愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 456  歌と漢詩で綴る 西行物語-9  物思えども

2025-02-24 09:28:25 | 漢詩を読む

 

 義清(ノリキヨ、西行)の恋患いは、なお続きます。今回 読む次の歌では、胸の奥には愛する人を持していながら、恐らくは愛を告白できないで悩んでいる様子である。今様に言うなら、platonic love でしょうか。

 

物思えども 斯らぬ人も あるものを 

  あはれなりける 身のちぎり哉   

 

 対象の思い人は、例えば、身分的に隔たりが大きく、絶対に近づくことの出来ない立場の人であるとすれば、その判断能力に問題があるように思われます。 さもなくば、非常に繊細で、気の弱い、純朴な青年に思われる。馬を駆って遠乗りする活動的な青年像からは、想像しにくいことではある。

  一見、平凡なようであるが、“思い”、「心」を直截に、飾ることなく表現する、西行ならではの歌と言えようか。

 

和歌と漢詩    

oooooooooo     

<和歌>

物思えども 斯(カカ)らぬ人も あるものを 

  あはれなりける 身のちぎり哉   [山671]  

 [註]〇物思い:思い悩むこと、恋の思い; 〇斯る:このような、懸かる、身に降りかかる;〇身のちぎり:わが身の宿命。

 (大意) 恋に陥っても、これほどの苦しい思いをしない人もあるのに、あわれな我が身であるよ、宿命であろうよ。 

<漢詩> 

 隐蔵恋愛         隐蔵(シノ)ぶ恋愛              [上平声四支韻]  

誰都迷恋愛, 誰都(ダレシモ)が 愛情に迷(マヨイ)こむが,

未必覚憂思。 未必(カナラズシモ) 憂思(ナヤミ)を覚(オボ)えるとは限らない。 

何我斯淒慘、 何ぞ我 斯(カク)も淒慘(アハレナル)か、

唯応宿命姿。 唯(タ)だ応(マサ)に 宿命の姿(ヨウス)なるべし。

 [註]〇隐蔵:こっそりと隠した; 〇憂思:思い悩む、憂いの気分、; 〇淒慘:痛ましい。

<現代語訳> 

 しのぶ恋

誰しもが 恋愛の闇に迷いこんで、

必ずしも思い悩むとは限らない。

どうして私は 斯くもあはれなのであろう、

只に宿命というべきことであろうか。

<簡体字およびピンイン> 

 隐藏恋爱        Yǐncáng liàn'ài   

谁都迷恋爱,Shuí dōu mí liàn'ài,   

未必觉忧思。 wèi bì jué yōu .       

何我斯凄惨、Hé wǒ sī qīcǎn,   

唯应宿命姿。 wéi yīng sùmìng . 

oooooooooo 

 出家前あるいは出家前後の若い佐藤義清(西行)の歌を鑑賞していますが、彼が作歌を志した動機、または作歌の“師”は如何であったか、興味ある点である。先人の研究、主に窪田章一郎著『西行の研究』(東京堂刊、s.36) を参考にしながら 探っていきます。

  義清は、すでに点描したように、15、6歳のころ、徳大寺家・実能(サネヨシ)に仕え、間もなく(19歳)兵衛尉に任官、鳥羽院の下北面の武士として院の御所を警護するようになる。実能の妹・璋子(待賢門院 タイケンモンイン)は鳥羽院の后として、義清より1歳年下の崇徳天皇を設けていた。

 一方、実能の息子・公能(キミヨシ)の奥方の弟に藤原俊成(シュンゼイ)がおり、義清の4歳年上である。このように宮廷や歌壇の人々とは、徳大寺家に身を置くことを通じて、何らかの接触があったことは想像に難くない。

 当時、豪族の家の世継ぎたちは、兵法や射御のほかに、様々な教育を受け、和歌も嗜んでいたようである。徳大寺家の内にあっても、義清に影響を及ぼす作歌の雰囲気はあったようで、例えば、実能の孫・実定(サネサダ)の歌が、“後徳大寺左大臣”の名で、千載集、次いで百人一首(81番)に撰されている。

