zzzzzzzzzzzzz -1
青年実朝の歌である。何と悲しいことであろう、肌には皺が寄り、頭は真っ白に……と。自然の景物・“雪”を種に白髪を連想して、自ら老人になり切って詠っている。
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[歌題] 雪
我のみぞ 悲しとは思ふ 浪のよる
山の額(ヒタヒ)に 雪のふれれば (金槐集 雑・578)
(大意) しわの寄った額に白髪の混じるのを悲しく思う。
註] 〇:浪のよる:皺のよること; 〇山の額:山腹の頂上に近いところ、
“ひたひ”に人の“額“を掛けている;○雪のふれれば:白髪の
まじる意を含めている。
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<漢詩>
山頭上雪 山頭上の雪 [上平声四支韻]
纏綿唯是我、 纏綿(テンメン)たり 唯(タ)だ是(コ)れ我のみならんか、
如此使人悲。 如此(コウモ) 人を使(シ)て悲しましむ。
山脚浪花濺、 山脚 浪花(ロウカ) 濺(ハネト)び、
額頭降雪滋。 額頭(ヒタイ)には雪の降(フ)ること滋(シゲ)し。
註] 〇山頭:山頂; 〇纏綿:思いがまといつくさま; 〇如此:このよう
に; 〇山脚:山のふもと、此処では山の岩場の波打ち際;
〇浪花:波しぶき; 〇濺:(液体が)跳ね上がる; 〇額頭:ひたい、
ここでは山頂。
<現代語訳>
山上の雪
私のみであろうか 纏わりついて、
こうも悲しい思いにさせられるのは。
波打ち際では、寄る浪が岩に砕けて波花が飛び散っており、
山頂では雪が頻りに降っている。
<簡体字およびピンイン>
山头上雪 Shān tóu shàng xuě
缠绵唯是我, Chánmián wéi shì wǒ,
如此使人悲。 rú cǐ shǐ rén bēi.
山脚浪花溅, Shān jiǎo làng huā jiàn,
额头降雪滋。 étóu xià xuě zī.
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先に、年取ると、時の経つのが早く感じられる、と老人の心の内を詠った歌を読みました(閑話休題357-1)。雑部で数首纏めて老人の思いを詠った歌を収めてあります。
実朝は、庶民、親無き幼子等々、世の弱者に慈悲の目を向けた歌を多く作っていることを、繰り返しみてきたが、老人も同様に対象の一つのようである。ただ客観的に状況を詠うことに留まらず、自ら老人になり切って、深い思いをもって詠っていることが窺えるのである。
zzzzzzzzzzzzz -2
箱根権現に続いて伊豆権現に詣でる行事、即ち、二所詣の対象の地、熱海・伊豆の話題である。伊豆山には“走り湯”と呼ばれる温泉がある。湧き出た湯が、迸(ホトバシ)り、海に流れていく。“走り湯”の所以であり、“伊豆”(出ず)の命名の基である。その湯の海へと流れる速さは、神の験(ゲン)が現れる速さと同じであるよ と。
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[歌題] 走り湯参詣の時
伊豆の国や 山の南に 出(イズ)る湯の
はやきは神の しるしなりけり
(金塊集 雑・643; 玉葉集 巻二十・神祇・2794)
(大意) 伊豆の国の山の南の温泉でお湯の出る勢いは、神の効験が大きく
速いのと同様である。
[註] 〇はやき:湯の湧き出る速度と神の効験の「はやき」とを掛けて
言っている。
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<漢詩>
伊豆走湯 伊豆の走り湯 [下平声十三覃韻]
駿河伊豆国, 駿河(スルガ)は伊豆の国,
泉水山南湧。 泉水(センスイ) 山南に湧(ワ)く。
迸出奇滾滾, 迸出(ホウシュツ)すること奇(キ)にして滾滾(コンコン)たり,
如神功效重。 神の功效(コウコウ)と重(カサナ)るが如(ゴト)し。
[註] ○走湯:温泉、特に伊豆の温泉の通称か; 〇泉水:温泉の湯;
〇迸出:勢いよく噴き出る; 〇滾滾:尽きることなく湧くさま;
〇功效:効験、神仏加護の効能; 〇重:重なる。
<現代語訳>
伊豆の走り湯
駿河の伊豆の国は、
山の南に走湯温泉があり、泉水が湧いている。
その湧き出る勢いは、尋常でなく、尽きることがなく、
その湧き出る速さは、神の効験の速さに重なるようだ。
伊豆走汤 Yīdòu zǒu tang
骏河伊豆国, Jùnhé yīdòu guó,
泉水山南涌。 quán shuǐ shān nán yǒng.
