愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 277 飛蓬-155 祝孩子七五三儀 次韻 蘇軾《吉祥寺賞牡丹》

2022-08-29 09:26:01 | 漢詩を読む

蘇軾の詩に次韻して詩を作ることに挑戦しています。今回は蘇軾のユーモラスな詩《吉祥寺賞牡丹》への次韻を試みました。子供の七五三の宮参りの情景を主題にしました。ユーモラスさには程遠いが、子のお祝いに乗じて、一献頂くという、チョッピリ チグハグな父親を描いたつもりです。

 

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 次韻 蘇軾「吉祥寺賞牡丹」 祝孩子七五三儀   [下平声十一尤韻]   

孩子紅粧聊若羞, 孩子(コドモ) 紅粧して聊(イササか)羞(ハジ)らうが若(ゴト)し, 

蕭蕭松韻池苑頭。 蕭蕭(ショウショウ)として松韻(ショウイン) 池苑(チエン)の頭(ホトリ)。 

開新樽祷前途幸, 新樽を開き祷(イノ)る 前途(ゼント) 幸なるを, 

千歲飴糖懸玉鉤。 千歲飴糖(チトセアメ)は玉の鉤(カギ)に懸(カケ)て。 

 註] 〇七五三:男子は3歳と5歳、女子は3歳と7歳にあたる年の11月15日に

  行われる、子供の成長を祝う行事。晴れ着を着て神社・お寺に参詣する;  

  〇蕭蕭:樹木が風にそよぐ形容; 〇池苑:池や花木のある庭園;

  〇千歲飴糖:千歲飴(チトセアメ)、鶴亀などの絵のついた長い紙袋に入れてある、

  紅白に染めた棒状の飴。七五三や新生児の宮参りのときに縁起物として頂く; 

  〇鉤:簾などを掛けるフック。   

<現代語訳> 

 蘇軾「吉祥寺に牡丹を賞す」に次韻する  

   子供の七五三祝い  

子供は化粧し、晴れ着を着て、いささかはにかみ気味に、

お参りの後、そよ吹く松風を聞きつつ、池のほとりを親と手を繋いでゆく。

家に帰ると、子供の成長、前途の平安・幸福を願って祝い酒を頂く、

子供が貰ってきた千歳飴は床柱の玉の鉤に掛けて。

<簡体字およびピンイン> 

 次韵 苏轼「吉祥寺赏牡丹」祝孩子七五三仪   

孩子紅妆聊若羞, Háizi hóng zhuāng liáo ruò xiū,

萧萧松韵池苑头。 Xiāo xiāo sōng yùn chí yuàn tóu.  

开新樽祷前途幸, Kāi xīn zūn dǎo qián tú xìng, 

千岁饴糖悬玉钩。 qiān suì yí táng xuán yù gōu

 

oooooooooooooo

<蘇軾の詩> 

 吉祥寺賞牡丹      吉祥寺に牡丹を賞す    [下平声十一尤韻]  

人老簪花不自羞、 人は老いて花を簪(シン)し自(ミズカ)らは羞(ハ)じず、 

花応羞上老人頭。 花は応(マサ)に羞ずべし 老人の頭(カシラ)に上(ノボ)るを。 

酔帰扶路人応笑, 酔帰(スイキ) 路に扶(タス)けられて人応(マサ)に笑うべし, 

十里珠簾半上鈎。  十里の珠簾(シュレン) 半(ナカバ)は鈎(コウ)に上(ノボ)す。 

 註] 〇吉祥寺:杭州にある寺の名。ボタンの名所。乾徳三年(965)、睦州刺史の

  薛温(セツオン)が土地を喜捨してできた寺である;  〇扶路:道で人に扶助される; 

  〇珠簾:美しいすだれ; 〇上鈎:すだれを巻きあげて鈎に掛ける。  

<現代語訳> 

私は年老いても花をかんざしにして自分では恥ずかしくないが、

花のほうでは老人の頭につけられてきっと恥ずかしかろう。

酔って帰るとき 道で人に支えられ 狂態をさらし 見る人は笑っているであろう、

十里の道の家々の美しい簾が半分ほどは巻きあげられていたのだから。

            [石川忠久 NHK「漢詩を読む 蘇東坡」に拠る] 

<簡体字およびピンイン> 

 吉祥寺賞牡丹   Jíxiáng sì shǎng mǔdān  

人老簪花不自羞、 Rén lǎo zān huā bu zì xiū, 

花应羞上老人头。 huā yīng xiū shàng lǎo rén tóu.  

醉归扶路人应笑, Zuì guī fú lù rén yīng xiào, 

十里珠帘半上钩。 Shí lǐ zhū lián bàn shàng gōu.  