 西行の作歌に多大の影響を及ぼし、西行も尊敬して止まない人として、『金葉集』の撰者・源俊頼(トシヨリ)が挙げられている。詳細は次回以降に見て行きます。

 

≪呉竹の節々-4≫ ―世情― 

 この項の記載は、必ずしも取り上げる歌と時期的に対応・同期するものではありません。しかし西行の全生涯は、変転極まりない世の激動期、遂には鎌倉幕府誕生までの時期に重なります。本項では、各回に取り上げる歌とは直接に関係なく、歴史の流れとして時系列的に“世情”を見つゝ、西行の対応を追っていきます。

 閑話休題。足早に世の動きを追ってみます。鳥羽上皇の謀り事に逢い、崇徳天皇は、4歳の体仁(ナリヒト)親王に譲位(近衛天皇の誕生、1141)するが、自らは“院”となる資格を失い、更に息子・重仁(シゲヒト)親王の皇位継承の機会をも失う結果となりました。崇徳上皇の失意のほどが思い量られます。しかし未だ望みを捨てたわけではありません。

 近衛天皇即位の前年(1140)、義清(23歳)は、冬に出家し、鞍馬の奥に暮らします。翌々(1142)年、待賢門院が落飾、出家する。徳大寺家との関係から、西行の悲しみも一入深いものがあったことでしょう。と同時に、徳大寺家にあっては、皇室との外戚関係を失い、力を削ぐ結果となったのではないでしょうか。

先(閑話休題449)に、藤原頼長の日記『台記』について触れましたが、西行が、頼長を訪ね一品経書写を依頼していました。それは待賢門院の結縁のためのもので、西行が勧進したものと考えられている。待賢門院は、数年後(1145)、亡くなります。享年45。

 1155年、近衛天皇が早世します、17歳でした。これこそ崇徳院が待ち望んでいたことでした。そこで我が子・重仁親王が即位できれば、天皇の父として院政を行うことができる と思いを巡らせます。

 

井中蛙の雑録

〇今回話題関連の二人、後徳大寺左大臣及び待賢門院の女房・堀河の歌を紹介します。

・後徳大寺左大臣の歌:百人一首81番、千載集 

  ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる 

・待賢門院堀河の歌:百人一首80番、千載集 

  ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは ものをこそ思へ 

注)堀河局は、特に歌才に恵まれ、女房三十六歌仙、中古六歌仙の一人に選ばれている。

―:上記の歌は、それぞれ、閑話休題221および201;並びに『こころの詩 漢詩で詠む 百人一首』 文芸社  2022 参照。

 

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閑話休題 455  歌と漢詩で綴る 西行物語-8  あはれあはれ

2025-02-17 10:31:51 | 漢詩を読む

 西行の出家前あるいは出家前後の作とされる歌について、出家の動機を探るべく、個々の歌を取り上げ、その漢詩化を進めつつ、内容の検討を進めています。出家の動機の一つとして、”失恋”が考えられており、前回に続き、”恋”に関わる歌を取り上げます。

 前回、自分を産み育てた親さえも恨めしく思う と、恋の苦しみを吐露する歌を読みました。今回の歌は:

 

あはれあはれ この世はよしや さもあらばあれ 

  来む世もかくや 苦しかるべき 

 

 斯くも苦しい状況にあるが、今生は致し方のないことだ。だが、来世もそうであろうか、否、好転してほしいものだ と希望を訴えているように思われます。

 

和歌と漢詩    

oooooooooooo     

<和歌>

あはれあはれ この世はよしや さもあらばあれ 

  来む世もかくや 苦しかるべき    [山710]

 [註]〇2,3句:現世はたとえどんなに恋に苦しもうと、ままよ、それはそれで仕方がない。

 (大意) ああ、ああ、この世は斯くも苦しいのであるが、それはそれでも仕方ない。そうだとしても、来世もこのように苦しまなければならないのであろうか。

<漢詩>

 現世嘆息   現世の嘆息    [下平声八庚韻] 

