愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題300 書籍-12 海外旅-3 ハルピン素描

2022-11-30 14:02:27 | 漢詩を読む

 遊哈爾濱      [下平声一先韻]  

無山迢迢対江漣, 

 山無く迢迢(チョウチョウ)たり松花江の漣(サザナミ) に対し,  

龍塔高樓衝碧天。 

 龍塔(リュウトウ) 高樓(コウロウ) 碧天(ヘキテン)を衝(ツ)く。  

鐘響教堂群鴿舞, 

 鐘 響(ヒビ)く 教堂(キョウドウ) 群の鴿(ハト)舞う,  

鶯啼公園太極拳。 

 鶯 啼(ナ)く公園に太極拳。  

昭昭展不, 

 昭昭(ショウショウ)として発展 限りを知らず,  

翳翳苦渋過去緣。 

 翳翳(イイ)たる苦渋(クジュウ) 過去の緣(エン)。  

向導有如真喜鵲,    

 向導(コウドウ)は真の喜鵲の如くにして,   

相交使客感心円。 

 相交(アイマジワリ)て客をして心円(マドカ)なるを感ぜしめる。 

 註] 〇江漣:“江”は大河の松花江、流れがゆったりと漣を立てているさま; 〇龍塔: 

 高さ336m の黒竜江電視台の電波塔; 〇教堂:ロシア正教会の聖ソフィア大聖堂; 

 〇昭昭:明るく輝くさま; 〇翳翳:隠れていて暗く、物事を識ることが難しいさま; 

 〇向導:案内人; 〇喜鵲:カササギ、七夕の夜、天の川に鵲の群れが橋となり織姫を 

 渡して彦星と会わせたという伝説の鳥。  

<現代語訳> 

 ハルピンに遊ぶ 

遥かに見渡す限り山は無く、行きつくところ松花江に至り、龍塔が碧天を衝いて高く聳えている。遠く鐘を響かせる聖ソフィア大聖堂では 平和を運ぶハトの群れが舞っており、鶯が囀る公園では人々が太極拳を演じていた。街の発展は限りなく進んでおり、明るい気持ちにさせる、ただ過去を思い起こさせる史跡には胸の奥に苦渋を覚える。この旅を案内してくれた方々は真のカササギの様であり、この旅の交わりで心穏やかになるのを感じさせた。

<簡体字表記> 

 游哈尔滨  

无山迢迢对江涟,龙塔高楼冲碧天。

钟响教堂群鸽舞,莺啼公园太极拳。

昭昭发展不知限,翳翳苦涩过去缘。

向导有如真喜鹊,  相交使客感心圆。

早朝の公園内の一画、健康体操を楽しむ人たち 

<記> 

 2018年6月中旬中国北部のハルピン市を訪ねた。マイクロバスに揺られて、あるいは自らの脚で歩き回る、4泊5日のノンビリ旅であった。

 北摂で中国語会話教室を主宰する先生のお里帰りに便乗した生徒たちの小集団で、いわば家族旅行のようなものである。現地での一切の行動は、現地在住の先生のお姉さんの案内に拠った。感謝申し上げたい。

 以下、ハルピンの印象を点描する。まず、山らしき峰一つ見えず、まさに緑の“大地”で、遥かに松花江の土手が見え、360°周、高楼が並び建つ情景は驚きであった。

 街の発展の象徴はハルピン大劇場か、オペラハウス(1,600人収容)や大・小劇場があり、大劇場はヤチダモの木で内装されていて、音響効果は素晴らしい と。

 現在、歴史博物館となっている聖ソフィア大聖堂、黒竜江電視台の電波塔・龍塔(高さ336m)、太極拳や健康体操(上写真)など、市民の憩いの場である。

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閑話休題 299 飛蓬-161 もののふの…… 源実朝

2022-11-27 09:51:39 | 漢詩を読む

源実朝の『金槐和歌集』に収められた歌の漢詩への翻訳に挑戦しています。今回の対象は 下記の「もののふの……」である。《……この歌に限っては名詞極めて多く、助辞は「の」が3字、「に」が1字、動詞が2個。「かくの如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少なく候。」 》

