愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 230 飛蓬-137 小倉百人一首:(従二位家隆)風そよぐ

2021-09-27 09:51:28 | 漢詩を読む
98番 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは  
     みそぎぞ夏の しるしなりける  
          従二位家隆(『新勅撰和歌集』夏・192) 
<訳> 風がそよそよと楢の葉に吹きそそぐ楢の小川の夕暮れは、すっかり秋らしさを感じさせるけれど、折から行われている禊の行事が、夏であることの証だなあ。(板野博行)

ooooooooooooo 
夕暮れともなると、神社境内の杜の楢の木の葉が、そよそよと風に揺れて、そばを流れる楢の小川の川面を涼やかに風が吹き抜けていく。肌で感ずるのは、すっかり秋の気配だ。でも小川では六月祓(ミナヅキハラエ)の行事の真っ最中であり、まだ夏なのだよ。 

季節の変わり目にあって、微妙に戸惑いを感じている風である。自律神経の微調整中というところでしょうか。作者・藤原家隆は、後鳥羽院歌壇での中心的メンバーで、同時代の定家と双璧と評価される歌人。両者は生涯を通して歌友であったと。

七言絶句としました。

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声一先韻] 
 晚夏祓禊廟会 晚夏 禊(ミソギ)を祓(ハラ)うの廟会(マツリ) 
風軟徐徐摇樹葉, 風軟らかに徐徐(ジョジョ)として樹葉摇れ,
秋凉杳杳満枹川。 秋凉(シュウリョウ) 杳杳(ヨウヨウ)たりて枹川(ナラノカワ)に満つ。
但行祓禊儀神事, 但(タ)だ禊を祓うの儀(ギ) 神事(シンジ)が行われおり,
作証依然是夏天。 依然として夏天(ナツ)の証(アカシ)と作(ナ)す。 
 註] 
  祓禊:六月祓(ミナヅキハラエ)または“夏越(ナコ)しの祓”、夏の終わり(旧6月30日)に 
   川の水などで身を清め、穢れを落とす行事。  徐徐:そよそよと木の葉が 
   揺れるさま。
  樹葉:此処では京都・上加茂神社境内の杜の“楢の木”の葉を指す。 
  杳杳:日が暮れて暗くなるさま。 
  枹川:“ならの小川”の訳で、境内の“御手洗(ミタラシ)川”を指す。“なら(楢)の小川”
   と、“(楢の)樹”との掛詞の関係を活かした。 

<現代語訳>
 夏の終わりの六月祓の祭り 
風が微かに吹いて楢の木の葉がそよそよと揺れており、
仄暗い夕暮れ時、秋の涼気が楢の小川の辺りに満ちてきている。
ただ神事の六月祓の行事が行われており、 
如何に涼やかとは言え、依然としてまだ夏なのだよ。

<簡体字およびピンイン> 
晚夏祓禊庙会 Wǎn xià fú xì miàohuì 
风软徐徐摇树叶, Fēng ruǎn xúxú yáo shù yè,  
秋凉杳杳满枹川。 qiūliáng yǎo yǎo mǎn Bāochuān. 
但行祓禊仪神事, Dàn xíng fú xì yí shénshì, 
作证依然是夏天。 zuòzhèng yīrán shì xiàtiān.  
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藤原家隆(1158~1237)は、中納言・兼輔(877~933、百27番、閑題192)の末裔で、権中納言・光隆の次男。官位は、従二位・宮内卿にまで至った。和歌は、俊成(百83番、閑題155)に学び、歌人としては晩成型であったという。

定家(百97番、閑題156)らと、俊成指導の下、西行(百86番、閑題114)勧進の『二見浦百首』(1186)に参加、また九条良経(百91番、閑題203)主催の『六百番歌合』(1192)に出詠し、後鳥羽帝の信任を得ている。

なお、後鳥羽帝が、和歌を学び始めたころ、良経に「和歌を学ぼうと思っているが、誰を師としたらよいか」と尋ねた際に、良経は家隆を推薦したという逸話が語られている。

後鳥羽院歌壇においては、定家らと共に中心的な役割を果たし、後鳥羽院を含めて、当時の代表歌人23人による『正治初度百首』(1200)が催された。後鳥羽院は、1201年、和歌所を設置、家隆を含めて和歌寄人5人を選び、『新古今和歌集』の編纂を命じた。

編者は、源通具(ミチトモ)、藤原有家、定家、家隆、雅経(百94番、閑題228)の5人で、撰集作業は1205年に終わった。しかし承久の乱の勃発、その後の後鳥羽院の隠岐配流などのため、院による校閲が難航し、最終稿の完成には30余年を要したようである。

寂蓮(百87番、閑題152)も撰者に指名されていたが、完成を待たず没したため、撰者として名は連ねられていない。良経は仮名序を書き、その巻頭歌を飾っている。藤原親経は真名序を書いた。勅撰八代集の第8番、20巻、歌数約2000首を含む。

家隆にとって、承久の乱によって後鳥羽、土御門、順徳の3院がそれぞれ別々の遠所に配流された衝撃は大きかったであろうが、家隆は、隠岐の後鳥羽院との音信を絶やすことはなかったようである。遠所から題を賜って歌を詠じ、院に送ったりしていたと。

当歌は、家隆72歳の時、九条道家の娘・竴子(シュンシ)が、後堀河帝の中宮として上がる際、屏風歌を依頼されて詠んだ歌であると伝えられている。家隆は、温雅で含蓄のある表現を志向し、歌風は率直な叙情性のある歌であるとされている。

晩年でも作歌意欲は衰えず、多作ぶりは有名であったと。1236年、出家し法名・仏性と号し、難波(現大阪市)の四天王寺の傍らに“夕陽庵(セキヨウアン)”を築き住まった。現在“夕陽ガ丘”の地名で残る辺りである。翌年没した、年80。

『新古今和歌集』に43首、『新勅撰和歌集』には最多の35首入集。『千載和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に281首採られている。家集に『壬二(ミニ)集』があり、六家集の一つである。子息・侍従隆祐(タカスケ)、娘・土御門院小宰相(コザイショウ)も歌人である。

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閑話休題 229 飛蓬-136 小倉百人一首:(入道前太政大臣)花さそふ

2021-09-20 09:17:08 | 漢詩を読む
96番 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで 
     ふりゆくものは 我が身なりけり 
          入道前太政大臣『新勅撰和歌集』雑・1054 
             [藤原公経(キンツネ)/西園寺公経] 

<訳> 桜の花を誘って吹き散らす嵐の日の庭は、桜の花びらがまるで雪のように降っているが、実は老いさらばえて古(ふ)りゆくのは、私自身なのだなあ。(小倉山荘氏)

oooooooooooooo 
春の嵐がヒューツと吹き抜けてゆくと、誘われるように、庭の桜の枝も揺れ、花びらがフンワリと舞い散り、日差しを受けて輝いて見える。恰もボタン雪が降り出したかと思ううちに、実は、老(フ)りゆくのはわが身なのだと気附かされるのである。

平安から鎌倉時代へと世が変わる頃、流れに上手く乗り、太政大臣まで出世、莫大な富を築く。京都北山に菩提寺・西園寺を建立した西園寺公経(キンツネ)こと藤原公経の晩年の歌である。同寺は、今日、鹿苑院(金閣寺)としてその威容を遺している。

「歓楽極まりて 哀情多し」(漢・武帝)という漢詩の句がありますが、相通じる歌と言えようか、華やかな春を称揚しつゝ、老いを自覚する。七言絶句にしました。

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<漢字原文および読み下し文>  [上平声十三元・十一真韻] 
 感受到年老 年老を感受す 
勧誘苑花風暴奔, 苑の花を勧誘して風暴(フウボウ)奔(ハシ)る, 
翩翩英瓣輝耀春。 翩翩(ヘンペン)として英瓣(エイベン)輝耀(キヨウ)する春。 
恰如降来鵝毛雪, 恰(アタカ)も鵝毛雪(ガモウユキ)の降り来たるが如くあるも, 
老下去実知我身。 老(フ)り下去(ユク)は実(マコト)に我が身なるを知る。 
 註] 
  風暴:春のあらし。       翩翩:軽やかに飛ぶさま。 
  英瓣:花びら。         輝耀:きらきら輝くさま。 
  鵝毛雪:ぼた雪。  
<現代語訳> 
 老いを実感する 
庭の桜の花を誘いながら春の嵐が駆け抜けていき、 
ひらひらと舞い散る花びらが春の陽に輝いて見える。 
あたかもぼた雪が降っているのではないかと思ってみていたが、 
真に老(フ)りゆくのはわが身であることを気づかされるのである。 