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《吉祥寺賞牡丹》は、蘇軾37歳(1072)、杭州・通判(地方行政の監督官)の任にあった時、太守・沈立(シンリツ)とともに吉祥寺に牡丹の花見に出かけた折の作品です。花見酒に酔った上機嫌の蘇軾は、頭上に牡丹の花を簪でとめて千鳥足で家路につきます。

 

蘇軾は前年の冬に赴任したばかりで、新任の通判を一目見たいと人々は関心が高かったのでしょう。道路沿いの多くの家々では簾を巻上げていたようである。本人は、年甲斐もなく牡丹の花を頭上に飾って上機嫌であるが、頭上の花はさぞかし恥じらいを覚えているであろう、と花を擬人化して、ユーモラスに詠っています。

 

宋代には牡丹の人気が非常に高まり、吉祥寺の広大な敷地にはとりわけ多く牡丹が植えられていて、名士たちの憩いの場であったようです。中国には、いわゆる“国花”と指定された花はないが、数ある花の中で牡丹が最も人気があるようだ。

 

“芍薬は妖艶ではあるが格が落ちる、蓮の花は清浄だが薄情だ、牡丹が真の国歌だよ、花が開く時節には、町を挙げて人々が花を求めて動きだす (唐・劉禹錫《賞牡丹》)”と詠われるほどに、牡丹は人々に愛でられている。この詩でも花は擬人化されている。

 

牡丹と言えば、河南省洛陽の“牡丹園”は今日なお中国第一の観光スポットでしょう。その繁栄は次のような伝説をもって語られている。唐代、権力の絶頂期にあった則天武后(在位690~705)は、雪見の宴で盃を片手に「花の精よ 直ちに目覚めて開花せよ」と命じた。

 

殆どの花が命に従い開花したが、牡丹だけは応じなかった、誇り高かったのである。激怒した武后は、牡丹を長安から追放した。以後、牡丹は、流された洛陽で豪華に花を咲かせて、今日に至っている と。2018/04/23、筆者は洛陽を尋ね、牡丹園の広大さ、種類の多さは実感できたが、時期早くほとんど蕾の状態で、残念な思いをしたことを思い出す。

 

日本で子供の成長を祝う七五三の祝い、男子は3歳と5歳、女子は3歳と7歳にあたる年の11月15日前後に行われます。その根底には、医療技術の発達していなかった時代、幼な子の死亡率が高く、7歳までは“神の子”と呼ばれていた由。

 

言葉を理解し始める3歳頃から乳歯の生え変わる7歳頃は、特に病気になり易いと考えられていて、健やかな成長を祈る行事として執り行われるようになった。平安時代から行われていたが、明治時代に、“七五三”と呼ばれて、庶民の間でも行われるようになった と。

 

なお、お宮またはお寺でお参りした後、子供には鶴亀・松竹梅の絵柄をあしらった袋に包装された紅白二本の棒状の長い“千歳飴”を買って差し上げます。「食べると千年もの長壽になりますよ」との願いが込められているのである。その由来は、江戸・元禄時代商人の商魂の発露によるようである。

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閑話休題276 陶淵明(4) 園田の居に帰る 五首 其三 

2022-08-22 09:36:33 | 漢詩を読む

「わが家が目に入ると、うれしさの余り 思わず駆け出した。僮僕も喜んで迎えてくれたし、子供たちは門で待っていた。……、幼子を抱っこして、部屋に入ると、樽に満杯のお酒が用意されているではないか!」(帰去来兮辞)

 

意を決して官職を辞し 、“園田の居”に帰りついた時の様子です。心弾むさまが目に浮かびます。廬山の秀峰を南に眺めつつ、その麓での農耕生活が始まりました。気になるのはやはり天機自然の移ろい、期待が裏切られることのないようにと、祈る日々である。

 