唉唉使余厄, 唉(アア)唉(アア) 余(ワレ)を使(シ)て厄(クルシ)める,

沈沈吾恋情。 沈沈(チンチン)たる吾が恋情。

現世真無奈, 現世では真(マコト)に無奈(シカタナシ),

只恐來世縈。 只(タ)だ恐る 來世に縈(マトイ)つくを。

 [註]〇唉唉:(溜息をつく声)ああ;〇厄:悩む、苦しむ; 〇沈沈:沈んでいるさま; 〇無奈:しようがない、しかたない; 〇縈:まといつく、絡みつく。

<現代語訳>

 現世の嘆き

ああ ああ、わたしを苦しませる、

遂げられず、胸奥に沈んだ我が恋情。

現世では仕方ないとしても、

来世でも同じ苦しみが纏わりついてくるのであろうか。

<簡体字およびピンイン> 

 现世叹息         Xiànshì tànxí

唉唉使余厄,Ài ài shǐ yú è,    

沉沉吾恋情.  chénchén wú liànqíng.  

现世真无奈,Xiànshì zhēn wúnài, 

只恐来世萦。zhǐ kǒng láishì yíng

ooooooooooooo     

 “あはれあはれ”と、深く詠歎するフレーズから始まるこの歌は、架空の、創作的な内容というより、現実的状況を想像させる。非常に繊細な心の持ち主、青年・義清(ノリキヨ)の本音であるように思わせる。

 “恋”の話題になると、万葉から平安時代まで一貫して歌の底流にあったと思われる “もののあはれ” の“情、こころ” が思い起こされます。

 今回の歌を含めて、西行の歌でもその潜んでいる“こころ”が表現されていると思われ、“漢詩”化に当たって、最も難儀な点となる。旨く“漢詩”として表現できたか、心細い事ではある。

 

≪呉竹の節々-3≫ ―世情― 

 鳥羽上皇の勧めに従って、崇徳天皇は、4歳の体仁(ナリヒト)親王に、養子にした上で譲位し、近衛天皇としました。ただ、近衛天皇即位の宣命には、体仁親王について、「皇太子」ではなく、「皇太弟」と書かれてあったのでした。すなわち、崇徳天皇は、公式には「子」ではなく、「弟」に譲位したことになり、“院”となる要件を欠いていたことになります。

  公式には、近衛天皇の父は鳥羽上皇であり、鳥羽上皇が引き続き院政を行い、治天の君として実権を保持できることを示しています。鳥羽上皇は、崇徳天皇およびその後裔を追い出すことに成功したわけである。崇徳院は、怒りを胸に仕舞い、グッと抑え、機会はまだあろう、とその時期を待つべく、耐えています。 

 義清にとって、警護対象の鳥羽上皇、一方、年齢も近く、むしろ親愛の情を抱いているであろう崇徳天皇/上皇。上記の如き宮廷内の状況は、義清にとって快い状況ではなかったであろう と推測されます。(続く) 

 

井中蛙の雑録

〇先の≪閑話休題451  …「西行物語」-4   伏見過ぎぬ≫の稿において、義清の“馬の遠乗り”の出発点を“御所”と想定して書き進めました。しかし、出発点が“御所”では、牛車や人々の往来で混んでいるであろう大都市の“街路”を馬に鞭打ち駆けることになる。どうもシックリ行かない。

  以下の如く訂正致します。

―: スタート地点は、伏見近傍、桂川・鴨川の合流点辺り、現「鳥羽離宮跡」、旧白河・鳥羽離宮地内の“馬場”であろう。

 そこを出発、東南方へ走り [伏見] を過ぎ、向きをやゝ南にとり、宇治川に沿って [岡の屋] (現地図上、黄檗の辺り) に、そこで向きを北北東に変え、山麓を走り [日野] (現地図上、醍醐の辺り) に至る。片道の走行距離は、現在の道路事情でも12 km前後と推定される。やはり“遠乗り”である。

