愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題109 漢詩を読む 酒に対す-29; 庾信:画屏風を詠む詩

2019-06-22 15:17:40 | 漢詩を読む
この一対の句!

(女性が手にした)杯中の酒には、彼女の星のような輝く瞳がきらめいており、
  杯の縁の周りを繞るように耳飾りの玉がゆらいでいる。

窓辺の酒杯を手にした一人の手弱女(タオヤメ)が人目をひく。杯の底にはキラキラと輝く星のような瞳を映している。杯を口元に運ぶと、杯の縁まわりを繞るように耳飾りの玉が揺れる。

実は、屏風に描かれた絵について、イメージを膨らませて詠った庾信(ユシン;513~581)の五言律詩の一部です(下記参照)。庾信は、中国・南北朝時代最後の大詩人と評されており、この詩は、南朝・梁代の爛熟した貴族文化の一端を示す“宮廷詩”の一つと言えるのでしょうか。

xxxxxxxxxxxxx
詠画屏風詩二十五首 其四  庾秦
昨夜鳥声春,  昨夜 鳥声(チョウセイ)春なり、
驚鳴動四隣。  驚鳴(ケイメイ) 四隣(シリン)を動かす。
今朝梅樹下,  今朝 梅樹(バイジュ)の下、
定有詠花人。  定(サダ)めて花を詠ずるの人あらん。
流星浮酒泛,  流星 酒泛(シュハン)に浮かび、
粟瑱繞杯唇。  粟磌(ゾクテン) 杯唇(ハイシン)を繞(メグ)る。
何労一片雨,  何ぞ労(ロウ)せん 一片の雨、
喚作陽台神。  喚(ヨ)んで陽台の神と作(ナ)すを。

註] 動四隣:あたり四方に響き渡る;
流星:瞳のたとえ; 粟瑱:耳飾りの玉(ギョク);
杯唇;杯の縁のまわり; 喚:呼び招く;
陽台神:朝には雲となり、夕には雨となって現れるという巫山の神女、戦国末期・楚辞・宋玉『高唐賦』に拠る(閑話休題36参照)。

<現代語訳>
  画屏風を詠む詩
夕べ鳥の鳴き声を聞いたが、もうすっかり春なのだ、
  その鳴き声は、四方に響き渡っていた。
今朝は、花開いた梅の木の下に、
  きっと大勢の人々が集い、この花を詠ずることであろう。 
(女性が手にした)杯中の酒には、彼女の星のような輝く瞳がきらめいており、
  杯の縁の周りを繞るように耳飾りの玉がゆらいでいる。
どうして 彩雲・一雨となって現れるという、
  巫山・陽台の神女をわざわざ呼び寄せる必要があろうか。
(陽台の神女に劣らぬ手弱女がここにいるではないか。)
xxxxxxxxxxxxx

上掲の詩は、屏風に描かれた“静止画”を詠んだもので“画題詩”とも分類されています。対象となった屏風絵は、現在失われているようですが、詩を基に 描かれていた であろう絵はおおよそ想像できます。

詩中では作者の想像を通して、“音声・香り”や“動き”、などが加味されて、“立体的”、“動的”に、より豊かな“表情”が表現されていきます。一方、詩を読む方も、想像を逞しくして、“静止画”を改めて想像して楽しむことが許されるのです。

前回の投稿に関連して、読者の方から‘漢詩鑑賞の神髄に触れる’ようなコメントを頂いています(閑話休題108参照)。偶々取り上げた今回の詩は、まさにそのコメントに対するお応えを語るのにピッタリか と思われます。その“こころ”は? ちょっと横道に逸れます。

自然を詠むのに優れた唐代の詩人王維の詩について、コメントに上げられた蘇軾は「詩中に画あり、画中に詩あり」と評しています。詩作に当たって、自然(/“画”)を詩情豊かに表現するのに、王維がいかに巧みな詩人であるかという、感歎の評言かと思われます。

上掲の詩について言えば、一枚の“静止画”を基に作られた詩ながら、艶やかな貴族文化を存分に伝えているすぐれた一首 と言えるでしょう。ただ、この詩の読者が “静止画”を再構築するに当たっては、当然ながら、百人百様、千差万別の“画”ができ上ることでしょう。

「詩を読む」ことは、「“画(または作者の訴えたい何か)”を解読する」ことと言えるでしょうか。読者が想像(“創造”か?)する「画または作者の訴えたい何か」もまた、読者の感性や人生経験等々多くの因子に影響されて、千差万別の解釈がなされることになるでしょう。

勿論、今日伝わる漢詩については、先達が標準的な“読み下し”や“解釈および註”を教示してくれています。それらを参考にしながら、自らの解釈を試みる=自らの人生を重ねる? これこそまさに“漢詩を読む”楽しみの一つと言えるでしょう。

コメントでご指摘のように、蘇軾「春夜」についての解釈も、読者に委ねられていて、如何様に読もうとも許される。そこに“漢詩を読む楽しみ・面白さ=真髄”があると愚考する次第です。やや理屈っぽくなりましたが、ご容赦を!コメントの件、有難く、感謝、感謝!!

