(18番)住の江の 岸による波 よるさへや
夢の通ひ路(ぢ)人目(ひとめ)よくらむ
藤原敏行朝臣『古今集』恋・559
<訳> 住之江の岸に「よる」波ではありませんが、人目をはばかる必要のない夜の、夢の中の通い路ですら、あなたは人目を避けようとするのでしょうか。(板野博行)
oooooooooooooooo
「一向に顔を見せてくれない、人目を気にすることのない夜の夢路にさえも」と独り言ちています。今様に言えば、プラトニック ラブということでしょうか。何とも微笑ましい歌です。詠っているのは男性なのです よ。
作者は藤原敏行朝臣(?~907?)。59代宇多天皇(867~931;在位 887~897)期の宮廷歌壇を代表する歌人、三十六歌仙の一人である。家集に『敏行集』がある。書家としても優れていて、空海、嵯峨天皇に次ぐ能書と称されている。
七言絶句の漢詩としました。
xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [入声一屋韻]
不通的夢中路 通(カヨ)わぬ夢の中の路
波浪冲来住江岸, 波浪 冲(ヨ)せ来る 住の江の岸,
青松摇晃風蕭粛。 青松 摇晃(ヨウコウ)して 風蕭粛(ショウシュク)たり。
夢中跟爾没逢過, 夢中にも爾(ナンジ)と逢うことなく,
夜里也君嫌衆目。 夜里(ヨル)でさえ君は衆目を嫌(イト)うか。
註]
冲:激しくぶつかる。 住江:現大阪市住之江区。
摇晃:ゆらゆらと揺れる。 蕭粛:風が物淋しく吹いているさま。
衆目:人目、多くの人の見る目。
※波が寄せ来る(よる)住之江の岸辺の情景は、夜(よる)を導く歌中の
序詞に相当する。
<現代語訳>
人が通わぬ夢路
住之江の岸に波が寄せて砕けている、
浜の青松は微かに揺れて、風が物淋しく吹きわたっている。
あなたは夢路にさえ現れたことがない、
夜中、夢の中でさえ人目を気にして逢瀬を避けているのでしょうか。
<簡体字およびピンイン>
不通的梦中路 Bùtōng de mèng zhōng lù
波浪冲来住江岸, Bōlàng chōng lái Zhùjiāng àn,
青松摇晃风萧肃。 qīngsōng yáohuang fēng xiāo sù.
梦中跟你没逢过, Mèng zhōng gēn nǐ méi féngguò,
夜里也君嫌众目。 yèlǐ yě jūn xián zhòng mù.
xxxxxxxxxxxxxxx
作者は、藤原南家巨勢麻呂流、陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の長男。897年敦仁親王の即位(60代醍醐天皇885~930、在位897~930)に際し、春宮亮を務めた功労で従四位上・右兵衛督に任じられた。歌人に下級官人が多い当時にあっては珍しい朝臣の中級歌人と言えようか。
生没年不詳で、没年は901/907の2説がある。奥さんは、在原業平の義理の妹であり近い関係にあって、業平を範とする面があったのでは とされる。歌は、技巧を用いながらも自然な詠みぶりであると評されている。
三十六歌仙の一人で、『古今集』(19首)以下勅撰和歌集に29首入集されている と。藤原敏行作で、いつ、どこで読み、聞き、覚えたか知らないが、記憶の中にとどまっている有名な歌がある。『古今集』秋の部の巻頭を飾る歌であるという。ちょうど今の季節を詠った歌である。
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる (、『古今和歌集』秋歌上 169)
[秋が来たと目にははっきり見えないけれど 風の音をきいて(秋がきたなと)
気がつきました]
62代村上天皇(926~967、在位946~967)に「古今の最高の妙筆は誰か?」と問われた書家・小野道風(オノノトウフウ、894~966)が、「空海と敏行」と答えたという。平安時代の三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢(タチバナノハヤナリ))に並び称されるほどの能書家である。
現存する唯一の敏行の書跡は、京都市右京区・高雄神護寺の梵鐘の鐘銘に見ることができる。銘文の序は橘広相(ヒロミ)、銘は菅原是善(コレヨシ、道真の父)、揮毫は敏行と当時の三名家の分担により成るもので「三絶の鐘」と呼ばれている と。同梵鐘は国宝に指定されている。
能書家としての敏行には『宇治拾遺物語』などに興味ある逸話が語られている と。敏行は多くの人から法華経の写経を依頼され、200部以上を書いた。ある日ぽっくりと死んでしまい、見知らぬ人に引き立てられていく。
理由を尋ねると、写経の際、魚を食い、女に触れて心を奪われていたために功徳がない。書写を依頼した者たちは極楽に行けず、修羅の道に堕ちた。彼らは怒り狂っており、お前の体は二百に切り裂かれるであろう と。
さて上掲の歌に戻って。あの人は一向に夢に現れないが、夢の中でさえ人目を気にしているのであろうか、と。男性の通い婚の時代です、敏行が女性の側から詠った歌であると、解されます。なお当時、誰かが夢に現れると、その人が自分を深く想っているからであると信じられていた。
いずれにせよ、敏行に次の歌を送って慰めてあげたいと思います、「貴方を想っていないわけではないでしょう」と。“わすれ草”とは、ニッコウキスゲの類の草で、身につけると憂いを忘れるという俗信があった。中国では萱草、金針、忘憂草と呼ばれる。
こふれども 逢ふ夜の なきは忘れ草
夢路にさえや おひ繁るらむ (よみ人知らず 『古今集』恋)
[思い慕っても逢える夜がないのは 恋人を忘れるという忘れ草が
夢の路にさえ生い茂っているからでしょう](小倉山荘氏)