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<漢詩および読み下し文> 

 帰園田居 五首 其三 

1種豆南山下、 豆を種(ウ)う 南山の下(モト)、

2草盛豆苗稀。 草 盛んにして 豆苗(トウビョウ)稀(マレ)なり。

3晨興理荒穢、 晨(アシタ)に興(オ)きて 荒穢(コウワイ)を理(オサ)め、

4帯月荷鋤帰。 月を帯びて鋤(スキ)を荷(ニナ)って帰る。

5道狭草木長、 道 狭(セマ)くして草木(ソウモク)長(ノ)び、

6夕露沾我衣。 夕露(セキロ) 我が衣(コロモ)を沾(ヌ)らす。

7衣沾不足惜、 衣の沾るるは惜(オ)しむに足(タ)らず、

8但使願無違。 但(タ)だ 願いを使(シ)て 違(タガ)うこと無からしめよ。

  註] 〇南山:廬山を指す、彼の住む村は廬山の北にあるから南山と言う。彼の生まれ

   育った所は潯陽郡柴桑(サイソウ)県(蕭統伝)、廬山の南麓である、その間に廬山の南から北へ

   転居(?)があったようである; 〇荒穢:雑草が生い茂って荒れ果てたさま。 

<現代語訳> 

1南山のふもとに豆を植えたが、

2畑には雑草がはびこり、豆の苗は情けない状態になってしまった。

3朝早く起きて雑草を抜いてまわり、

4月の光を帯びながら、鋤をかついで帰路につく。

5狭い道には雑草がしげり、

6着物は、夜露でぐっしょり濡れてしまった。

7着物が濡れるのは別段惜しいとは思わないが、

8どうか期待が裏切られることなく、豆が育ってくれますよう願うのみだ。

        [松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る] 

<簡体字およびピンイン>  

   帰园田居 其三   Guī yuántián jū  qí sān [上平声五微韻]  

 1种豆南山下、 Zhòng dòu nán shān xià,  

 2草盛豆苗稀。 cǎo shèng dòu miáo xī.    

 3晨兴理荒秽、 Chén xīng lǐ huāng huì,

 4带月荷锄归。 dài yuè hè chú guī. 

 5道狭草木长、 Dào xiá cǎo mù zhǎng、 

 6夕露沾我衣。 xī lù zhān wǒ . 

 7衣沾不足惜、 Yī zhān bù zú xī. 

 8但使愿无违。 dàn shǐ yuàn wú wéi.      

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「“おれはいつも酒を飲んで酔えたら満足だ”と言って、下吏に、公田には悉く酒の製造原料となる糯粟(モチアワ)を作るよう命じた。ところが妻子が“秔(ウルチ、粳)を作って下さい”と強って頼むので、やむなく2頃(ケイ)50畝(ホ)に糯粟を作らせ、あとの50畝に秔を作らせた。」(蕭統伝) 

 

此処でちょっと道草を。陶淵明家の“農家”としての生産性を垣間見てみます。まず耕作地 3頃の公田(官有の耕作地)について。一頃は100畝、1畝は約5アール強(陶淵明全集上)とされており、3頃は概算15ヘクタール(=150km2)となる。かなりの広さである。

 

公田では、下吏(下役人)が耕作に当たっている。他に伝来の開墾地がいかほどかあるに違いなく、その部は家族や下僕が担当したのであろう。耕作に携わる家族は、主に淵明自身および妻・翟(テキ)と従弟敬遠であり、5人の子供たちは、まだ手足まといの年頃であろう。

 

淵明は事あるごとに「貧しく……」とぼやいているが、公田の広さから推して、決して“貧農”の類ではないようだ。幼い頃に父が亡くなり、働き手の不足は“貧しさ”の一因ではあろう。しかし若い淵明の胸の内では諸々の葛藤があり、胸中、常に、必ずしも経済的意味ではない “貧しさ”を感じていたのではなかろうか。その心の内に分け入ってみたい。

 

人に抜きん出て渙発する自らの才に対する自負、家庭環境や江南地域の影響を受けて身に着けた儒教的教養に基づく理想の追求と信念を貫徹したいという強い意志、また寒門ながら身を興した曽祖父・陶侃を想い、自らも一時、大志を抱いていたであろうこと、一方、上に門閥の高級士族を肌に感じながら、下級士族の立場に甘んじなければならないという現実への苛立ち。

 

生まれ育ったところは江州潯陽郡柴桑県、廬山の南麓である。北東には長江に沿い、鄱陽湖が広がる田園地帯である。廬山の景勝と周りの田園風景は、淵明の精神的拠り所であり、自然に親しみ、閑静な生活への憧れを育んでいったに違いない。

 

これら諸々の思いが淵明の胸の内で常に去来していたであろうと想像されます。結局、園田の居に帰るよう決意するに至った。41歳 (405)、“帰去来兮辞”を書き、故郷に帰った。以後、再度出仕することなく、酒を友として、農耕と詩作に没頭する隠遁の生活を続けることになる。

 

ここで淵明が生活の糧を求めて右往左往した頃の政情を見ておきます。戦乱から江南に逃れた司馬睿(初代皇帝・元帝)は建康(現南京)に都して東晋を興した(318)。第10代安帝(在位396~403)当時、軍部は江陵に拠る西府軍と京口(現鎮江)に拠る北府軍と対抗していた。

 

