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愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題98 酒に対す-20;虞姫:虞姫の歌

2019-01-26 11:12:28 | 漢詩を読む
この一句:
 四方楚歌の声

“四面楚歌”としてよく知られる四字成語の故事、項羽と劉邦の“垓下の戦”の状況を詠った虞姫の詩の中の一句です(下記参照)。“99連勝の後、最後の一敗を喫した”と表現される、強い項羽が力尽きた場面と言えるでしょう。

先に紹介した項羽の「垓下の歌」(閑話休題95) への返歌として、虞姫が詠ったとされています。中国の正史『史記』には記載はないが、『楚漢春秋』という漢代の史書に載せられてある と。

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虞姫の歌    虞姫
漢兵已略地, 漢兵(カンペイ) 已(スデ)に地を略(リャク)し、
四方楚歌声。 四方 楚歌(ソカ)の声。
大王意氣尽、 大王(ダイオウ) 意気(イキ)尽(ツ)く、
賤妾何聊生。 賤妾(センショウ) 何ぞ生を聊(ヤス)んぜん。
 註]
略:攻略する、攻め落とす
賤妾:女性の謙遜の一人称 わたし
聊:心安らかにたのしむ

<現代語訳>
 虞姫の歌
劉邦が率いる漢の兵は已に故郷の地 楚を攻略したのであろうか、
四方から楚歌の歌声が聞こえてくる。
大王の項羽が闘志を失ってしまったいま、
私がなんで心安らかに生をたのしむことができようか。
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「鴻門の会(BC206)」以後、項羽・劉邦の本格的な戦いが繰り広げられます。「垓下の戦(BC202)」までの両者の戦いを追っていきます。この間、両者の雌雄を決するのに重要な役割を果たした準主役級の人物たちの簡単な紹介から始めます。

まず、韓信(カンシン)、“股くぐり”で有名な人物です。若い頃は怠け者で、他家に居候しつゝ放浪生活を送っていた。そんなある日、淮陰(ワイイン、江蘇省)の業者の若者の一人からからまれた:

「図体はでかいが、臆病者じゃろ。肝っ玉があるなら、ぶら下げたその剣を抜いて俺を刺してみな。……黙ってちゃ、わからねえ!肝っ玉がねえなら、俺の股をくぐってみな」と、さらにからんできた。

韓信は、相手の顔を睨みつけたのち、やがて腹ばいになり、若者の股をくぐった と。街中の芳しくない評判となった。が、詰まらぬ小事にはこだわらず、胸の奥に大志を秘めた人物であろうことを示す逸話として語られている。

彭越(ホウエツ)と黥布(ゲイフ)。ともに乱世に乗じて頭角を現した。彭越は、漁夫から盗賊に、ついには故郷の青年を集めて頭となる。黥布(本名 英布)は、不法で入れ墨(黥)の刑を受け、刑途中に逃亡し群盗となる。一時項梁の軍に加わる。

「鴻門の会」の後、項羽は、咸陽を陥れ、諸宮殿の財宝を略奪して、街に火を放った。3か月燃え続けた と。さらに秦王であった子嬰(シエイ)を謀殺する。劉邦とは真逆な対処をしています。

“関中”の帰属は、本来一番乗りした劉邦に帰すべきところである。項羽はそれを避けたい。通常“関中”とは、咸陽を中心とした狭い地域を言う。范増は、劉邦を僻地に追い遣るべく一策として“関中”の定義を変えたのである。

すなわち“関中”とは、巴、蜀をも含めた広い地域とした。そこで4等分して、巴、蜀と漢中を含む西南域を劉邦に与え“漢王”に、咸陽以西の“雍王(ヨウオウ)”には章邯、咸陽以東の“塞王”には司馬欣、上郡の“翟王(テキオウ)”には董翳(トウエイ)とした。

項羽は、戦後処理を終えると、自ら“西楚覇王”と称して咸陽を去ります。項羽の胸には、祖国楚を滅ぼし、祖父項燕を倒した“憎き秦”への怨念をやっと晴らせたとの思いが強く、新世界の設計図は描かれていなかったようです。

項羽は、東に向かい斉(田栄)の攻略に取り掛かります。一方、劉邦は、巴・蜀の新所領に着くや、取って返して、瞬く間に“廣い”関中全体を攻略します(BC205)。そんな折、項羽の謀略により懐王が殺害されたことを知る。

劉邦は、「時は至れり!正面切って項羽と対決する時だ!」と意を決します。諸侯に使者を送り、“喪に服するよう”、また“大逆無道の項羽を誅すべし”と激を飛ばし、彭城(ホウジョウ、徐州)に向かうよう促します。楚漢の第一戦、“彭城の戦”(BC205)である。