〇 “岡の屋”や“日野”の名称は、現行、市販地図帳では見当たりません。これらの地点の確定は、南京都の土地勘のある古い友人がやってくれました。地図上あるいはカーナビなどを使い、走行距離をも算出されました。

 現行地図上、颯爽と風を切って馬を駆る義清の姿が想像・追跡できて、歌の世界が活き活きと蘇ってきます。感謝!! ここにお礼を申し上げます。

〇 ヤーツ!ヤーツ! と馬に鞭打つ一青年・義清。出家前、若い頃の義清の颯爽たる姿である。

23歳で出家後は、恐らくは、菅笠を被り、手甲・脚絆に、ワラジ穿き、錫杖を杖つき、カラン カランと鳴らしながら、北は陸奥、西に四国、東は伊勢…と、歩み続けるお坊さん・西行法師です。向後の歩みは、逐一、本文の部で紹介していきます。乞う、御期待!

 

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閑話休題 454  歌と漢詩で綴る 西行物語-7  かかる身に

2025-02-10 09:24:32 | 漢詩を読む

 青年・義清(ノリキヨ、西行)は、もちろん恋もしたであろう。今回読む歌は、恐らくは思いが遂げられず、非常に悩んでいる状況の歌である。この自分を産み、育てた親をさえ怨みに思うほど、強烈な恋いに悩んでいる様子である:

 

かかる身に 生(オホ)したてけむ たらちねの 

  親さえ辛き 恋もするかな 

 

 普通、親に対しては、「ここまでよく育ててくれた」と、感謝の気持ちを抱くであろうと思うのであるが、むしろ恨みを思うほどに、恋の苦しみに襲われている と訴えている。想いが断たれ、衝撃を覚えた瞬時の失恋の胸の内を詠った歌とは思えない。

   相手に中々想いが伝わらず、縁がないとか、あるいは身分制度の明らかな当時、身分不相応で、手の届きようのない相手に恋情を抱き、心の整理が出来ずに悩んでいる、斯かる状況を想像させる歌のようである。

 

和歌と漢詩 

oooooooooooo     

<和歌>

かかる身に 生したてけむ たらちねの 

  親さえ辛き 恋もするかな  [山家集677] 、[御裳濯歌合26番右]

    [註] 〇生したてけむ:“生したつ”は育て上げる; 〇たらちねの:“母”“親”にかかる枕詞; 〇親さえ辛き:親さえ恨めしく思われる。

 (大意) このような身に育てゝくれた親さえ恨めしく思われるほどに恋の悩みに苛まれています。

 <漢詩>

 悩単思病  単思病(カタオモイ)に悩(ナヤ)む  [上平声十灰韻]

連親扶養我,我を扶養(ソダテ)し親 連(サエ)も,

也看可恨哉。可恨(ウラミ)に看(オモ)う哉(カナ)。

元是入情網,元(モト)は是れ 情網(ジョウモウ)に入り,

緣分尚未媒。緣分(エニシ) 尚(ナ)を未(イマダ) 媒せざるによる。

 [註]〇単思:片思い; 〇元是:もともと…による; 〇入情網:恋の闇路に入る; 〇緣分:縁; 〇媒:仲介する。 

<現代語訳>

 片思いに苦しむ

斯うなるまで私を育てゝくれた親でさえ、

恨めしく思はれることだ。

もとより、私は恋に落ちるも、

縁が未だ媒(ナカダチ)してくれないからである。

<簡体字およびピンイン>

 恼单思病         Hài dān sī bìng 

连亲扶养我,Lián qīn fúyǎng wǒ, 

也看可恨哉。 yě kàn kěhèn zāi.   

