(79) 秋風に たなびく雲の 絶え間より
もれ出づる月の 影のさやけさ
左京大夫顕輔(『新古今和歌集』秋・413)
<訳> 秋風にたなびいている雲の切れ間から、漏れ出てくる月光の、なんという澄み切った明るさであろう。(板野博行)
ooooooooooooo
爽やかな秋風がそよそよと吹きわたる夕べ、彼方に棚引いている雲の切れ目から月の光が無数の筋となって放射している。何と冴え冴えとした明るさであろう。やはり秋の夕べの趣きを直截に肌で感じさせてくれる歌と言えそうである。
左京大夫(藤原)顕輔(1090~1155)は、歌道“六条藤家”2代目の歌人、勅撰和歌集・代六『詞花和歌集』(1151年頃成立)の撰者である。同家の歌風は、技巧を凝らすことなく、見て感じたことを淡々と率直に詠うことを旨としている。当歌はその歌風を見事に体現しているように思える。
五言絶句としました。
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<漢字原文および読み下し文>
拖長雲間月影 拖長(タナビ)く雲間の月影 [上平声四支韻]
天際秋風起、天際 秋風起り、
澄空日酉移。澄(ス)みきった空 日は酉(トリ)に移る。
月光雲縫漏、月光 雲の縫(タエマ)より漏(モ)れ、
輝映冽明奇。輝映(カガヤキ) 冽(レツ)にして明なること奇(キ)なり。
註]
拖長:棚引く。 天際:山の端。
酉:西の方位。 縫:すきま、絶え間。
輝映:照り映える。 冽:澄み切って、清らかなさま。
<現代語訳>
棚引く雲間から射す月光
山の端に秋風が起こり、
澄み切った青空、日は西に沈んだ。
月の光が棚引く雲の絶え間から漏れ出て射している、
その輝きのなんと澄み切って清らかなことか。
<簡体字およにピンイン>
拖长雲間月影 Tuō cháng yún jiān yuè yǐng
天际秋风起、 Tiān jì qiū fēng qǐ,
澄空日酉移。 chéng kōng rì yǒu yí.
月光云缝漏、 Yuèguāng yún fèng lòu,
辉映冽明奇。 Huīyìng liè míng qí.
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藤原顕輔は、北家藤原氏の流れをくむ歌道“六条藤家”の家祖顕季(アキスエ)の三男である。官位は正三位・左京大夫に至る。父・顕季の跡を受けて、源俊頼(百人一首74番、閑話休題197)および藤原基俊(同75番、閑話218)の亡き後、歌壇の指導者として活躍、六条藤家を歌道師範家として確立する功績を挙げた。
六条藤家とは、顕季の邸宅が六条東洞院に、顕輔の邸宅が六条大宮にあったことによる呼称であるが、さらに今一つの歌道師範家、源経信(同71番、閑話196)および俊頼の“六条源家”と区別するためにそう呼ばれている。
なお顕季は、1118年、俊頼、藤原顕仲(アキナカ)らを招いて、歌聖・柿本人麻呂を祀る儀式“人丸影供(ヒトマロエイグ)”を催している。すなわち、人麻呂を神格化して和歌を献じることで和歌の道の跡を踏もうとした。後に歌合なども行われ、同会は近世に至るまで続けられたようである。
顕輔は、「鳥羽殿北面歌合」・「六条宰相家歌合」(1116)や「久安百首」(1150)など、多くの歌会・歌合で活躍、父から六条藤家の象徴である“人丸影供”を受け継いだ。また1144年、崇徳上皇から勅撰集撰進の命を受け、『詞花和歌集』を完成させた(1151完)。
子息・清輔(キヨスケ、同84番)および猶子・顕昭(ケンショウ)ともに優れた歌人・歌学者で、顕輔-清輔親子の時代は最盛期にあったようである。六条藤家の歌風は、伝統を重んじ『萬葉集』を尊重する保守的な歌風でした。清輔は、『萬葉集』を座右に置いていたと伝えられている。
