愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 212 飛蓬-119 小倉百人一首:(伊勢大輔)いにしへの

2021-05-31 15:09:09 | 漢詩を読む
61番 いにしへの 奈良の都の 八重桜 
     けふ九重に にほいぬるかな 
          伊勢大輔(タイフ)(『詞歌和歌集』春・29)              
<訳> 昔、奈良の都で咲いていた八重桜が、今日はこの宮中で色美しく咲き誇っていることよ。(板野博行)

oooooooooooooo  
古都の奈良で有名なあの八重桜が、今、平安の都で咲き誇っているよ と。一条帝の中宮・彰子に、奈良の人から八重桜が献上された折、新参の取次ぎ役女房・伊勢大輔が求めに応じて即興で詠んだ歌である。平安の都では八重桜が珍しい時でした。 

伊勢大輔は、代々祭祀を司る大中臣氏の裔の一人である。生没年は不詳であるが、1008年頃から一条天皇の中宮・上東門院彰子に仕え、先輩の赤染衛門・紫式部や後輩の和泉式部たちと妍を競った女流歌人の一人である。 

歌の技法を駆使した技巧的な歌風であるという。その風は、当歌でも読み取れますが、中でも“八重”桜と“九重”と対照的に用いて平安京の一層の賑わいを暗示しています。漢詩でもその特徴を生かすべく、敢えて“重”の字を重複して詠いこみました。 

xxxxxxxxxxxxx 
<漢字原文および読み下し文> 
 新都燦爛桜花   新都に燦爛たり桜花  [下平声一先韻]  
昔洛桜花傲階前, 昔の洛(ラク) 樱花(オウカ) 階前に傲(オゴ)る,
有八重瓣万朵妍。 八重の瓣(ハナビラ) 有りて 万朵(マンダ)妍なり。 
如今献上幾條梗, 如今(ジョコン) 献上されし 幾條(イクジョウ)かの梗(エダ), 
燦爛平安九重天。 平安 九重(キュウチョウ)の天に燦爛(サンラン)たり。 
 註] 
  燦爛:華やかで美しいさま。
  洛:中国古代に栄えた洛陽、ここでは古都奈良の意。 
  朵:花や雲などを数える量詞。  如今:今日、現在。 
  九重天:天子の奥深い宮殿を指す。 

<現代語訳> 
  新都平安京に燦爛と咲き誇る八重桜 
昔日の奈良の都では階前に桜花が咲き誇って、
八重の花びらの無数の花が艶やかに華やいでいた。 
今日、奈良より献上された幾本かの桜の枝では、
新都平安京の宮中で、八重の花が煌びやかに咲いている。 

<簡体字およびピンイン> 
 新都灿烂樱花   Xīn dū cànlàn yīnghuā  
昔洛樱花傲阶前, Xī luò yīnghuā ào jiē qián,  
有八重瓣万朵妍。 yǒu bā chóng bàn wàn duǒ yán. 
如今献上几条梗, Rújīn xiànshàng jǐ tiáo gěng, 
灿烂平安九重天。 cànlàn Píng'ān jiǔchóng tiān. 
xxxxxxxxxxxxx 

伊勢大輔の曽祖父・大中臣頼基(ヨリモト)は、平安中期の貴族・歌人である。従四位下・神祇大副、939年には伊勢神宮第25代祭主を兼ねた。続いて祖父・能宣(ヨシノブ)、父・輔親(スケチカ)共に、神祇官・祭主を歴任している。伊勢大輔の名は、父が伊勢の祭主で神祇官の大輔であったことに依る。

一方、頼基および能宣(百人一首49番、閑話休題183)は三十六歌仙、輔親は中古三十六歌仙、伊勢大輔は中古三十六歌仙および女房三十六歌仙と、頼基を祖として4代に亘って名歌人を輩出している。更に伊勢大輔は高階成順(ナリノブ)と結婚、康資王母(ヤススケオウノハハ)など優れた歌人を設けている。

伊勢大輔が中宮・上東門院彰子に女房として出仕して間もないころ、中宮に奈良・興福寺の僧から八重桜の花が献上された。献上物の受け取り役は紫式部が予定されていたが、紫式部は「新人の方に」とその役割を伊勢大輔に譲ったのである。

さらに居合わせていた権力者・藤原道長から「歌を」との所望があり、伊勢大輔が即座に詠まれたのが当歌である。中宮をはじめとする人々の賞賛を受け、一躍歌才を認められることとなった。道長、紫式部ともに伊勢大輔の血筋を承知の上で図ったことでしょう。

伊勢大輔の作風は、趣向や修辞を凝らした伝統的な歌風で、掛詞や縁語を駆使した技巧的な歌が特徴である と。当歌で、古都・奈良と新都・平安京を対照的に据えて、華やかな八重桜で有名な古都に対し、平安京(九重天)は、+1と“一層”華やぐ都であると主張しているように思える。