元是入情网, Yuán shì rù qíngwǎng,    

缘分尚未媒。 yuánfèn shàng wèi méi. 

ooooooooooooo     

 当時、義清の身の周りの状況を整理しておきます。

 義清は、徳大寺実能(サネヨシ)の随身(15,6歳)となり、後に鳥羽上皇の下北面の武士(19歳)となる。鳥羽上皇の后は、徳大寺実能の妹・待賢門院璋子(タイケンモンインショウシ)で、その第一皇子は崇徳(ストク、1119生)天皇、義清(1118生)より1歳年下である。

 すなわち、義清は、徳大寺家を介して、宮廷中枢との繋がりができ、良い関係にあったことが想像されます。 

 さて、義清が、親を怨むほどに、辛く思い果たせぬ恋の相手とはいかなる御方であろうか。後の世では、その一人として待賢門院璋子を擬する“説“が根強く、それを題材にした“物語”が多数語られています。恋を主題にした義清自身の歌、今回の歌も含めて、恋の相手として‘待賢門院璋子’を念頭において読んでも、さほど違和感を覚えないことは確かである。

 向後、なお他の恋の歌をも読み、考察を進めていきます。なお、義清の生きた世情については、次項≪呉竹の節々-x≫として整理していきます。

 

≪呉竹の節々-2≫ ―世情― 

 鳥羽上皇は、亡祖父・白河法皇と待賢門院璋子との間の子とされる崇徳天皇を嫌い、崇徳天皇を退位させ、さらにその皇子・重仁(シゲヒト)親王にも皇統を渡すまい と策を巡らします。

  鳥羽上皇には、今一人の后(キサキ)、藤原得子(トクコ、美福門院ビフクモンイン)がいて、その子に幼い体仁(ナリヒト)親王がいた。鳥羽上皇は、崇徳天皇に、「体仁親王を養子に迎え、後に天皇にたてる。さすれば自らは上皇として院政を行うことができるではないか」と持ち掛けます。

  院政とは、幼い天皇をその父や祖父が補佐すると言う名目で、政治の実権をにぎる支配の一仕組みである。白河上皇が始めたシステムとされる。即ち、摂政・関白として、摂関家に奪われていた実権を天皇家に取り戻す手立てでもある。

  崇徳天皇は、「なるほど 」と納得して、4歳の体仁親王を養子にして、その上で譲位しました。近衛天皇の誕生である。崇徳天皇は、自ら院として政治が続けられる と期待して、「……有難い……、わが父君は、……」と、喜ばれていたのである。しかしそこには“罠”が仕掛けられていたのでした。

(続く) 

 

井中蛙の雑録

〇先の≪閑話休題451  …「西行物語」-4   伏見過ぎぬ≫の稿において、義清の“馬の遠乗り”の出発点を“御所”と想定して書き進めました。しかし、出発点を“御所”では、牛車の往来で混んでいるであろう大都市の“街路”を馬に鞭打ち駆けることになる。どうもシックリ行かない。

  再検討を要する課題の一点である。

 

 

 

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閑話休題 453  歌と漢詩で綴る 西行物語-6  悪し善し

2025-02-03 10:38:08 | 漢詩を読む

 『山家集』中、前回の歌・“呉竹の節… ”に続いて載っている次の歌を読みます。義清(ノリキヨ、西行)の心情が率直に詠われているように思われる。すなわち、世の物事の善悪が解るだけに苦しい。気にせず、有るがままに生きれば、それなりに生きていけるものを と。

  

 悪し善しを 思いわくこそ くるしけれ  

  ただあらるれば あられける身を 

 

  青年義清は、潔癖症あるいは神経質な性質に思える。自ら気づき、自らを持て余しているようです。なお、此の頃の義清をして善し悪しを判断の対象とされ、自らを苦しませている課題は何でしょう? 

 

和歌と漢詩 

oooooooooooo     

悪し善しを 思いわくこそ くるしけれ

  ただあらるれば あられける身を  [山・1421] 

 [註] 〇思いわく:識別する、区別する; 〇ただ:普通に;   〇あらる:居ることができる、 生きていられる。 

(大意) 善悪を分別する能力があるのは、苦しいことだ。そのようなことに無関心で、普通に生きて行けば、それなりに生きていける身であるのに。

<漢詩>

 恨潔癖脾氣     潔癖な脾氣(タチ)を恨む  [上平声十一真韻]

