愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題73 漢詩を読む 酒に対す-7:陶淵明/蘇東坡-1

2018-04-29 14:22:14 | 漢詩を読む
この一句!

日夕歡相持
  日が暮れたら(樽を横に置いて)楽しむことにしよう

陶淵明「飲酒二十首 其の一」の結句です。人生の在りようをいろいろと考えた末に、“今宵も一杯いくとしよう”と安寧の心持ちに浸っているところでしょう。
――――――――――――

宋代の蘇東坡については、これまでにも幾度か紹介してきました。高級官僚として政争の直中にあって、度重なる左遷または死刑の宣告を受けながら、生涯を全うした人です。その蘇東坡が、陶淵明を敬慕して止まず、陶淵明の詩に和す百首以上の詩「和陶詩」を作っているという。

蘇東坡の「和陶詩」の中から「飲酒二十首 其の一」を取り上げます。まず、基である陶淵明「飲酒二十首 其の一」を読み、次回に、蘇東坡の詩を読むことにします。

xxxxxxxx
飲酒二十首 其一 陶淵明 

衰榮無定在, 衰榮(スイエイ)は 定在すること 無く,
彼此更共之。 彼(カ)れと此(コ)れと 更(コモゴ)も之(コレ)を 共にす。
邵生瓜田中, 邵生(ショウ セイ) 瓜田(カデン)の中(ウチ),
寧似東陵時。 寧(イヅク)んぞ 東陵(トウリョウ)の時に似んや。
寒暑有代謝, 寒暑に代謝 有り,
人道毎如茲。 人道も毎(ツネ)に茲(カ)くの如し。
達人解其會, 達人 其の會を解して,
逝將不復疑。 逝(ユクユク)將(マサ)に 復(マ)た疑はざらん。
忽與一樽酒, 忽(タチマ)ち 一樽(イッソン)の酒と 與(トモ)に,
日夕歡相持。 日夕 歡(ヨロコ)びて 相持(アイジ)せん 。

註]
邵生:秦代に始皇帝陵の管理人であった東陵侯、後の邵平のこと。秦滅亡後、庶民となり、長安東郊で瓜を作って細々と暮らしをたてた。その瓜が美味であったので東陵瓜と呼ばれて評判になった と。 
會:理のあるところ、ことわり
日夕:夕方

<現代語訳>
人の栄枯盛衰は固定して存在してあるわけではなく、
両者は互いに交代していくものなのである。
秦代の邵平を見るがよい、畑の中で瓜作りに取り組んでいる姿は、
かつて東陵侯であったときのそれとは似ても似つかない。
自然界に寒さと暑さの交代があるように、
人の道も同じこと。
達人ともなればその道理をわきまえているから、
巡り来た機会に疑念を抱くようなことはあるまい。
思いがけなくありついたこの樽酒を相手に、
夕暮れには楽しく過ごして行くことにしよう。
xxxxxxxx

先に、陶淵明が急に官界=“俗界”を去り、田園での隠逸生活を送るに至ったことを紹介し、また「飲酒二十首」が作られた経緯について概略触れました(閑話休題65;2018. 02. 04投稿)。

陶淵明が故郷に帰り、本格的に田園生活に入った-帰田-のは、「帰去来兮辞」が作られた41歳のときである。「帰去来兮辞」では、家族に迎えられる状況から始まり、田園生活の様子が、60句からなる長編の詩として詠われています。

「飲酒二十首」は、“帰田”に至る以前に作られたもので、官界との関係は断ち難く、思い悩んでいるころの葛藤状態を表していると考えられています。すなわち、貧しい中にもお酒が楽しめる閑居の生活に入るべく、自らに決意を促している情況と考えてよいでしょう。

こう考えるならば、上記の「其の一」の内容も容易に理解できそうです。“かつての東陵侯が、畑に入り瓜を作っている姿を見たまえ!激変した環境で立派にやっているではないか!”と。

官界を離れて“帰田”して農耕生活に入るべきかどうか悩みつつ、東陵侯の転身に重ねて、“東陵侯を見たまえ”と自ら鼓舞しているように思えます。但し、東陵侯の転身は、秦の滅亡という外的激動に起因するものですが。

“帰田”した後にあっても、“官界への未練”は断ち切れず、それは陶淵明が詩文で語る大きなテーマの一つと考えられています。一方、“真の生きる喜び”を求め続けて、田園生活に拘っていく姿、それこそ陶淵明文学を紐解く大きなカギと考えて良さそうです。

