(47番)八重葎(ヤヘムグラ) しげれる宿の さびしきに
人こそ見えね 秋は来にけり
恵慶(エギョウ)法師『拾遺和歌集』秋・140
<訳> つる草が何重にも重なって生い茂っている荒れ寂れた家。訪れる人は誰もいないが、それでも秋はやってくるのだなあ。(小倉山荘氏)
ooooooooooooo
「人の訪れもない、雑草が生い茂るこの庵にも秋はやってきたよ」と、平安中期のころの歌です。“秋は寂寞の季節”という季節感が歌心として広く歌の題材になるのは、ずっと後の時代である。和歌史上先駆的な作品との評価がなされています。
作者は、僧侶、歌人であるが、生没年、出自ともに不詳の恵慶(エギョウ)法師(957~987ごろ活躍)です。歌中の“雑草の生い茂った、荒れた庭”は、かつて河原左大臣(源融)が豪邸を築いた“河原院”の約100年後の佇まいである。
五言絶句の漢詩としましたが、歌の心は素直に表現できたかな と感じていますが?下記、ご参照ください。
xxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [下平声八庚韻]
秋天的到来 秋天の到来
萋萋蔓草生, 萋萋(セイセイ)として蔓草(ツルクサ)生じ,
寂寂舍没声。 寂寂(セキセキ)として舍(シャ)に声没(ナ)し。
平日無来客, 平日 来客無きに,
天機秋色明。 天機(テンキ) 秋色明らかなり。
註]
萋萋:草木が茂っているさま。 寂寂:ひっそりと寂しいさま。
舍:家、建物、(謙遜語)自宅。 天機:自然のからくり。
<現代語訳>
秋のおとずれ
庭にはつる草が生い茂ってあり、
家は寂しく、物音も聞こえない。
普段 来客もないが、
天の巡りとは言え 秋はそこまで来ているのだ。
<簡体字およびピンイン>
秋天的到来 Qiūtiān de dàolái
萋萋蔓草生, Qī qī màncǎo shēng,
寂寂舍没声。 jì jì shè méi shēng.
平日无来客, Píngrì wú láikè,
天机秋色明。 tiānjī qiūsè míng.
xxxxxxxxxxxxxx
歌の作者・恵慶法師について、その生没年、出自、俗姓や経歴共に不詳である。ただ播磨(兵庫県)国分寺で経典の講義をする講師(コウジ)をつとめていたとか、また花山院の熊野行幸(986)に供奉したこと等は記録が残っているようである。
天徳-寛和(957~987)ごろ活躍し、交友関係は、遺された歌を通して、例えば、花山院や源孝明などの上流貴族や大中臣能宣、紀時文、清原元輔、曾祢好忠、平兼盛など中流身分の歌人たち と広かった。
中でも僧・歌人の安法(アンポウ)とは特に親しい関係にあったようである。安法は、生没年は不詳であるが、俗名・源趁(ミナモトノシタゴウ)、前回話題にした河原左大臣こと源融(トオル)の曽孫である。河原院の一画に寺を構えて住し、歌人たちの集会場所を提供していた。
趁は内蔵頭・源適(カナウ)の六男。父の頃から家運が衰え、趁は早くに出家し安法法師と号し、980年代に天王寺別当を務めたこともあるという。河原院での歌人たちの集まりでは恵慶法師と安法法師は中心的な存在であったようである。
なお、かの広大な河原院は、融の子・昇が後を継ぎ、次いで宇多上皇に提供され、寵愛する女官たちに住まわせていた と。以後経過の詳細は不明だが、いつ頃かお寺が建てられ、曽ての庭園跡は“八重葎”が生い茂る荒れた庭に変貌していました。
河原院では、歌人たちが集まり、その荒廃などを主題に漢詩文や和歌を作り、独特な交友圏を形成していた。962年には「庚申河原院歌合」が催されている。上掲の歌は、この河原院の荒廃の情景を詠ったもので、中世的な閑寂が主題とされ、先駆的な作品と評価されている。
恵慶法師、安法法師ともに中古三十六歌仙の一人である。恵慶法師には家集『恵慶法師集』があり、『拾遺和歌集』以下の勅撰集に50余首、また安法法師には家集『安法法師集』があり、『拾遺和歌集』以下の勅撰集に12首が入集している と。
恵慶法師には春に詠った次のような歌もある。〈詞書〉に「山里に人の許(モト)にて桜の散るを見て」とある。春とは言え、やはり憂愁の念を詠っています。
桜散る 春の山辺は 憂かりけり
世をのがれにと 来しかひもなく(恵慶法師集)
[桜の花が散る春の山辺は物憂いものだったよ 世を逃れようと来た
甲斐もなかったなあ](小倉山荘氏)
人こそ見えね 秋は来にけり
