愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題93 酒に対す-15; 王維:少年行

2018-11-27 16:15:01 | 漢詩を読む
この一句:
 新豊(シンポウ)の美酒 斗(ト)十千(ジッセン)

“新豊の美酒”とは、漢の時代に生まれたという高級なお酒のようです。唐の都長安の酒場で、粋な若者たちが自家用車ならぬ馬で駆けつけてきて、意気投合した者同志がこの“美酒”を酌み交わす。話題は何だったのでしょうネ?

爛熟期の唐の都の賑わいが目に浮かびます。王維が描いた唐の一情景です。楽府題の「少年行」(少年の歌)と題するその詩は下に示しました。

“新豊の美酒”の誕生には、歴史的な大きな出来事が絡んでいるようです。

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  少年行四首     唐 王維 
 其の一 
新豊美酒斗十千、 新豊(シンポウ)の美酒 斗(ト)十千(ジッセン)、
咸陽遊侠多少年。 咸陽(カンヨウ)の遊侠(ユウキョウ) 少年多し。
相逢意氣為君飮、 相逢(アイア)うて 意氣君が為に飮む、
繋馬高楼垂柳辺。 馬を繋(ツナ)ぐ 高楼垂柳(スイリュウ)の辺(ホトリ)。
 註]
  新豊:地名
  斗:一斗、約1.8リットル
  十千:一万銭(の価値がある)
  咸陽:秦の都、此処では長安
  意氣:意気投合する
  高楼:妓女のいる酒場

<現代語訳>
 少年行四首 其の一
新豊のうま酒は、一斗が一万銭もする高価なお酒、
長安の都では粋な若衆が屯している。
おー、と出会って意気投合、親しく酒を酌み交わす、
乗ってきた馬は、高楼の前、しだれ柳の辺りに繋いで。
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作者王維については、これまでに何度か触れていますので、ご参照願いたい(閑話休題35、51、52および63)。

“新豊”は、現在の陝西省西安市臨潼区で、西安市の東部、驪山の麓にある。古代から近代に至る歴史的な名所旧跡が多く残る場所である。参考の為、主なものを列挙するなら新石器時代の仰韶(ギョウショウ)文化遺跡がまず筆頭か。

秦代の始皇帝陵墓、兵馬俑(写真1)、始皇帝が焚書坑儒で儒者を穴埋めにしたと伝えらえる遺蹟、項羽と劉邦の会談が行われた‘鴻門の会’跡地など。唐代の華清宮遺蹟、近代では西安事件で蒋介石が身を隠した場所の兵諫亭 など。


写真1:兵馬俑(Oct. 21, ‘15撮影)

“新豊”の名および“新豊の美酒”の由来について[後注]:

秦始皇帝が没した(BC210)後の秦代末、再び世は乱れますが、劉邦(BC256?~BC195)が項羽(BC232~BC202)を降して漢帝国を建て、都を長安に置きます。以後前漢(BC202~AD8)として200年強安定した世が続きます。

前漢の初代皇帝・劉邦(通常は廟号の高祖と呼ばれている)の生まれ故郷は、沛県豊邑中陽里(現江蘇省徐州市豊県)である。劉邦は、沛県豊邑で一介の亭長であったが、世の乱れに乗じて県令となり、仲間を増やして、幾多の戦歴を重ね、皇帝に上り詰めた。

高祖の父・太上皇も、長安に居を移したが、故郷の“豊”を恋しく思う気持ちが昂じてきた。そこで高祖は、長安城内に“豊”の風景を再現した地区を建設させ、故郷の“豊”に因んで“新豊”と名付けた と。

“新豊”建設後太上皇は、さらに故郷のお酒の味が忘れられず、それを飲みたい との希望が強かった。高祖は直ちに故郷から酒造の匠を呼び寄せ、“新豊”でお酒を造らせた。そのお酒が、以後“新豊の美酒”として、名が知られるようになった と。

このお酒は、王維たちの唐代に至る少なくとも900年以上“新豊の美酒”として、文人墨客に親しまれて詩などに現れている と言うわけである。

“新豊の美酒”が、今日なお味わうことができるか否か、また黄酒(醸造酒)なのか白酒(蒸留酒)なのかも不明である。

劉邦と項羽の漢楚戦争で代表される秦末の動乱期は、非常に短期間ではあったが、三国時代同様、特に人間模様に興味をそそられる期間です。以後いくつか関連のある漢詩を読みながら、この動乱期について振り返ってみたいと思っています。

注:<https://baike.baidu.com/item/新丰酒> 参照
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閑話休題92 飛蓬-24 -ハルピン旅行 (2)

2018-11-13 16:09:13 | 漢詩を読む
このハルピン旅行では思わぬ深省すべき事態に遭遇した。ちょっとした通路の窪みに足を取られるとか、また草むら中の木の切り株に躓いて転倒するという経験をしたのである。

もっとも、リュックを片方の肩に掛けて、不安定な態勢で先を急いだとか、不注意が重なった結果であるとの思いはあるが、真摯に深省し、向後の参考としなければならないか と。

駑馬の身、分不相応にして、かつ非常に恐れ多いことながら、転倒の後、我に返ると、かの大英傑・曹操の詩「亀雖寿」の“老驥 櫪に伏すも、…”が、頭を過ったのです。その折の想いを七言絶句にしました。下記をご参照下さい。

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旅途上有憶 (下平声 陽韻)

序)不加小心給隱藏在草叢里的樹墩絆倒、知応該考慮一下年齢了。緬懷了朝着‘中華統一’活動中経歴赤壁(烏林)之戦的曹操的心里。

序)不加小心(フチュウイ)に草叢(ソウソウ)に隱藏(カクレ)し樹墩(キリカブ)に絆倒(バントウ)し、歳を考慮すべき年齢となるを知る。‘中華統一’を目指せし活動中、赤壁(烏林)の戦いを経験せし曹操の心里(ムネノウチ)を緬懷(ツイソウ)す。 

老驥伏櫪志天翔,老驥(ロウキ) 櫪(レキ)に伏(フ)すも 志(ココロザシ)は天に翔(カケ)る,
神亀騰蛇也無常。神亀(シンキ) 騰蛇(トウダ) なお常ならず。
応知天意烏林戦,応(マサ)に天意を知る 烏林の戦,
曹操忍受魏国王。曹操 忍受(ニンジュ)す魏国王。

註] 曹操の詩「亀雖寿」に拠る。
不加小心:‘小心’は‘注意する’‘気を付ける’の意で、‘不加小心’は‘不注意にもうっかりと’
隱藏:人に見られないようにかくれる
樹墩:木の切り株
絆倒:ものにつまずいて転倒する
朝着: ….に向かって、….を目指して
緬懷:追懐する
烏林戦:208年、長江流域の烏林において劉備(蜀)・孫権(呉)連合軍に曹操(魏)が破れた通称「赤壁の戦い」。この結果、魏・呉・蜀の三国分立に至った。
老驥:老いた駿馬
櫪:かいば桶、馬小屋
神亀:神聖な亀、長寿の象徴
騰蛇:龍の類で、空中を自在に横行する神秘的な動物 

<現代語訳>
旅先で想い起すこと有り
 序)旅先で不注意にもうっかりして草むらに隠れた木の切り株につまずいて転倒し、歳を気にしなくてはならない程年を重ねたことに気付いた。中華の統一に向けて活躍している途上、“赤壁の戦い”に敗れるという経験をした曹操の胸の内は、斯くあらんか との想いが頭をよぎった。

老いた駿馬は、小屋に横たわっていようとも想いは天高く駆け巡るのだが、
神聖な亀や空を飛び巡る騰蛇と言えども、常ならず命の尽きる時はあるのだ。
赤壁の戦いでの敗戦で天意を悟ったに違いない、
曹操は、天下統一の夢は次代に託して、敢えて魏国王に留まった。
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本稿の“酒に対す”のシリーズで、曹操の事績について、“赤壁の戦い(208)”に至るまでをすでに触れてきました(閑話休題89、90 参照)。ここで“赤壁の戦い”その後について、簡単にみておきます。

その後も戦に明け暮れる日々であり、幾多の戦いが繰り広げられていました。それら戦さはさておき、筆者が最も関心を寄せている点は、“赤壁の戦い”の翌209年を最初に、「求賢令」という人材登用を促す令を出していることです。

先に曹操の詩「短歌行」を読んだ際、“優れた人材を切に求めている”という趣旨の句に触れました(閑話休題89 参照)。「求賢令」とは、まさにその政策の具体的な実施令ということであり、なお気炎万丈であることを示している。

一芸に秀でている人、武芸、政治、文学、…その分野は問わない。その優れた才以外、その人格、品行、所業、家柄、等々、一切不問 という-「唯才是挙」、非常に大胆な求人令で、革命的な発想であると言える。

前漢の第7代武帝(在位BC141~BC87)の頃、礼を尊ぶ孔子の教え“儒教”が国教化された(?)と言われている。それ以来、後漢末に至る300年以上経って、官僚から庶民まで“儒教”の教えに染まっている時代に である。

曹操の身近な人々でさえその令に抵抗感を覚えた人々がいたようです。ましてや各地の推挙に携わる人々の選択基準は推して知るべし でしょう。推挙されてくる者は“品行方正の優等生”ばかりだ、と、曹操は憤慨しきりであった と。

初回の発令以後、214年、217年と、3度にわたって令を発している。思いに叶う人材の発掘は思うに任せなかったのでしょう。順次、令の内容もより激しくなっていった と。

196年、曹操は、本拠の許昌に献帝(在位189~220)を迎え入れています。政治家・曹操の真骨頂ということでしょう。216年、献帝が治める帝国内の一王国として魏を建国、魏王に封じられる。一方、後漢帝国の大将軍、丞相でもある。

220年3月15日、曹操は病のため没し、後漢の丞相として生涯を閉じました。長子の曹丕が後を継ぎ、同年11月25日、献帝から帝位を禅譲されて帝位についています。その折に曹操は、太祖武帝と追号された と。

本題の詩に戻ります。躓き転んで、曹操の赤壁での敗戦を想い起こし、当時曹操の思いは如何ばかりであったか と考えたのでした。“駑馬の如きが、駿馬の喩に倣うとは何事か!”とのお叱りは甘受した上で、また自らに向けた反省点でもありました。

「亀雖寿」が作られたのは“赤壁の戦い”の1年前(207)とされています。50歳を過ぎたころです。当時としては、老齢の域でしょうか。曹操自身は、“老い”を感じていたのでしょうか、“烈士 暮年 …”と詠っていましたが。

“赤壁の戦い”に敗れて、“残念!”という想いはあった筈です。しかし敗戦の翌年には「求賢令」を発して、気炎を吐いています。まさに“壮心 已まず”です。

曹操は、実際には後漢を背負う力を持ちながら、すでに無力となっている献帝を奉戴して、後漢の臣として通しました。周囲から帝位簒奪の意を問われると、「自分は周の文王たればよい」と答えた と。

なお周昌(後の周文王)は、三公の一人として殷に仕えつつ領地の豊邑(現長安の近く)で善政を行い、力を蓄えた。力は持ちながら、最後まで殷への臣従を貫いた。この文王に倣うということである。実際に殷を滅ぼし、周を建国したのは、子の武王でした(BC1023 ?)。

200年代、世は乱れ、群雄割拠して戦に明け暮れ、民は困苦の底にあった。皇帝を詐称する人も現れる時代である。そんな折、“帝位”を得たとしても、何ら世直しには役に立つものではない。却って混乱は増すばかりであろう。