本論に戻って:

庾信は、若いころは南朝・梁に仕え、艶麗な宮廷詩の作者として一世を風靡した と。上掲の詩は、この頃の作品です。後半生は北朝の西魏次いで北周に仕え、世を憂うる重厚な詩風に転じるという数奇な運命を辿っています。ある意味‘時代に翻弄された詩人’と言えようか。

ちょっと時代背景を見ておきます。三国・魏の権臣司馬炎が265年に建てた王朝・晋が呉を平定して全国を統一します(280)。しかし皇統の同族・骨肉の争いが絶えず、国力が低下する中、北方・匈奴の侵入を受けて滅びます(316)。王族の司馬睿(エイ)は逃れて、江南の建康(現南京)に拠って東晋を建国(317)、ここに南北朝時代が始まります。

南北朝時代は、隋による統一(581)まで、両朝ともに骨肉相食む内紛が絶えず、政権が目まぐるしく変わりつつ、200数十年続きます。南朝では、(劉)宋-(南)斉-梁-陳と続きましたが、その中で梁の初代武帝(簫衍;在位502~549)は、50年近い長命皇帝で、特異と言える。

梁武帝は、教養政権と称されるほどに学問を奨励し、南朝貴族文化の黄金時代を築く素地を作った。我が国の元号「令和」制定に関連して話題となった文書『文選(モンゼン)』は、武帝の長子・昭明太子(簫統)が主導して編纂したものです。政権中枢には、今日なお読まれている多くの詩を残した詩人たちが名を連ねていました。

庾信は、梁武帝に仕えていました。梁武帝の末頃、侯景という、素性の知れない武人が、北朝の西魏より梁に闖入し力を蓄え、健康を攻めます(侯景の乱;547)。当時健康令の任にあった庾信は、兵を率いて敵に対しましたが、敗北して江陵に逃れて簫繹(ショウエキ、後の元帝)に身を寄せます。

554(元帝・承聖三)年、庾信は、命を受けて使節として西魏・長安に出向きます。長安に着いて間もなく、西魏は江陵を攻め滅ぼし、元帝を殺害しました。庾信は、長安に留め置かれました。北朝政権は、異民族が担っていて、代々漢化政策が取られていました。庾信の能力が買われたのでしょう。西魏で官職に着いています。

長安での庾信は、無理に江南から離され、家族とも離れ離れとなり、苦痛を伴う生活であったでしょう。西魏に出向いた後の彼は、思想や創作の上で著しく変化している と。今日残っている詩は、その多くが西魏に出向いた後の作品である ということです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題108 漢詩を読む 酒に対す-28;蘇軾:月夜与客飲杏花下

2019-06-08 10:02:43 | 漢詩を読む
この一対の句!

衣の裾をかかげて花影に足を踏み入れると、
 まるで流水が青い浮き草をひたして弄んでいるようだ。

蘇軾(東坡)の詩「月夜 客と杏花の下に飲す」の中の二句です。冴え渡る月光の下、杏の花びらが月光を反射しながらひらひらと舞い散っている情景を詠ったものです。非常に幻想的で、印象的な場面です。

作者は、錯覚して、小川の流れに浮かぶ青い水草がかすかに揺れ動き、月光をきらきらと照り返している情景として表現しています。花影に足を踏み入れるのに、“衣が濡れないように”と注意して、衣の裾を掲げたのでした。

お酒の肴に、月、さらに花(杏)が加わりました。月下に杏花の清香な気が満つる中、「田舎の酒、味は落ちるが、杯に写る月を吸い込むつもりで飲んで下さい」と。なんと風流な!! 気心の知れた仲間との一席です。少々長いが、下記の詩をじっくりと読んで頂きましょう。

xxxxxxxxxxxxxx
 月夜与客飲杏花下 月夜 客と杏花の下に飲す  蘇軾

杏花飛廉散余春, 杏花 廉に飛んで余春を散じ、 
 明月入戸尋幽人. 明月 戸に入りて幽人を尋ぬ。
褰衣歩月踏花影, 衣を褰(カカ)げ月に歩して花影を踏めば、
 炯如流水涵青蘋. 炯(ケイ)として流水の青蘋(セイヒン)を涵(ヒタ)すが如し。
花間置酒清香発, 花間に酒を置けば清香発す、
 争挽長条落香雪. 争(イカデ)か長条を挽(ヒ)きて香雪を落さん。
山城酒薄不堪飲, 山城 酒薄くして飲むに堪えず、
 勧君且吸杯中月. 君に勧む 且(シバラ)く吸え 杯中の月を。
洞簫声断月明中, 洞簫 声は断ゆ 月明の中、
 惟憂月落酒杯空. 惟だ憂う 月落ちて酒杯の空しきを。
明朝捲地春風悪, 明朝 地を捲(マ)いて春風悪(ア)しくば、
 但見緑葉棲残紅. 但だ見ん 緑葉の残紅を棲ましむるを。
註]
散余春:残り少ない春が尽きつつある
幽人:俗世を避け静かに暮らす人。ここでは作者のこと
褰衣:裾が濡れないように衣をかかげる
争:どうして~しようか、反語
挽:引き寄せる
長条:長い枝
香雪:香り高い雪、白い杏花のこと
山城:山の中の町;城は町(街)
洞簫:尺八に似た管楽器