 

《……実朝は、材料が極めて少ない万葉の歌を擬しながら、「一方にはかくの如く破天荒の歌を為す、その力量実に測るべからざる者有之候。」》と、子規が絶賛している実朝の歌である(正岡子規『歌よみに与ふる書』に拠る)。

 

大勢の武人たちが四方から遠巻きにしつゝ獲物を囲い込んでいく、勇壮な巻狩り、その始まる前、各人箙(エビラ)に矢を差し、整えている。草木の葉がそよと揺れて、ほんの束の間、降り出した霰が籠手に当たって、その弾く音が耳に届いた。漢詩は、このような情景を想い描いて書いてみました。

 

もののふの 矢並(ヤナミ)つくろふ 籠手(コテ)の上に

  霰(アラレ)たばしる 那須(ナス)の篠原(シノハラ)(源実朝『柳営亜槐本金槐和歌集』・冬) 

 (大意) 武将が狩装束に身を包み 矢を整えている。その籠手の上に霰がこぼれ散って音を立てる。ここは武士たちが勇壮に狩りを繰り広げる那須の篠原だ。

   註] 〇矢並つくろふ:矢をいれた箙(エビラ)の中の矢並びを次の獲物に備えて整えること; 〇籠手:肩から腕を防御するための防具; 〇霰たばしる:霰が大きな音を立てながら跳ね返っているさま; 〇那須の篠原:下野国の北部で那賀川の上流に広がる広大な原野、‘篠原’は篠(シノ)の生い茂っている原。(三木麻子『源実朝』に拠る)

 

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<漢詩> 

 霰時圍獵     霰時の圍獵(カコミリョウ)   [去声七遇韻]

那須篠野武人駐, 那須の篠野(シノノ)に武人(ブジン)駐(トド)まりて, 

欲打圍獵風葉度。 圍獵(カコミリョウ)打(セ)んと欲すれば 風葉(フウヨウ)度(ワタ)る。 

各把剪插菔里整, 各々(オノオノ) 剪(ヤ)を把(ト)りて菔(エビラ)に插(サ)して整(トトノエ)るに, 

惟聞霰撞皮護具。 惟(タ)だ聞く 霰(アラレ)の皮護具(ヒゴグ)に撞(ブツ)かるを。 

 註] 〇圍獵:巻狩り; 〇篠野:篠の生い茂った原; 〇駐:駐留する、留まる; 〇風葉:風に吹かれる木の葉; 〇度:渡る、過ぎる; 〇剪:矢; 〇菔:矢を入れる道具; 〇皮護具:籠手。

<現代語訳> 

 霰下での巻狩り 

那須の篠原では巻狩りに参加する武士たちが集合しており、

巻狩りを始めようとする頃 そよと過ぎる風に草木の葉が揺れている。

武士たちは各々 矢を箙(エビラ)に入れて これから始まる巻狩りに備えて矢を整えており、

籠手(コテ)にぶつかり飛び散る霰の音が ひときわ響いた。

<簡体字およびピンイン> 

霰时围猎     Xiàn shí wéiliè 

那须筱野武人驻, Nà xū xiǎo yě wǔ rén zhù

欲打围猎风叶度。 yù dǎ wéi liè fēng yè

各把剪插菔里整, Gè bǎ jiǎn chā fú lǐ zhěng, 

惟闻霰撞皮护具。 wéi wén xiàn zhuàng pí hù

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実朝の上掲歌は、実際に巻狩りに参加した実体験の歌ではない。曽て父・頼朝が、征夷大将軍となった翌年(1193)、恐らくは武家の力を誇示するために催された那須の野での大掛かりな巻狩りを念頭に詠われたもののようである。 

 

「当代(実朝)は歌(ウタ)鞠(マリ)をもって業となす 武芸 廃(スタ)れるに似たり」(『吾妻鑑』)とされ、確かに実朝は、武芸にはほど遠かったようだ。しかし実朝は、勇壮な巻狩りの場を想像しては、胸の血が躍るのを覚えていたのではないでしょうか。

 

この“破天荒”な歌に接するにつけ、やはり源氏の直系として“武人”の血は受け継いで来ているのだ と納得させられる。ただし、巻狩りの喧騒の中で、霰の籠手に弾く音に束の間の静寂さを感じ取る繊細さは、歌人・実朝であろう。

 

実朝の歌について、その大きな特徴として「本歌取り」の歌が多い点が挙げられている。上掲の歌は、次の万葉集中の一首の“本歌取り”の歌とされている:

  わが袖に 霰たばしる 巻隠し 

   消(ケ)たずてあらむ 妹が見むため (柿本人麻呂)

  (大意) あられが袖に降りかかってきて、転げ散っている。それが消え失せないよう袖に巻いて包み隠しおく。彼女に見せるために。

 

歌人・源実朝の誕生 (2) 

 

母・政子は、実朝の教育には特に意を注ぎ、侍読(ジドク/ジトウ)として相模権守源仲章(ナカアキラ)を起用して学問を学ばせた。東国の王者たるべく、京の宮廷文化を取り入れ、これまでの武断的政治からの転換を意図していたようである。

 

仲章は、在京御家人として幕府に仕え、京都で活動していた。度々鎌倉に下り、武より文に力を入れて、実朝の指導に当たった と。一方、実朝に和歌を学ばせるために、政子は、歌人・源光行(1163~1244)を師に当てた。光行は、政治家・文学者・歌人である。

 

光行は、鎌倉幕府が成立すると政所の初代別当となり、朝廷と幕府の関係を円滑に運ぶため 鎌倉・京都間を往復していた。1191年には、京都で、頼朝の政治を称える『若宮社歌合』が開催されたが、その企画者とされている。

 

光行は、実朝が将軍となった(1203)直後、元久元年(1204)の7月に『蒙求(モウギュウ)和歌』を、また10月に『百詠和歌』を著している。政子が光行に声を掛けて、実朝の和歌教育のために書かせたのではないか と示唆されている(五味文彦『源実朝』)。 

 

『蒙求和歌』とは、中国・唐の李瀚(リカン)が著した『蒙求』中の人物を抜き出し、仮名によりその事績を説明し、それに和歌を添えた書物で、「幼童」のため著したとある。『蒙求』とは、上代から南北朝までの著名人の伝記、逸話を1事項ごとに4字の1句(例:蛍光窓雪)にまとめ,計 596句を収めたもの。 

 

『百詠和歌』とは、唐・李喬(リキョウ)撰の『百詠』の詩に和歌を付した書物で、これも「幼蒙」を諭すために著したとある。『百詠』とは、詩一題毎、詩の一句または一連2句を示し、詩句の注または関係のある故事・説話を述べ、それに和歌を添えた句題和歌集である。

 

先ずは、漢籍を教材にして、帝王学を学びつゝ、和歌に親しむよう仕向けているということでしょうか。1205年4月、「12首和歌を詠む」と、『吾妻鑑』に記載されているという。但し、今日、それらの歌は知られていない。

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閑話休題298 書籍-11 海外旅-2 竜門石窟を訪ぬ

2022-11-26 17:19:42 | 漢詩を読む

 拜訪龍門石窟  (上平声 真韻)  