西府軍では桓玄が、荊州刺史として一大勢力を築いている。399年五斗米道の指導者孫恩による反乱が起こり、建康は危機的状況に陥る。この乱は、一応北府軍の劉牢之と劉裕により鎮圧された。しかし桓玄は、孫恩の乱鎮圧を名目に建康に迫った。淵明が参軍として桓玄に仕えたのはその頃であるが、淵明は間もなく辞職して故郷に帰っている。

 

桓玄は、首都に入城して政敵を排除し、安帝を排して帝位を簒奪、自ら皇帝に即位し、国号を楚とした(桓楚、403)。クーデターである。同時に北府軍を圧迫して実力者劉牢之を追放して自殺に追い込むなど、北府軍の反感を買う。

 

劉牢之の死後、北府軍のリーダーとなった劉裕が挙兵、桓玄軍を破り、桓玄を殺害して首都を奪回した(404)。桓玄は三日天下に終わったのである。劉裕は、安帝を復位させて東晋を再興する。淵明が参軍として劉裕に仕えたのはその頃である。淵明が桓玄のクーデターに、偶然にも、参加していなかったことは、劉裕の心証によく映ったであろう。

 

東晋が再興されたとはいえ、もはや皇帝に権力はなく、再興の功労者である劉裕が政・軍を掌握していた。以後、各地で起こった乱を平定し、その武勲により強大な権力を得た劉裕は、安帝を殺害、その弟の恭帝を擁立した。次いで恭帝から禅譲を受けて南朝宋(劉宋)を興した(420、淵明56歳)。東晋は滅亡した。

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閑話休題275 陶淵明(3) 園田の居に帰る 五首 其二

2022-08-15 09:27:20 | 漢詩を読む

いよいよ田舎に帰って農耕を始めます。家に閉じ籠ることが多く、時に外に出て、村人に逢うことがあるが、お互い余計な話をすることはない。作物の生長具合を語るぐらいだ。耕地も広がり、作物の成長もよし。ただ心配なのは寒い季節を迎え、作物が霜枯れを来すことだと 自然を相手の農耕生活の厳しさを思うのである。

 

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<漢詩および読み下し文> 

 帰園田居 五首 其二 

 1野外罕人事、 野外 人事(ジンジ)罕(マレ)にして、

 2窮巷寡輪鞅。 窮巷(キュウコウ) 輪鞅(リンオウ)寡(スク)なし。

 3白日掩荊扉、 白日(ハクジツ)にも荊扉(ケイヒ)を掩(トザ)し、

 4虚室絶塵想。 虚室(キョシツ)にて塵想(ジンソウ)を絶つ。

 5時復墟曲中、 時に復た墟曲(キョキョク)の中(ウチ)、

 6披草共来往。 草を披(ヒラ)いて共に来往(ライオウ)す。

 7相見無雑言、 相見(アイミ)て(ザツゲン)無く、

 8但道桑麻長。 但(タ)だ道(イ)う 桑麻(ソウマ)長(ノ)びたりと。

 9桑麻日已長、 桑麻は日(ヒビ)に已(スデ)に長び、

10我土日已広。 我が土(ド)は日に已に広(ヒロ)し。

11常恐霜霰至、 常に恐(オソ)る 霜霰(ソウサン)の至って、

12零落同草莽。 零落(レイラク)して草莽(ソウモウ)に同(オナ)じからんことを。 

 註] 〇野外:町から離れた地、田舎; 〇輪鞅:“輪”は車輪、“鞅”はむながい、官吏の

  馬車を指す; 〇塵想:世俗的な考え; 〇墟曲中:村の片隅; 〇零落:草の

  枯れるのを“零”、木の枯れるのを“落”という。 

<現代語訳> 

 1(田舎に住んでいると) 世間とのつきあいが少なく、

 2我が家は路地の奥にあり、(騒々しく音を立てて)訪ねてくる馬車もない。

 3昼日中にも柴の戸を閉ざしていて、

 4人気のない部屋にいると つまらぬ雑念などまったく起こらない。

 5時には村里の中を、

 6草おしわけて行き来することがある。

 7(その場合でも)お互いに余計なことは言わず、

 8ただ桑や麻の生長ぶりを語り合うだけだ。

 9桑と麻は日ごとにすくすくと生長し、

10わたしの畑も日一日と広がっていく。

11いつも心配なのは、霜や霰(アラレ)にやられて、

12(作物が)枯れて雑草同様になってしまわぬかということだ。

        [松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る] 

<簡体字およびピンイン>  

   帰园田居 其二   Guī yuántián jū  qí èr [上声二十二養韻]

 1野外罕人事、 yěwài hǎn rén shì,  

 2穷巷寡轮鞅。 qióng xiàng guǎ lún yǎng.    

 3白日掩荆扉、 Bái rì yǎn jīng fēi,

 4虚室绝尘想。 xū shì jué chén xiǎng

 5时复墟曲中、 Shí fù xū qū zhōng, 

 6披草共来往。 pī cǎo gòng lái wǎng.

 7相见无雑言、 Xiāng jiàn wú zá yán, 

 8但道桑麻长。 dàn dào sāng má zhǎng.   

 9桑麻日已长、 Sāng má rì yǐ zhǎng,

10我土日已広。 wǒ tǔ rì yǐ guǎng.

11常恐霜霰至、 Cháng kǒng shuāng xiàn zhì,  

12零落同草莽。 líng luò tóng cǎo mǎng.  

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陶淵明は365年に誕生、父は、8歳時(372)に亡くなりますが、記録がなく、姓名はじめ詳細は不明である。続いて庶母(妹の生母)が亡くなっています(376)。一方、従弟敬遠が誕生している(381)。20歳(384)の頃、妻を娶っているが、その姓氏は不明。

 

当時、如何ほどかの耕地面積はあったであろうが、妻、老いた母、16歳下の敬遠と自分の家族構成ではやはり貧しかったというべきでしょう。畑仕事では生活を維持できず、29歳時(393)、縁故を頼って江州祭酒(学校行政を司る長官)として出仕する。

 

しかし下吏の職務に辛抱できず、幾日も経たぬうちに辞職を申し出て家に帰った。江州から手簿(記録や文書を司る官)として就任するよう招かれたが、応じなかった。翌年(394)、妻がなくなる。なお、その後まもなく翟(テキ)氏と再婚、二人の妻との間に五人の子供を設けている。

 

399年(35歳)、江州刺史・恒玄に仕え、江陵に赴任する。2年後に休暇を取り、一時帰郷した後、7月に江陵へ帰任する。しかしその冬、生母・孟氏が亡くなって喪に服するため辞任して、郷里で従弟敬遠とともに農耕生活を送る。

 

404年(40歳)、京口(現鎮江市)に赴き、鎮軍将軍・劉裕(リュウユウ)の参軍(軍事参議官、幕僚)となる。翌年、建威将軍・劉敬宣(ケイセン)の参軍となる。いずれも生活故の任官である。その後、親戚や友人に向かって、「こんな軍職よりも、しばらく地方の行政官にでもなって、ゆくゆく隠棲の用意をしたいと思うのだが、どんなものだろう」と言っていた。

 

当局者がそれを聞いて、405年(41歳)秋に、彼は彭沢(ホウタク)県の県令に任命された。妻子は手足まといだとして単身赴任し、下僕を一人家族のもとに送り届けて、子供あてに手紙を書いて持たせた:「お前たちの仕事を手伝わせるが、これも人の子であるから、くれぐれもむごく扱わぬように」と。

 

その年の終わりに、偶々郡から督郵(監察官)が県に派遣されて来ることになった。そこで県の下吏が、「衣冠束帯でお迎えするように」と言われた。淵明は慨嘆して、「このわしがわずか五斗ばかりの扶持米のために、いなかの青二才ずれに腰を曲げることが出来るとでもいうのか!」(蕭統:陶淵明伝、以下蕭統伝)と言って、即日辞職、帰郷した。

 

「帰去来の辞 序」では、この前後の状況を次のように記している。家が貧しく農耕だけでは自給自足できず、幼子が部屋に満ち溢れ、甕に穀物の蓄えはなし。親戚や友人に勧められて、叔父の推挙で県令になった。彭沢は、家からわずか百里(約50km)と遠くなく、俸田から上がる糧食で酒を醸(ツク)るには十分と考え就職した。

 

ところが間もなく、辞職し家に帰りたくなった。自分の本性は自然率直で、如何に飢寒に迫られていたとて、自分の本性に背くことは苦痛である。すぐにも夜逃げするつもりでいた。そんな折、この年十一月、程家に嫁いでいた異母妹の訃報に接し、喪に服するため、即刻一方的に辞職した。在任80日程で、外部の事情をきっかけに本懐を遂げた次第である。 

 

それ以後、淵明は隠遁の田園生活を続け、二度と出仕することはなかった。この帰郷の折に、《帰去来兮》(405)および目下の話題の《帰園田居》(406)が作られている。《帰園田居》では、帰田後の生活のさま、想いなどが具に語られており、羽を広げている様が伺えます。 

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閑話休題 274 飛蓬-154 喜燕出飛第二陣 次韻 劉禹錫《烏衣巷》