官界vs田園の葛藤を覚えつつも、夕方ともなれば、鋤・鍬を肩に担いで家路につき、「帰ったら一杯行くとするか!」と、想いを巡らすとき、真に幸せを感ずるひと時ではないでしょうか。生活の潤滑油としてのお酒の最たる功能と言えるように思われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題72 飛蓬-漢詩を詠む 12 - 寒山寺-2 池田・慈恩寺

2018-04-19 11:05:25 | 漢詩を読む
蘇州の寒山寺で参詣者の注目を集めている築造物に、梵鐘と併せて、前回話題にした張継の詩「風橋夜泊」を刻んだ石碑があります。

大阪府池田市の北部、長尾山という山の南裾野の麓に“慈恩寺”という古刹があり、このお寺には、寒山寺の梵鐘および「風橋夜泊」詩碑の実物大複製物が設置されております。

この2月半ば、ちょうど園内のロウバイの蕾が開きかけた頃(写真1)、“慈恩寺”を訪ね、件の梵鐘および「風橋夜泊」の詩碑を間近に見る機会があった。その折の、特に梵鐘について、感興の湧くまま、下記のような律詩にしてみました。


写真1:慈恩寺境内のロウバイ(2018.02.13撮影)

xxxxxxxx

蝋梅花蕾将開時  蝋梅(ロウバイ)の花蕾(カレイ)将(マサ) に開かんとする時
訪慈恩寺  慈恩寺を訪(タズ)ぬ (下平声 七陽韻)

雲淡遥垂長尾岡、 雲 淡(アワ)く遥かに垂(タ)れる長尾(ナガオ)の岡(オネ)、
煙青籠罩在山郷。 煙 青く籠罩(ロウトウ)として山郷(サンキョウ)に在り。
殿鮮影倒入池里、 殿(デン) は鮮(アザ)やかに影(カゲ)倒(サカシマ)にして池に入り、
楼抱梵鐘山麓場。 楼は 梵鐘(ボンショウ)を抱いて山麓(サンロク)の場(ヒロバ)。
光照黯黑明道路、 光は 黯黑(クラヤミ)を照らして道路を明らかにし、
声覚貪睡促昂揚。 声(オト)は 貪睡(ネムリ)を覚(サ)まして昂揚(コウヨウ)を促す。
知其鐘送従蘇寺、 知(シ)る 其の鐘 蘇(ソ)の寺より送られしを、
好響乾坤更四方。 好(ヨ)し 響け、乾坤(ケンコン) 更に四方へ。

註]  長尾岡:長尾山
籠罩:霞が垂れこめているさま
場:ここでは第2声chángで“広場”の意
黯黑:暗闇
貪睡:眠りをむさぼること
蘇寺:中国江蘇省蘇州市の寒山寺
乾坤:天と地

<現代語訳>
 蝋梅の花の蕾がまさに開こうとする頃、
    慈恩寺を訪ねた
淡く白い雲が長尾山の尾根の上はるかに垂れており、
 靄は青く山懐に垂れこめている。
本殿は鮮やかに園内の池にさかしまになって影を映しており、
 鐘楼は梵鐘を抱いて山麓の広場に建っている。
光は闇を照らして行く道をつまびらかにし、
 鐘の音は眠りを覚まして意気の上がるのを促す。
その鐘、蘇州の寒山寺より送られたものと知る、
 よし、響け、天地四方津々浦々まで。

xxxxxxxxx

池田市北部、阪神高速道空港池田線を木部(キベ)出口亀岡方面へ下りて、五月山を右に見て国道423号を1.2-3 km北上すると、左側奥に長尾山の裾野が見える。五月山と長尾山との谷間は、春霞、時に黄砂で霞むことがある。

東山交差点を左(西)に折れて長尾山の南裾野の麓をしばらく行くと、登り坂となり、峠を越えて兵庫県川西市に抜ける。慈恩寺は、その登り坂の途中、道路脇、やや山側に入った所に建っている(写真2)。


写真2:慈恩寺の本殿

昔、北摂は交通の要所で、朝廷にとって重要な地域であったようである。長尾山は、その嶺伝いに、西から都に通ずる街道として、人の往来が多かったらしい。

725年、聖武天皇(701生、在位724~756)は、この街道の往来安全、人民安泰を祈願して、僧行基(668~749)に勅を下し、長尾山の頂に堂を創建、毘沙門天を奉安した。以後、いつの頃からか「慈薗寺」と呼ばれていたようです。