<現代語訳>
 月夜に 客と杏花の下で酒を飲む

杏の花びらが廉にふりかかり、残り少ない春が尽きようとしている、
 明月の明かりが戸口から射し込み、侘び住まいの私を尋ねてきてくれた。
衣の裾をかかげて花影に足を踏み入れると、
 まるで流水が青い浮き草をひたして弄んでいるようだ。
花影で酒を酌むと清らかな香りが漂ってくる、
 なにも高い枝を引き寄せ杏の花びらを杯中に落とす必要もない。
この山間の町の酒は薄くて飲むには堪えないが、
 月を愛でながら、杯中の月を飲んで頂きましょう。
洞簫の音が止むと、しらじらと冴え渡る月のひかり、
 ただ悲しいのは、やがて月も落ち、酒も尽きてしまうこと。
明朝砂塵を巻き上げて意地悪な春風が吹くと、
 緑の葉に散り残って赤茶けた花を止めているだけであろう。
xxxxxxxxxxxxxxxx

作者蘇軾(1036~1101)については、先に何度か触れています。中華料理のトンポーロウ(東坡肉)の創製者であること(閑話休題-以下休題-45)。名山・廬山も見る人の立ち位置で見える姿・形が変わるものだ(休題-1、2 & 3)と。

また官職を擲って田園に隠棲した陶淵明には心酔しているが、自分は彼には到底及ばない としながら、陶淵明の詩「飲酒二十首」に倣った詩を書いています(休題-74)。蘇軾の詩には、胸の底に重く沈む、唸らずにはおかないような奥深さを感じます。

上掲の詩は、1079年春、蘇軾(44歳)が徐州(現江蘇省徐州市)在任中に書かれたものです。たまたま蘇軾の故郷蜀から張師厚が尋ねてきた。官舎に寄寓していた王子立・王子敏兄弟ともども杏花の下で設けた酒席の情景です。

なお王子立は、後に軾の弟・轍の娘婿となる人で、洞簫の名手である と。この宴席ではBGMを担当して、酒宴の雰囲気を一層和やかなものにしていたと想像できます。

1079年は、蘇軾にとって大きな転機をもたらした年と言えるでしょう。その7月には、“詩文を通して政治を誹謗した”という讒言があって、捕えられて投獄されます。取り調べは厳しく、“死”を覚悟した という。彼の生涯は、順風満帆、一直線ではなかったようです。

1057年(22歳)に科挙“進士”に合格しますが、同年母が亡くなり、服喪のため故郷の蜀に帰ります。25歳、服喪が明けて上京し、皇帝の面接を含む特別試験“制科”に及第、直ちに地方官として鳳翔府(現陝西省鳳翔県)に赴任、官歴第一歩を踏み出します。

1066年(31歳)、鳳翔府の任期が満ち、都・開封に帰ります。しかしこの年父が亡くなり、帰郷し、喪に服しています。なお前年には妻が亡くなっていました。1069年中央に復帰しますが、中央では、いわゆる“新法”派の猛威が奮っていた時でした。

唐末の混乱期(五代十国)を経て、国政の立て直しに迫られていた宋では、王安石(1021~1086)を中心に矢継ぎ早に新法を制定して国政改革が進められていた。変革が性急すぎるとする蘇軾は、“保守”派と目され、余儀なく政争の直中に身を置くことになった。

政争に嫌気をさした蘇軾は外任を乞います。1071年、杭州を皮切りに、密州(山東省諸城市)(1074年~)、徐州(江蘇省徐州市)(1077年~)の知事として、地方官を歴任します。上掲の詩は、この徐州在任2年目1079年の春に作られたものです。

同年7月、上に触れたように、讒言に遇い、投獄されることになります。獄中での取り調べは、死を覚悟するほど厳しかったようです。獄中での“懐い”を“詩”に綴り、弟の轍に届けてくれるよう、獄吏に託した と。

蘇軾の“懐い”は、獄吏を通して当時の皇帝神宗の耳に届いたようです。神宗の計らいがあって、8月、恩赦され、出獄できた。しかし黄州(湖北省)への流罪は免れず、1080年元旦に都を後にし、ほぼ一月を要して黄州に着いています。

ある意味、月夜、杏花の下で過ごした知人たちとの語らいは、最後にして、最も安寧な時間であったと言えようか。後出しジャンケン(?)のようですが、上掲の詩最後の四句は、黄州流罪に至る状況と重なるようにも読めます。

黄州での生活は、貧窮の中、非常に厳しかったようです。それでも今日“トンポーロー”として知られる中華料理を創製するなど、生活力旺盛な人であったと解されようか。紆余曲折した生涯を送った彼の“詩”は、読むほどに味わい深いものがあります。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする