愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題374 金槐和歌集  まれにきて 稀に宿かる 鎌倉右大臣 源実朝

2023-10-30 09:24:25 | 漢詩を読む

  深い“孤独感”に襲われているような、何とも侘しい歌である。訪ねて来る人も稀であるが、稀に来る人でさえ、めったに宿を借る人はいない。ただ松風だけが溜溜と鳴っている、哀れな宿よ と詠っています。屏風絵を見ての歌である。

 

ooooooooo  

  [詞書] 屏風の絵に山家に松かけるところに 

      旅人のあまたあるをよめる 

まれにきて 稀に宿かる 人もあらじ  

  あはれと思え 庭の松風  (旅・528)  

 (大意) まれに訪ねて来ても、宿借る人は稀にもいないのだ、松風よ、

  このような粗末な家を哀れんでください。 

 [註] 〇あはれとおもえ:松風よ、かかる寂しい住居をあわれと思え。 

 

xxxxxxxxxx 

<漢詩> 

  看屏風画     屏風画を看て    [入声一屋韻] 

有人稀来訪,  稀に来訪する人有るも、

無人稀住宿。  稀に住宿(ヤドカ)る人は無し。

庭中松風也,  庭中の松風 也(ヨ)、

憐憫斯陋屋。  斯(カ)かる陋屋(ロウオク)を憐憫(アワレン)でくれ。

 [註] 〇住宿:宿をかりる、寝泊まりする; 〇陋屋:粗末な建物。

<現代語訳> 

 屏風絵をみて 

稀に訪ねて来る人はいるが、

稀にも宿借る人はいない。

庭の松風よ、

このような粗末な家を憐れんでくれ。

<簡体字およびピンイン> 

  看屏風画     Kàn píngfēng huà    

有人稀来访, Yǒu rén xī lái fǎng,   

无人稀住宿。 wú rén xī zhù .    

庭中松风也。 Tíng zhōng sōng fēng yě,   

怜悯斯陋屋, liánmǐn sī lòu .  

ooooooooo  

 

  屏風絵には、あずま屋と松、その周りに多くの旅人が屯しているという。山中で多くの旅人が行き交う、賑やかな峠の一軒家、茶屋を思わせる所である。それにも拘わらず、実朝は、粗末で、人の訪れのない哀れな宿を想像しています。多勢の人々の中に身を置くと、却って孤独感が募ってくる と言うことでしょうか。 

  実朝の歌の“本歌”とされる歌:

 

もろともにあはれと思え山桜花よりほかに知る人もなし  

  (前大僧正行尊『金葉集』巻九・雑上・521; 『百人一首』66番)

 

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閑話休題373 金槐和歌集  雁のいる 門田の稲葉 鎌倉右大臣 源実朝

2023-10-23 09:38:10 | 漢詩を読む

夕暮れ時、遥か彼方の雲間に、越冬のため南に渡る雁の群れが目に入る。門前に広がる稲田では、そよそよと秋風に稲穂を揺らして、葉擦れの音が微かに耳に届く。実りの秋、豊作を想像させる田園風景である。

 

安寧な田園の環境に身をおいて、心穏やかに秋の収穫を夢想する実朝の姿が思い浮かぶ。心穏やかでない(?)歌に接する機会の多い実朝ですが、このような歌を遺されていることに、ホッとさせられます。 

 

ooooooooooooo  

 [歌題] 田家夕雁 

雁のいる 門田の稲葉 うちそよぎ

  たそがれ時に 秋風ぞふく  (『金槐集』秋・228)

 (大意) 秋の黄昏時、遥かに見る大空には南に渡る雁の群れが目に入る。

  あばら屋の門前に広がる田園では 稲穂が秋風にそよと揺れている。

 [註] 〇門田:家の前にある田。

xxxxxxxxxxxxxxx 

<漢字>  

 田園傍晚        田園傍晚    [下平声七陽韻]  

