愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題45 ドラマの中の漢詩 30『宮廷女官―若曦』-18

2017-07-25 10:03:25 | 漢詩を読む
“トンポーロウ”という中国料理をご存知の方は多いと思います。しかしその料理法や名称の由来について知る方は意外と少ないのではないでしょうか。もっちりとした食感で非常に美味な料理です。直截に言えば、“豚肉の角煮”のことですが。

“トンポーロウ”とは、漢語の“東坡肉:Dōngpōròu”で、蘇東坡(詩人蘇軾の別名)に由来します。前回、北宋代(960~1126)の秦観の詩を詠み、また彼は蘇軾の弟子であることに触れました。ここで彼らが活躍した時代を見ながら、“東坡肉”に関わる蘇軾の詩を詠みます。

中国では唐代が滅んだ(907)後、半世紀ほど五代十国時代と区分される分裂時代が続きます。趙匡胤・匡義兄弟により宋として統一がなり(960)、ほぼ一世紀過ぎたころが、蘇軾たちの活躍した時代です。

蘇軾は、22歳時(1052)に弟蘇轍とともに進士に合格、まず地方官としての勤めを果たした後中央に入ります。

その頃、宋では、大地主や大商人などの不正が横行していて、国政改革の必要に迫られていた。6代神宗(在位:1067~1085)は、王安石(1021~1086)を登用し改革に当たらせ、“王安石の新法”と呼ばれる諸施策が講じられた(1069)。

“王安石の新法”の眼目は、農民などを保護し、大地主や大商人を抑制することであった。したがって、富裕階層(士大夫)とその出身である官僚(旧法派)の激しい妨害にあいます。以後、“新法派”対“旧法派”の政争が繰り広げられることになります。

旧法派に属する蘇軾は、新法に反対し、国政誹謗の罪を着せられで逮捕され、厳しい取り調べを受けた。死刑を覚悟するほどであったが、神宗の取り計らいで黄州(湖北省)へ配流となった(1979、蘇軾44歳)。この左遷先の土地を“東坡”と名付けて、自らは東坡居士と名乗った由。

この黄州で、配流・蟄居の身でありながら、富者は見向きもしなかった安価な豚肉を美味しく頂けるよう工夫して、“東坡肉”なる料理を考案したわけです。その逆境にあることを思わせない心意気は、末尾に挙げた「猪肉を食す」の詩で充分に感得して頂きたい。

神宗が没し、7代哲宗(在位:1085~1100)が即位すると、旧法派が復権し、蘇軾も名誉を回復します。しかし蘇軾は、新法の良い点は残すべきであると主張して、旧法派内で争いを起こしていたようです。

1086年蘇軾は、杭州知事となります。その頃、西湖の改善を積極的に行っており、記憶に残る事跡として“蘇提”の築造が挙げられます。西湖を浚渫(シュンセツ)したその泥で築かれた全長2.8kmの提である。今日、市民の憩いの場であるとともに、観光名所の一つとして世に知られています。

1094年、新法派が再び力を持ち、蘇軾(57歳)は恵州(現広東省)に配流され、さらに62歳の時、海南島に追放されます。哲宗が没し、徽宗(在位:1100~1126)が即位すると、新・旧両派の融和が図られます。蘇軾は許されて、海南島から都に帰る途中、病を得て、常州(現江蘇省)で亡くなります(64歳、1101)。

時代の推移を見ながら、蘇軾の生涯を追いました。厳しい逆境にありながらも、楽天的で、かつユウーモアを忘れない。前回挙げた弟子の一人、秦観とはかなり趣が違うことがわかります。

その他の事ども:
蘇軾は、ある種 哲学的な匂いのある詩風の人でもあります。その点については、このシリーズのトップで取り上げた「西林の壁に題す」をご参照願いたい(閑話休題 -1、-2および-3:蘇東坡;2015.4投稿)。

蘇軾は、北宋代最高の詩人と評されており、また書家でもあります。父の蘇洵・弟の蘇轍ともに勝れており、三人を併称するのに“3蘇”と言い、蘇洵は“老蘇”、蘇軾を“大蘇”、また蘇轍を“小蘇”と呼んで区別しているようです。

“3蘇”に、韓愈(唐)、柳宗元(唐)、欧陽脩(宋)、曽鞏(宋)および王安石(宋)を加えた8人は、「古文」の“唐宋八大家”と呼ばれています。やはり唐代と宋代は詩を含む文学の面で画期的な時代であったと言えるのでしょう。

