愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題48 ドラマの中の漢詩 32『宮廷女官―若曦』-20

2017-08-26 11:03:45 | 漢詩を読む
ドラマの話を続けます。

若曦は、一本のローソクに火を点けて、独りで自分の誕生日を祝っています。フッとローソクの火を消して、寛ごうとしたその時、扉の向こうで、来客のお訪ない音が聞こえた。
急いでローソクを取り除き、仕舞い込んで、「どうぞお入りください」と招く。

「良妃に仕える宮女です。若曦さんが、宮女のハンカチに描かれた花柄が評判なため、良妃も依頼したいということで、お願いに参りました」と、若い女性が来訪の趣旨を伝えます。

良妃とは、康熙帝の側女、第八皇子の実母です。出自の家柄が必ずしも高くないということで、非常に控えめな生活を送っています。どうやら、赦免され、復位したとは言え、蟄居の身の第八皇子の手回しで、若曦の誕生日を祝うために、声を掛けさせたような気配です。

若曦が良妃を訪ねると、姉の若蘭も居あわせていた。良妃は、「今日は、あなたにハンカチの図案を描いてもらおうと呼んだの」と、改めて、呼んだ意図を伝えます。若曦は、「良妃のお目に止まり、光栄です」と、軽く会釈を返します。

良妃は、「私の好みを教えてあげて」と、若蘭に指図する。若蘭は頷いて、若曦を伴って、別室に行きます。“控えめな色合いがお好みです”と、若蘭の助言を聞くと、若曦は、早速、机に向かい、筆を執って、何枚かの図案を描きます。

若蘭姉妹は、出来た絵を持って、良妃の部屋に向かいます。良妃は、それらの絵を一枚一枚丹念に見比べた後、一枚をとり、「梨の花?ハンカチの図柄としては珍しいわ」と微笑んで、「これを刺繍して」と、宮女に指図します。

若曦は、「“丘 処機 (キュウ ショキ)”の歌った“無俗念”を表現しています」と、一言言い添えると、良妃も納得した風であった。

良妃と若曦両人の、心の通い合ったわずかな言葉のやり取りを理解するための手助けに、ここで、“丘 処機”ならびに彼の “無俗念”について触れます。“無俗念”は、その一部を末尾に挙げました。適宜参照しつゝ、読み進めてください。

ここで、蛇足を加えるなら、これまでに本稿で取り上げた作品はほとんど“詩”のジャンルに属するものでしたが、今回の作品は“詞”と分類される文学作品です。ある決まったメロデイーに合わせて歌う“歌詞”と考えてよいでしょうか。宋代に広く作られた詩体です。

丘 処機 (1148-1227)は、先に触れた蘇軾 (東坡;1037-1101)の約半世紀後に活躍した人です。ただし、これまでに本稿で触れた人物は、蘇軾はじめすべて詩人、政治家または官僚などでしたが、丘 処機は、異色の宗教人と言ってよいでしょうか。

丘 処機は、道教の流れを酌む一派の“全真教”の指導者の一人で、教えを修めたことを表す“真人”です。“全真教”とは、王重陽 (1112-1170)が、道教に加えて、儒教の朱子学および仏教の禅宗の教えを融合させようとする、儒仏道の「三教一致」を標榜した新しい教義の宗教です。

すなわち、道士の修練に関しては、自分自身の修行である“真功”と他者の救済を行う“真行”ともに全くする「功行両全」を主張している。その教えを修め、教勢の拡大に努めた七人の高弟たちは、特に“七真人”と呼ばれていて、丘 処機はその筆頭に当たるとされています。

丘 処機は、晩年、蒙古を統一して、西域に力を伸ばしつつあるジンギス・ハンを、その遠征地に、高齢を押して訪ねています(1220-1224)。その折、ジンギス・ハンから、「遠路はるばる来られたからには、朕に役立つ長生の薬を持ってこられたであろう」と下問された。

そこで丘 処機は、「衛生の道あり、されど長生の薬なし」と“全真教”の教えを説いています。すなわち、“不老不死の薬など迷信に過ぎない、養生の道こそが大切である” という意味である。ジンギス・ハンの信頼を得て、蒙古帝国の占領地での全真教保護の特許を得た と。

