前回の杜甫の故郷の話に続いて、洛陽郊外にある龍門石窟について触れます。龍門石窟は、中国観光の名所の一つであり、多くの旅行記を通じて広く紹介されています。
今更の感はありますが、本稿では、まず筆者の見た現在の龍門石窟の姿を紹介し、次いで、杜甫の詩を通して、完成した当時の石窟の様子を想像してみたいと思います。
龍門石窟では、懸崖の壁面に蜂の巣を思わせる大小無数の洞穴を穿ち、その中に仏像が刻まれています。圧巻は、中心部にある廬舎那仏の大仏像(写真1)であり、その彫刻の歴史も物語性に富んでいます。
写真1:廬舎那仏像 座高17 m(龍門石窟)
現在の石窟の佇まいを七言絶句の形で書いて見ました。下記ご参照下さい。以下、龍門石窟について、歴史的な面を含めて、簡潔に紹介して、杜甫が訪ねた完成当時の姿を想像するための橋渡しとします。
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拜訪龍門石窟(上平声 真韻)
瞭望薰風楊柳新、瞭望(リョウボウ) 薰風(クンプウ) 楊柳(ヨウリュウ)新(アラタ)にして、
懸崖万洞各仏宸。懸崖(ケンガイ)の 万洞(マンドウ) 各(ソレゾレ)仏の宸(シン)。
龍門大仏無言坐、龍門(リュウモン)の大仏は 無言で坐し、
脚下慢河寧静人。脚下(アシモト)には 慢(ユルヤカ)な河(カワ)と寧静(ネイセイ)の人。
註]
瞭望:展望する、遠く見渡す
寧静:安らかで静かなこと
<現代語訳>
龍門石窟を訪ねる
見渡すと、快い春風が吹き渡り、麓の柳の緑が改まっている、
断崖には無数の洞穴が穿たれてあり、それぞれ仏のお住まいとなっている。
龍門石窟の弥陀の大仏は、ただ無言で鎮座して見守っていて、
足元の伊河は緩やかに流れ、行き交う人々は心安らかである。
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龍門石窟は、洛陽の南約13 km、黄河の支流伊河のほとりにあります。北流する伊河を挟んで2山が対峙していて、宮城の門“門闕(ケツ)”のように見えることからこの辺りを“伊闕”または皇帝=竜の故に“龍門”(写真2)と称されるようになった由。
写真2:龍門石窟の“龍門橋”の一部
洞穴の大部分は伊河の左(西)岸/西山(写真3)にあり、廬舎那仏像も西山の中央部にある。壁面の大小さまざまな洞穴には仏像が彫られている。洞窟数:1,352個;大窟:西山28/東山7;仏像:97,306体とされている(日本大百科全書)。
写真3:龍門石窟西山の壁面
歴史的背景を覗いて見ます。三国分立時代からやっと晋が中国統一を果たしました(280)。しかし北方民族の侵入・圧迫を受けて西晋も間もなく滅びました(316)。その中枢は江南に逃れて、現南京を都として東晋を興します。一方、華北では“五胡十六国”時代と称されるように部族国家の乱立が続きます。
華北では、氐(テイ)族の国 前秦(苻堅)が一時華北の統一に成功しますが、全国統一を目指して東晋討伐軍を発します。90万とも言われる大軍を率いて臨んだにも拘わらず、東晋(謝玄)の8万の兵に惨敗を喫しています(淝水の戦い、383)。
前秦の衰えに乗じて、鮮卑(センピ)族の拓跋硅(タクバツケイ)が勢力を得て、自立し北魏(ホクギ)を興します(386)。拓跋硅は、平城(現山西省大同)を都と定め(398)、自ら帝を称します。第3代太武帝の時に華北統一に成功(439)し、此処に至って2大朝が並立する“南北朝時代”を迎えます。
1世紀以上にわたって小国が乱立した華北に対して、その間、東晋(南朝)では、国情が必ずしも安定していたとは言えないが、漢族を中心にして貴族文化が花開いていきました。陶淵明(365-427)が活躍したのもその頃でした。
統一された華北の北魏では、支配層は胡(コ)族でしたが国民の大部分は漢族です。また対する南朝では文化が花開いていることを目の当たりにして、南朝文化に憧れを抱くようになります。生活習慣を含めて、代を重ねるごとに漢化を進めていきます。