長尾山の頂は、国道423号をさらに北上すると、新名神高速道の‘箕面とどろみIC’に至るが、このICのやや南西側にある。当時、寺領は、現在の伏尾ゴルフ場を含む広大な山裾を擁していた。山頂には、なお遺跡が残っている由。

空海(弘法大師、774~835))は、長安に留学、長安の“大慈恩寺”を訪れ、慈恩大師に教えを受けた。帰国後、828年、「慈薗寺」を長安の“大慈恩寺”に因んで「慈恩寺」と号して、その中興に当たっている。

時代は下って、1887(明治20)年、人の往来が谷筋に移ったことに対応して、長尾山の頂から長尾山の南裾野の麓に移転し、現在に至っている。

この慈恩寺と蘇州の寒山寺は、近く“姉妹寺”の関係を結ぼうとしている。その縁結びの役割を果たしたのは、“梵鐘”であり、また「楓橋夜泊」の“詩碑”でした。その経緯をちょっと覗いてみます。

1972 (昭和47) 年に、日中間の国交正常化がなされ、その10年後(1982)には池田市-蘇州市間で友好都市締結が結ばれています。

友好締結に先立って、1970年代初めごろ、蘇州市政府幹部から、故藤尾昭(池田市日中友好協会名誉会長)氏に対して、「蘇州市の観光振興について」提案の依頼があった由。

故藤尾昭氏は、“寒山寺こそ目玉になる、除夜の鐘イベントを”と提案するとともに、「寒山寺新年聴鐘声活動」の発起人となって、そのイベント実現に注力され、1979年に実現している。なお、中国では“除夜の鐘”を撞く習慣はなく、通常、鐘は時刻を知らせるために撞くようであるが。

「楓橋夜泊」に詠まれた鐘は、唐代に鋳造された、初代の梵鐘であるが、現存していない。以後、2代目(明代鋳造;16世紀末-17世紀初に消失)、3代目(清末鋳造)、4代目(1986年鋳造)、5代目(2005年鋳造)と、鋳造されている。

これらの現存する4、5代目の梵鐘は大型で、例えば、5代目は高さ8.5 m、最大径5.2 m、重さ10.8 tとのことである。これらは特別誂えの鐘楼に収められているようである。

昔、寒山寺の古い鐘が姿を消したのは日本人(倭寇?)が持ち去ったのだ との噂があったらしい。

明治期、曹洞宗の僧で篆刻家の山田寒山(1856~1918)は、噂を気にして、日本国内で捜索したが、発見することはできなかった。また時の総理大臣伊藤博文も、部下に捜索させたようであるが、やはり見出すことはできなかった。

山田寒山は、印刻の依頼を通して、伊藤博文の知遇を得て、交際を深めたとのことである。後(1905)に、両人が発起人となり、寄付を集めて梵鐘を鋳造して、1914年に寒山寺に寄贈した と。

その梵鐘は、寒山寺の大雄宝殿の右側の鐘楼に収められている由。銅製のこの梵鐘の作りは、唐風(青銅製乳頭鐘)で、大きくはないが、音色は清澄で荘厳さがあり、余韻が素晴らしい とされています。

2007年、池田市-蘇州市友好都市締結25周年を記念して、一個の梵鐘が、寒山寺から慈恩寺に贈呈されています。下の写真に見るように、この梵鐘は、“大清光緒32年”の刻字があることから見て、清末鋳造3代目の梵鐘の複製と思われる。


写真3:長尾山の麓の広場に建つ鐘楼(撮影:2018.04.18)

写真4:鐘の全体像(撮影:2018.04.18)

写真5:鐘の部分(撮影:2018.04.18)

この梵鐘は、寒山寺の梵鐘と同寸大(高さ1.3 m、口径1.24 m、重さ2.0 t)とされています。以後、寒山寺と同じく、世の安寧を祈念して、除夜に天地四方に清音を響かせていることでしょう。

さらに十年後の昨2017年、友好都市締結35周年を記念して、「楓橋夜泊」の詩碑が贈呈されています(写真6)。昨年8月17日、寒山寺の秋爽和尚が来日、慈恩寺を訪れて除幕式が盛大に執り行われたということである。


写真6:張継「楓橋夜泊」の碑(2018.04.18撮影)

秋爽和尚の慈恩寺訪問を機に、友好の機運が一層高まり、「慈恩寺と寒山寺が“姉妹寺”になってもいいね」と相成ったようである。今年6月には慈恩寺の吉川住職が寒山寺を訪れて、調印の運びとなる由。