彭城は、項羽の本拠で、項羽は斉の攻略に向かっていて留守である。56万の大軍の劉邦軍により彭城は一溜りもなく陥落する。しかし「鼠賊の空き巣狙いめが!」と怒り心頭の項羽は3万の精鋭を伴い直ちに取って返し、劉邦軍を蹴散らしたのである。やはり強い。

劉邦の本陣は、項羽軍により三重に包囲され、あわや と観念した時、突然暴風が吹きだした と。強風下、項羽軍は四散した。そのどさくさにまぎれ、劉邦は、側近数十騎とともに囲みから逃げることに成功した。

追われる劉邦は、故郷・沛を経て西へと逃れて滎陽(ケイヨウ)、南下して宛(現南陽の辺り)、北上して成皋(セイコウ、滎陽の西北)、黄河を渡って北の趙へと、戦を避けて逃げ回る。各地に頼える同調者がいたのである。

一方、項羽は、東の田栄(斉)、陳余(趙)、彭越(梁)など各地で起こる叛乱への対処、また西の転々とする劉邦への対応と、まさに東奔西走していた。兵の疲れは極度に達していたようであり、また軍糧にも不安を覚えていた。

両者の戦はなかなか決着がつかない。しかし兵力で劣るとは言え、兵の休養具合や軍糧など、漢側にやや有利な状況にあった。このような機会にこそ、劉邦にはやるべきことがあった:項羽軍に囚われている両親と妻の救出である。

広武山で対峙していた折、劉邦は使者を送り、和平への交渉が開始された。条約は成った:鴻溝(コウコウ、現河南省賈魯河(カロガ))を境に西は漢、東は楚とし天下を中文する と。勿論、人質の返還は、講和の成立と同時に実行された。

講和の成立に伴い、項羽は武装を解き東に向かった。劉邦は、「今 楚を討たねば、虎を養って食われるようなものだ。韓信と彭越の軍を併せれば、兵力は楚を上回る、追うべきだ」との張良の進言に従って、楚を追撃することに決した。

自立していた斉王の韓信と梁の彭越へ「固陵で合流する」よう急使を送り、進発したが両人は現れなかった。当時、諸豪は“楚・漢のいずれが天下をとるか”、趨勢を探っていて、安易に一方に与することを避けていたのである。

劉邦は、またしても敗戦、固陵城に逃げ込む羽目となった(BC202)。改めて「戦勝の暁には」、韓信には「陳より東、海に至るまで」、彭越には「睢陽より北、穀城に至るまで」の土地を報酬として与える と思い切った提示をして、参戦を促した。

韓信は、「いざ出陣ぞ!」と出兵の命令を下し、劉邦側につき、斉(山東省)から南下した。同時に項羽の部下であった周殷が寝返り、六城(淮水の南)を奪う。東寄りの寿春には劉邦の従兄弟 劉賈の軍隊が入り、西には黥布の軍勢が現れた。

地滑り的現象が起こったのである。項羽の軍団は、じわじわと攻めつけられていき、垓下のまちに入った。そこで塁壁を築き、十万の軍兵で籠城することになった。傍観していた諸軍閥も参集し、垓下の包囲軍は三十万に達した。

劉邦は、三十万の包囲軍の指揮を韓信に委ねた。韓信は、会合した諸軍の中から楚の出身者を選び出し、楚の地方民謡を一般の兵に教えさせ、楚歌の合唱団を作って歌わせた。“四面楚歌”である。韓信得意の心理作戦と言える。

中国の民謡は、北方は叙事的で簡潔であるのに対して、南方では叙情的で哀調を帯びている という。包囲された城中の兵にとっては一層心に響くところがあり、その効果は、上記の詩の通りであったでしょう。

項羽ばかりか、全兵士が士気を失くしていた筈です。項羽は、最後の宴会を開き、愛馬の騅(スイ)を引いて来るよう命じて、「垓下の歌」を詠じます。それに対して虞姫は上記の詩を返した とされています。

京劇『覇王別姫』では、虞姫は、歌い終えると、項羽に剣を賜るよう乞う。手にした剣でひと舞した後、その剣で自ら命を絶ちます。
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閑話休題97 酒に対す-19;北宋 / 王安石:元日

