この一対の句!
(女性が手にした)杯中の酒には、彼女の星のような輝く瞳がきらめいており、
杯の縁の周りを繞るように耳飾りの玉がゆらいでいる。
窓辺の酒杯を手にした一人の手弱女(タオヤメ)が人目をひく。杯の底にはキラキラと輝く星のような瞳を映している。杯を口元に運ぶと、杯の縁まわりを繞るように耳飾りの玉が揺れる。
実は、屏風に描かれた絵について、イメージを膨らませて詠った庾信(ユシン;513~581)の五言律詩の一部です(下記参照)。庾信は、中国・南北朝時代最後の大詩人と評されており、この詩は、南朝・梁代の爛熟した貴族文化の一端を示す“宮廷詩”の一つと言えるのでしょうか。
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詠画屏風詩二十五首 其四 庾秦
昨夜鳥声春, 昨夜 鳥声(チョウセイ)春なり、
驚鳴動四隣。 驚鳴(ケイメイ) 四隣(シリン)を動かす。
今朝梅樹下, 今朝 梅樹(バイジュ)の下、
定有詠花人。 定(サダ)めて花を詠ずるの人あらん。
流星浮酒泛, 流星 酒泛(シュハン)に浮かび、
粟瑱繞杯唇。 粟磌(ゾクテン) 杯唇(ハイシン)を繞(メグ)る。
何労一片雨, 何ぞ労(ロウ)せん 一片の雨、
喚作陽台神。 喚(ヨ)んで陽台の神と作(ナ)すを。
註] 動四隣:あたり四方に響き渡る;
流星:瞳のたとえ; 粟瑱:耳飾りの玉(ギョク);
杯唇;杯の縁のまわり; 喚:呼び招く;
陽台神:朝には雲となり、夕には雨となって現れるという巫山の神女、戦国末期・楚辞・宋玉『高唐賦』に拠る(閑話休題36参照)。
<現代語訳>
画屏風を詠む詩
夕べ鳥の鳴き声を聞いたが、もうすっかり春なのだ、
その鳴き声は、四方に響き渡っていた。
今朝は、花開いた梅の木の下に、
きっと大勢の人々が集い、この花を詠ずることであろう。
(女性が手にした)杯中の酒には、彼女の星のような輝く瞳がきらめいており、
杯の縁の周りを繞るように耳飾りの玉がゆらいでいる。
どうして 彩雲・一雨となって現れるという、
巫山・陽台の神女をわざわざ呼び寄せる必要があろうか。
(陽台の神女に劣らぬ手弱女がここにいるではないか。)
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上掲の詩は、屏風に描かれた“静止画”を詠んだもので“画題詩”とも分類されています。対象となった屏風絵は、現在失われているようですが、詩を基に 描かれていた であろう絵はおおよそ想像できます。
詩中では作者の想像を通して、“音声・香り”や“動き”、などが加味されて、“立体的”、“動的”に、より豊かな“表情”が表現されていきます。一方、詩を読む方も、想像を逞しくして、“静止画”を改めて想像して楽しむことが許されるのです。
前回の投稿に関連して、読者の方から‘漢詩鑑賞の神髄に触れる’ようなコメントを頂いています(閑話休題108参照)。偶々取り上げた今回の詩は、まさにそのコメントに対するお応えを語るのにピッタリか と思われます。その“こころ”は? ちょっと横道に逸れます。
自然を詠むのに優れた唐代の詩人王維の詩について、コメントに上げられた蘇軾は「詩中に画あり、画中に詩あり」と評しています。詩作に当たって、自然(/“画”)を詩情豊かに表現するのに、王維がいかに巧みな詩人であるかという、感歎の評言かと思われます。
上掲の詩について言えば、一枚の“静止画”を基に作られた詩ながら、艶やかな貴族文化を存分に伝えているすぐれた一首 と言えるでしょう。ただ、この詩の読者が “静止画”を再構築するに当たっては、当然ながら、百人百様、千差万別の“画”ができ上ることでしょう。
「詩を読む」ことは、「“画(または作者の訴えたい何か)”を解読する」ことと言えるでしょうか。読者が想像(“創造”か?)する「画または作者の訴えたい何か」もまた、読者の感性や人生経験等々多くの因子に影響されて、千差万別の解釈がなされることになるでしょう。
勿論、今日伝わる漢詩については、先達が標準的な“読み下し”や“解釈および註”を教示してくれています。それらを参考にしながら、自らの解釈を試みる=自らの人生を重ねる? これこそまさに“漢詩を読む”楽しみの一つと言えるでしょう。
コメントでご指摘のように、蘇軾「春夜」についての解釈も、読者に委ねられていて、如何様に読もうとも許される。そこに“漢詩を読む楽しみ・面白さ=真髄”があると愚考する次第です。やや理屈っぽくなりましたが、ご容赦を!コメントの件、有難く、感謝、感謝!!