瞭望薰風楊柳新、 

 瞭望(リョウボウ) 薰風(クンプウ) 楊柳(ヨウリュウ)新(アラタ)にして、  

懸崖万洞各仏宸。

 懸崖(ケンガイ)の 万洞(マンドウ) 各(オノオノ)仏の宸(シン)。  

龍門大仏無言坐、

 龍門(リュウモン)の大仏は 無言に坐し、  

脚下慢河寧静人。

 脚下に 慢(ユルヤカ)なる伊河(イカワ)と寧静(ネイセイ)の人。 

 註] 〇瞭望:展望する、遠く見渡す; 〇寧静:安らかで

   静かなこと。

<現代語訳> 

 龍門石窟を訪ぬ  

見渡すと、快い春風が吹き渡り、麓の柳の緑が改まっており、断崖には無数の洞穴が穿たれ、それぞれが仏のお住まいとなっている。龍門石窟の弥陀の大仏は、ただ無言で鎮座して見守っており、足元には伊河が緩やかに流れ、行き交う人々は心安らかである。

<簡体字表記> 

 拜访龙门石窟   

瞭望薰风杨柳新、悬崖万洞各仏宸。

龙门大仏无言坐、脚下慢河宁静人。

 

<記> 

 龍門石窟は、洛陽の南約13 km、黄河の支流伊河のほとりにあり、洞窟数:1,352個;大窟:西山28/東山7;仏像:97,306体とされている。

 石窟の造営は、493(北魏)~中唐(玄宗)の間、300余年 を要しており、特に顔形にそれぞれの時代を表徴する特徴的な様式が見られる。

 圧巻は、廬舎那仏(次ページ写真参照)であり、その造営には、則天武后が自ら寄進し、自分をモデルにした像を彫らせたとの説があるが、その真偽は不明である。

竜門石窟 廬舎那仏像

 

 

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閑話休題297 書籍-10 海外旅-1 春日訪杜甫故郷

2022-11-23 17:04:31 | 漢詩を読む

 春日訪杜甫故郷    [下平声一先韻]  

中年頗好賦詩篇,

 中年 頗(スコブ)る賦(フ) 詩(シ)の篇(ヘン)を好(コノ)み,

晚歲奇縁鞏義辺。

 晚歲(バンサイ)に 奇缘(キエン)有って鞏義(キョウギ)の辺。 

遥路訪洞心身快,

 遥路 洞を訪ね心身は快(カイ)なり, 

好雨浥地草花妍。

 好雨(コウウ) 地を浥(ウルオ)して草花は妍(ケン)なる。

黃鸝競唱葉陰影,

 黃鸝(コウリ)は 競って唱(ウタ)う葉の陰影(カゲ)に, 

同志高吟杜墓前。

 同志は 高らかに吟ず 杜甫の墓前(ボゼン)に。 

順利羈応詩聖導,

 順利なる羈(タビ) 応(マサ)に杜詩聖(トシセイ)の導(ミチビキ) 

 ならん, 

安能不動熱心弦。

 安(イズグ)んぞ 熱き心の琴弦(キンセン) に動(フ)れ能(アタワ) 

 ざらんか。 

 註] 〇鞏義:河南省の一小都市、杜甫の故郷; 〇洞: 

  揺洞、山の麓に穿った洞の住宅; 〇黃鸝:コウライ

  ウグイス; 〇同志:杜甫の墓前で偶々居合わせて、

  共に詩を吟じることができた中国某大学杜甫研究者

  のことをいう; 〇詩聖:杜甫の尊称; 〇心弦: 

  心の琴線。   

<現代語訳> 

 春の季節、杜甫の故郷を訪ねる 

若い頃には賦や詩の作品の書物を好んで読んでいたが、晩年になって奇しくも縁あって、杜甫の故郷 鞏義(キョウギ)の辺りを旅した。 遠路はるばる杜甫の生まれ育った住居“揺洞”を尋ね、心身ともに快く。ちょうど小雨が降って土地を潤し、草花は開き妍を競っていた。樹の葉陰では、コウライウグイスが賑やかに囀っており、杜甫の墓前では、中国の杜甫研究者と日本の詩吟同好会の方々の吟の交歓があった。これらの旅の出来事はきっと詩聖・杜甫のお導きによるものであり、誰しも熱い心の琴線に触れずには置かなかったであろう。 