なお、寒山寺の「楓橋夜泊」の詩碑は、当初、明代の「三絶」と呼ばれた蘇州の文人・文徴明の筆になるものであった。長い年月で損耗が激しくなったため、改めて築造されることになった。現在の碑は、清代末の学者・兪樾の筆になるもので、碑面には“兪樾”の刻字が認められる。

<あとがき>
慈恩寺の由緒については、吉川住職に直にお話を伺うことができました。6月の蘇州訪問準備でお忙しい中、貴重なお時間を割いて頂きました。ここに感謝の意を表します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題71 飛蓬-漢詩を詠む 11 - 寒山寺-1 張継「楓橋夜泊」

2018-04-07 16:02:56 | 漢詩を読む
お酒の話はちょっと置いて、張継の「楓橋夜泊」を読みながら、日本との因縁浅からぬ蘇州・寒山寺の鐘について触れます。

今日、“寒山寺”と言えば、“張継”、あるいは“張継”と言えば、“寒山寺”と、切り離せない関係で語られます。小さな仏教寺院であった寒山寺が、名刹となるには、この名作「楓橋夜泊」の力が大きに関わっていると考えられています。

この詩では、まず夕方の月と烏、江上の漁火に照らし出された岸辺の楓、と川辺の色彩豊かな秋の情景が思い浮かびます。塒(ネグラ)に帰る烏の声が遥かに去って、寝付かれぬ中で、やがてお寺の鐘がボーンと船に届いて、夜半であることを知る。何となく物憂い念に駆られます。

xxxxxxxx
楓橋夜泊  張継
<原文>      <読み下し文>
月落烏啼霜満天、  月(ツキ)落ち 烏(カラス)啼(ナ)いて 霜 天に満(ミ)つ、
江楓漁火対愁眠。  江楓(コウフウ)漁火(ギョカ) 愁眠(シュウミン)に対す。
姑蘇城外寒山寺、  姑蘇(コソ)城外(ジョウガイ)の寒山寺(カンザンジ)、
夜半鐘声到客船。  夜半(ヤハン)の鐘声(ショウセイ) 客船(カクセン)に到(イタ)る。
註]
漁火:夜間、魚を集めるために漁船で焚くかがり火

<現代語訳>
月が沈み、烏が啼いて、霜の降りる気配が天に満ちており、
岸辺には楓、水面には漁火が浮かび、旅の夜の寝付かれぬ目に映る。
そこへ蘇州の町はずれの寒山寺から、
夜半を告げる鐘の音が、我が乗る小船に聞こえてきた。

xxxxxxxx

日本でも古くからよく読まれていた唐時代の詩を集めた詩選集に、南宋時代の『三体詩』(周弼編)と明時代の『唐詩選』(李攀竜編)がある。「楓橋夜泊」はこれら両書に選ばれた数少ない詩の一つの様で、名作たる所以であろう。

以下、この詩の背景を覗いて見たいと思います。

作者の張継について伝記は、残念ながら、非常に少ない。出身は湖北省襄州(現襄陽市)ですが、生没年は定かではありません。ただ753年進士に合格、官職に就き、鎮戎軍幕府の属官や塩鉄判官などの官職を得ています。


進士に合格後間もなく、安史の乱(755~763)に逢っており、伝記資料が少ない理由の一つでしょうか。

安史の乱の折、江南に逃れて、現在の紹興や杭州、蘇州などを歴遊したようです。「楓橋夜泊」は、この歴遊中に作られた作品なのでしょうか?

一方、張継が一介の科挙の受験生であったころ、試験に落ちて、江南地方を歴遊し、寒山寺近くを訪れて船中で一夜を過ごす機会があった。その折、旅愁と失意で眠れぬ中で詠まれた詩であるとも言われています。

戦乱を逃れて、国の乱れを憂える心境で詠った と言うよりは、科挙に落第した失意を胸に、船中に届いた夜半の鐘の音に促されて作った との想像がピッタリ来るように思われます。

766年に官職に復帰して、検校祠部郎中となる。770年洪州(現江西省南昌)に地方官として転出。そこで亡くなった由(779年?)。博識で議論好きな性格で、政治に明るく、公正な政治家であったとの評判があった由。

この詩の結句に関して、宋代に欧陽脩から、‘真夜中に鐘を突くか?’という疑問が提示されて、以後、議論が沸騰した様です。文献上や、他の詩人の詩中などに記載があるようで、当時には‘夜半の鐘’はあったもののようです。

張継の詩集に『張祠部詩集』1巻があり、47首の詩が収められているとのことである。

寒山寺については、特に“鐘”をめぐって、日本と関りが深いようですので、稿を改めて触れることにます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする