義清(ノリキヨ、西行)の恋患いは、なお続きます。今回 読む次の歌では、胸の奥には愛する人を持していながら、恐らくは愛を告白できないで悩んでいる様子である。今様に言うなら、platonic love でしょうか。
物思えども 斯らぬ人も あるものを
あはれなりける 身のちぎり哉
対象の思い人は、例えば、身分的に隔たりが大きく、絶対に近づくことの出来ない立場の人であるとすれば、その判断能力に問題があるように思われます。 さもなくば、非常に繊細で、気の弱い、純朴な青年に思われる。馬を駆って遠乗りする活動的な青年像からは、想像しにくいことではある。
一見、平凡なようであるが、“思い”、「心」を直截に、飾ることなく表現する、西行ならではの歌と言えようか。
和歌と漢詩
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<和歌>
物思えども 斯(カカ)らぬ人も あるものを
あはれなりける 身のちぎり哉 [山671]
[註]〇物思い:思い悩むこと、恋の思い; 〇斯る:このような、懸かる、身に降りかかる;〇身のちぎり:わが身の宿命。
(大意) 恋に陥っても、これほどの苦しい思いをしない人もあるのに、あわれな我が身であるよ、宿命であろうよ。
<漢詩>
隐蔵恋愛 隐蔵(シノ)ぶ恋愛 [上平声四支韻]
誰都迷恋愛, 誰都(ダレシモ)が 愛情に迷(マヨイ)こむが,
未必覚憂思。 未必(カナラズシモ) 憂思(ナヤミ)を覚(オボ)えるとは限らない。
何我斯淒慘、 何ぞ我 斯(カク)も淒慘(アハレナル)か、
唯応宿命姿。 唯(タ)だ応(マサ)に 宿命の姿(ヨウス)なるべし。
[註]〇隐蔵:こっそりと隠した; 〇憂思:思い悩む、憂いの気分、; 〇淒慘:痛ましい。
<現代語訳>
しのぶ恋
誰しもが 恋愛の闇に迷いこんで、
必ずしも思い悩むとは限らない。
どうして私は 斯くもあはれなのであろう、
只に宿命というべきことであろうか。
<簡体字およびピンイン>
隐藏恋爱 Yǐncáng liàn'ài
谁都迷恋爱,Shuí dōu mí liàn'ài,
未必觉忧思。 wèi bì jué yōu sī.
何我斯凄惨、Hé wǒ sī qīcǎn,
唯应宿命姿。 wéi yīng sùmìng zī.
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出家前あるいは出家前後の若い佐藤義清(西行)の歌を鑑賞していますが、彼が作歌を志した動機、または作歌の“師”は如何であったか、興味ある点である。先人の研究、主に窪田章一郎著『西行の研究』(東京堂刊、s.36) を参考にしながら 探っていきます。
義清は、すでに点描したように、15、6歳のころ、徳大寺家・実能(サネヨシ)に仕え、間もなく(19歳)兵衛尉に任官、鳥羽院の下北面の武士として院の御所を警護するようになる。実能の妹・璋子(待賢門院 タイケンモンイン)は鳥羽院の后として、義清より1歳年下の崇徳天皇を設けていた。
一方、実能の息子・公能(キミヨシ)の奥方の弟に藤原俊成(シュンゼイ)がおり、義清の4歳年上である。このように宮廷や歌壇の人々とは、徳大寺家に身を置くことを通じて、何らかの接触があったことは想像に難くない。
当時、豪族の家の世継ぎたちは、兵法や射御のほかに、様々な教育を受け、和歌も嗜んでいたようである。徳大寺家の内にあっても、義清に影響を及ぼす作歌の雰囲気はあったようで、例えば、実能の孫・実定(サネサダ)の歌が、“後徳大寺左大臣”の名で、千載集、次いで百人一首(81番)に撰されている。
西行の作歌に多大の影響を及ぼし、西行も尊敬して止まない人として、『金葉集』の撰者・源俊頼(トシヨリ)が挙げられている。詳細は次回以降に見て行きます。
≪呉竹の節々-4≫ ―世情―
この項の記載は、必ずしも取り上げる歌と時期的に対応・同期するものではありません。しかし西行の全生涯は、変転極まりない世の激動期、遂には鎌倉幕府誕生までの時期に重なります。本項では、各回に取り上げる歌とは直接に関係なく、歴史の流れとして時系列的に“世情”を見つゝ、西行の対応を追っていきます。
閑話休題。足早に世の動きを追ってみます。鳥羽上皇の謀り事に逢い、崇徳天皇は、4歳の体仁(ナリヒト)親王に譲位(近衛天皇の誕生、1141)するが、自らは“院”となる資格を失い、更に息子・重仁(シゲヒト)親王の皇位継承の機会をも失う結果となりました。崇徳上皇の失意のほどが思い量られます。しかし未だ望みを捨てたわけではありません。
近衛天皇即位の前年(1140)、義清(23歳)は、冬に出家し、鞍馬の奥に暮らします。翌々(1142)年、待賢門院が落飾、出家する。徳大寺家との関係から、西行の悲しみも一入深いものがあったことでしょう。と同時に、徳大寺家にあっては、皇室との外戚関係を失い、力を削ぐ結果となったのではないでしょうか。
先(閑話休題449)に、藤原頼長の日記『台記』について触れましたが、西行が、頼長を訪ね一品経書写を依頼していました。それは待賢門院の結縁のためのもので、西行が勧進したものと考えられている。待賢門院は、数年後(1145)、亡くなります。享年45。
1155年、近衛天皇が早世します、17歳でした。これこそ崇徳院が待ち望んでいたことでした。そこで我が子・重仁親王が即位できれば、天皇の父として院政を行うことができる と思いを巡らせます。
【井中蛙の雑録】
〇今回話題関連の二人、後徳大寺左大臣及び待賢門院の女房・堀河の歌を紹介します。
・後徳大寺左大臣の歌:百人一首81番、千載集
ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる
・待賢門院堀河の歌:百人一首80番、千載集
ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは ものをこそ思へ
注)堀河局は、特に歌才に恵まれ、女房三十六歌仙、中古六歌仙の一人に選ばれている。
―:上記の歌は、それぞれ、閑話休題221および201;並びに『こころの詩 漢詩で詠む 百人一首』 文芸社 2022 参照。