<簡体字およびピンイン>  

 春日访杜甫故乡 

中年颇好赋诗篇, 晚岁奇縁巩义辺。

遥路访洞心身快, 好雨浥地草花妍。

黄鹂竞唱叶阴影, 同志高吟杜墓前。

顺利羁应诗圣导, 安能不动热心弦。

屋内に祀られた杜甫の像 

 

<記>

 2018/4/20から4泊5日の旅で、黄河の流域、洛陽、鞏義および開封を訪ねた。ハイライトは、詩聖杜甫の故郷・鞏義と洛陽の竜門石窟を訪ねたことである。

 折しも、鞏義では「第一回 詩聖杜甫及び中華詩学研究国際シンポシウム」(於 成功学院大学大講堂)が開催され、その開会式典に参加する機会を得、シンポの触りの部分だけ参観させてもらった。

 杜甫が少年時代を過ごしたとされる揺洞“杜甫誕生揺”および「唐杜少陵先生之墓」を訪ねた。お墓の前で偶々、我々の旅団と 杜甫研究に関わっている上海大学文学部某教授と合同で「春望」の奉納吟を行う機会を持った。松下に眠る詩聖杜甫の導きに違いない と、感じ入ることしきりであった。

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閑話休題 296 飛蓬-160 南島 真夏の夜の夢

2022-11-21 09:11:58 | 漢詩を読む

太平洋に面して泛ぶ南の小島、入江の縁には真っ白な砂浜が広がる。沖に目を遣れば、洋洋たる大海の遥か遠く、空の碧と海の蒼が溶け合い、曖昧な水平線に戸惑いを覚えるほどに奥深い。渚に立てば、そよ風が磯の香りを運んできてくれます。

 

干潮時には入り江の干潟に千鳥の群れが餌を啄み、此処かしこでシオマネキ蟹が手を振り、潮を招いているようだ。潮が満ちると、渚が砂浜に大きく孤を描いて伸び、波が寄せては返している。やがて陽が沈み、月光が輝くと、一面ロマンの雰囲気に包まれる。 

 

蘇軾 《夜 西湖に泛ぶ 五絶 其四》に次韻して、《南島 真夏の夜の夢》を書いてみました。蘇軾の詩では、西湖で、月のない夜に来て、改めて今一度“湖光”をみたいと、詠っています。南島の浜辺では、皓皓と輝き明るい月夜が、やはりロマンがあって好い。 

 

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 次韻蘇軾《夜泛西湖 五絶 其四》 南島 盛夏の夜の夢     [下平声七陽韻] 

深深天際太洋茫、 深深(センセン)たり天際(テンサイ) 太洋 茫(ボウ)たり、

爍爍波浪海灘香。 爍爍(シャクシャク)として波揺れて、海灘(カイタン)香(カン)ばし。

豈海潮無覚心跳、 豈(アニ) 海潮(カイチョウ)に 心跳(シンチョウ)を覚(オボ)えざらんか、 

遺思佳麗映月光。 思いを遺(ノコ)す佳麗(カレイ) 月光に映(エイ)ず。 

 註] 〇深深:奥深いさま; 〇天際:空の果て、水平線; 〇茫:広々として果てし

  ないさま; 〇爍爍:明るく照り輝くさま; 〇海灘:磯,波打ち際; 

  〇豈:どうして……か; 〇海潮:潮騒(シオサイ)、潮の満ちて来るときに、波の騒ぎ 

  立つ音; 〇心跳:心のときめき; 〇遺思:思いを遺す、名残の尽きないこと; 

  ○佳麗:美しい女性。 

<現代語訳>

 南島 真夏の夜の夢 

水平線は遥か奥深く 眼前には太平洋の大海原が果てしなく広がり、

揺れる波 月光を反射してキラキラと輝き、海辺には香ばしい磯の香りが漂う。

潮騒(シオサイ)の音を聞くにつけ、どうして胸のときめきを覚えないでおこうか、

想いを遺す美しい人の影が月光に映えて佇んでいる。 

<簡体字およびピンイン> 

  南岛盛夏夜梦        Nán dǎo shèng xià yè mèng 

深深天际太洋茫、 Shēn shēn tiān jì tài yáng máng,  

烁烁波浪海滩香。 Shuò shuò bō làng hǎi tān xiāng. 