「今は時に非ず。魏王に甘んじ、人材を集め、国力の増強に努め、全土統一、真の世直しは次の世代に託そう」と、これが天意である と悟ったのではないでしょうか。

自ら躓き転んだのを機会に、兼がね、英傑の”大いさ”に感じ入っている想いを詩として詠んでみた次第です。

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閑話休題91 飛蓬-23 -ハルピン旅行 (1)

2018-11-05 16:03:35 | 漢詩を読む
去る6月中旬中国北部のハルピン市を訪ねた。観光スポットを忙しく歩き回る、いわゆる団体の観光旅行ではない。マイクロバスに揺られて、あるいは自らの脚で歩き回る、のんびり旅であった。

北摂で中国語会話教室やお茶を飲みながら会話を楽しむ“茶話会”を主宰する先生のお里帰りに便乗した生徒たちの小集団で、いわば家族旅行のようなものである。現地での一切の行動は、現地在住の先生のお姉さんの手配に拠った。

右も左も山の島国に育った筆者にとっては、山の頂き・峰一つ見えない、まさに“大地”を実感させる、緑の大地に近代高楼が並び建つ情景は驚きであった。その他諸々感ずるところあり、下記の如く旅行の印象を律詩にしてみました。

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遊哈爾濱 (下平声先韻)
無山遼遠対江漣, 山無く遼遠(リョウエン)として江の漣(サザナミ) に対し,
龍塔高楼衝碧天。 龍塔(リュウトウ) 高楼(コウロウ) 碧天(ヘキテン)を衝(ツ)く。
鐘響教堂鴿聚舞, 鐘 響(ヒビイ)て 教堂(キョウドウ) 鴿(ハト) 聚(アツマ)りて舞い,
鶯啼公園太極拳。 鶯 啼(ナ)く公園には太極拳。
每逢遊点知発展, 遊点(ヨウテン)に逢每(アウゴト)に発展を知るが,
偶爾苦渋過去緣。 偶爾(タマ)に 苦渋(クジュウ) 過去の緣(エン)。
有如喜鵲挟大海, 喜鵲(キジャク) 大海を挟(ハサ)みて有るが如く,
相交使客感心円。 相交(アイマジワ)りて 客をして心 円(マドカ)なるを感ぜしめる。
註]
江漣:ハルピン市内を流れ、黒竜江に注ぐ松花江の緩やかな流れのさざなみ
龍塔:黒竜江電視台の電波塔で高さ336m     
教堂:聖ソフィア聖堂、現在は歴史博物館となっている
鴿:鳩
遊点:観光スポット
過去緣:満州事変以後の日本-ハルピンの過去にあった縁
喜鵲:カササギ(鵲) 七夕の夜翼を広げて天の川に橋を渡し、牽牛・織女の二星が会えるようにしたという伝説のある鳥
<現代語訳>
 ハルピンに遊ぶ
見渡す限り山一つない緑の大地、松花江は緩やかに流れてさざ波が広がり、
龍塔や林立する近代高層建築は青空に深く突き刺さっている。
聖ソフィア聖堂では鐘の音の響きに誘われて白いハトが群れをなして舞い、
鶯鳴く公園では人々が太極拳を愉しんでおり、人々は安寧な日々を送っている。
観光スポットを訪ねるごとに街の著しい発展の様子が知られるが、
たまに過去の日本-ハルピンの間の事跡に逢い、暗い思いになる。
日本海の大海を挟んで日本-ハルピン間に橋を渡す鵲がいるが如く、
お互い交流していると 暗い思いも何時しかなくなり、旅人の心を穏やかにさせるのである。
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一日微雨に逢ったが、総じて好天に恵まれて楽しい4泊5日の旅でした。

先ずハルピンの印象を一言で表現するなら、“広大な緑の大地に、横に、縦に現在進行形で伸びる発展・近代化の姿”と言えようか。

市中心部からちょっと郊外に出ると、写真1に見るように、林立したビルが目に入る。鶴首を視れば、建設はなお進行形であることを伺わせる。市街地区にあっても、古い建物は、新しい高層建築へと姿を変えつつある。