2022-08-08 09:26:36 | 漢詩を読む

今年第二陣の乳燕(コツバメ)の巣立ちを目撃した(下写真)。その巣は今年設えた新しい巣のようです。その隣では、第一陣が5月下旬に巣立っていったが、その巣は2階建てを思わせる造りで、黄白地の古巣に下写真に見るような黒緑色地の縁取りが追加された巣でした。

 

何れの巣でも、五羽が誕生、写真の巣では、1,2 (?)羽がすでに巣立った後でした。“ツバメだけは、古巣を忘れず、貧乏な我が家にまた帰ってくるよ“と詠った于濆(ウ フン)《事に感ず》を反芻しながら、劉禹錫(リュウ ウシャク)《烏衣巷》の韻を借りて作詩を試みました。

 

        乳燕 ’22.07.21 撮影 

 

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 次韻 劉禹錫《烏衣巷》  劉禹錫《烏衣巷》に次韻 

  喜燕出飛第二陣      燕の出飛(シュッピ)第二陣を喜ぶ [下平声六麻韻] 

院中莫莫繡球花、 院中 莫莫(バクバク)たる繡球花(アジサイノハナ)  

淫雨潇潇潤朵斜。  淫雨(インウ) 潇潇(ショウショウ)として潤(ウル)おう朵(エダ) 斜(ナナ)めなり。 

昊天万里出飛燕, 昊天(コウテン) 万里 出飛せし燕, 

要学旅遊亦復家。 学ぶ要(ベキ)か 旅遊(リョユウ) 亦家に復(カエ)るを。 

 註] 〇出飛:小鳥が巣立つこと; 〇第二陣:第1陣は春期5月に巣立ち、7月に 

  巣立った乳燕(コツバメ); 〇莫莫:盛んに茂るさま; 〇繡球花:アジサイの花; 

  〇淫雨:長雨、梅雨; 〇潇潇:小雨がそぼ降るさま、しとしとと; 

  〇朵:花のついた枝; 〇昊天:大空。    

<現代語訳> 

庭のアジサイが満開に花開いているが、

梅雨時、しとしとと降る雨に濡れて、枝が撓垂(シナダ)れている。

大空めがけて万里、第2陣の乳燕が巣立っていった、

学ぶべきか、燕は旅に遊んでも、貧しい家に又帰ってくることを。

<簡体字およびピンイン> 

 次韵刘禹锡《乌衣巷》 Cìyùn LiúYǔxī “wū yī xiàng” 

  喜燕出飞第二阵   Xǐ yàn chū fēi dì èr zhèn  

院中莫莫绣球花, Yuàn zhōng mò mò xiùqiú huā,  

淫雨潇潇润朵斜。 yínyǔ xiāo xiāo rùn duǒ xiá*.   

昊天万里出飞燕, Hào tiān wàn lǐ chū fēi yàn,   

要学旅游亦复家。 yào xué lǚyóu yì fù jiā.  

  *韻の関係でここではxiáと発音する。 

oooooooooooooo

<劉禹錫の詩> 

 烏衣巷           [下平声六麻韻] 

朱雀橋辺野草花、 朱雀橋(スジャクキョウ)辺(ヘン) 野草の花、 

烏衣巷口夕陽斜。 烏衣巷(ウイコウ)口(コウ) 夕陽(セキヨウ)斜(ナナ)めなり。 

旧時王謝堂前燕、 旧時 王謝(オウシャ)堂前の燕、 

飛入尋常百姓家。 飛んで入る尋常(ジンジョウ)百姓(ヒャクセイ)の家。 

 註] 〇烏衣巷:江蘇省南京市が健康と呼ばれた昔、秦淮河の南の辺りにあった街の 

  名。東晋の頃、此処には王氏、謝氏などの大貴族の邸宅が立ち並んでいた; 

  〇朱雀橋:烏衣巷の入り口。秦淮河に掛かり、朱雀門の前にあった橋; 

  〇堂前:建物の中央の広間; 〇尋常:ありふれた; 〇百姓:“ヒャクセイ”と

  読む、庶民。

<現代語訳> 

 烏衣巷 

朱雀橋のほとりには野の草花が咲き、

烏衣巷の街の入り口には、夕陽が斜めにさしている。

昔、大貴族の屋敷に巣をかけたツバメが、

今ではありふれた庶民の家の軒に飛び込んでゆく。

             [石川忠久監修 『新漢詩紀行ガイド』 NHK, 2010に拠る] 

<簡体字およびピンイン> 

 乌衣巷  Wū yī xiàng 

朱雀桥辺野草花、 Zhūquè qiáo biān yě cǎo huā, 

乌衣巷口夕阳斜*。 wūyī xiàng kǒu xī yáng xiá*.   