蘇軾と王安石は、政治的には立場を異にしていますが、ともに北宋代を代表する詩人です。王安石の詩「元日」については、今年元旦に本シリーズで紹介しました(閑話休題 26、賀正をご参照下さい)。

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<原文> <読み下し文>
食猪肉       .....猪肉を食す    蘇東坡
黄州好猪肉 ..........黄州(コウシュウ) 猪肉(チョニク)好(ヨ)し
価銭等糞土 ..........価銭(アタイ)は糞土(フンド)に等(ヒト)し
富者不肯喫 ..........富者(フウジャ)は肯(アエ)て喫(ク)らわず
貧者不解煮 ..........貧者(ヒンジャ)は煮(ニ)るを解(カイ)せず
慢著火..................慢(ユルヤ)かに火を著(ツ)け
少著水 .................少(スコ)しく水に著け
火候足時他自美 ....火候(カコウ)足(タ)る時 他(ソレ)自(オノ)ずから美(ウマ)し
每日起来打一碗 ....每日起き来たりて一碗を打(ツク)る
飽得自家君莫管 ....自家(ジカ)を飽(ア)かし得れば 君 管(カン)すること莫(ナカ)れ

<現代語訳>
黄州の豚肉は上質で、
値段は土のように安い、
金持ちは敢えて食べようとしない、
貧しい者は料理の仕方を知らない。
ゆっくりとグツグツ煮込み、
水は少な目にする。
充分に煮れば、自然においしくなる。
自分が腹いっぱいになればよいのであり、君の知ったことではない。

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閑話休題44 ドラマの中の漢詩 29『宮廷女官―若曦』-17

2017-07-18 17:22:30 | 漢詩を読む
ドラマ(第7~9話)の流れを追っていきます。前回、皇子たちの間で皇位継承争いの輪郭が明らかにされましたが、その具体的な動きとして話が進んでいきます。

皇帝以下、主だった面々が塞外の地に赴き、蒙古と親交を図る恒例の行事があります。その人選は皇太子に任され、第八皇子の一派は留守居として都に残されることになった。監視役として、皇太子の息の掛かったと思える李尚書ら幾人かの大臣とともに である。

蒙古の出張先では、広漠とした野外で今日のバスケット競技に似た馬術競技が催されていた。中で蒙古王の娘、敏敏(ミンミン)の馬術の素晴らしさが披瀝されます。そこに馬上の第十三皇子が現れ、敏敏を凌ぐ馬術を披露し、敏敏を負かします。

競技後、敏敏は、「わたしは“月”(蒙古語で)です」と自己紹介すると、第十三皇子は、しばらく考えて「自分は小役人で“星”(蒙古語で)です」と応じて「それでは」別れます。


夜間には、蒙古王主催の大宴会が催され、歓迎の意を込めて敏敏をはじめ華やかな衣装の娘たちの踊りがホールいっぱいに繰り広げられます。ここで敏敏は、昼間の小役人“星”が皇子であること知り、敏敏の胸に第十三皇子に対する想いが芽生えます。

第八皇子が留守をまもる都では、幼い第十八皇子が重い病で床に伏します。報らされた第八皇子は、塞外の帝に報せるべきか否か、居合わせた皇子たちに相談しますが、賛否両論。

反対論の趣旨は、“子の病くらいで皇帝が大騒動しては、蒙古の人々に笑われる”と言うものです。李尚書に相談すると、“留守居が決定すべきで、自分に相談するのは、責任を逃れるためか?”と嫌みな答えである。

第八皇子は、“実際に病状を見て判断する”と李尚書を伴い、床に伏す第十八皇子を見舞います。侍医の説明、また実際に皇子の額に手を当てた感触で、病は重篤であると判断します。

病床の傍にある卓上に置かれた一枚の絵に第八皇子の目がとまります。母親が、「陛下が戻られたら、見せるのだ と言っていましたが、叶えられそうにありません」と、涙ながらに話します。絵には、帝と第十八皇子が手を繋ぎ、散歩する様子が、あどけなく描かれていました。

第八皇子は、周りの反対意見に関わらず、“帝は情が厚い方だ、子の病に胸を痛めずにはおかないでしょう。すべての責任は自分が取る、侍医を集め、病状を逐一帝に報告するように”と、指示する。