詞「無俗念」の話に戻って、この題及び作者からも推察できるように、宗教色が色濃く、抽象的で非常に難解な内容です。この詞全体は、20句からなり、末尾にはその前半を挙げました。この前半の趣旨は、真っ白い‘梨花は、高潔で、脱俗的な雰囲気を表徴している’ということに尽きると思われます。

詞の後半では、若い尼の“真人”について述べています。“肌は氷雪の如く、しとやかさは処女の如く”、と人物像が描かれています。前半の‘梨花’は、この人物を引き出すための序章部と考えてよいでしょうか。

ドラマの中で、良妃が、詞の内容を思い出しつつ、次のように諳んじており、後半の内容は、それら数言に尽きるように思われます:

“姿は見目麗しく、意気ごみ高潔なり。魂は気高く、才能傑出す。”

続けて良妃は、微笑を浮かべて、「ハンカチ図柄としては、荷が重すぎるわね。……着眼点が素晴らしいのね!」と満足げに、若曦の発想を讃えます。(第十話から)

以下の詞の解釈は、ネット上、主に次の記事を参考にしています。

古詩文網
http://so.gushiwen.org/view_71605.aspx

xxxxxxxxx

無俗念   丘 処機

<原文と読み下し文>
春遊浩蘯,是年年、寒食梨花時節。
…春遊(シュンヨウ)浩蘯(コウトウ)として,是 年年、寒食(カンショク) 梨花の時節。
白錦無纹香爛漫,玉樹瓊葩堆雪。
…白錦(ハクキン)無纹(ムモン) 香 爛漫(ランマン),玉樹(ギョクジュ)の瓊(ケン)たる葩(ハナビラ)雪 堆(ウズタカ)し。
静夜沈沈,浮光靄靄,冷浸溶溶月。
…静夜 沈沈(チンチン),浮光(フコウ)靄靄(アイアイ),冷たく浸(ソソ)ぐ溶溶(ヨウヨウ)たる月。
人間天上,爛銀 霞照通徹。
…人間(ジンカン) 天上,爛(ラン)たる銀 霞(カ) 照(ヒカリ)通徹(ツウテツ)す。

<語訳と解説>
・春遊:春の野遊び、浩蘯:広々としたさま。春遊浩蘯:芳草が生い茂り、花が満天に舞っている広々として晩春の野の情景を示している。
・寒食:清明節(四月五日頃)の前日。昔この日から三日間は食事のための火を使わず、冷たいものを食べたことから。寒食節ともいう。
・白錦無纹:文様の入っていない、あるいは汚れのない白い錦の織物。
・香爛漫:香る花、ここでは梨花、があざやかに咲き乱れている状況。
・瓊葩:玉のように美しい花びら、堆雪:雪が積もっている。梨の花の真っ白い花びらは、雪が積もっているように見えること。白梅や梨花など、真っ白い花の白さを良く雪で表現することが多い。
・浮光:水面で反射する光をいう。靄靄:雲や靄が蜜に集まるさま。
・冷浸:やや寒い夜気がしみ込んでくるような景色、溶溶月:ひそかに開き始めた梨花が広がる月光の中にある。
・爛銀:鮮やかな白銀色の梨花。霞:夕焼け。照通徹:光が貫いている。

<現代語訳>
年ごとに芳草が生い茂る広々とした春遊びの野、寒食節のころ、ちょうど梨花の時節である。
汚れのない白錦の如く梨花が咲き乱れ、この樹の美しい花びらは雪化粧したように見える。
夜は静かに更けていき、月光は反射して靄が掛かったようで、夜気を帯びて広い野に注いでいる。
この世と天上と、鮮やかな雪明りの梨花と明るい月の光とが入り交じっていて、高潔で、脱俗的な雰囲気を醸し出している。
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閑話休題47 ドラマの中の漢詩 31『宮廷女官―若曦』-19

2017-08-15 14:48:15 | 漢詩を読む
ドラマの話に戻ります。

皇太子(第二皇子)は、蒙古王から皇帝へ献上された“馬”を無断で乗り回して、陛下の怒りを買い、廃嫡されることになりました。城内では、どの皇子が皇太子に指名されるのか、あるいは第二皇子の復位があるのか、噂で持ち切りです。

皇子たちの間でもそれぞれひそかに動いているようである。跡目を伺っていると思しき主な皇子は、第四皇子と第八皇子である。第四皇子組には第十三皇子が、一方、第八皇子組には第九、十および十四皇子が仲間として策を巡らしている。