恵慶(エギョウ)法師『拾遺和歌集』秋・140
<訳> つる草が何重にも重なって生い茂っている荒れ寂れた家。訪れる人は誰もいないが、それでも秋はやってくるのだなあ。(小倉山荘氏)
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「人の訪れもない、雑草が生い茂るこの庵にも秋はやってきたよ」と、平安中期のころの歌です。“秋は寂寞の季節”という季節感が歌心として広く歌の題材になるのは、ずっと後の時代である。和歌史上先駆的な作品との評価がなされています。
作者は、僧侶、歌人であるが、生没年、出自ともに不詳の恵慶(エギョウ)法師(957~987ごろ活躍)です。歌中の“雑草の生い茂った、荒れた庭”は、かつて河原左大臣(源融)が豪邸を築いた“河原院”の約100年後の佇まいである。
五言絶句の漢詩としましたが、歌の心は素直に表現できたかな と感じていますが?下記、ご参照ください。
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<漢詩原文および読み下し文> [下平声八庚韻]
秋天的到来 秋天の到来
萋萋蔓草生, 萋萋(セイセイ)として蔓草(ツルクサ)生じ,
寂寂舍没声。 寂寂(セキセキ)として舍(シャ)に声没(ナ)し。
平日無来客, 平日 来客無きに,
天機秋色明。 天機(テンキ) 秋色明らかなり。
註]
萋萋:草木が茂っているさま。 寂寂:ひっそりと寂しいさま。
舍:家、建物、(謙遜語)自宅。 天機:自然のからくり。
<現代語訳>
秋のおとずれ
庭にはつる草が生い茂ってあり、
家は寂しく、物音も聞こえない。
普段 来客もないが、
天の巡りとは言え 秋はそこまで来ているのだ。
<簡体字およびピンイン>
秋天的到来 Qiūtiān de dàolái
萋萋蔓草生, Qī qī màncǎo shēng,
寂寂舍没声。 jì jì shè méi shēng.
平日无来客, Píngrì wú láikè,
天机秋色明。 tiānjī qiūsè míng.
xxxxxxxxxxxxxx
歌の作者・恵慶法師について、その生没年、出自、俗姓や経歴共に不詳である。ただ播磨(兵庫県)国分寺で経典の講義をする講師(コウジ)をつとめていたとか、また花山院の熊野行幸(986)に供奉したこと等は記録が残っているようである。
天徳-寛和(957~987)ごろ活躍し、交友関係は、遺された歌を通して、例えば、花山院や源孝明などの上流貴族や大中臣能宣、紀時文、清原元輔、曾祢好忠、平兼盛など中流身分の歌人たち と広かった。
中でも僧・歌人の安法(アンポウ)とは特に親しい関係にあったようである。安法は、生没年は不詳であるが、俗名・源趁(ミナモトノシタゴウ)、前回話題にした河原左大臣こと源融(トオル)の曽孫である。河原院の一画に寺を構えて住し、歌人たちの集会場所を提供していた。
趁は内蔵頭・源適(カナウ)の六男。父の頃から家運が衰え、趁は早くに出家し安法法師と号し、980年代に天王寺別当を務めたこともあるという。河原院での歌人たちの集まりでは恵慶法師と安法法師は中心的な存在であったようである。
なお、かの広大な河原院は、融の子・昇が後を継ぎ、次いで宇多上皇に提供され、寵愛する女官たちに住まわせていた と。以後経過の詳細は不明だが、いつ頃かお寺が建てられ、曽ての庭園跡は“八重葎”が生い茂る荒れた庭に変貌していました。
河原院では、歌人たちが集まり、その荒廃などを主題に漢詩文や和歌を作り、独特な交友圏を形成していた。962年には「庚申河原院歌合」が催されている。上掲の歌は、この河原院の荒廃の情景を詠ったもので、中世的な閑寂が主題とされ、先駆的な作品と評価されている。
恵慶法師、安法法師ともに中古三十六歌仙の一人である。恵慶法師には家集『恵慶法師集』があり、『拾遺和歌集』以下の勅撰集に50余首、また安法法師には家集『安法法師集』があり、『拾遺和歌集』以下の勅撰集に12首が入集している と。
恵慶法師には春に詠った次のような歌もある。〈詞書〉に「山里に人の許(モト)にて桜の散るを見て」とある。春とは言え、やはり憂愁の念を詠っています。
桜散る 春の山辺は 憂かりけり
世をのがれにと 来しかひもなく(恵慶法師集)
[桜の花が散る春の山辺は物憂いものだったよ 世を逃れようと来た
甲斐もなかったなあ](小倉山荘氏)