本論に戻って:
庾信は、若いころは南朝・梁に仕え、艶麗な宮廷詩の作者として一世を風靡した と。上掲の詩は、この頃の作品です。後半生は北朝の西魏次いで北周に仕え、世を憂うる重厚な詩風に転じるという数奇な運命を辿っています。ある意味‘時代に翻弄された詩人’と言えようか。
ちょっと時代背景を見ておきます。三国・魏の権臣司馬炎が265年に建てた王朝・晋が呉を平定して全国を統一します(280)。しかし皇統の同族・骨肉の争いが絶えず、国力が低下する中、北方・匈奴の侵入を受けて滅びます(316)。王族の司馬睿(エイ)は逃れて、江南の建康(現南京)に拠って東晋を建国(317)、ここに南北朝時代が始まります。
南北朝時代は、隋による統一(581)まで、両朝ともに骨肉相食む内紛が絶えず、政権が目まぐるしく変わりつつ、200数十年続きます。南朝では、(劉)宋-(南)斉-梁-陳と続きましたが、その中で梁の初代武帝(簫衍;在位502~549)は、50年近い長命皇帝で、特異と言える。
梁武帝は、教養政権と称されるほどに学問を奨励し、南朝貴族文化の黄金時代を築く素地を作った。我が国の元号「令和」制定に関連して話題となった文書『文選(モンゼン)』は、武帝の長子・昭明太子(簫統)が主導して編纂したものです。政権中枢には、今日なお読まれている多くの詩を残した詩人たちが名を連ねていました。
庾信は、梁武帝に仕えていました。梁武帝の末頃、侯景という、素性の知れない武人が、北朝の西魏より梁に闖入し力を蓄え、健康を攻めます(侯景の乱;547)。当時健康令の任にあった庾信は、兵を率いて敵に対しましたが、敗北して江陵に逃れて簫繹(ショウエキ、後の元帝)に身を寄せます。
554(元帝・承聖三)年、庾信は、命を受けて使節として西魏・長安に出向きます。長安に着いて間もなく、西魏は江陵を攻め滅ぼし、元帝を殺害しました。庾信は、長安に留め置かれました。北朝政権は、異民族が担っていて、代々漢化政策が取られていました。庾信の能力が買われたのでしょう。西魏で官職に着いています。
長安での庾信は、無理に江南から離され、家族とも離れ離れとなり、苦痛を伴う生活であったでしょう。西魏に出向いた後の彼は、思想や創作の上で著しく変化している と。今日残っている詩は、その多くが西魏に出向いた後の作品である ということです。
(女性が手にした)杯中の酒には、彼女の星のような輝く瞳がきらめいており、
杯の縁の周りを繞るように耳飾りの玉がゆらいでいる。
窓辺の酒杯を手にした一人の手弱女(タオヤメ)が人目をひく。杯の底にはキラキラと輝く星のような瞳を映している。杯を口元に運ぶと、杯の縁まわりを繞るように耳飾りの玉が揺れる。
実は、屏風に描かれた絵について、イメージを膨らませて詠った庾信(ユシン;513~581)の五言律詩の一部です(下記参照)。庾信は、中国・南北朝時代最後の大詩人と評されており、この詩は、南朝・梁代の爛熟した貴族文化の一端を示す“宮廷詩”の一つと言えるのでしょうか。
xxxxxxxxxxxxx
詠画屏風詩二十五首 其四 庾秦
昨夜鳥声春, 昨夜 鳥声(チョウセイ)春なり、
驚鳴動四隣。 驚鳴(ケイメイ) 四隣(シリン)を動かす。
今朝梅樹下, 今朝 梅樹(バイジュ)の下、
定有詠花人。 定(サダ)めて花を詠ずるの人あらん。
流星浮酒泛, 流星 酒泛(シュハン)に浮かび、
粟瑱繞杯唇。 粟磌(ゾクテン) 杯唇(ハイシン)を繞(メグ)る。
何労一片雨, 何ぞ労(ロウ)せん 一片の雨、
喚作陽台神。 喚(ヨ)んで陽台の神と作(ナ)すを。
註] 動四隣:あたり四方に響き渡る;
流星:瞳のたとえ; 粟瑱:耳飾りの玉(ギョク);
杯唇;杯の縁のまわり; 喚:呼び招く;
陽台神:朝には雲となり、夕には雨となって現れるという巫山の神女、戦国末期・楚辞・宋玉『高唐賦』に拠る(閑話休題36参照)。
<現代語訳>
画屏風を詠む詩
夕べ鳥の鳴き声を聞いたが、もうすっかり春なのだ、
その鳴き声は、四方に響き渡っていた。
今朝は、花開いた梅の木の下に、
きっと大勢の人々が集い、この花を詠ずることであろう。
(女性が手にした)杯中の酒には、彼女の星のような輝く瞳がきらめいており、
杯の縁の周りを繞るように耳飾りの玉がゆらいでいる。
どうして 彩雲・一雨となって現れるという、
巫山・陽台の神女をわざわざ呼び寄せる必要があろうか。
(陽台の神女に劣らぬ手弱女がここにいるではないか。)
xxxxxxxxxxxxx
上掲の詩は、屏風に描かれた“静止画”を詠んだもので“画題詩”とも分類されています。対象となった屏風絵は、現在失われているようですが、詩を基に 描かれていた であろう絵はおおよそ想像できます。
詩中では作者の想像を通して、“音声・香り”や“動き”、などが加味されて、“立体的”、“動的”に、より豊かな“表情”が表現されていきます。一方、詩を読む方も、想像を逞しくして、“静止画”を改めて想像して楽しむことが許されるのです。
前回の投稿に関連して、読者の方から‘漢詩鑑賞の神髄に触れる’ようなコメントを頂いています(閑話休題108参照)。偶々取り上げた今回の詩は、まさにそのコメントに対するお応えを語るのにピッタリか と思われます。その“こころ”は? ちょっと横道に逸れます。
自然を詠むのに優れた唐代の詩人王維の詩について、コメントに上げられた蘇軾は「詩中に画あり、画中に詩あり」と評しています。詩作に当たって、自然(/“画”)を詩情豊かに表現するのに、王維がいかに巧みな詩人であるかという、感歎の評言かと思われます。
上掲の詩について言えば、一枚の“静止画”を基に作られた詩ながら、艶やかな貴族文化を存分に伝えているすぐれた一首 と言えるでしょう。ただ、この詩の読者が “静止画”を再構築するに当たっては、当然ながら、百人百様、千差万別の“画”ができ上ることでしょう。
「詩を読む」ことは、「“画(または作者の訴えたい何か)”を解読する」ことと言えるでしょうか。読者が想像(“創造”か?)する「画または作者の訴えたい何か」もまた、読者の感性や人生経験等々多くの因子に影響されて、千差万別の解釈がなされることになるでしょう。
勿論、今日伝わる漢詩については、先達が標準的な“読み下し”や“解釈および註”を教示してくれています。それらを参考にしながら、自らの解釈を試みる=自らの人生を重ねる? これこそまさに“漢詩を読む”楽しみの一つと言えるでしょう。
コメントでご指摘のように、蘇軾「春夜」についての解釈も、読者に委ねられていて、如何様に読もうとも許される。そこに“漢詩を読む楽しみ・面白さ=真髄”があると愚考する次第です。やや理屈っぽくなりましたが、ご容赦を!コメントの件、有難く、感謝、感謝!!
本論に戻って:
庾信は、若いころは南朝・梁に仕え、艶麗な宮廷詩の作者として一世を風靡した と。上掲の詩は、この頃の作品です。後半生は北朝の西魏次いで北周に仕え、世を憂うる重厚な詩風に転じるという数奇な運命を辿っています。ある意味‘時代に翻弄された詩人’と言えようか。
ちょっと時代背景を見ておきます。三国・魏の権臣司馬炎が265年に建てた王朝・晋が呉を平定して全国を統一します(280)。しかし皇統の同族・骨肉の争いが絶えず、国力が低下する中、北方・匈奴の侵入を受けて滅びます(316)。王族の司馬睿(エイ)は逃れて、江南の建康(現南京)に拠って東晋を建国(317)、ここに南北朝時代が始まります。
南北朝時代は、隋による統一(581)まで、両朝ともに骨肉相食む内紛が絶えず、政権が目まぐるしく変わりつつ、200数十年続きます。南朝では、(劉)宋-(南)斉-梁-陳と続きましたが、その中で梁の初代武帝(簫衍;在位502~549)は、50年近い長命皇帝で、特異と言える。
梁武帝は、教養政権と称されるほどに学問を奨励し、南朝貴族文化の黄金時代を築く素地を作った。我が国の元号「令和」制定に関連して話題となった文書『文選(モンゼン)』は、武帝の長子・昭明太子(簫統)が主導して編纂したものです。政権中枢には、今日なお読まれている多くの詩を残した詩人たちが名を連ねていました。
庾信は、梁武帝に仕えていました。梁武帝の末頃、侯景という、素性の知れない武人が、北朝の西魏より梁に闖入し力を蓄え、健康を攻めます(侯景の乱;547)。当時健康令の任にあった庾信は、兵を率いて敵に対しましたが、敗北して江陵に逃れて簫繹(ショウエキ、後の元帝)に身を寄せます。
554(元帝・承聖三)年、庾信は、命を受けて使節として西魏・長安に出向きます。長安に着いて間もなく、西魏は江陵を攻め滅ぼし、元帝を殺害しました。庾信は、長安に留め置かれました。北朝政権は、異民族が担っていて、代々漢化政策が取られていました。庾信の能力が買われたのでしょう。西魏で官職に着いています。
長安での庾信は、無理に江南から離され、家族とも離れ離れとなり、苦痛を伴う生活であったでしょう。西魏に出向いた後の彼は、思想や創作の上で著しく変化している と。今日残っている詩は、その多くが西魏に出向いた後の作品である ということです。