第四皇子と第八皇子は、それぞれ、皇帝の胸の内について情報を得ようと、いろいろと手を尽くします。例えば、皇帝の傍で仕える若曦に尋ねることもあります。若曦は、「陛下たちの話す部屋の外にいるため、何ら知ることはありません」と。

ただ、第八皇子に対しては、「陛下は、第二皇子を溺愛している ということは、お忘れにならないように」と、復位の可能性があることをひそかに伝えます。第八皇子に対する“想い”が現れた一場面でもあります。

第四皇子は、現時点で具体的に何らかの策を講じようという気はないようです。第十三皇子の “もっと積極的に動くべきではないか“との進言に対して、「陛下の第二皇子に対する怒りは一時的なものだ、軽々しく動いてはならない」と、やはり慎重な態度です。

第八皇子は、第二皇子に対する陛下の心の内を読みかねているようではある。しかし仲間たちが、“この機を逃してはならない”、“多くの大臣が第八皇子に心をよせている”、“多くの大臣たちが推薦するとなれば、陛下も考慮する筈だ”と、強く説くのに心が動いている様子であった。

陛下の執務室:皇子たちはじめ主だった役人たちが顔を揃えている。陛下は、大臣たちから寄せられた上奏書の束を抱えて、憤怒の形相である。30人ほどの大臣が、“第八皇子を皇太子に推薦する”とする上奏があったようである。

陛下は、第八皇子に対して、「第二皇子は不適当ということか!朕は見る目がなく、暗愚だと言うことか」、「大臣たちを扇動して上奏させるなど、言語道断だ!」「八賢王と言われるが、抜け目のない男にしか見えない」……と。

若曦は、陛下が第二皇子を復位させる意向であるらしいとの感触を得て、第八皇子に軽挙を慎むように諫めようとしたが、齟齬があって連絡することができなかった。それとは知らず、第八皇子組は、大臣たちを動かして上奏書を挙げさせたようである。

結局、第八皇子は爵位を略奪。体を張って第八皇子を弁護した第十四皇子は、鞭打ち30回、30人の大臣は斬首……と、その場で厳しい判決が陛下から下された。

しばらく経って、第八皇子から若曦に一通の封書が届けられた。“案ずるなかれ”と、一言認められてあった。

明るい日差しの射すある昼間、籠を携えて庭にいた若曦の所へ、第十四と十皇子が訪ねてきます。「部屋に尋ねてみると、 “花摘みに行った”というからここに来た、今日は君の誕生日だろう、特別な贈り物を用意しているよ」と。

若曦は、「誕生日など忘れているわよ、女なら年を取ることは忘れたいものよ」と取り合わない。「この花は数日中に摘まないと、来年まで見られなくなるのよ、それでは」と、皇子二人に別れを告げて、花を摘みにいきます。

別れ際に第十四皇子が、「折る価値ある花は、すぐに折るべし」と、言い含めるように言います。第十皇子が「どういう意味か?」と問うのに対して、第十四皇子と若曦は、直接答えることはなく、それとなく目配せをして、無言で別れて行きます。

さて、この「折る価値ある花は、……」の句は、末尾に挙げた詩の中の一句です。唐代の杜秋娘(ト シュウジョウ)の作とされている詩・「金縷衣(キンルイ)」の中の一句です。まずその詩に目を通して頂きたい。

ドラマの中で、第十四皇子がこの句を引用したわけは、まずは、若曦が花摘みに来ていることに掛けて、“時期を逸することなく,早く摘んで行きなさいよ”と言っているのでしょう。

しかし、かほど単純ではないように思われる。

先に、秦観の詩「鵲橋仙」の稿(閑話休題44)で触れたように、第八皇子と若曦はお互いに深い想いを抱く関係にあります。第十四皇子は、このことを充分に承知しています。
また第十四皇子は、これまでも事あるごとに、若曦に対して、“第八皇子の心の内は十分に分かっていよう。何故に側室として嫁がないのか”と詰問しています。

爵位を略奪された第八皇子は、目下失意の底にあります。それらの状況を念頭に、第十四皇子は、「お前だっていつまでも若くはないのだ。花を落した枝になる前に、心を決めなさいよ」と、若曦に対して決断を促しているのであろうと推察される。

さて若曦は、部屋に戻って、一本のローソクに火を点けて、両手を胸に当てて、「誕生日おめでとう!ここに来て幾度の誕生日を迎えたことであろうか」と、独り言ちます。

「金縷衣」の作者とされる杜秋娘についてちょっと触れておきます。杜秋娘は金陵(現南京市)生まれの美人で、才媛の歌妓であったらしい。杜秋娘がよくこの詩を歌っていたことから、彼女の作とされているようですが、唐代の成書では、作者不明とされている由。

杜秋娘は15歳でさる高官の側室を振り出しに、皇帝の側室、皇子の乳母、等々運命に翻弄されるようにして生きてきて、老いて金陵に戻った。そこで杜牧は偶々金陵を訪ねた折、杜秋娘から半生の話を聞く。杜秋娘の話に感ずるところがあった杜牧は、「杜秋娘詩」と題する長編の詩を書いています。(ドラマ第十話から)

xxxxxxxxxxx

金縷衣 ......杜秋娘

勧君莫惜金縷衣    君に勧む 惜しむ莫れ 金縷(キンル)の衣            
勧君須惜少年時    君に勧む 須(スベカ)らく惜しむべし 少年の時
花開堪折直須折    花開いて折るに堪えなば 直ちに須らく折るべし
莫待無花空折枝    花無きを待って 空しく枝を折る 莫れ  

[註]
杜秋娘:“杜”が姓で、“秋”は名。“娘”は“お嬢さん”の意。
金縷の衣:金の糸で縁取りした立派な着物。富貴な生活のこと。
少年の時:若いとき。

【現代語訳】
金糸で縁取りした着物が着られる栄達にこだわることはない。
青春の日をこそ惜しむべきである。
花が咲いて手折る頃合いになったら、直ちに手折るがよい。
花が散ってしまってから、花のない枝を折るようなことはしなさんな。

閑話休題47 ドラマの中の漢詩 31『宮廷女官―若曦』-19

ドラマの話に戻ります。

皇太子(第二皇子)は、蒙古王から皇帝へ献上された“馬”を無断で乗り回して、陛下の怒りを買い、廃嫡されることになりました。城内では、どの皇子が皇太子に指名されるのか、あるいは第二皇子の復位があるのか、噂で持ち切りです。

皇子たちの間でもそれぞれひそかに動いているようである。跡目を伺っていると思しき主な皇子は、第四皇子と第八皇子である。第四皇子組には第十三皇子が、一方、第八皇子組には第九、十および十四皇子が仲間として策を巡らしている。

第四皇子と第八皇子は、それぞれ、皇帝の胸の内について情報を得ようと、いろいろと手を尽くします。例えば、皇帝の傍で仕える若曦に尋ねることもあります。若曦は、「陛下たちの話す部屋の外にいるため、何ら知ることはありません」と。

ただ、第八皇子に対しては、「陛下は、第二皇子を溺愛している ということは、お忘れにならないように」と、復位の可能性があることをひそかに伝えます。第八皇子に対する“想い”が現れた一場面でもあります。

第四皇子は、現時点で具体的に何らかの策を講じようという気はないようです。第十三皇子の “もっと積極的に動くべきではないか“との進言に対して、「陛下の第二皇子に対する怒りは一時的なものだ、軽々しく動いてはならない」と、やはり慎重な態度です。

第八皇子は、第二皇子に対する陛下の心の内を読みかねているようではある。しかし仲間たちが、“この機を逃してはならない”、“多くの大臣が第八皇子に心をよせている”、“多くの大臣たちが推薦するとなれば、陛下も考慮する筈だ”と、強く説くのに心が動いている様子であった。

陛下の執務室:皇子たちはじめ主だった役人たちが顔を揃えている。陛下は、大臣たちから寄せられた上奏書の束を抱えて、憤怒の形相である。30人ほどの大臣が、“第八皇子を皇太子に推薦する”とする上奏があったようである。

陛下は、第八皇子に対して、「第二皇子は不適当ということか!朕は見る目がなく、暗愚だと言うことか」、「大臣たちを扇動して上奏させるなど、言語道断だ!」「八賢王と言われるが、抜け目のない男にしか見えない」……と。

