前回、若曦が疾駆する馬に踏み倒されて自らの身に“衝撃”を与えようとした事件に触れた。そのすぐあとに第4皇子は、塗り薬を用意して来て、「治療に使え」と若曦に手渡す。第4皇子の心優しい一面が見られた。
また第4皇子は、「死ぬつもりか?。少なくとも2回目はそうであったろう?」と詰問する。若曦は、「生きるためです」と答える。第4皇子は、「俺が救った命だ!二度と粗末にするな!!」と念を押す。第4皇子の目線が高く、高飛車に振る舞う一面でもあった。
しばらくして宮廷の庭園で、若曦は、偶然に第4皇子に逢う。若曦は、心底逃れたい心境であったが、第4皇子は、疾駆する馬の前に立ちはだかりながら、「生きるためです」、という若曦の話に、「君の話には矛盾がある。わけを話してみよ」と迫る。
躊躇していた若曦は、意を決して、「譬えて話をします」と前置きして、次のように話した:「夢に迷い込んでしまった人が、現実に戻りたいともがいているのに、目が覚めないでいるのです。」と。2011年の現実に帰りたいという若曦の本音の表現と言えるでしょう。
第4皇子は、
「簡単だよ!“これを来せば、これを安んず”(注1)」。―若曦は、キョトン―
「“木は強ければ折れる”(注2)」。―やはり若曦は、キョトン―
「“馬の耳に念仏”(注3)か!」
と捨てセリフを残して、第4皇子は、その場を離れていきます。
禅問答のようで、難解な文句ですが、これら文句の真意を知るためには、原典に当たるほかなさそうです。注1および注2の出典は、それぞれ、孔子の『論語』、および『老子』のようです。本稿の守備範囲外の話題ですが。注3は、李白の詩と関連がありそうな慣用句と言えるでしょうか。
まず、注1の文句と、それを含む原文および読み下しと現代語訳を末尾に示しました。おおよその内容は汲み取れると思われますが、内容理解の助けとして、人物孔子およびその頃の時代背景について簡単に触れておきます。
孔子は、生誕BC552~没BC479年。同時代にインドではブッダ(BC563~BC483)が誕生、ほぼ70年間近く、両者は同じ太陽の下、また同じ月を眺めていたことになります。孔子、ブッダは、キリストを含めて思想家世界3大偉人とされるが、キリストより約500年以上前の人です。
当時、中国は春秋(BC722?~BC481)から戦国時代へと変わるころで、君主より家臣が実力を持ち、下剋上の乱れた世の中でした。孔子は、小国の魯(ろ、現山東省曲阜)に生まれ、若い頃、魯で官職についていました。のち(55歳)、弟子数人を伴って13年間の諸国巡遊に出かけています。
一方、周(現陝西省西安)の武王が殷王朝(現河南省安陽)を滅ぼし、周王朝を建国(BC1050)した折、彼の弟周公旦は、旧殷の役人や将軍・軍人に対して仁政をもって対処するよう建言して、周国の安定・繁栄に貢献しています。
その功により周公旦は、魯に封じられ、仁政を布いて堅固な魯国を築いています。世は推移して、約500年後、孔子が活躍した時代は、魯国にあっても乱れた世の中となっていました。
そこで孔子は、周公旦初期の時代を理想像として描き、仁道政治を実現し、乱れた世を糺していきたいと想いを巡らしていました。彼の教えは、儒教として‘四書・五経’に纏められていて、後世に伝えられていきます。
‘五経’の一つ『論語』は、孔子の没後、孔子と高弟たちの言行を蒐集し、512の短文からなる20編に整理され纏められた一文書です。
本題に戻って、引用した部分は、この『論語』中「季氏第十六」編の一部分です。季氏とは、当時魯国で君主を凌ぐ勢いで、最も強力な一貴族、‘季孫氏’のことです。顓臾(せんゆ)は、魯国内にあって、周以前の原住民の国で、魯の属国とのこと。
季氏十六-1は、季氏の家臣であり、かつ孔子の弟子でもある由(子路)と求(冉有・ぜんゆう)が、孔子に主君季氏の動静を伝えて、ご意見を伺っている場面です。その概要は:
“顓臾の国は、要害堅固、(季氏の領地の)費(ひ)の近隣にあり、今攻め落としておかないと、将来必ず子孫の悩みの種になる。よって征伐する。”と、季氏がことを起こそうとしている。それに対して孔子は、“顓臾は、魯国の領域内あり、また国家代々の臣であるのに、どうして征伐するのか”、“文化的な外交政策で来朝するようにすべきだ”と諫めています。
孔子の思想の一端が窺える部分と言えるでしょうか。
さて、文化的な外交政策により招来されるであろう“これを来せば、これを安んず” なる文句 が、ドラマの進展とどのように関わっているのか?第4皇子が発したその他の一連の文句も検討した上で、改めて考えることにします。
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論語 季氏十六-1
<原文>
季氏將伐顓臾。…(略)….。
孔子曰。……(略)…..。 夫如是。故遠人不服。則脩文徳以來之。既來之。則安之。今由與求也相夫子。遠人不服。而不能來也。……(略)。
<読み下し>
季(き)氏(し) 將(まさ)に顓臾(せんゆ)を伐(う)たんとす。…(略)….。
孔子(こうし)曰(いわ)く。…(略)…。 夫(そ)れ是(か)くの如(ごと)くなるが故(ゆえ)に、遠人(えんじん) 服(ふく)せざれば、則(すなわ)ち文徳(ぶんとく)を修(おさ)めて以(もっ)て之(これ)を来(きた)す。既(す)でに之(こ)れを来(き)たせば、則(すなわ)ち之(こ)れを安(やす)んず。今(いま) 由(ゆう)と求(きゅう)や、夫子(ふうし)を相(たす)け、遠人(えんじん) 服(ふく)せずして、而(しか)も来(きた)すこと能(あた)わず也。……(略)。
<現代語訳>
季孫(きそん)氏が顓臾(せんゆ)を征服しようとした。…(略)…
孔子は言われた。…(略)…。だからこそ、遠方の者が服従しなければ、文化的な徳義をととのえて、招きよせる。招きよせたならば、これを安定させる。今、由と求は、あのかたを補佐しながら、遠方の者は服従せず、招きよせることもできない。……. (略)。
井波律子著 『完訳論語』(岩波書店、2016)から引用
また第4皇子は、「死ぬつもりか?。少なくとも2回目はそうであったろう?」と詰問する。若曦は、「生きるためです」と答える。第4皇子は、「俺が救った命だ!二度と粗末にするな!!」と念を押す。第4皇子の目線が高く、高飛車に振る舞う一面でもあった。
しばらくして宮廷の庭園で、若曦は、偶然に第4皇子に逢う。若曦は、心底逃れたい心境であったが、第4皇子は、疾駆する馬の前に立ちはだかりながら、「生きるためです」、という若曦の話に、「君の話には矛盾がある。わけを話してみよ」と迫る。
躊躇していた若曦は、意を決して、「譬えて話をします」と前置きして、次のように話した:「夢に迷い込んでしまった人が、現実に戻りたいともがいているのに、目が覚めないでいるのです。」と。2011年の現実に帰りたいという若曦の本音の表現と言えるでしょう。
第4皇子は、
「簡単だよ!“これを来せば、これを安んず”(注1)」。―若曦は、キョトン―
「“木は強ければ折れる”(注2)」。―やはり若曦は、キョトン―
「“馬の耳に念仏”(注3)か!」
と捨てセリフを残して、第4皇子は、その場を離れていきます。
禅問答のようで、難解な文句ですが、これら文句の真意を知るためには、原典に当たるほかなさそうです。注1および注2の出典は、それぞれ、孔子の『論語』、および『老子』のようです。本稿の守備範囲外の話題ですが。注3は、李白の詩と関連がありそうな慣用句と言えるでしょうか。
まず、注1の文句と、それを含む原文および読み下しと現代語訳を末尾に示しました。おおよその内容は汲み取れると思われますが、内容理解の助けとして、人物孔子およびその頃の時代背景について簡単に触れておきます。
孔子は、生誕BC552~没BC479年。同時代にインドではブッダ(BC563~BC483)が誕生、ほぼ70年間近く、両者は同じ太陽の下、また同じ月を眺めていたことになります。孔子、ブッダは、キリストを含めて思想家世界3大偉人とされるが、キリストより約500年以上前の人です。