旧时王谢堂前燕、 Jiù shí wáng xiè táng qián yàn,  

飞入寻常百姓家。  fēi rù xún cháng bǎi xìng jiā.  

 *韻の関係でここではxiáと発音する。 

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劉禹錫(772~842)は、中唐の詩人。793年進士。《烏衣巷》は、禹錫が和州(現安徽省和県)刺史の任にあった時期に作った「金陵五題」の一首。「烏衣巷」とは、建康(現南京市)を貫く川・秦淮河の南にあった街路。六朝時代、東晋の王氏や謝氏など名族が住んでいた。

 

唐の時代になると、古都はさびれ、かっての栄華は見る影もなく、目に入るのは野の花、夕陽、そしてツバメが巣を造るのは、今は庶民の家である と。禹錫の詩風はさりげない表現の中に深い含意を込めるのが特色であるとされる。その作風がよく出た詩と言えよう。 

 

白楽天は、“子供に背かれた” と嘆いている劉(リュウ)爺さんに、“爺さんだって若い時 親に背いたではないか……” と、ツバメの巣立ちの情景を譬え話にして諭し、慰めています(白楽天:《燕の詩 劉叟に示す》)。このようにツバメは、人の世の姿を訴えるのに格好な小鳥のようである。

 

筆者は、現在の日本国情に思いを馳せつゝ、自ら反省の念を込めて、《烏衣巷》に次韻する詩を練りました。すなわち、人口の東京一極(または都会への)集中、地方、特に農村での人口減による疲弊、食料自給率の低下等々。大きな政治課題でありながら、最近、“地方創生”の掛け声を聞くことはなくなった。 

 

6、70年代以降、“工業、科学技術立国、米欧に追いつけ、追い越せ”のスローガンを胸に、“高度成長期”を経て、遂には“Japan as No. one (Ezra F. Vogel 著)”に至った。筆者もその流れの中で“一駒”として役割を担ったことになる。働き手は異郷に住み着き、“古巣”に帰る時期を失して、「ツバメに学ぶべきか」と反省しきりなのである。

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閑話休題273 陶淵明(2) 園田の居に帰る 五首 其一 (2)

2022-08-01 09:32:32 | 漢詩を読む

意を決して帰った故郷の情景を述べます。住居や木々の緑が濃い庭園の佇まい、路地の犬や樹上の鶏が歓迎の意を表して歌っているのでしょうか。ちょっと目を外に転ずれば、隣村の上空に炊煙がゆらゆらと立ち上っている。何とも長閑な田園風景の一コマである。「本来あるべき姿に戻れたのだ!」と、心底から安堵した胸の内の有り様を詠っています。

 

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<漢詩および読み下し文> 

 帰園田居 五首 其一 

09方宅十余畝、 方宅(ホウタク) 十余(ジュウヨ)畝(ホ)、

10草屋八九間。 草屋(ソウオク) 八九(ハチク)間(ケン)。

11楡柳蔭後簷、 楡柳(ユリュウ) 後簷(コウエン)を蔭(オオ)い、

12桃李羅堂前。 桃李 堂前に羅(ツラ)なる。

13曖曖遠人村、 曖曖(アイアイ)たり 遠人(エンジン)の村、

14依依墟里煙。 依依(イイ)たり 墟里(キョリ)の煙。

15狗吠深巷中、 狗(イヌ)は吠(ホ)ゆ 深巷(シンコウ)の中(ウチ)、

16鶏鳴桑樹巓。 鶏(トリ)は鳴く 桑樹の巓(イタダキ)。

17戸庭無塵雑、 戸庭(コテイ)に塵雑(ジンザツ)無く、 

18虚室有余閑。 虚室(キョシツ)に余閑(ヨカン)有り。

19久在樊籠裏、 久しく樊籠(ハンロウ)の裏(ウチ)に在りしも、

20復得返自然。 復(マ)た自然に返るを得たり。

    註] 〇方宅:敷地; 〇畝:面積の単位、当時、一畝は約5,6アール; 〇間:柱

      と柱の間、部屋数; 〇楡柳:ニレとヤナギ; 〇簷:ひさし; 〇羅:つらなる、

      分布する; 〇曖曖:ぼんやり霞んださま; 〇遠人:遠くにいて、関係の薄い

      人; 〇依依:慕わしげになびくさま; 〇墟里:集落; 〇深巷:町の奥まった

      路地; 〇虚室:内に何もない部屋; 〇樊籠:鳥かご、官として窮屈を余儀なく

      されたことをいう。

<現代語訳> 

09敷地は十畝あまり、

10草ぶきの家には八、九の部屋がある。

11ニレやヤナギが後ろの軒に影を作り、

12モモやスモモが広間の前に並ぶ。 

13ぼんやりと霞む遠くの村、

14ゆるやかにたなびく人里の煙。 

15路地の奥では犬が吠え、

16桑の木の上では鶏が鳴く。 

17我が家の門や庭にはつまらぬ俗客の出入りはなく、

18ガランとした部屋は十分に余裕がある。 

19長い間、籠の鳥の生活を続けてきたが、 

20これでまた本来の自然の姿に戻ることができた。 

         [松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る] 