迸出奇滚滚, Bèng shè qí gǔngǔn,
如神功效重。 rú shén gōngxiào chóng.
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毎年詣でる伊豆権現の効験は、万代変わることはないであろう との趣旨の歌は、先に読んだ(閑話休題341-3)。
zzzzzzzzzzzzz -3
「東の国に居る」作者と「影となりにき」との関連を巡って、解釈に諸説ある非常に難解な歌である。本稿では、「東の国」を、“都の東方にあって”との方向に特別の意味はなく、“都から遥かに遠く離れた東国にあって”と解釈して、漢訳を進めた。
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[詞書] 太上天皇の御書下し預りし時の歌
ひんがしの 国にわがをれば 朝日さす
はこやの山の 影となりにき (『金槐集』 雑・662)
(大意) 私の身は都から遠く離れた東国にありますが、(吾が心は、)朝日が
射してできる藐姑射の山の影のように、常に上皇に浮き添っていきます。
[註] 〇はこやの山:藐姑射(はこや、上皇の御所)仙洞御所、ここでは
後鳥羽上皇を指す; 〇影となりにき:身に添う影のように相手の身に
従い離れないこと。
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<漢詩>
藐姑射山影 藐姑射(ハコヤ)の山影 [上平声七虞韻]
余身在東国, 余(ヨ)が身 東国に在(ア)りて,
渺渺隔長途。 渺渺(ビョウビョウ)として長途を隔(ヘダ)つ。
如旭為山影, 旭(アサヒ)の為(ナ)す山影の如(ゴト)くに,
心常與君俱。 心は常に君(キミ)與(ト)俱(トモニ)す。
註] 〇藐姑射:中国で不老不死の仙人が住んでいるという想像上の山、
ここでは後鳥羽上皇の御所であり、上皇を指す; 〇渺渺:遠く遥かな
さま; 〇長途:長い道のり; 〇俱:一緒にいる、同じところにある。
<現代語訳>
藐姑射(ハコヤ)の山影
私は東国にあって、
都から遥かに遠く離れた所にいる。
朝日が射して できる藐姑射の山の山影が、常に山に付き従うように、
私の心は いつも君と共にあります。
<簡体字およびピンイン>
藐姑射山影 Miǎo gūshè shān yǐng
余身在东国, Yú shēn zài dōng guó,
渺渺隔长途。 miǎo miǎo gé cháng tú.
如旭为山影, rú xù wéi shān yǐng,
心常与君俱。 xīn cháng yǔ jūn jū.
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冒頭で述べたように、“影となりにき”の解釈に3説ある:
- “身に添う影のように相手の身に従い離れない”ことの意。
- “自分が藐姑射の山に陰をつくることになってしまった」”との意。
- “(上皇の)庇護を受ける”との意。
(小島・『日本古典文学大系』に拠る)。
漢訳に当たっては、1.の解釈に従った。
実朝の歌の“本歌”とされる歌:
よるべなみ 身をこそ遠く へだてつれ
心は君が 影となりにき (読人知らず 古今集 巻十三・619)
(大意) 近づく(きっかけ)がないので 身は遠くはなれていいますが
心はあなたの影のようになって 傍に付き添っています。