆は、後鳥羽院歌壇での中心的メンバーで、同時代の定家と双璧と評価される歌人。両者は生涯を通して歌友であったと。
七言絶句としました。
xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [下平声一先韻]
晚夏祓禊廟会 晚夏 禊(ミソギ)を祓(ハラ)うの廟会(マツリ)
風軟徐徐摇樹葉, 風軟らかに徐徐(ジョジョ)として樹葉摇れ,
秋凉杳杳満枹川。 秋凉(シュウリョウ) 杳杳(ヨウヨウ)たりて枹川(ナラノカワ)に満つ。
但行祓禊儀神事, 但(タ)だ禊を祓うの儀(ギ) 神事(シンジ)が行われおり,
作証依然是夏天。 依然として夏天(ナツ)の証(アカシ)と作(ナ)す。
註]
祓禊:六月祓(ミナヅキハラエ)または“夏越(ナコ)しの祓”、夏の終わり(旧6月30日)に
川の水などで身を清め、穢れを落とす行事。 徐徐:そよそよと木の葉が
揺れるさま。
樹葉:此処では京都・上加茂神社境内の杜の“楢の木”の葉を指す。
杳杳:日が暮れて暗くなるさま。
枹川:“ならの小川”の訳で、境内の“御手洗(ミタラシ)川”を指す。“なら(楢)の小川”
と、“(楢の)樹”との掛詞の関係を活かした。
<現代語訳>
夏の終わりの六月祓の祭り
風が微かに吹いて楢の木の葉がそよそよと揺れており、
仄暗い夕暮れ時、秋の涼気が楢の小川の辺りに満ちてきている。
ただ神事の六月祓の行事が行われており、
如何に涼やかとは言え、依然としてまだ夏なのだよ。
<簡体字およびピンイン>
晚夏祓禊庙会 Wǎn xià fú xì miàohuì
风软徐徐摇树叶, Fēng ruǎn xúxú yáo shù yè,
秋凉杳杳满枹川。 qiūliáng yǎo yǎo mǎn Bāochuān.
但行祓禊仪神事, Dàn xíng fú xì yí shénshì,
作证依然是夏天。 zuòzhèng yīrán shì xiàtiān.
xxxxxxxxxxxxxxx
藤原家隆(1158~1237)は、中納言・兼輔(877~933、百27番、閑題192)の末裔で、権中納言・光隆の次男。官位は、従二位・宮内卿にまで至った。和歌は、俊成(百83番、閑題155)に学び、歌人としては晩成型であったという。
定家(百97番、閑題156)らと、俊成指導の下、西行(百86番、閑題114)勧進の『二見浦百首』(1186)に参加、また九条良経(百91番、閑題203)主催の『六百番歌合』(1192)に出詠し、後鳥羽帝の信任を得ている。
なお、後鳥羽帝が、和歌を学び始めたころ、良経に「和歌を学ぼうと思っているが、誰を師としたらよいか」と尋ねた際に、良経は家隆を推薦したという逸話が語られている。
後鳥羽院歌壇においては、定家らと共に中心的な役割を果たし、後鳥羽院を含めて、当時の代表歌人23人による『正治初度百首』(1200)が催された。後鳥羽院は、1201年、和歌所を設置、家隆を含めて和歌寄人5人を選び、『新古今和歌集』の編纂を命じた。
編者は、源通具(ミチトモ)、藤原有家、定家、家隆、雅経(百94番、閑題228)の5人で、撰集作業は1205年に終わった。しかし承久の乱の勃発、その後の後鳥羽院の隠岐配流などのため、院による校閲が難航し、最終稿の完成には30余年を要したようである。
寂蓮(百87番、閑題152)も撰者に指名されていたが、完成を待たず没したため、撰者として名は連ねられていない。良経は仮名序を書き、その巻頭歌を飾っている。藤原親経は真名序を書いた。勅撰八代集の第8番、20巻、歌数約2000首を含む。
家隆にとって、承久の乱によって後鳥羽、土御門、順徳の3院がそれぞれ別々の遠所に配流された衝撃は大きかったであろうが、家隆は、隠岐の後鳥羽院との音信を絶やすことはなかったようである。遠所から題を賜って歌を詠じ、院に送ったりしていたと。
当歌は、家隆72歳の時、九条道家の娘・竴子(シュンシ)が、後堀河帝の中宮として上がる際、屏風歌を依頼されて詠んだ歌であると伝えられている。家隆は、温雅で含蓄のある表現を志向し、歌風は率直な叙情性のある歌であるとされている。
晩年でも作歌意欲は衰えず、多作ぶりは有名であったと。1236年、出家し法名・仏性と号し、難波(現大阪市)の四天王寺の傍らに“夕陽庵(セキヨウアン)”を築き住まった。現在“夕陽ガ丘”の地名で残る辺りである。翌年没した、年80。
『新古今和歌集』に43首、『新勅撰和歌集』には最多の35首入集。『千載和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に281首採られている。家集に『壬二(ミニ)集』があり、六家集の一つである。子息・侍従隆祐(タカスケ)、娘・土御門院小宰相(コザイショウ)も歌人である。
みそぎぞ夏の しるしなりける
従二位家隆(『新勅撰和歌集』夏・192)
<訳> 風がそよそよと楢の葉に吹きそそぐ楢の小川の夕暮れは、すっかり秋らしさを感じさせるけれど、折から行われている禊の行事が、夏であることの証だなあ。(板野博行)
ooooooooooooo