火焼雲間群雁翔, 火焼雲(ユウヤケグモ)の間に 雁の群が翔(ト)んでいる, 

田園瞭望映金黃。 田園 瞭望(リョウボウ)すれば 金黃(コガネイロ)に映えている。 

威威搖動門前景,  威威(ソヨソヨ)と搖動(ユレ)ている門前の景, 

佳節清商掠稲粱。  佳節の清商(セイショウ) 稲粱(トウリョウ)を掠(カス)めてあり。 

 [註]○火焼雲:夕焼雲; 〇瞭望:遠く見渡す; 〇金黃:黄金色; 

  〇威威搖動:そよそよと揺れ動く; 〇清商:清々しい秋風; 

  〇掠:かすめる; 〇稲粱:稲、穀物、イネとアワ。  

<現代語訳> 

 田園の夕暮れ時 

夕焼雲の雲間に雁の群れが飛んでおり、

田園遥かに見渡せば、一面黄金色に映えている。

門前で そよそよと稲穂が揺れ動いており、

爽やかな時節、秋風が稲を掠めて吹き渡っているのだ。 

<簡体字およびピンイン> 

 田園傍晚         Tián yuán bàngwǎn  

火烧云间群雁翔, Huǒshāoyún jiān qún yàn xiáng,  

田园瞭望映金黄。 tiányuán liàowàng yìng jīnhuáng.   

威威摇动门前景, Wēi wēi yáodòng mén qián jǐng, 

佳节清商掠稻粱。 jiājié qīng shāng lüè dàoliáng.     

ooooooooooooo  

 

実朝の歌の“本歌”とされ、百人一首*に撰された、源経信の歌(下記)に似た情景です。しかし実朝の歌では、宙に翔ける雁の群れが加わり、三次元の世界が無限に広がっています。なお、先に経信の歌の漢詩訳では五言絶句としました(閑話休題196参照)。

  実朝の歌の“本歌”とされる歌:

 

夕されば門田の稲葉おとずれてあしのまろ屋に秋風ぞ吹く 

    (大納言(源)経信『金葉集』巻三・秋・173; 『百人一首』71番*) 

 (大意) 稲穂が黄金色に輝く田園、陽が西に傾く頃になると、爽やかな秋風

  がそよと茅葺の山荘にわたってくる、稲葉の微かな葉擦れの音とともに。

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閑話休題372 金槐和歌集  ながれ行く 木の葉の淀む 鎌倉右大臣 源実朝

2023-10-16 09:12:29 | 漢詩を読む

一読、胸に閊(ツカ)えを覚える歌である。晩秋、錦秋の彩を添えた紅葉は散りはて、川に流れ去ることなく、川下で淀んでいる。この秋が暮れても、秋の気配は、縁(エニシ)によっていつまでも流れ去ることはないのだよ と。

 

「川面に敷き詰めたもみじ葉は、川の錦であるよ」と詠った能因法師(後述)とは、真逆の発想のようである。青年・実朝の胸内には、余人の計り知れない“苦悶”の重しが淀んでいたように思える。

 

ooooooooo 

  [題詞] 水上落葉 

ながれ行く 木の葉の淀む 江にしあれば 

  暮れてののちも 秋は久しき  (金槐集 秋・269)

 (大意) 木の葉がよどんで流れぬ江であるから 秋が暮れてのちも ここには

  秋が久しく残っているであろう。 

  註] 〇江にしあれば:“し”は強めの助詞、“江であるから”の意; 

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 江上落葉     江上の落葉             [上平声六魚韻]  

流来乱落葉, 流れ来たる乱(ラン)落葉,

行至所江淤。 行(ユキ)ゆきて至(イタ)る江の淤(ヨド)む所。

四節秋過去, 四節(シセツ) 秋 過去(ユキサ)るも,

但茲秋氣舒。 但(タダ)茲(ココ)は 秋氣 舒(ジョ)たらん。

 註] 〇乱:さまざまな; 〇淤:淀む、堆積する; 〇四節:四季; 

  〇茲:ここに、これ; 〇舒:のびる、ゆるやか、落ち着きはらったさま。

<現代語訳> 

 江上落ち葉の淀んだところ 

さまざまな落ち葉が流れ来って、 

流れ流れて、川のさる場所で淀んでいる。 

時節は変わって、間もなく秋は暮れることであろう、

だが、落ち葉の淀むこの川では、その後も、秋の気配は続くことでしょう。

<簡体字およびピンイン> 

  江上落叶   Jiāng shàng luò yè 

流来乱落叶, Liú lái luàn luò yè,

行至所江淤。 xíng zhì suǒ jiāng .     