同時代に、道長の流れをくむ俊成(同83番、閑話155)、定家(同87番、閑話152)、寂蓮(同97番、閑話156)など、新潮流の和歌を唱える一派が台頭していた。すなわち“幽玄”を説く俊成および“有心”を唱える定家ら、“御子左家(ミコヒダリケ)” の一派である。
“御子左家(ミコヒダリケ)”歌風は、革新的で、いわゆる“新古今調”として世に受け入れられるようになった。両派の歌に関する論争が最高潮に達したのは、1193・94年、左近衛大将・藤原(九条)良経の家において、俊成が判者を務めた「左大将家百首歌合」であったと思われる。
新風歌人の定家、家隆、慈円、寂蓮、保守派六条藤家の顕昭、経家らを含めた計12人、各人100首、計1200首、600番の歌合であった。俊成による判詞は、後代に強い影響を与えた文芸評論で、一方、顕昭は、判詞に反駁する『六百番陳状』を著している。
歌合の現場での討論は、口角泡を飛ばすだけに留まらず、後に歌に関する議論を「独鈷(ドッコ)と鎌首(カマクビ)の争い」と形容する句が生まれるほどの激しさであったようである。同歌合のより詳細な経緯や状況は、寂蓮の稿(閑話152)をご参照ください。
歌壇における両派の勢いは、当初“六条家”の勢力が優勢であったが、俊成の頃拮抗し、定家の頃に“御子左家”の勢いが優勢に転じた と。“六条家”は、『萬葉集』を尊重するあまり、訓詁(訓と解釈)・注釈に拘泥して衒学(ゲンガク)趣味に堕することが多かったと評されている。
顕輔の歌風は、当歌に見るような叙景歌ばかりでなく、述懐歌にも秀歌を残していると。『金葉和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に84首入集されており、家集に『左京大夫顕輔集』がある。顕輔は、1155年に薨去、享年66。
もれ出づる月の 影のさやけさ
左京大夫顕輔(『新古今和歌集』秋・413)
<訳> 秋風にたなびいている雲の切れ間から、漏れ出てくる月光の、なんという澄み切った明るさであろう。(板野博行)
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爽やかな秋風がそよそよと吹きわたる夕べ、彼方に棚引いている雲の切れ目から月の光が無数の筋となって放射している。何と冴え冴えとした明るさであろう。やはり秋の夕べの趣きを直截に肌で感じさせてくれる歌と言えそうである。
左京大夫(藤原)顕輔(1090~1155)は、歌道“六条藤家”2代目の歌人、勅撰和歌集・代六『詞花和歌集』(1151年頃成立)の撰者である。同家の歌風は、技巧を凝らすことなく、見て感じたことを淡々と率直に詠うことを旨としている。当歌はその歌風を見事に体現しているように思える。
五言絶句としました。
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<漢字原文および読み下し文>
拖長雲間月影 拖長(タナビ)く雲間の月影 [上平声四支韻]
天際秋風起、天際 秋風起り、
澄空日酉移。澄(ス)みきった空 日は酉(トリ)に移る。
月光雲縫漏、月光 雲の縫(タエマ)より漏(モ)れ、
輝映冽明奇。輝映(カガヤキ) 冽(レツ)にして明なること奇(キ)なり。
註]
拖長:棚引く。 天際:山の端。
酉:西の方位。 縫:すきま、絶え間。
輝映:照り映える。 冽:澄み切って、清らかなさま。
<現代語訳>
棚引く雲間から射す月光
山の端に秋風が起こり、
澄み切った青空、日は西に沈んだ。
月の光が棚引く雲の絶え間から漏れ出て射している、
その輝きのなんと澄み切って清らかなことか。
<簡体字およにピンイン>
拖长雲間月影 Tuō cháng yún jiān yuè yǐng
天际秋风起、 Tiān jì qiū fēng qǐ,
澄空日酉移。 chéng kōng rì yǒu yí.