能分辨世情善惡,  世情の善惡を分辨し能(アタ)うは,

卻使人陷痛苦頻。 卻(カエッ)て人を使(シ)て痛苦に陷らせること頻(シキリ)なる。

憶殺対斯無介意, 憶殺(シキリニオモ)う、斯(ソレ)に対して介意(キニカケル)こと無ければ, 

恰如其分可保身。  恰如其分(ソレナリニ) 身を保つことが可(デ)きようものを。

 [註]〇分辨:識別する; 〇憶殺:しきりに思う; 〇恰如其分:(成) 適切である、分相応である。

<現代語訳>

 潔癖な性質を恨む

世の事柄の善悪がよく解ると

却って苦しみを覚える機会が多くなるよ。

頻りに思うのだが、善悪に関して無関心であれば、

それなりに身を保つことが出来ようものを。

<簡体字およびピンイン>

 恨洁癖脾气    Hèn jiépǐ píqì   

能分辨世情善恶,   Néng fēnbiàn shì qíng shàn è, 

却使人陷痛苦频。   què shǐ rén xiàn tòngkǔ pín.  

忆杀对斯无介意,  Yìshā duì sī wú jièyì,  

恰如其分可保身。  qiàrúqífèn kě bǎo shēn. 

ooooooooooooo     

  義清が出家するに至る動機または理由は何であったのか。義清の歌を鑑賞するに当たって、まず取り組まなければならないのは、出家の動機・理由を探ることであり、延いては、西行の人間性を知ることに繫がると思われる。

  出家の動機・理由として、次の諸点が挙げられ、論じられている:

・厭世説 ―現世からの逃避

     ―友人の死

・失恋説

・純な求道

 さらに、歌の真意を理解するには、作者の生きた時代、作者の置かれた環境等々の理解が必須と思われる。それらの諸点を念頭に置きつゝ、個々の歌の理解とその漢詩化を進めるとともに、並行して、義清が生きた時代の種々相を≪呉竹の節々-x≫と題して、概観していきます。

 

≪呉竹の節々-1≫ ―世相―

 白河上皇が院政を敷いている中、鳥羽天皇(17歳)と藤原璋子(ショウシ/タマコ、19歳、後の待賢門院璋子タイケンモンショウシ)との間に第一皇子・顕仁(アキヒト、後の崇徳天皇)が誕生します(1119)。しかし鳥羽天皇はその誕生を喜ぶことなく、顕仁親王を「叔父子シュクフシ」だと言って、敬遠していた。

  実は、白河院と璋子との関係は、璋子が鳥羽天皇に嫁ぐ前に始まり、その後も続いていて、顕仁親王は、白河院の御子なのであった。即ち、鳥羽天皇の祖父の子である ということで、「叔父子」と称されたのであった。この関係は、当時、当事者はもとより、公然の秘密であったとのことである。

  鳥羽天皇と璋子との間には、男子五人、女子二人が誕生していたが、白河院は、顕仁親王を特に溺愛していた。1123年、顕仁親王が五歳になると、白河院は、21歳の鳥羽天皇を強引に退位させ、顕仁親王を崇徳天皇として即位させます。翌1124年、璋子は院号を宣下され、待賢門院と称されます。 

  1129年、白河院が崩御、享年77。堀河、鳥羽、崇徳3代に亘り治天の君として院政を行ってきており、大往生と言えよう。しかしその間、崇徳天皇初め、白河院よりであった人々に対する鳥羽院の怨念は尋常なものではなかった。

 鳥羽院の崇徳天皇に対する敵愾心は増々強まっていきます。後に大動乱「保元の乱」の起こる“芽生え”の期と言えよう。義清が徳大寺実能の元に出仕するのは、その頃でしょう。(続く) 

 [註]  72代 白河(シラカワ)天皇(1053~1129) 在位1072~1086 

    73代 堀河(ホリカワ)天皇(1079~1107) 在位 1086~1107

    74代 鳥羽(トバ)天皇(1103~1156) 在位 1107~1123

    75代 崇徳(ストク)天皇(1119~1164) 在位 1123~1141 

 

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