2019-01-10 17:05:37 | 漢詩を読む
この一句:
 東風 暖(ダン)を送って 屠蘇(トソ)に入る

新年を迎えて、お屠蘇の話題から始めます。約1,000年前、お隣中国の元日の様子を詠った王安石の詩「元日」(下記 参照)の第二句(承句)です。

屠蘇はなくなったようであるが、爆竹を鳴らして新年を祝う風習は、今の中国に生きているようです。また現在の“春联”は、詩中“新桃”に当たるのでしょうか。

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 元日  北宋 / 王安石
爆竹声中一歳除、爆竹(バクチク) 声中(セイチュウ) 一歳除(ジョ)す、
東風送暖入屠蘇。東風 暖(ダン)を送って 屠蘇(トソ)に入る。
千門万戸曈曈日、千門(センメン) 万戸(バンコ) 曈曈(トウトウ)たる日、
争挿新桃換旧符。争って挿(サ)す 新桃(シントウ) 旧符(キュウフ)に換(カ)えて。
 註]
  曈曈:出たばかりの太陽があかあかと輝いているさま
  新桃:桃の木で作られた新しいお札。桃の木は、厄払いの力を持つと信じられていて、そのお札を門に貼っていた。

<現代語訳> 
 元日
爆竹の音が賑やかに鳴り響く中、新年を迎え、
暖かい春風が吹いてきて、お屠蘇を頂く。
どの家でも、明るく輝く初日(ハツヒ)を迎えて、
桃の木でできた古いお札“桃符(トウフ)”を新しいのに取り替える。
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作者の王安石(1021~1086)は、臨江郡(江西省清江県)の人。北宋の政治家、詩人、文章家。詩人としても有名であり、特に七言絶句では、北宋第一と評されるほどである。文章家としては、唐宋八大家の一人に数えられている。

王安石の家は家族が多く、必ずしも裕福ではなかったようです。22歳で進士に合格しますが、中央官僚より給料が良い ということで地方官を歴任する。1058年(38歳)、政治改革を訴える上奏文を出して注目された。

北宋は、建国(960)以来ほぼ100年経って、類まれな平和な経済大国となっていた。しかし北方異民族に対する莫大な歳幣(サイヘイ)や軍事費、文官政治下での大量の官僚数やその高額の俸給など、歳出が多く、国家財政は破綻の危機に見舞われていた と。

一方、一般民衆の中では貧富の格差が大きかった。富裕層は諸種の特権が与えられている一方で、中小農・商民は富裕層からの搾取に晒されていた。歳入を増やすには、税負担に耐える健全な農民層を増やす必要があるが、その層が薄くなっていっていた と。

時の皇帝神宗は、政治の改革に情熱を持っていて、その施行者を求めていた。そこで、注目を浴びていた一地方官の王安石を抜擢して、翰林学士(1067)、副宰相(1069)、主席宰相(1970)へと任命して、政治改革に当たらせた。

王安石の考えは、財政再建の前提は、中小農民・商人を救済することにある とした。彼が採った政策は、大地主・大商人たちの利益を制限して、中小農民・商人たちを保護することで、結果的に政府も利益を上げるということであった。それを「新法」とよんでいる。

とくに有名な新法に「青苗法」がある。貧農は、端境期に資金が欠乏すると、種もみ等を買うのに、収穫時に返済する約束で地主から借金をします。その金利は、6,7割、ときには10割であった と。農民の貧窮からの脱出は叶わないわけである。

新法では、2割以下の低利で国家が貸付け、返済は、穀物とし、穀価が高くなれば銭でもよい と いうことになった。借金地獄から脱出して、“健全な農民”が一人でも増えれば、国家財政も潤う との考えです。

国家改造の必要性は誰しもが感じていたようではあるが、反対する人々も多かった。特に地主層の反発は強かったようである。また王安石の政策は“性急すぎる”として抵抗する人々もあり、その筆頭は司馬光であった。彼らは「旧法派」と通称されている。

1074年、河北で大旱魃が起こると、“これは新法に対する天の怒りである”との上奏があった と。そこで時の皇太后・宦官・官僚の圧力があり、神宗はやむなく王安石を解任、地方へ左遷することになる。

王安石は、1076年に辞職、翌年引退して隠棲した。1085年、神宗が崩御、翌年、王安石も没する。その後、「新法派」対「旧法派」は醜い党争を繰り返し、大きな政治的混乱が続いていく。国力の低下を招き、北宋が滅亡する大きな要因であったでしょう。

上掲の詩は、副宰相に昇進して「新法」を作り、新しい国造りに取り掛かるときに作った詩である。新年の喜びに重ねて、新しい出発を喜んでいる様子が見てとれ、読む方も明るい気分になります。

何はともあれ、伝統行事は大事に育み、次代に伝えていきたいものです。最近、文化遺産として公的に認められる例もあり、心強い限りです。


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