四节秋过去, Sì jié qiū guòqù, 

但兹秋气舒。 dàn zī qiū qì shū

ooooooooo  

 

能因法師(・988~1051?)の歌:

 

嵐吹く 三室(ミムロ)の山の もみぢ葉は

  龍田の川の 錦なりけり (『後拾遺集』秋下・366; 百人一首69番*)

 (大意) 三室の山の絢爛たる紅葉の葉は、山風で散って龍田川に集まり、川面

  はまるで錦の彩である。 

 

晩秋の頃、奈良・三室山が全山紅葉で彩鮮やかに染まっている。山風に吹かれて散った葉は、麓の竜田川に集まり、川面は錦を敷いたようで、三次元の美の世界であると詠っている。

 

  実朝の歌の“本歌”とされる歌: 

 

人心(ヒトゴコロ) 木の葉ふりしく えにしあれば 

  涙の川も 色かわりけり 

     (按察使兼宗 『千五百番歌合』; 『新勅撰集』 恋・)   

 (大意) 木の葉がしきりに落ちる川であるから、流れる水の色が変わるよう

  に 人の心も盛んに言葉を交わし、縁があれば流す涙の色も変わるもの。

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閑話休題371 金槐和歌集  秋もはや すえのはらのに 鎌倉右大臣 源実朝

2023-10-09 09:46:58 | 漢詩を読む

秋も深まり、侘しさを覚えるころである。旅にあって、人気のない野原を行く時、遠くから鹿の鳴き声が聞こえてきた。この時こそ、旅の侘しさ、悲しさを覚える時である。きっと鹿も孤独で、友を求めて彷徨っているのであろう、と思い遣っている風である。 

 

実朝のこの歌は、かの有名な猿丸大夫の歌の“本歌取り”の歌とされている。菅原道真公(?)も、猿丸大夫の歌に思いを得た漢詩を作っており、筆者は、曽て漢詩への翻訳を試みました。これを機に、併せて、それぞれの特徴を比較検討してみます(後述)。

 

ooooooooo  

  [詞書] 羇中鹿 

秋もはや すえのはらのに 鳴く鹿の     

  声聞く時ぞ 旅は悲しき  (『金槐集』旅・519) 

 (大意) 秋も はや末となり末野の原で鹿の鳴き声を聞いて、その時こそ旅の

  悲しさを覚えるのであった。

 [註] 〇すえのはらの:“秋の末の原野に”、“末野の原に”の両解釈がある。

xxxxxxxxxx 

<漢詩> 

    羇中聞鹿叫     [上平声四支韻] 

則已季秋期, 則(スナワ)ち已に季秋の期, 

芒芒末野涯。 芒芒(ボウボウ)たり末野の涯(ホトリ)。 

呦呦聞鹿叫, 呦呦(ヨウヨウ)として鹿の叫(ナ)くを聞く, 

此刻覚羈悲。 此刻こそ 羈(タビ)の悲しみを覚ゆ。

 [註] 〇芒芒:果てしなく広いさま; 〇末野:地名、末野の原; 

  〇呦呦:鹿の鳴き声; 〇羈:旅。

<現代語訳> 

  旅にあって鹿の鳴き声を聞く 

もはや秋も末の季節となった、 

広々とした末野の原のほとり。

遠くに鹿の鳴き声を聞く、

この時こそ 旅にあって秋の悲しみを覚える時である。

<簡体字およびピンイン> 

  羇中闻鹿叫    Jī zhōng wén lù jiào

则已季秋期, Zé yǐ jì qiū ,

芒芒末野涯。 máng máng mòyě .   