塞外では、第十八皇子の病状が芳しくなく、逐一なされる報告に帝は胸を痛めていたが、遂には亡くなりました。周囲の人々が沈んでいる中、皇太子は酒に酔って、帝に無断で、蒙古王の献上品である“馬”に跨って乗り回し、騒ぎを起こします。

そのことを知った帝は、“蒙古王の好意を踏みにじる行為だ”、“皇太子の行状は、これまで長い間大目に見て、我慢を重ねてきた。国と民を安んずるという本業を任せるわけにはいかない“と、烈火の如く怒る。

叩頭して許しを請う皇太子に、“皆が第十八皇子の死を悼んでいる今、お前だけ弟の死を悼む心が全くない。ご先祖に、皇太子を廃嫡する と報告せざるを得ない”と、天を仰いで叫ぶと、帝はその場で卒倒します。

都に帰って、幸いに回復の兆しを見せる帝は、病床に伏したまま、第四皇子に、“皇太子を見張るように、その他お前に任せる”とお声がかかります。

落ち着きを取り戻した宮中では、続く立太子の話題が賑やかで、下馬評が囁かれます。また当事者の皇子たちも、それぞれ水面下での動きを活発化させていきます。

第十三皇子から、“帝の信頼を得ている、動く時期にあるのでは”と持ち掛けられた第四皇子は、“帝の怒りの感情は一時的なものだ。皇太子への愛情が全く失せたとは思えない、妄動してはならない。待つのだ”と、飽くまでも慎重である。

一方、第八皇子は、“直接手交するように”と念を押して、第十四皇子に若曦への封書を託します。封書を両手でそっと胸に当ててしばし、便せんに目を通した若曦は、やや頬を染め、胸の高鳴りを押さえる風であった。便せんに認められていたのは、一首の詩である。

その詩は、宋代の詩人、秦観(1049~1100)作の「鵲橋仙」でした。詩の読み下し文および現代語意訳を含めて末尾に示しました。

秦観は、北宋の文人官僚で詩人。蘇軾(東坡)の弟子で、「蘇門四学士」の一人とされています。師の蘇軾とは詩風を異にして、今回挙げた詩に見るように抒情的な詩を多く作っているようです。

秦観並びに師の蘇軾については、次回もう少し触れるつもりです。

この詩中、用語やその意味する内容は非常に難解です。以下、その解釈には、碇豊長師(末尾付記を参照)の解説を参考にしております。ただドラマの中で示された訳は、下に示しましたが、簡にして要を得たものと言えよう。

ドラマに戻って、第八皇子が寄せる若曦への想い、また若曦が胸に秘めた第八皇子への想いは、この詩をもって的確に表現されているのではないでしょうか。

雲と星が想いを描き出し、
天の川が時の流れを告げる、
七夕の出逢い。
人の世では数尽せず。

情けは水のように流れゆき、
帰ること忍び難し。
二つの情が永遠ならば、
会えずとも思いは通ずる。

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鵲橋仙            鵲(カササギ)の橋仙     秦観
纖雲弄巧、  纖雲(センウン) 巧(コウ)を弄(ロウ)し、
飛星傳恨、  飛星(ヒセイ) 恨(ウラ)みを傳へ、
銀漢迢迢暗度。 銀漢 迢迢(チョウチョウ)として暗(ヒソ)かに度(ワタ)る。
金風玉露一相逢、  金風 玉露 一(ヒト)たび相(アイ)逢(ア)わば、
便勝卻人間無數。 便(スナワ)ち 勝卻(ショウキャク)す 人間(ジンカン)の無數なるに。

柔情似水、  柔情(ジュウジョウ) 水に似て、
佳期如夢、  佳期(カキ) 夢の如し、
忍顧鵲橋歸路。 忍びて顧(カエリ)みんや 鵲(カササギ)の橋の歸路を。
兩情若是長久時、  兩情(リョウジョウ) 若(モ)し是(コ)れ 長久ならん時、
又豈在朝朝暮暮。 又 豈(アニ) 朝朝暮暮(チョウチョウボボ)に在(ア)らんや。
註]
鵲橋:七夕の夜、牽牛・織女の二星が会うとき、カササギが翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋; 鵲橋仙:詩牌(詩作時の基になるメロデイーの題)
纖雲:繊細な雲、細い雲
巧を弄す:巧みに(雲の模様を)作り出している
飛星:空にある星、牽牛星と織女星を指している
銀漢:銀河、天の川
迢迢:はるかに遠いさま
金風:五行説で、秋は金にあたるところから、秋の風
勝卻:…に勝っている;卻(却):[助詞](完成や完了の意を添える…してしまう)
佳期:デート(の日時)