若曦は、陛下が第二皇子を復位させる意向であるらしいとの感触を得て、第八皇子に軽挙を慎むように諫めようとしたが、齟齬があって連絡することができなかった。それとは知らず、第八皇子組は、大臣たちを動かして上奏書を挙げさせたようである。

結局、第八皇子は爵位を略奪。体を張って第八皇子を弁護した第十四皇子は、鞭打ち30回、30人の大臣は斬首……と、その場で厳しい判決が陛下から下された。

しばらく経って、第八皇子から若曦に一通の封書が届けられた。“案ずるなかれ”と、一言認められてあった。

明るい日差しの射すある昼間、籠を携えて庭にいた若曦の所へ、第十四と十皇子が訪ねてきます。「部屋に尋ねてみると、 “花摘みに行った”というからここに来た、今日は君の誕生日だろう、特別な贈り物を用意しているよ」と。

若曦は、「誕生日など忘れているわよ、女なら年を取ることは忘れたいものよ」と取り合わない。「この花は数日中に摘まないと、来年まで見られなくなるのよ、それでは」と、皇子二人に別れを告げて、花を摘みにいきます。

別れ際に第十四皇子が、「折る価値ある花は、すぐに折るべし」と、言い含めるように言います。第十皇子が「どういう意味か?」と問うのに対して、第十四皇子と若曦は、直接答えることはなく、それとなく目配せをして、無言で別れて行きます。

さて、この「折る価値ある花は、……」の句は、末尾に挙げた詩の中の一句です。唐代の杜秋娘(ト シュウジョウ)の作とされている詩・「金縷衣(キンルイ)」の中の一句です。まずその詩に目を通して頂きたい。

ドラマの中で、第十四皇子がこの句を引用したわけは、まずは、若曦が花摘みに来ていることに掛けて、“時期を逸することなく,早く摘んで行きなさいよ”と言っているのでしょう。

しかし、かほど単純ではないように思われる。

先に、秦観の詩「鵲橋仙」の稿(閑話休題44)で触れたように、第八皇子と若曦はお互いに深い想いを抱く関係にあります。第十四皇子は、このことを充分に承知しています。
また第十四皇子は、これまでも事あるごとに、若曦に対して、“第八皇子の心の内は十分に分かっていよう。何故に側室として嫁がないのか”と詰問しています。

爵位を略奪された第八皇子は、目下失意の底にあります。それらの状況を念頭に、第十四皇子は、「お前だっていつまでも若くはないのだ。花を落した枝になる前に、心を決めなさいよ」と、若曦に対して決断を促しているのであろうと推察される。

さて若曦は、部屋に戻って、一本のローソクに火を点けて、両手を胸に当てて、「誕生日おめでとう!ここに来て幾度の誕生日を迎えたことであろうか」と、独り言ちます。

「金縷衣」の作者とされる杜秋娘についてちょっと触れておきます。杜秋娘は金陵(現南京市)生まれの美人で、才媛の歌妓であったらしい。杜秋娘がよくこの詩を歌っていたことから、彼女の作とされているようですが、唐代の成書では、作者不明とされている由。

杜秋娘は15歳でさる高官の側室を振り出しに、皇帝の側室、皇子の乳母、等々運命に翻弄されるようにして生きてきて、老いて金陵に戻った。そこで杜牧は偶々金陵を訪ねた折、杜秋娘から半生の話を聞く。杜秋娘の話に感ずるところがあった杜牧は、「杜秋娘詩」と題する長編の詩を書いています。(ドラマ第十話から)

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金縷衣 杜秋娘

勧君莫惜金縷衣    君に勧む 惜しむ莫れ 金縷(キンル)の衣            
勧君須惜少年時    君に勧む 須(スベカ)らく惜しむべし 少年の時
花開堪折直須折    花開いて折るに堪えなば 直ちに須らく折るべし
莫待無花空折枝    花無きを待って 空しく枝を折る 莫れ  

...[註]
.....杜秋娘:“杜”が姓で、“秋”は名。“娘”は“お嬢さん”の意。
.....金縷の衣:金の糸で縁取りした立派な着物。富貴な生活のこと。
.....少年の時:若いとき。

【現代語訳】
金糸で縁取りした着物が着られる栄達にこだわることはない。
青春の日をこそ惜しむべきである。
花が咲いて手折る頃合いになったら、直ちに手折るがよい。
花が散ってしまってから、花のない枝を折るようなことはしなさんな。