呦呦闻鹿叫, Yōu yōu wén lù jiào, 

此刻觉羁悲。 cǐ kè jué jī bēi.  

ooooooooo  

  

  実朝の歌の“本歌”とされる歌:  

 

奥山に もみじふみ分け 鳴く鹿の 

  声聞く時ぞ 秋は悲しき  

      (猿丸大夫 『古今集』巻四・秋上・215; 百人一首5番) 

 (大意) 山奥で鹿が紅葉の落ち葉を踏みしだき、彷徨い鳴いている、その鳴き

     声を聞く時、秋の悲しみが一入深く感じられる。  

 

  • 『新撰万葉集』(菅原道真 編?)から、菅原道真(作?)の漢詩: 

           (詳細は 閑話休題209 参照) 

秋山寂寂葉零零, 秋山 寂寂(セキセキ)として葉 零零, 

麋鹿鳴音数処聆。 麋鹿(シカ)の鳴く音(ネ) 数処に聆(キ)く。 

勝地尋来遊宴処, 勝地(ショウチ)に尋(タズネ)来たり遊宴(ヨウエン)の処, 

無朋無酒意猶冷。 朋(トモ)無く酒無し 意(イ)猶(ナオ) 冷(サム)し。 

 [註] ○寂寂:物寂しいさま; 〇零:(花や葉が)枯れておちる; 

  〇麋鹿:中国原産のシカの一種、四不像とも言う; 〇聆:聞く、じっと 

  聞く; 〇勝地:景勝の地; 〇朋:友達; 〇冷:さむい、つめたい。 

<現代語訳> 

秋山は寂しく落葉ふりしきり,

鹿の鳴く声 かなたこなたに聞こゆ。

勝景を愛して人は来たり遊べど、

友はなく酒なく わが心さびし。

<簡体字およびピンイン> 

秋山寂寂叶零零, Qiū shān jí jí yè líng líng,      [下平声九青韻]

麋鹿鸣音数处聆。 mílù míng yīn shù chù líng.  

胜地寻来游宴处, Shèng dì xún lái yóu yàn chù, 

无朋无酒意犹冷。 wú péng wú jiǔ yì yóu lěng.    [上声二十三梗韻]

 

  • 『こころの詩(ウタ) 漢詩で詠む百人一首』から、筆者の翻訳詩: 

 

 季秋有懐    季秋に懐(オモ)い有り   [上平声四支韻] 

遥看深山秋色奇,遥かに看(ミ)る深山 秋色奇(キ)なり, 

蕭蕭楓景稍許衰。蕭蕭(ショウショウ)として楓の景(アリサマ)に稍許(イササ)か衰えあり。

呦呦流浪踏畳葉,呦呦(ヨウヨウ)鳴きつつ畳(チリシイ)た葉を踏んで流浪(サマヨ)うか,

聞声此刻特覚悲。鹿の鳴き声を聞くその時こそ 特に秋の悲しさを覚える。

 註] ○季秋:晩秋; ○蕭蕭:木の枝が風に鳴って寂しげなさま; 

  ○稍許:少しばかり; ○畳:散り敷く; 〇呦呦:鹿の鳴き声。 

<現代語訳> 

 晩秋の懐い 

遥かに遠く奥山に目をやると鮮やかな秋の彩である、 

物寂しく風にそよぐ紅葉、しかしその景色にやや衰えが見える。 

雌を求めて鳴き鳴き 散り敷く紅葉の葉を踏んで流浪(サマヨ)っているか、 

鹿の鳴き声を聞くその時こそ 秋の悲しみが一入深く感じられる。 

 

[考察]

『新撰万葉集』の漢詩について: 

1.『新撰万葉集』は、一般に、和歌の“漢詩訳書”(翻訳書)と捉えられている。

 この点、疑問に思われる。猿丸大夫の歌を対象に考えてみたい。 

  1. 猿丸の歌を“本歌”とした“本歌取り”の漢詩とみるべきである。

 (理由)猿丸の歌の主旨は、「鹿の鳴き声を聞く時こそ秋は悲しい」

 のに対して、『新撰万葉集』では、「鹿の鳴き声もさることながら、

 遊宴の地に居ながら、相棒はなく、お酒がないのが、一層寒々とする」 

 と、主旨・主張が異なる。 

 即ち、「猿丸大夫の和歌における主旨に思いを得て、さらに発展した"自ら

 の主張"を漢詩にしたものと考えられる。

  因みに、 筆者の漢詩では、晩秋の情景を背景に、主旨・主張は

 猿丸に合わせた。明らかに翻訳と考えている。  

  菅原道真と同時代の大江千里(チサト)は、漢詩の中の1句、例えば、

 白居易の「長恨歌」の一句、に思いを得て和歌を詠む“句題和歌”を 

 盛んに詠んでいた(『こころの詩(ウタ) .......』歌No.23参照)。 

 『新撰万葉集』の漢詩は、それと逆の手法を採ったものと推察する

 が如何? 