<現代語意訳>
細い雲が、巧みに雲の模様を作り出しており、
空にある牽牛星と織女星は、愛情の恨みごとを伝え表しており、
遥か彼方で天の川をひそかに渡っている。
秋風に玉となった露を置く七夕の一たびの出逢いながら、
すなわち、人の世の数限りない恋愛沙汰にはるかに勝っている。

優しい心情は水のように流れ去り、
出逢いの素晴らしい時は夢のように儚く、
もと来た鵲の橋を顧み、帰ることのなんと忍び難いことか。
二人の愛情がもしも本当に永久・本物であるというなら、
毎朝毎夕いつも逢い合うことになんでこだわることがあろうか。

[付記] 碇豊長:『詩詞世界』www5a.biglobe.ne.jp/~shici/r50.htm

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閑話休題43 ドラマの中の漢詩28 『宮廷女官―若曦』-16

2017-07-08 14:13:52 | 漢詩を読む
ドラマ『宮廷女官―若曦』の話題に戻ります。ドラマは進んで、九人の皇子たちの帝位争いが表面化し、その構図がほぼ明らかになりました(第7話)。

現皇太子は、幼少時より彼の優れた才が皇帝の意に叶い、皇帝から最も恩愛の情を受けている皇子です。皇太子として指名された所以でしょう。ただ他の皇子たちは理解しているとは言え、納得しているかは問題のようです。

皇太子は、その地位や皇帝の‘思し召し’を笠に着て、やや身勝手な行動をとることが多々あるようです。今回、他国からの朝貢品に勝手に手を付けた廉で、さる大臣から上奏がなされて、審議の対象とされます。

皇帝は、皇子たちが居並ぶ審議の中で“断”を下します。「朝貢品の件だが、不届き者が皇太子の名を騙って不正を働いたことが判明した。その者はすでに刑部で身柄は押さえられた」と。

対して、皇太子は、「疑いを晴らして頂き、感謝いたします。」………「この度の事は、私にとっても学ぶことが多くありました。私を問責した大臣たちこそ真の忠臣であり、国の柱と言えるでしょう。権力に怯むことなく声を挙げてくれたのですから。」

皇帝は、意を得たり と、「“東海は百の川を収めるほど懐が深く、五岳の山は高けれど塵を拒まず”。そちの度量の広さは国や民にとっても喜ばしいことである。本件を上奏した大臣も一級格上げする」と、一件落着!

しかし、その直後の皇子たちの言動から、上記の審議は、各人腹に一物を持ちながらの“茶番劇”であったことが明らかになります。ドラマの進行を念頭に見て行くと、この審議の段階を経て、視聴者に帝位争いの構図を提示したことにほかなりません。

その構図とは、第八皇子が旗印をやや鮮明にしていて、第九、十及び十四皇子が仲間である。また第四皇子は非常に慎重な姿勢を貫いていて、第十三皇子が仲間である。以後ドラマの展開で帝位争いの核となるのは、皇太子、第四皇子及び第八皇子と言えます。

ところで、先に皇帝が述べた“東海は……、五岳の山は……”は、曹植(192~232)作の詩:「當欲遊南山行」の一部です。この詩については、原文、読み下し文及び現代語訳を含めて、末尾に挙げました。

ここで、作者曹植について触れます。曹植は、三国時代、魏王・曹操(155~220)の三男で、長子には曹丕(187~226、文帝)がいる。これら父子三人は、ともに詩文の才も勝れていて、当時(後漢)の年号から、「建安の3曹」と呼ばれている。

後世、謝霊運(385~433)は、「天下の詩の才の全体を1石と すると、8斗は曹植、1斗は自分、残りの1斗を他の詩人が受け持っている」と言って、曹植の才を“八斗の才”と褒めていたと伝えられている。