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閑話休題46 飛蓬―漢詩を詠む -2

2017-08-05 17:16:00 | 漢詩を読む
筆者が楽しみとしている一つは、時に旅に出ることです。特に印象の深かった旅については、「飛蓬―漢詩を詠む」と題して、紀行文と漢詩で旅の様子を綴って行こうか と思っています。

先に取り上げた“屋久島 縄文杉”の話題(閑話休題 40、2017. 6. 4 投稿)を第一回目として、シリーズで進めていく予定にしています。

今回は、5月23-24日、朝来竹田(あさごたけだ、兵庫県)の竹田城を目指しました。今回、幸運と言うべきか、近郊に「大将軍スギ」と呼ばれている古木のあることを知り、足を伸ばしてお目に掛かってきました。

朝来竹田は、関西から車で、京都縦貫自動車または中国縦貫自動車道-播但道路有料道路を経て、約1時間半の旅程です。

朝来竹田の街に入ってまず気付くことは、武家家屋風の建物で、黒瓦の屋根が連なる裕福な城下町という風情です(写真1)。主幹通りを、JR播但線の線路を越して、一筋山側に入ると“寺町通り”があります。
写真1


この通りに沿って、屋根付きの白壁が続きます(写真2)。白壁の奥は、数軒のお寺が連なり、歴史上の家系のお墓があるようです。通りと白壁との間には、小堀があり、清流には色とりどりの大きな鯉が悠々と泳いでいる。
写真2


松の木は、独特な雰囲気を醸し出す木ですが、小堀に沿う松並木は、“寺町通り”をより一層深遠な感じの世界にしているようです。5月ゴールデンウイーク明けで、旅行客の疎らなこの時期、絶好の散策路でした。

目指す竹田城:その全景を写真3に示しました。これは竹田城入口近くの道路わきに設けられた立て看板の写真です。まず石垣遺構が目を引きます。昔は、天守台、本丸を中心にして、三方に向けて放射状に曲輪が設けられていたらしい。
写真3


当初の築城当時は土塁であったらしいが、城主赤松広秀が、1585年総石垣造りとした と。関ケ原の合戦のおり、西の豊臣方に付いて、敗戦、廃城となる。しかしこの石組は、往時の姿を今に残し、実存する石垣遺構として、全国屈指の規模である由。

石組を目立たせているのは、この山の異様さにもよるのであろう。この山は、虎が臥せているように見えることから、別名“虎臥城”とも呼ばれている と。

写真3で、山の向こうに白雲が浮いているのが見えます。秋のよく晴れた朝、街を流れる円山川から濃い霧が発生して竹田城を取り囲み、まさに山城が雲海に浮かぶように見えるという。そこで、“天空の城”とか、日本の“マチュピチュ”と呼ばれているようです。

竹田城に到る道路はよく整備されているが、上り下りの多い道で、健脚向きと言えよう。城の域に入ると、登城道は、絶えず石垣を身近に見ながら、例に漏れず、敵の侵入・行動を妨げるよう右に左に向きを変えて登っていく(写真4)。
写真4


写真4で、中央上部にポツンと孤立しているのは松の木です。山の麓に広がる山間の集落は朝来竹田。この街中(まちなか)の見晴らしの良い箇所から竹田城跡を見上げると、この一本松が天空に突き刺さっている風景が、印象的に望めます。

本丸を中心に3方に向かう翼の一方の曲輪跡の広場では、現在、桜の大木が林立している。花の季節には見事な展望を見せてくれるのでしょう。他の翼の広場では、濃い緑の芝生の間に散策路が整備されていて、周囲の展望を楽しむことができる(写真5)。
写真5


この広場には、松の木が点在して、植っている。写真中央に角ばって、一段高く見える石垣組の段は本丸跡です。なお、撮影者の後方、城域の端にもう一本松の木があります。それが街中から遠く望むことが出来た一本松である。

この旅で、想定外にもっとも印象深かったことは、“宿”であった。写真1は、“宿”の本館です。“宿”の名は、ホテルEN。アルファベットでENです。そのデザイン化したのが写真1で見える白丸二つ。

この“宿”の由来については、立て看板の内容(写真6)を読んで頂きましょう。写真7~10にその実際の様子を挙げました。その印象的な、ユニークな佇まいを篤と見て頂きましょう。
写真6