岂海潮觉心跳、 Qǐ hǎi cháo wú jué xīn tiào, 

遗思佳丽映月光。 wèi sī jiā lì yìng yuè guāng. 

ooooooooooooooo

<蘇軾の詩>

  夜泛西湖 五絶 其四

菰蒲無辺水茫茫、 菰蒲(コホ) 無辺 水 茫茫(ボウボウ)、 

荷花夜開風露香。 荷花(カカ) 夜開いて 風露 香(カン)ばし。 

漸見燈明出遠寺、 漸(ヨウヤ)く見る 燈明の遠寺を出るを、 

更待月黒看湖光。 更に月の黒きを待ちて湖光(ココウ)を看(ミ)ん。 

 註] 〇菰蒲:まこも と がま; ○無辺:際限がない、広々として果てしないさま; 

  〇茫茫:果てしなく遠くまで広がるさま; 〇荷花:はすの花; 〇漸:しだいに; 

  〇燈明:ふしぎなともしび; 〇湖光:灯明をさす。  

 ※ 燈明は、西湖の水面に浮かぶ不思議な光。この光は、毎晩水上に青紅色に灯り、

   移動するもので、月の夜はややうすく、風雨の中ではよく光るという。  

<現代語訳> 

 夜 西湖に泛ぶ 五絶 其の四  [下平声七陽韻] 

まこも や がま が一面に生い茂り、水面は果てしなく広がり、

夜になると蓮の花が開き、風も露も香しい。

とかくするうちに、不思議な灯火が遠くの寺から出てくるのが見えた、

こんどは月のない暗い夜にこの湖光をみることにしよう。 

<簡体字およびピンイン> 

 夜泛西湖 五绝 其四  Yè fàn xīhú  wǔjué  qí sì 

菰蒲无辺水茫茫、 Gū pú wú biān shuǐ máng máng,  

荷花夜开风露香。 héhuā yè kāi fēng lù xiāng.  

渐见灯明出远寺、 Jiàn jiàn dēngmíng chū yuǎn sì,   

更待月黒看湖光。 gèng dài yuè hēi kàn hú guāng.  

oooooooooooooo

 

蘇軾の詩・《夜泛西湖》は、1072年(37歳)、自ら地方転出を乞い、初めて杭州通判として着任した翌年の作である。その頃、西湖を中心に遊び、多くの詩を残しており、上題詩もその一つで、連作5首の内の一首である。

 

注意を引くのは転句の“燈明”で、西湖の水面に浮かぶ不思議な光・湖光ということである。この光については、後の南宋時代の文学者・周密(1232~1298)の随筆集に次のように述べられている と:

 

「この光は、毎晩西湖の四聖観の前の水上に青紅色にともり、施食亭から南へ西冷橋まで行って引き返すもので、月の夜にはややうすく、風雨の中ではよく光り、雷電のときには稲妻と輝きを争ったという」(周密『癸辛雑識(キシンザツシキ)』)(石川忠久 NHK文化セミナー『漢詩をよむ 蘇東坡』に拠る)。 

 

蘇軾は、不思議な光・湖光を目撃したようです。しかし月明かりのために明瞭な“燈明”ではなかったのでしょう。改めて月明かりのない、暗い晩に今一度見てみたい と詠っています。1089年、知杭州軍州事として再び杭州に赴いていたが、湖光を再確認できたか否かは知らない。その折には、今日に残る“蘇提”を築いている。

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