<簡体字およびピンイン> 
 感受到年老 Gǎnshòu dào nián lǎo  
劝诱苑花风暴奔, Quànyòu yuàn huā fēngbào bēn, 
翩翩英瓣辉耀春。 piānpiān yīng bàn huīyào chūn.  
恰如降来鹅毛雪, Qiàrú jiàng lái émáo xuě, 
老下去实知我身。 lǎo xiàqù shí zhī wǒ shēn.  
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西園寺公経(1171~1244)は、平安末から鎌倉時代初期に活躍した公家、歌人である。内大臣・実宗(サネムネ)の子息、1196年、蔵人頭に昇進、従三位参議となり、公卿に列している。後鳥羽上皇(99番)の御厩別当も務めた。

公経は、源頼朝の姪・全子を妻としていたこと、また彼自身頼朝が厚遇した平頼盛の曽孫であることから、鎌倉幕府と親しい関係にあった。実朝(93番)が暗殺された(1219)後、外孫の藤原頼経を後継者として下向させる際、中心となって働いた。

後鳥羽上皇は、不満はありながら、幕府との関係を保っていたが、実朝が暗殺された後、幕府と友好関係を保つ意欲を失い、公武融和の方針を棄て、討幕を決意した。順徳天皇も皇位を皇子(仲恭天皇)に譲り、父・後鳥羽上皇の討幕計画に協力した。

幕府と親しい公経は幽閉され、後鳥羽上皇は、執権・北条義時追討の宣旨を出した(1221、承久3年)、“承久の変”の勃発である。しかし公経は、上皇の討幕計画を察知して、幕府に通報していたようだ。一か月ほどで戦は幕府側の勝利で終わった。

乱に対する幕府の措置は峻厳を窮め、上皇の近臣は斬罪、後鳥羽、順徳、土御門上皇は、それぞれ、隠岐、佐渡、土佐へ流罪とされた。京都朝廷は公経を中心に再編成され、公経は、内大臣を経て、1222年、政権トップの座、太政大臣へと昇進した。

変後、公経は、孫女を入内させて皇室の外戚となり、摂関家を凌ぐ権勢を恣にした。また荘園を保有し、さらに宋貿易による莫大な収入により富を築き、豪華奢侈を極めるに至った。

極め付きは、京都北山に豪華な園池を作り別荘とし、併せて菩提寺として西園寺を建立したことである。後に足利義満の手に渡り、鹿苑院(金閣寺)として、今日にその威容を伝えている。なお、“西園寺”の家名はこの同寺に由来している。

1244年薨御、享年74。幕府に追従して保身と我欲を満たすのに汲々とした奸物、世の奸臣と評され、必ずしも芳しい評価はないようである。動乱期にあって卓越した処世術を発揮した人物と言うべきか。

公経は、多芸・多才の人で、琵琶や書にも優れていた。歌人としては、主に“承久の変”以前、歌合や各種の歌会に出詠している。『新古今和歌集』に初出で、10首入集されている。『新勅撰和歌集』に30首で、入集数第4位と。新三十六歌仙の一人である。

 
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閑話休題 228 飛蓬-135 小倉百人一首:(参議雅経)み吉野の

2021-09-13 09:13:24 | 漢詩を読む
(94番)み吉野(ヨシノ)の 山の秋風 小夜(サヨ)ふけて
       ふるさと寒く 衣(コロモ)打つなり 
             参議雅経『新古今和歌集』秋・483 
<訳> 美しい吉野の山に秋風が吹き、夜も更けて、かつて離宮のあった吉野の里は寒々として、衣を打つ砧の音だけが響き渡っているよ。(板野博行)

ooooooooooooo 
今日桜の名所として知られる吉野の里、万葉の頃には離宮が設けられ栄えていた。歌は、山から寒気を帯びた風が吹き降りてくる晩秋の頃でしょうか。夜更けの頃にはひっそりとして、ただ遠くから冬支度の衣を打つ砧の音が聞こえて来るだけであると。

古の華麗であったろう街の佇まいを想像しつゝ、古びた、侘しい今の情景に時の移ろいを強く感じる、平安末期の今である。作者の藤原雅経は、父の罪に連座して鎌倉に護送されるが、結果的に、鎌倉と京都を結ぶ“文化大使?”の役割を果たしました。