元来、北魏では仏教が栄えていて、平城はその中心でした。第5代文成帝の頃、平城の西約20 kmにある桑乾河の支流・武周川のほとり雲崗(ウンコウ)に石窟を造営しています。敦煌では既に石窟(莫高窟)がつくられていた(355/366~)が、その製作に関わった人たちが多数平城に移住させられていました。それらの人々も雲崗石窟の造営に動員されたことでしょう。
第7代・孝文帝に至ると、北に偏っている平城から中原の古都洛陽に都を遷しました(493)。国情が落ち着くにつれて、南朝文化へのあこがれ、さらに漢化を進める意図が強く働いたのでしょう。都造りと合わせて黄河の支流伊河のほとり龍門に石窟の造営も進められたのです(494)。
以上、歴史を追ってみると、中国3大石窟が一つの糸で繋がれているように思えます。龍門石窟が、完成を見たのは中唐(玄宗)の頃と300年近くを要しています。龍門石窟でも北魏の作とされる仏像が残されています(写真4)が、左程大きくはありません。
写真4:北魏時代に彫られた仏像 ほぼ人と等身大(龍門石窟)
龍門石窟に関して、完成に長期間を要した点ならびに北魏期に大仏の造営が完成されなかった理由として、龍門の岩石は緻密で硬質な橄欖岩(カンランガン)であるため、北魏の技術レベルでは彫刻は容易でなかった と言われています。
写真1と4の像を比較すると、顔の輪郭や彫刻・装飾のきめ細かさ等々、違いが容易に見て取れます。これら様式の差は時代を反映したものとされています。詳細は他の著述を参照して頂きたく思います。
ただ、龍門石窟の造営に動員され、制作に関わった人々の数や関わった年月、技術の高さや思い等々想像すると、畏怖の念を禁じ得ません。きっと世の平安、人々の安寧を胸に秘め、粉塵を吸いつつ汗を流したに違いありません。
これら先人たちの魂は、廬舎那仏や諸仏像に宿っていて、平和な現代の波静かな川面や談笑して行き交う人々の安寧な姿を見て、安堵しているに違いないでしょう。
蛇足]
龍門石窟の廬舎那仏の造営に、唐の時の皇帝(高宗)は、皇后(後の武則天)の化粧料の一部を寄進した(?)。または皇后は、自ら寄進し、自分に似た像を彫らせた(?)。“廬舎那仏のモデルは武則天である”との説がある。それを否定する説が有力ですが、その真偽は不明である。
最近、中国TVドラマ『則天武后』が放映された。石窟の廬舎那仏を目にした時、TVドラマの主人公と重なって見えた。よく似ていた。TVドラマでは石窟の話題はありませんでしたが。
今更の感はありますが、本稿では、まず筆者の見た現在の龍門石窟の姿を紹介し、次いで、杜甫の詩を通して、完成した当時の石窟の様子を想像してみたいと思います。
龍門石窟では、懸崖の壁面に蜂の巣を思わせる大小無数の洞穴を穿ち、その中に仏像が刻まれています。圧巻は、中心部にある廬舎那仏の大仏像(写真1)であり、その彫刻の歴史も物語性に富んでいます。
写真1:廬舎那仏像 座高17 m(龍門石窟)
現在の石窟の佇まいを七言絶句の形で書いて見ました。下記ご参照下さい。以下、龍門石窟について、歴史的な面を含めて、簡潔に紹介して、杜甫が訪ねた完成当時の姿を想像するための橋渡しとします。
xxxxxxxx
拜訪龍門石窟(上平声 真韻)
瞭望薰風楊柳新、瞭望(リョウボウ) 薰風(クンプウ) 楊柳(ヨウリュウ)新(アラタ)にして、
懸崖万洞各仏宸。懸崖(ケンガイ)の 万洞(マンドウ) 各(ソレゾレ)仏の宸(シン)。
龍門大仏無言坐、龍門(リュウモン)の大仏は 無言で坐し、
脚下慢河寧静人。脚下(アシモト)には 慢(ユルヤカ)な河(カワ)と寧静(ネイセイ)の人。
註]
瞭望:展望する、遠く見渡す
寧静:安らかで静かなこと
<現代語訳>
龍門石窟を訪ねる
見渡すと、快い春風が吹き渡り、麓の柳の緑が改まっている、
断崖には無数の洞穴が穿たれてあり、それぞれ仏のお住まいとなっている。
龍門石窟の弥陀の大仏は、ただ無言で鎮座して見守っていて、
足元の伊河は緩やかに流れ、行き交う人々は心安らかである。
xxxxxxxxx
龍門石窟は、洛陽の南約13 km、黄河の支流伊河のほとりにあります。北流する伊河を挟んで2山が対峙していて、宮城の門“門闕(ケツ)”のように見えることからこの辺りを“伊闕”または皇帝=竜の故に“龍門”(写真2)と称されるようになった由。
写真2:龍門石窟の“龍門橋”の一部