夕暮れともなると、神社境内の杜の楢の木の葉が、そよそよと風に揺れて、そばを流れる楢の小川の川面を涼やかに風が吹き抜けていく。肌で感ずるのは、すっかり秋の気配だ。でも小川では六月祓(ミナヅキハラエ)の行事の真っ最中であり、まだ夏なのだよ。
季節の変わり目にあって、微妙に戸惑いを感じている風である。自律神経の微調整中というところでしょうか。作者・藤原家隆は、後鳥羽院歌壇での中心的メンバーで、同時代の定家と双璧と評価される歌人。両者は生涯を通して歌友であったと。
七言絶句としました。
xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [下平声一先韻]
晚夏祓禊廟会 晚夏 禊(ミソギ)を祓(ハラ)うの廟会(マツリ)
風軟徐徐摇樹葉, 風軟らかに徐徐(ジョジョ)として樹葉摇れ,
秋凉杳杳満枹川。 秋凉(シュウリョウ) 杳杳(ヨウヨウ)たりて枹川(ナラノカワ)に満つ。
但行祓禊儀神事, 但(タ)だ禊を祓うの儀(ギ) 神事(シンジ)が行われおり,
作証依然是夏天。 依然として夏天(ナツ)の証(アカシ)と作(ナ)す。
註]
祓禊:六月祓(ミナヅキハラエ)または“夏越(ナコ)しの祓”、夏の終わり(旧6月30日)に
川の水などで身を清め、穢れを落とす行事。 徐徐:そよそよと木の葉が
揺れるさま。
樹葉:此処では京都・上加茂神社境内の杜の“楢の木”の葉を指す。
杳杳:日が暮れて暗くなるさま。
枹川:“ならの小川”の訳で、境内の“御手洗(ミタラシ)川”を指す。“なら(楢)の小川”
と、“(楢の)樹”との掛詞の関係を活かした。
<現代語訳>
夏の終わりの六月祓の祭り
風が微かに吹いて楢の木の葉がそよそよと揺れており、
仄暗い夕暮れ時、秋の涼気が楢の小川の辺りに満ちてきている。
ただ神事の六月祓の行事が行われており、
如何に涼やかとは言え、依然としてまだ夏なのだよ。
<簡体字およびピンイン>
晚夏祓禊庙会 Wǎn xià fú xì miàohuì
风软徐徐摇树叶, Fēng ruǎn xúxú yáo shù yè,
秋凉杳杳满枹川。 qiūliáng yǎo yǎo mǎn Bāochuān.
但行祓禊仪神事, Dàn xíng fú xì yí shénshì,
作证依然是夏天。 zuòzhèng yīrán shì xiàtiān.
xxxxxxxxxxxxxxx
藤原家隆(1158~1237)は、中納言・兼輔(877~933、百27番、閑題192)の末裔で、権中納言・光隆の次男。官位は、従二位・宮内卿にまで至った。和歌は、俊成(百83番、閑題155)に学び、歌人としては晩成型であったという。
定家(百97番、閑題156)らと、俊成指導の下、西行(百86番、閑題114)勧進の『二見浦百首』(1186)に参加、また九条良経(百91番、閑題203)主催の『六百番歌合』(1192)に出詠し、後鳥羽帝の信任を得ている。
なお、後鳥羽帝が、和歌を学び始めたころ、良経に「和歌を学ぼうと思っているが、誰を師としたらよいか」と尋ねた際に、良経は家隆を推薦したという逸話が語られている。
後鳥羽院歌壇においては、定家らと共に中心的な役割を果たし、後鳥羽院を含めて、当時の代表歌人23人による『正治初度百首』(1200)が催された。後鳥羽院は、1201年、和歌所を設置、家隆を含めて和歌寄人5人を選び、『新古今和歌集』の編纂を命じた。
編者は、源通具(ミチトモ)、藤原有家、定家、家隆、雅経(百94番、閑題228)の5人で、撰集作業は1205年に終わった。しかし承久の乱の勃発、その後の後鳥羽院の隠岐配流などのため、院による校閲が難航し、最終稿の完成には30余年を要したようである。
寂蓮(百87番、閑題152)も撰者に指名されていたが、完成を待たず没したため、撰者として名は連ねられていない。良経は仮名序を書き、その巻頭歌を飾っている。藤原親経は真名序を書いた。勅撰八代集の第8番、20巻、歌数約2000首を含む。
家隆にとって、承久の乱によって後鳥羽、土御門、順徳の3院がそれぞれ別々の遠所に配流された衝撃は大きかったであろうが、家隆は、隠岐の後鳥羽院との音信を絶やすことはなかったようである。遠所から題を賜って歌を詠じ、院に送ったりしていたと。
当歌は、家隆72歳の時、九条道家の娘・竴子(シュンシ)が、後堀河帝の中宮として上がる際、屏風歌を依頼されて詠んだ歌であると伝えられている。家隆は、温雅で含蓄のある表現を志向し、歌風は率直な叙情性のある歌であるとされている。
晩年でも作歌意欲は衰えず、多作ぶりは有名であったと。1236年、出家し法名・仏性と号し、難波(現大阪市)の四天王寺の傍らに“夕陽庵(セキヨウアン)”を築き住まった。現在“夕陽ガ丘”の地名で残る辺りである。翌年没した、年80。
『新古今和歌集』に43首、『新勅撰和歌集』には最多の35首入集。『千載和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に281首採られている。家集に『壬二(ミニ)集』があり、六家集の一つである。子息・侍従隆祐(タカスケ)、娘・土御門院小宰相(コザイショウ)も歌人である。