晩秋の吉野の情景を描く五言絶句としました。

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<漢字原文および読み下し文>   [下平声八庚韻] 
 訪名所吉野 名所吉野を訪ねる  
吉野故園情,吉野 故園(コエン)の情,
秋風山氣清。秋風 山氣(サンキ)清し。
夜闌為蕭索,夜闌 為(タメ)に蕭索(ショウサク)たり,
惟聞擣衣声。惟(タ)だ聞く 衣(コロモ)を擣(ウ)つの声。
 註] 
  吉野:現奈良県吉野郡吉野町。桜の名所で、曽て万葉の時代に離宮が置かれた。 
   歌枕である。 
  故園:ふるさと、故郷。      夜闌:夜更け。 
  蕭索:索漠としている、寒々としている。 
  擣衣:布を柔らかくする、または艶を出すために砧でたたくこと。 

<現代語訳> 
 曽て離宮のあった名所 吉野を訪ねる 
吉野の里は、曽て離宮が置かれていた、懐かしい想いのあるところで、
山から吹き下ろす秋風は、清々しい気に満ちている。
夜更けてくると、ひっそりとして寒々とした感に襲われ、
聞こえてくるのは、ただ砧(キヌタ)で衣を打つ音だけである。

<簡体字およびピンイン> 
 访名胜吉野 Fǎng míngshèng Jíyě 
吉野故园情, Jíyě gùyuán qíng,  
秋风山气清。 qiūfēng shān qì qīng.
夜阑为萧索, Yèlán wéi xiāosuǒ,
惟闻捣衣声。 wéi wén dǎo yī shēng.
xxxxxxxxxxxxxxxx 

参議雅経(1170~1221)は、藤原北家師実流に属し、刑部卿・頼経の次男で、従三位参議まで昇進した。源頼朝・義経の対立の際、父・頼経は、義経に近かったことから、咎められて配流された。その折、雅経も連座して鎌倉に護送された。

雅経は、和歌と蹴鞠(ケマリ)の才能が頼朝に評価され、頼朝の猶子に迎えられた。そこで頼朝の子息、頼家および実朝(百人一首93番、閑話休題154)とも親交を結び、後に和歌の面で、実朝と定家(百97番、閑休156)の仲を取り持つことになる。 

罪を許されて帰京(1197)後、後鳥羽院(百100番)の近臣として重んじられた。俊成(百83番、閑休155)に和歌を学び、後鳥羽院歌壇で少壮歌人として頭角を現し、常連として活躍する。和歌所寄人となり、『新古今和歌集』(1205年成立)の撰者の一人となった。

一方、当時、貴人の間では、鞠を蹴って遊ぶ遊戯が盛んであった。雅経は、祖父・頼輔の特訓を受けて蹴鞠の名手であった。1208年、大炊御門頼実が後鳥羽院を招いて催した鞠会で優れた才能を発揮、院から「蹴鞠長者」の称号を与えられている。

雅経は、飛鳥井(アスカイ)と号していて、飛鳥井流蹴鞠の一派を開き、後に同流派の祖とされており、『蹴鞠略記』を著している。度々鎌倉に招かれて、指導していた。飛鳥井家の和歌・蹴鞠についての権威は、後々400年後までも続いていたようである。

雅経の詠作は、情調的・絵画的・物語的で、余情を貴ぶ風で、特に、“本歌取り”の技巧に優れていると。当歌は、坂上是則(百31番、閑休190)の次の歌を元歌にした“本歌取り”の歌とされている:

み吉野の 山の白雪 つもるらし 
   ふるさと寒く なりまさるなり (古今和歌集 巻6・325) 
  [吉野の山では白雪が降り積もってくるのでしょう、此処古都の奈良では寒さが 
  一段と募ってきているから] 

雅経は、『新古今和歌集』(22首)以下の勅撰和歌集に132首入集されている。家集に『明日香井集』があり、日記『雅経卿記』がある。 

 
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閑話休題 227 飛蓬-134 小倉百人一首:(二条院讃岐)わが袖は

2021-09-06 09:04:08 | 漢詩を読む
(92番) わが袖は 潮干(シホヒ)に見えぬ 沖の石の 
       人こそ知らね 乾く間もなし 
          二条院讃岐(『千載集』恋2・760)  
<訳> 私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ。他人は知らないだろうが、(涙に濡れて)乾く間もない。 (小倉山荘氏) 

oooooooooooooo 
沖で海の底に沈んだ岩は、波静かな引き潮の時でさえ、姿を現すことはなく濡れたままである。この岩に似て、わたしの衣の袖は、涙で濡れて乾く間もないのよ。でもあの人は、いつまでも気づいてくれそうにない。秘めた片思いの歌です。 