洞穴の大部分は伊河の左(西)岸/西山(写真3)にあり、廬舎那仏像も西山の中央部にある。壁面の大小さまざまな洞穴には仏像が彫られている。洞窟数:1,352個;大窟:西山28/東山7;仏像:97,306体とされている(日本大百科全書)。
写真3:龍門石窟西山の壁面
歴史的背景を覗いて見ます。三国分立時代からやっと晋が中国統一を果たしました(280)。しかし北方民族の侵入・圧迫を受けて西晋も間もなく滅びました(316)。その中枢は江南に逃れて、現南京を都として東晋を興します。一方、華北では“五胡十六国”時代と称されるように部族国家の乱立が続きます。
華北では、氐(テイ)族の国 前秦(苻堅)が一時華北の統一に成功しますが、全国統一を目指して東晋討伐軍を発します。90万とも言われる大軍を率いて臨んだにも拘わらず、東晋(謝玄)の8万の兵に惨敗を喫しています(淝水の戦い、383)。
前秦の衰えに乗じて、鮮卑(センピ)族の拓跋硅(タクバツケイ)が勢力を得て、自立し北魏(ホクギ)を興します(386)。拓跋硅は、平城(現山西省大同)を都と定め(398)、自ら帝を称します。第3代太武帝の時に華北統一に成功(439)し、此処に至って2大朝が並立する“南北朝時代”を迎えます。
1世紀以上にわたって小国が乱立した華北に対して、その間、東晋(南朝)では、国情が必ずしも安定していたとは言えないが、漢族を中心にして貴族文化が花開いていきました。陶淵明(365-427)が活躍したのもその頃でした。
統一された華北の北魏では、支配層は胡(コ)族でしたが国民の大部分は漢族です。また対する南朝では文化が花開いていることを目の当たりにして、南朝文化に憧れを抱くようになります。生活習慣を含めて、代を重ねるごとに漢化を進めていきます。
元来、北魏では仏教が栄えていて、平城はその中心でした。第5代文成帝の頃、平城の西約20 kmにある桑乾河の支流・武周川のほとり雲崗(ウンコウ)に石窟を造営しています。敦煌では既に石窟(莫高窟)がつくられていた(355/366~)が、その製作に関わった人たちが多数平城に移住させられていました。それらの人々も雲崗石窟の造営に動員されたことでしょう。
第7代・孝文帝に至ると、北に偏っている平城から中原の古都洛陽に都を遷しました(493)。国情が落ち着くにつれて、南朝文化へのあこがれ、さらに漢化を進める意図が強く働いたのでしょう。都造りと合わせて黄河の支流伊河のほとり龍門に石窟の造営も進められたのです(494)。
以上、歴史を追ってみると、中国3大石窟が一つの糸で繋がれているように思えます。龍門石窟が、完成を見たのは中唐(玄宗)の頃と300年近くを要しています。龍門石窟でも北魏の作とされる仏像が残されています(写真4)が、左程大きくはありません。
写真4:北魏時代に彫られた仏像 ほぼ人と等身大(龍門石窟)
龍門石窟に関して、完成に長期間を要した点ならびに北魏期に大仏の造営が完成されなかった理由として、龍門の岩石は緻密で硬質な橄欖岩(カンランガン)であるため、北魏の技術レベルでは彫刻は容易でなかった と言われています。
写真1と4の像を比較すると、顔の輪郭や彫刻・装飾のきめ細かさ等々、違いが容易に見て取れます。これら様式の差は時代を反映したものとされています。詳細は他の著述を参照して頂きたく思います。
ただ、龍門石窟の造営に動員され、制作に関わった人々の数や関わった年月、技術の高さや思い等々想像すると、畏怖の念を禁じ得ません。きっと世の平安、人々の安寧を胸に秘め、粉塵を吸いつつ汗を流したに違いありません。
これら先人たちの魂は、廬舎那仏や諸仏像に宿っていて、平和な現代の波静かな川面や談笑して行き交う人々の安寧な姿を見て、安堵しているに違いないでしょう。
蛇足]
龍門石窟の廬舎那仏の造営に、唐の時の皇帝(高宗)は、皇后(後の武則天)の化粧料の一部を寄進した(?)。または皇后は、自ら寄進し、自分に似た像を彫らせた(?)。“廬舎那仏のモデルは武則天である”との説がある。それを否定する説が有力ですが、その真偽は不明である。
最近、中国TVドラマ『則天武后』が放映された。石窟の廬舎那仏を目にした時、TVドラマの主人公と重なって見えた。よく似ていた。TVドラマでは石窟の話題はありませんでしたが。