曹植の優れた詩才故に、やはり詩人であった曹操の寵愛は一層深かったようです。さらに曹植は、戦場で青年時代を送っており、“詩文で名を残すことより、戦で武勲を挙げ、社稷に尽くすことこそ本望だ”と語っていた由。曹操の胸の内では後継者として思い描いていた時期があったのではないでしょうか。

例に漏れず、兄曹丕との後継者争いがあった。しかし当事者同士よりも、それぞれの側近者たちの権力闘争の面が強かったようです。曹操の死後、曹丕は後漢・献帝より禅譲を受け、文帝となります(220)。

文帝は、以後、曹植の側近を次々と誅殺していきます。一方、曹植自身も、死去するまで侯または王として各地に転々と転封されていきます。

文学の世界では、これまで“辞賦”と呼ばれる、詩と散文との中間にあるような様式が主流であった。建安の頃から新しい詩型の五言詩が次第に作られ、整えられていき、主流となっていく。曹植はその表現技法をさらに深化させたとされている。今回、取り上げられている詩も五言詩である。

この詩が何時頃、如何なる状況下で詠まれた詩か、筆者は、仔細に調べていません。スケールが大きく鷹揚に、しかし人に諭すような風である。各地を転々と転封されている中で、自分を登用するように訴えている風に見えます。

翻って、ドラマ中、皇子たちの帝位争いが表面化する中で、この詩が引用されたことは、やはり時宜を得たことであると言えようか。

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當欲遊南山行          曹植
--當(マサ)に南山に遊ばんと欲す

東海廣且深,由卑下百川。
--東海は廣く且(カ)つ深し,由(ヨ)って百川に卑下(ヒゲ)す。

五嶽雖高大,不逆垢與塵。
--五嶽は高大なりと雖(イエド)も,垢(アカ)と塵に逆(サカ)らわず。

良木不十圍,洪條無所因。
--良木は十圍(ジュウイ)なくんば,洪條(コウジョウ)因(ヨ)る所なからん。

長者能博愛,天下寄其身。
--長者は能(ヨ)く博愛し,天下は其の身を寄す。

大匠無棄材,船車用不均。
--大匠(ダイショウ)は材を棄(ス)つるなく,船車用いること均(ヒトシ)からず。

錐刀各異能,何所獨卻前。
--錐(キリ)と刀各々異能あり,卻(カエ)って何所(ドコ)ぞ獨り前む。

嘉善而矜愚,大聖亦同然。
--善を嘉(ヨミ)し而(シカ)して愚(グ)に矜(ツツシ)む,大聖も亦(マタ)同じく然(シカリ)。

仁者各壽考,四坐咸萬年。
--仁者は各々壽(ジュ)を考え,四坐(シザ)は咸(ミナ) 萬年を思う。

註]
南山:西安の南東にある山、古来、詩によく詠まれた
行:楽曲、うた;または古詩の詩体の一つ
東海:中国東方の海域の東シナ海
卑下:多くの川より低いところに位置する
五嶽:中国で古来、崇拝された五つの霊山。泰山、華山、衝山、恒山及び嵩山
圍:両手の親指と人差し指を開いて輪を作った太さをいう単位
洪條:木の大きな枝
嘉:よしとして褒め讃える
愚:(旧)自分の謙称で、相手に対してへりくだった言い方
壽:“存在する年限”の意味があり、ここでは寿命が有限であることをいう
万年:非常に長い年代、永久

<現代語訳>
将に南山で遊ぶ
東海は、広くまた深くて、数多くの川が注ぎ込むのを許している。
五岳は、高くまた雄大であるが、塵や埃さえも拒むことがない。
良い樹木とは言え、太さが十‘圍’ほどなければ、大きな枝は生じてこないのだ。
長者は、寛く人を愛する故に、世の人々が身を寄せてくるのである。
優れた技の匠は、資材を無駄に捨てることはなく、船や車を造るのに異なる材料を使い分けている。
錐と刀にはそれぞれ独自な能力があって、その能力を活かす形で利用されていく。
善の行いを良しとして己を慎み深くする、大聖人もまた然りである。
仁徳を備えた人は、寿命に限界があることを悟っているが、周りの者は皆、永遠ならんと欲している。

追記]
・第1~4句は、‘寛容さ’を表す名言警句として語られるようです。
・前回取り上げた嵆康の「幽憤の詩」は、四言詩で、“辞賦”の範疇に当たるでしょう。
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