写真 1:ハルピン市のビルラッシュ

後に示す“ハルピン大劇場”のちょっと小高い所から俯瞰すれば、このようなビルが、少なくとも180度の視界に亘って林立している風景が目に入る(写真2)。


写真2:ハルピン大劇場から眺めたハルピン市内

このビル群を見ると、さぞかし人口の増加は激しかろうと想像されます。確かに現地人の話では、人口の増加は著しい と仰る。その程度を数値で確かめたい と調べてみました。

意外であるが、ネットの記事をみる限り、どうもすっきりとした数値に逢えなかった。曰く:市人口:1,064万人(2010年);市域全体:961.4万人、市区人口:約590万人(2015年);面積約53.100km2、人口1,098万人(2018年)。

一方、ジェトロ大連事務所による『ハルピン市概況』(2018年9月)によると、面積53,068km2、戸籍人口 995.21万人(2013年)、987.29 (2014)、961.40(2015)、962.10(2016)、955.00(2017)とかなりの減少である。

本来の住民(戸籍人口?)約950万人、流動人口約100万人か と自らを納得させる。しかし郊外に増えていく建物の数に見合う人口増は如何?という点にすっきりと回答を得ることができず、努力して調べた割には、“草臥れ儲け”か、とモヤモヤが残る。

街の発展の極め付きはハルピン大劇場であろう(写真 3)。土地の広大さを実感させる建造物の一つと言えようか。2015年12月完成、敷地面積 259,080m2、延床面積70,000m2、因みに東京ドウム建築面積の約1.5倍ということである。


寫眞 3:ハルピン大劇場(オペラハウス)

白アルミパネルの外壁は滑らかな曲線を描いてあり、周囲の風景に溶け込むよう設計された と。内にはオペラハウス(1,600人収容)と小劇場(400人収容)があり、大劇場はヤチダモの木で内装されていて、音響効果は素晴らしい と。

この施設は、オペラハウス及びカルチャーセンターとして活用されている由。なお当日は、催し物はなく、人出は少なかった。

今一つ縦に伸びた建物で黒竜江電視台の電波塔・龍塔(高さ336m)がある。東京スカイトリーができる以前は、東アジアで最も高い塔であった と。

ハルピンは、歴史的に北のロシア(またはソ連)や東の日本と深い関わりのあった街で、その遺蹟も多々ある。聖ソフィア大聖堂(写真4)もその一つである。かつては東方正教会の教会であったが、現在は歴史博物館となっている。



写真 4:聖ソフィア聖堂

街の中央 “中央大街”の近くに兆麟公園がある。抗日戦争で活躍した将軍李兆麟を記念した公園(写真 5)で、市中最も古い公園である由。かなり広い公園で、早朝新鮮な空気の中で、太極拳や健康体操(写真6)など、市民の憩いの場である。


写真 5:市中心部に位置する兆麟公園の門構え


写真 6:早朝の公園内の一画、健康体操を楽しむ人たち

“中央大街”は、日夜ともに賑やかである(写真 7)。この大通り周辺では、異国の料理を存分に楽しむことができる。時に‘試してみるか’という料理があり、その一つに“蚕料理”(写真 8)があった。正に一口試すだけに終わりましたが。


写真 7:中央大街の夜景



写真 8:中国料理店で味わった蚕料理

この旅で、特記したい一つは、ハルピン理工大学(写真 9)の職員の家庭2軒を訪問する機会が得られたことです。いずれの家庭も悠々と3世代が一緒に暮らしており、調度も整った環境の様でした。


写真 9:ハルピン理工大学

今年は、日中友好平和条約締結40年に当たり、日中間交流に雪解けの空気を感じるこの頃です。庶民・民間の交流もさらに深まっていくことを切に願う次第であります。

最後に、現地での先生のお姉さんのお心配り・手配りで素晴らしい旅行ができましたこと、心から感謝致します。

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