歌会で「石に寄せる恋」の題で詠われた歌である。 “涙で濡れた袖”を「沖の石」に例えた斬新さが評判となり、当時、作者は、「沖の石の讃岐」とあだ名されるほどであった。二条院に仕え、院の没後に藤原重頼と結婚、後に後鳥羽院の中宮・宜秋門院任子に仕える。 

父・右京大夫・源頼政も歌人で、讃岐も若いころから歌の才を発揮していた。特に後鳥羽院歌壇では多くの歌合に出詠している。女房三十六歌仙のひとりである。七言絶句としました。

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<漢詩原文および読み下し文>   [上平声五微・四支韻] 
 不会成就的暗中恋慕 成就され会(エ)ぬ暗中恋慕  
浩浩大洋波浪微, 浩浩(コウコウ)たる大洋 波浪微(カスカ)にして, 
海岩退潮没現姿。 海岩 退潮なるも姿を現わさず。 
如今我袖孰識破, 如今(ジョコン)我が袖は 孰(タレ)か識破(シキハ)せしか, 
似彼岩無干燥時。 彼の岩に似て 干燥する時無しを。 
 註] 
  暗中恋慕:密かな恋慕。    浩浩:広々としたさま。 
  海岩:沖の石。        退潮:引き潮。 
  如今:近頃。         孰:誰。 
  識破:見破る、見抜く。   
<現代語訳> 
 遂げられそうにない秘めた恋  
広々と果てしない大洋、波浪は微かにして穏やか、 
引き潮の時でも、沖の石は姿を現さず、海中にあり濡れたままである。 
近頃、涙で濡れた私の袖は、誰も、あの人さえも知らないでしょう、 
彼(カ)の沖の石に似て、乾く時がないのを。 

<簡体字およびピンイン> 
 不会成就的暗中恋慕 Bù huì chéngjiù de ànzhōng liànmù   
浩浩大洋波浪微, Hào hào dàyáng bōlàng wēi,  
海岩退潮没现姿。 hǎi yán tuìcháo méi xiàn . 
如今我袖孰识破, Rújīn wǒ xiù shú shípò,  
似彼岩无干燥时。 sì bǐ yán wú gānzào shí. 
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二条院讃岐は、生没年不詳(1141?~1217?)、父は、摂津源氏の右京太夫・源頼政。二条天皇即位(1158)と同じ頃に内裏女房として出仕、翌年以降度々内裏和歌会に出席して内裏歌壇での評価を得ていた。父・頼政も一流の歌人で、『源三位頼政集』を残している。 

二条院薨御(1165)後、藤原重頼と結婚。1190年頃、後鳥羽院中宮・宜秋門院任子に再出仕する。その間、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、さらに以仁王の挙兵(1180)では、父・頼政は王側に与し、宇治川の合戦で平氏に敗れ、戦死するという乱世の不幸に遭遇している。1196年、宮仕えを退き、出家した。 

若い頃から父と親しかった俊恵法師の歌会に参加、また1178年には、上賀茂神社神主・賀茂重保主催、判者俊成による「別雷社歌合」(ワケイカヅチシャウタアワセ)に父と共に出詠、また1195年には、藤原経房主催の「民部卿家歌合」に出詠している。 

後鳥羽院歌壇では、「院初度百首」(1200)、「新宮撰歌合」(1201)、「千五百番歌合」(1202)他に出詠。順徳朝にあっては「内裏歌合」(1213)、「内裏百番歌合」に出詠している。歌人としての活躍は活発で、長い期間に亘っている。 

当歌、“我が袖は” は、和泉式部(百人一首56番、閑話休題145)の次の歌を元歌にした“本歌取り”の歌であるということである: 

我が袖は 水の下なる 石なれや 
  人に知られで 乾く間もなし (和泉式部集) 
 [わたしの衣の袖は水に沈んでいる石みたいなものだわ、人に知られることもなく 
 また乾く間もないのよ] 

すなわち、和泉式部の歌における「水の下なる石」が、大海の「姿を現すことのない沖の石」に替わった歌です。この斬新な発想が、当時大変な話題となり、この歌に因んで、讃岐は「沖の石の讃岐」とあだ名されたということである。 

讃岐は、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に72首入集され、家集に『二条院讃岐集』がある。女房三十六歌仙の一人である。 
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