  即ち、定家によって確立され、実朝も得意とした「本歌取り」の技法に 

 倣って言えば、「“本歌取り”の漢詩」と定義できるのではないでしょうか。

3.ピンインで示したように、『新撰万葉集』の漢詩は、今日の規則に従え

 ば、正しい押韻とは言えない。但し、邦語の“音読み”では、“零”、“聆” 

 および“冷”のいずれも“レイ”であり、一見、同じ“韻”に思えるが。

 

目下、実朝・『金槐集』の歌の漢詩化を試みている。実朝の“思い”・“こころ”を伝えることを一義として、終始その思いを胸に 進めている。

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閑話休題370 金槐和歌集  年ふれば 宿は荒れにけり 鎌倉右大臣 源実朝

2023-10-02 09:02:21 | 漢詩を読む

久しぶりに、手入れも行き届かず荒れ放題にしていた故郷を訪ねたのでしょう。曽て愛でた梅の木は、老いたりと言えども、昔のまゝに花をつけ、芳ばしい香を漂わせている。ホッと、心の安らぎを覚える情景と言えようか。

 

ooooooooo  

  [詞書] 故郷梅花 

年ふれば 宿は荒れにけり 梅花    

  花はむかしの 香ににほへども  (『金槐集』春・31) 

 (大意) 年経て、宿は荒れてきたが、梅の花は昔のように芳ばしい香を 

  漂わせている。 

xxxxxxxxxx 

  故郷梅花   故郷の梅花   [去声二十六宥韻]

荏苒年忽邁, 荏苒(ジンゼン)として年は忽(タチマチ)に邁(ユ)き,

園哉自疏瘦。 園(ソノ)哉(ヤ) 自(オノ)ずから疏瘦(ヤセオトロ)えり。

蕭蕭梅老木、 蕭蕭(ショウショウ)たり梅の老木、

馥馥香依旧。 馥馥(フクフク)たりて香 旧に依(ヨ)る。

 [註] 〇荏苒:時がだんだんすぎていくこと; 〇疏瘦:荒れて痩せる; 

  〇蕭蕭:木の枝が風に鳴って寂しげなさま; 〇馥馥:香り立つさま; 

  〇依旧:元のままである、相変わらず。 

<現代語訳> 

  故郷の梅の花 

為すことのないまゝに年は忽ちに過ぎ、

我が園は荒れ、地は痩せてきた。

梅の老木は風にそよいで、寂しい音を立てている、

それでも花の香は昔のまゝに芳ばしく漂っているよ。 

<簡体字およびピンイン> 

  故乡梅花   Gùxiāng méi huā    

荏苒年忽迈,  Rěnrǎn nián hū mài,   

园哉自疏瘦, yuán zāi zì shū shòu

蕭蕭梅老木、 Xiāoxiāo méi lǎo mù,

馥馥香依旧。  fùfù xiāng yī jiù.       

ooooooooo  

  

小島吉雄『日本古典文学大系』(岩波書店)で、実朝の歌の“本歌”として次の歌をあげている。なお、この歌の漢詩訳は [『こころの詩(ウタ) 漢詩で詠む百人一首』(文芸社)]ご参照下さい。

 

人はいざ 心も知らず、ふるさとは 

  花ぞ昔の 香ににほいける  

     (紀貫之 『古今集』春上・42; 百人一首35番)  

 (大意) あなたの心など知るよしもないが、私の心の故郷であるこの土地で、

  梅の花は昔のまゝの香りで匂って、私を喜んで迎えてくれています。 

 

この歌は、貫之が、曽てよく利用した宿に泊まった際、久しぶりに再会した(女?)主人からいたずらっぽく「長らく見えなかったねえ、心変わりしたの?」と問われ、それに答えて即座に作った歌であるという。「この梅の花同様、心変わりなどないよ」と。梅の花一枝を手折って、この歌を添えて贈ったという。

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