当時、中国は春秋(BC722?~BC481)から戦国時代へと変わるころで、君主より家臣が実力を持ち、下剋上の乱れた世の中でした。孔子は、小国の魯(ろ、現山東省曲阜)に生まれ、若い頃、魯で官職についていました。のち(55歳)、弟子数人を伴って13年間の諸国巡遊に出かけています。
一方、周(現陝西省西安)の武王が殷王朝(現河南省安陽)を滅ぼし、周王朝を建国(BC1050)した折、彼の弟周公旦は、旧殷の役人や将軍・軍人に対して仁政をもって対処するよう建言して、周国の安定・繁栄に貢献しています。
その功により周公旦は、魯に封じられ、仁政を布いて堅固な魯国を築いています。世は推移して、約500年後、孔子が活躍した時代は、魯国にあっても乱れた世の中となっていました。
そこで孔子は、周公旦初期の時代を理想像として描き、仁道政治を実現し、乱れた世を糺していきたいと想いを巡らしていました。彼の教えは、儒教として‘四書・五経’に纏められていて、後世に伝えられていきます。
‘五経’の一つ『論語』は、孔子の没後、孔子と高弟たちの言行を蒐集し、512の短文からなる20編に整理され纏められた一文書です。
本題に戻って、引用した部分は、この『論語』中「季氏第十六」編の一部分です。季氏とは、当時魯国で君主を凌ぐ勢いで、最も強力な一貴族、‘季孫氏’のことです。顓臾(せんゆ)は、魯国内にあって、周以前の原住民の国で、魯の属国とのこと。
季氏十六-1は、季氏の家臣であり、かつ孔子の弟子でもある由(子路)と求(冉有・ぜんゆう)が、孔子に主君季氏の動静を伝えて、ご意見を伺っている場面です。その概要は:
“顓臾の国は、要害堅固、(季氏の領地の)費(ひ)の近隣にあり、今攻め落としておかないと、将来必ず子孫の悩みの種になる。よって征伐する。”と、季氏がことを起こそうとしている。それに対して孔子は、“顓臾は、魯国の領域内あり、また国家代々の臣であるのに、どうして征伐するのか”、“文化的な外交政策で来朝するようにすべきだ”と諫めています。
孔子の思想の一端が窺える部分と言えるでしょうか。
さて、文化的な外交政策により招来されるであろう“これを来せば、これを安んず” なる文句 が、ドラマの進展とどのように関わっているのか?第4皇子が発したその他の一連の文句も検討した上で、改めて考えることにします。
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論語 季氏十六-1
<原文>
季氏將伐顓臾。…(略)….。
孔子曰。……(略)…..。 夫如是。故遠人不服。則脩文徳以來之。既來之。則安之。今由與求也相夫子。遠人不服。而不能來也。……(略)。
<読み下し>
季(き)氏(し) 將(まさ)に顓臾(せんゆ)を伐(う)たんとす。…(略)….。
孔子(こうし)曰(いわ)く。…(略)…。 夫(そ)れ是(か)くの如(ごと)くなるが故(ゆえ)に、遠人(えんじん) 服(ふく)せざれば、則(すなわ)ち文徳(ぶんとく)を修(おさ)めて以(もっ)て之(これ)を来(きた)す。既(す)でに之(こ)れを来(き)たせば、則(すなわ)ち之(こ)れを安(やす)んず。今(いま) 由(ゆう)と求(きゅう)や、夫子(ふうし)を相(たす)け、遠人(えんじん) 服(ふく)せずして、而(しか)も来(きた)すこと能(あた)わず也。……(略)。
<現代語訳>
季孫(きそん)氏が顓臾(せんゆ)を征服しようとした。…(略)…
孔子は言われた。…(略)…。だからこそ、遠方の者が服従しなければ、文化的な徳義をととのえて、招きよせる。招きよせたならば、これを安定させる。今、由と求は、あのかたを補佐しながら、遠方の者は服従せず、招きよせることもできない。……. (略)。
井波律子著 『完訳論語』(岩波書店、2016)から引用