夢の通ひ路(ぢ)人目(ひとめ)よくらむ
藤原敏行朝臣『古今集』恋・559
<訳> 住之江の岸に「よる」波ではありませんが、人目をはばかる必要のない夜の、夢の中の通い路ですら、あなたは人目を避けようとするのでしょうか。(板野博行)
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「一向に顔を見せてくれない、人目を気にすることのない夜の夢路にさえも」と独り言ちています。今様に言えば、プラトニック ラブということでしょうか。何とも微笑ましい歌です。詠っているのは男性なのです よ。
作者は藤原敏行朝臣(?~907?)。59代宇多天皇(867~931;在位 887~897)期の宮廷歌壇を代表する歌人、三十六歌仙の一人である。家集に『敏行集』がある。書家としても優れていて、空海、嵯峨天皇に次ぐ能書と称されている。
七言絶句の漢詩としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [入声一屋韻]
不通的夢中路 通(カヨ)わぬ夢の中の路
波浪冲来住江岸, 波浪 冲(ヨ)せ来る 住の江の岸,
青松摇晃風蕭粛。 青松 摇晃(ヨウコウ)して 風蕭粛(ショウシュク)たり。
夢中跟爾没逢過, 夢中にも爾(ナンジ)と逢うことなく,
夜里也君嫌衆目。 夜里(ヨル)でさえ君は衆目を嫌(イト)うか。
註]
冲:激しくぶつかる。 住江:現大阪市住之江区。
摇晃:ゆらゆらと揺れる。 蕭粛:風が物淋しく吹いているさま。
衆目:人目、多くの人の見る目。
※波が寄せ来る(よる)住之江の岸辺の情景は、夜(よる)を導く歌中の
序詞に相当する。
<現代語訳>
人が通わぬ夢路
住之江の岸に波が寄せて砕けている、
浜の青松は微かに揺れて、風が物淋しく吹きわたっている。
あなたは夢路にさえ現れたことがない、
夜中、夢の中でさえ人目を気にして逢瀬を避けているのでしょうか。
<簡体字およびピンイン>
不通的梦中路 Bùtōng de mèng zhōng lù
波浪冲来住江岸, Bōlàng chōng lái Zhùjiāng àn,
青松摇晃风萧肃。 qīngsōng yáohuang fēng xiāo sù.
梦中跟你没逢过, Mèng zhōng gēn nǐ méi féngguò,
夜里也君嫌众目。 yèlǐ yě jūn xián zhòng mù.
xxxxxxxxxxxxxxx
作者は、藤原南家巨勢麻呂流、陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の長男。897年敦仁親王の即位(60代醍醐天皇885~930、在位897~930)に際し、春宮亮を務めた功労で従四位上・右兵衛督に任じられた。歌人に下級官人が多い当時にあっては珍しい朝臣の中級歌人と言えようか。
生没年不詳で、没年は901/907の2説がある。奥さんは、在原業平の義理の妹であり近い関係にあって、業平を範とする面があったのでは とされる。歌は、技巧を用いながらも自然な詠みぶりであると評されている。
三十六歌仙の一人で、『古今集』(19首)以下勅撰和歌集に29首入集されている と。藤原敏行作で、いつ、どこで読み、聞き、覚えたか知らないが、記憶の中にとどまっている有名な歌がある。『古今集』秋の部の巻頭を飾る歌であるという。ちょうど今の季節を詠った歌である。
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる (、『古今和歌集』秋歌上 169)
[秋が来たと目にははっきり見えないけれど 風の音をきいて(秋がきたなと)
気がつきました]
62代村上天皇(926~967、在位946~967)に「古今の最高の妙筆は誰か?」と問われた書家・小野道風(オノノトウフウ、894~966)が、「空海と敏行」と答えたという。平安時代の三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢(タチバナノハヤナリ))に並び称されるほどの能書家である。
現存する唯一の敏行の書跡は、京都市右京区・高雄神護寺の梵鐘の鐘銘に見ることができる。銘文の序は橘広相(ヒロミ)、銘は菅原是善(コレヨシ、道真の父)、揮毫は敏行と当時の三名家の分担により成るもので「三絶の鐘」と呼ばれている と。同梵鐘は国宝に指定されている。
能書家としての敏行には『宇治拾遺物語』などに興味ある逸話が語られている と。敏行は多くの人から法華経の写経を依頼され、200部以上を書いた。ある日ぽっくりと死んでしまい、見知らぬ人に引き立てられていく。
理由を尋ねると、写経の際、魚を食い、女に触れて心を奪われていたために功徳がない。書写を依頼した者たちは極楽に行けず、修羅の道に堕ちた。彼らは怒り狂っており、お前の体は二百に切り裂かれるであろう と。
さて上掲の歌に戻って。あの人は一向に夢に現れないが、夢の中でさえ人目を気にしているのであろうか、と。男性の通い婚の時代です、敏行が女性の側から詠った歌であると、解されます。なお当時、誰かが夢に現れると、その人が自分を深く想っているからであると信じられていた。
いずれにせよ、敏行に次の歌を送って慰めてあげたいと思います、「貴方を想っていないわけではないでしょう」と。“わすれ草”とは、ニッコウキスゲの類の草で、身につけると憂いを忘れるという俗信があった。中国では萱草、金針、忘憂草と呼ばれる。
こふれども 逢ふ夜の なきは忘れ草
夢路にさえや おひ繁るらむ (よみ人知らず 『古今集』恋)
[思い慕っても逢える夜がないのは 恋人を忘れるという忘れ草が
夢の路にさえ生い茂っているからでしょう](小倉山荘氏)