<簡体字およびピンイン> 

   帰园田居   Guī yuántián jū  

09方宅十余亩、 Fāng zhái shí yú mǔ, 

10草屋八九间。 cǎo wū bā jiǔ jiān.        [上平声十五刪] 通韻

11楡柳荫后檐、 Yú liǔ yīn hòu yán, 

12桃李罗堂前。 táo lǐ luó táng qián.       [下平声一先]

13暧暧远人村、 Ài ài yuǎn rén cūn, 

14依依墟里烟。 yī yī xū lǐ yān. 

15狗吠深巷中、 Gǒu fèi shēn xiàng zhōng, 

16鶏鸣桑树巓。 jī míng sāng shù diān. 

17戸庭无尘雑、 Hù tíng wú chén zá,

18 虚室有余闲。  xū shì yǒu yú xián. 

19久在樊笼里、 Jiǔ zài fán lóng lǐ, 

20复得返自然。 fù dé fǎn zì rán. 

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陶淵明には《五柳先生伝 幷(ナラビニ)賛》と題する自伝風の作品がある。自らの心情を吐露した作品でしょう。まず、同作品を要約しつゝ、淵明の自画像を点描しておきます。

 

その冒頭に「先生はどこの人であるかは知らず、姓名も詳らかにするほどのこともない。ただ屋敷に五本の柳の木があるから、“五柳(ゴリュウ)”先生と号することにする」とある。楡や桃、李などの木がそれぞれ何本づつあるかは不明であるが、屋敷は結構な広さであったことが想像されます。

 

淵明8歳に父を失ったこともあり、少年時代に家運はすでに没落しかけていたらしい。しかし生母は、先に触れたが、孟嘉の娘で、教育熱心であったのでしょう。少年時代には儒家の教育を受ける環境にあり、早くから自然に親しむとともに、琴や書を愛していた。

 

《五柳先生伝 幷賛》は続けて記します:「五柳先生は、物静かで口数は少なく、名利には貪着なし。読書が好きだが、細かいことを詮索することはない。ただ ‘これは!’ と思える箇所に出くわすと、喜びの余り三度の食事も忘れてしまうことがある」と。さらに、

 

「生まれつき酒が大好きだが、貧乏なため存分に飲めるというわけにはいかない。親戚や友人が事情を知っていて、酒を用意して招いてくれることがある。すると彼は喜んで応じて、訪ねるや忽ち飲み干してしまう。酔うとすぐに帰っていく。決していつまでもぐずぐず居座ることはない、酔いさえすれば満足なのである」と。酒癖は悪くない。

 

20歳のころ妻を娶るが、戦乱と連年の自然災害にあって暮らし向きは暗澹たる状態であったようです。人手不足でもあったのでしょう、畑仕事では生活を維持できなくなり、縁故を頼って江州(ゴウシュウ)祭酒(学校行政を司る長官)として初めて出仕する(393、29歳)。

 

しかし下史の職務に辛抱できず、何日も経ぬうちに辞職を申し出て家に帰った。一説に、五斗米道徒の江州刺史・王凝之に仕えるのをいさぎよしとしなかったためともいう。江州から主簿(記録や文書を司る官)として就任するよう招かれたが、応じなかった。なお、掲詩『帰園田居』を書いたのは、12年先の話である。

 

《五柳先生伝 幷賛》は、「屋敷内はせまっ苦しくひっそり。その上冬の寒風、夏のカンカン照りも満足に防げない。つぎはぎのボロをまとい、飲食に不自由すること度々だが、平然たるものだ。兼ねがね詩文を作ってひとり楽しみ、いささか自分の本懐を示した。世間的な損得など露ほども気にかけず、かくてひとりで死んでいくのだ」と結んでいる。

 

《五柳先生伝 幷賛》は、淵明が自らを譬えた実録であろうとされ、江州祭酒となる以前、恐らく28歳ころの作であろうと考えられている。あるいは酒食にも不自由を覚えるほどの貧困の状態が述べられ、文筆が老熟している点から、晩年の作であろうともされている。

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