写真7:ホテルのフロント


写真8:ベッドルーム(奥)と寛げる居室(手前)を仕切る襖(ふすま)。襖には墨絵が描かれている。この襖の桟(さん)は、拳骨で軽く叩くと、金属性の堅い音がする。材は黒檀であろう と読んだ。


写真9:天井側に目を遣ると欄間。透かし彫の板が左右ペアで嵌め込まれている。この写真中央は、女性がバケツを抱えて振り向いている姿である。左側の対の板は、線状の棒/紐に蔓性の植物が巻き付いた透かし彫りとなっている。その心は、「朝顔やつるべとられてもらい水」(加賀千代女) と読んだ。


写真10:フランス料理を売りにしているレストラン:高天井のがっちりした骨組みの和風建築。かつては酒を寝かせる貯蔵庫であった由。天井から下がる“シャンデリア”も様になっています。


標榜するフランス料理は、材料、盛り付け・味ともに佳。料理に携わる“シェフ”のセンスの良さが窺い知られて、敢えてお目に掛かって見ると、意外と若い方で驚いた次第である。

以上、今回は、意外性の強い、深く印象に残る旅であった。いわゆる“和洋折衷”ではなく、“和洋両立”の精神、すなわち、“古(いにしえ)の和”が古(ふる)さを感じさせることなく、“モダンな洋”としっかりと両立している状況を目撃したように思う。

この旅の模様を、感興の湧くまま漢詩にしてみました。末尾に挙げてあります。目を通して頂きたいものです。

写真1

なお、この旅は、娘たちの好意により実現したものです。感謝不尽!

[付記]
朝来竹田から、竹田城の麓を通って山道を西へ車で約20分。藤和峠の道路脇に「大将軍スギ」として、地元で崇められている杉の古木がある(写真11)。由来は、約700前に遡る古木で、その枝ぶりが特異である。根回り11.6m、樹高35m、枝張り東西26m、南北26m(1978の記事)。
写真11


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遊逛朝来竹田...........朝来竹田(チョウライチクデン)に遊逛(ユウキョウ)す

松樹萧萧寺廟街、 松樹(ショウジュ)萧萧(ショウショウ)として寺廟(ジイン)の街(トオリ)、
瓦屋波浪起伏栄。 瓦屋(ガオク)の波浪(ハロウ)起伏(キフク)して栄(サカ)ゆ。
清麗孤松遥看見、 清麗(セイレイ)の孤松(コショウ) 遥(ハル)かに看見(カンケン)されて、
古城旧址在天空。 古城の旧址(キュウシ) 天空(テンクウ)に在(ア)り。
昔時造酒木村店、 昔時(セキジ) 酒を造(ツク)りし木村の店、
今日賓馆给軽松。 今日 賓馆(ヒンカン)として軽松(ケイショウ)を给(アタ)う。
把庫房為法菜廳。 庫房(コボウ)を把(ト)って法菜庁(ホウサイチョウ)と為(ナ)す。
看祖遺産在生動。 看(ミ)よ 祖(ソ)の遺産 生動(セイドウ)して在(ア)り。

註]
2017年5月23~24日 朝来竹田(アサゴタケダ)を訪ねる
寺廟街:寺町通り
瓦屋:瓦屋根の日本家屋
波浪起伏:波浪がうねりをなしているさま、軒を連ねているさま
看見:目に入る
木村店:旧日本木村酒造所、現在ホテルENとなっている
軽松:リラックスする、気が休まる
庫房:昔の酒の貯蔵庫、現在レストランとして活用
法菜廳:フランス料理専門のレストラン
生動:活き活きとしているさま

<現代語訳>
 朝来竹田に遊ぶ
松並木に萧萧として風が渡る寺町通り、
街は瓦屋根の日本家屋が波のうねりの如く栄えている。
丘の上を望めば美しい姿の一本松が遥かに目に入る、
そこは天空城と呼ばれ、石垣が残る古城の跡である。
昔日、お酒を造っていた旧木村酒造場、
今日、ホテルENとして、疲れを癒してくれる場を提供している。
嘗ての酒の貯蔵庫は、フランス料理のレストランだ。
見よ、ご先祖から受け継いだ町の遺産すべてがいきいきとしているではないか。

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