月光云缝漏、 Yuèguāng yún fèng lòu,
辉映冽明奇。 Huīyìng liè míng qí.
xxxxxxxxxxxxxxx
藤原顕輔は、北家藤原氏の流れをくむ歌道“六条藤家”の家祖顕季(アキスエ)の三男である。官位は正三位・左京大夫に至る。父・顕季の跡を受けて、源俊頼(百人一首74番、閑話休題197)および藤原基俊(同75番、閑話218)の亡き後、歌壇の指導者として活躍、六条藤家を歌道師範家として確立する功績を挙げた。
六条藤家とは、顕季の邸宅が六条東洞院に、顕輔の邸宅が六条大宮にあったことによる呼称であるが、さらに今一つの歌道師範家、源経信(同71番、閑話196)および俊頼の“六条源家”と区別するためにそう呼ばれている。
なお顕季は、1118年、俊頼、藤原顕仲(アキナカ)らを招いて、歌聖・柿本人麻呂を祀る儀式“人丸影供(ヒトマロエイグ)”を催している。すなわち、人麻呂を神格化して和歌を献じることで和歌の道の跡を踏もうとした。後に歌合なども行われ、同会は近世に至るまで続けられたようである。
顕輔は、「鳥羽殿北面歌合」・「六条宰相家歌合」(1116)や「久安百首」(1150)など、多くの歌会・歌合で活躍、父から六条藤家の象徴である“人丸影供”を受け継いだ。また1144年、崇徳上皇から勅撰集撰進の命を受け、『詞花和歌集』を完成させた(1151完)。
子息・清輔(キヨスケ、同84番)および猶子・顕昭(ケンショウ)ともに優れた歌人・歌学者で、顕輔-清輔親子の時代は最盛期にあったようである。六条藤家の歌風は、伝統を重んじ『萬葉集』を尊重する保守的な歌風でした。清輔は、『萬葉集』を座右に置いていたと伝えられている。
同時代に、道長の流れをくむ俊成(同83番、閑話155)、定家(同87番、閑話152)、寂蓮(同97番、閑話156)など、新潮流の和歌を唱える一派が台頭していた。すなわち“幽玄”を説く俊成および“有心”を唱える定家ら、“御子左家(ミコヒダリケ)” の一派である。
“御子左家(ミコヒダリケ)”歌風は、革新的で、いわゆる“新古今調”として世に受け入れられるようになった。両派の歌に関する論争が最高潮に達したのは、1193・94年、左近衛大将・藤原(九条)良経の家において、俊成が判者を務めた「左大将家百首歌合」であったと思われる。
新風歌人の定家、家隆、慈円、寂蓮、保守派六条藤家の顕昭、経家らを含めた計12人、各人100首、計1200首、600番の歌合であった。俊成による判詞は、後代に強い影響を与えた文芸評論で、一方、顕昭は、判詞に反駁する『六百番陳状』を著している。
歌合の現場での討論は、口角泡を飛ばすだけに留まらず、後に歌に関する議論を「独鈷(ドッコ)と鎌首(カマクビ)の争い」と形容する句が生まれるほどの激しさであったようである。同歌合のより詳細な経緯や状況は、寂蓮の稿(閑話152)をご参照ください。
歌壇における両派の勢いは、当初“六条家”の勢力が優勢であったが、俊成の頃拮抗し、定家の頃に“御子左家”の勢いが優勢に転じた と。“六条家”は、『萬葉集』を尊重するあまり、訓詁(訓と解釈)・注釈に拘泥して衒学(ゲンガク)趣味に堕することが多かったと評されている。
顕輔の歌風は、当歌に見るような叙景歌ばかりでなく、述懐歌にも秀歌を残していると。『金葉和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に84首入集されており、家集に『左京大夫顕輔集』がある。顕輔は、1155年に薨去、享年66。