伊勢大輔は、歌人として多くの歌合に出詠しており、その活動期は長く、「上東門院彰子歌合」(1032)から「皇后宮寛子春秋歌合」(1056)に至る多くの歌合せに出詠、また「志賀僧正正明尊の九十賀」(1060)に出詠するなど、多くの賀歌や屏風歌を残していると。

「後拾遺和歌集」(27首)以下の勅撰和歌集に51首入集されている。家集に『伊勢大輔集』がある。1060年志賀僧正90歳の賀歌を最後に、間もなくかなりの高齢で亡くなったようである。
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閑話休題 211 飛蓬-118 小倉百人一首:(赤染衛門)やすらはで

2021-05-24 09:21:08 | 漢詩を読む
59 やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて 
   傾(カタブ)くまでの 月を見しかな 
          赤染衛門(アカゾメエモン)(『後拾遺和歌集』恋・680) 
<訳> (あなたが来ないと知っていたら)ためらわないで、とっくに寝ていたでしょうに。信じて待っているあいだに夜が更けてしまい、西の山の端に傾くまでの月を見てしまいましたよ。(板野博行) 

oooooooooooooo 
「今夜は行きます」と前触れがあったので、寝まずにずっと待っていたのに。気がついたら、月は西に傾いており、夜明け近くになっていたわよ と。待ちぼうけを食って、憤懣やるかたない思いの歌です。当歌は妹に代わって詠んだ代作である と。

作者は赤染衛門、平安中期の歌人、一条天皇の中宮・上東門院彰子に仕える女房の一人。当時、紫式部、清少納言、和泉式部、伊勢大輔等々、錚々たる顔ぶれの女流歌人が活躍していたが、中でも赤染衛門は、良妻賢母の才媛と評されていたようである。 

「待ちぼうけ」の詩題を付し、七言絶句の漢詩としました。 

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声十四塩・十二侵韻] 
 白白等候    白白(ハクハク)等候(トウコウ) 
要不連忙睡得甜,要不(サモナク)ば 連忙(レンボウ)に睡ること甜(テン)ならん, 
一直等着儞来臨。一直(ズッ)と 等着(マッテイ)た儞(アナタ)の来臨(ライリン)を。 
知没理会為半夜,理会(キニトメル)こと没(ナ)く 半夜(ハンヤ)と為(ナ)るを知る, 
見到月傾天際沈。月は傾(カタム)き 天際(テンサイ)に沈まんとするを見到(ミトド)ける。 
 註]
  白白等候:待ちぼうけ。       要不:さもなくば。 
  連忙:すぐに、さっさと。      一直:ずっと、一筋に。 
  理会:気にとめる。         半夜:真夜中。 
  天際:山の端。 
<現代語訳> 
 待ち惚(ボウ)け  
さもなくば、ぐずぐずせずにぐっすりと休んでいたであろうに、 
ずっと起きていて、あなたの来るのを待っていたのよ。 
気にも留めていなかったが、夜更けになっているのを知った、 
月は西に傾き、山の端に沈もうとしていることを見届けることになったわよ。 

<簡体字およびピンイン> 
 白白等候 Báibái děnghòu  
要不连忙睡得甜,Yàobù liánmáng shuì dé tián, 
一直等着你来临。yīzhí děngzhe nǐ láilín. 
知没理会为半夜,Zhī méi lǐhuì wéi bànyè, 
见到月倾天际沉。jiàn dào yuè qīng tiānjì chén. 
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赤染衛門は、右衛門尉赤染時用(トキモチ)の娘で、その名称は父の姓と官職名による。ただ母親が、前夫・平兼盛(百人一首40番、閑話休題132)との婚姻中に懐胎していて、後に時用と再婚し出産したとの可能性があって、兼盛実父説もある。当時、裁判沙汰となり、兼盛は敗訴しているが。 

赤染衛門の生没年は不詳であるが、956年頃生、1041年以後に没と推定されている。976~978年の間に、文章博士・大江匡衝(マサヒラ)と結婚、仲睦まじい夫婦故に当時、匡衝衛門と呼ばれていた由。子息に歌人・江侍従(ゴウノジジュウ)と文章博士・挙周(タカチカ)、曽孫に権中納言匡房(同73番)がいる。 

良妻賢母の誉れが高く、また社交的で面倒見の良い人物であったようだ。他人に代わって詠む代詠の歌も多く、上掲の和歌は、妹の代作である。その詞書によれば、妹から、関白・藤原道隆にすっぽかされた話を聞いて、妹に代わって作った歌である。 

すっぽかされて、ややもすれば感情を爆発させる、あるいは湿っぽく恨み節を詠う、こんな場面ではある。しかし山の端に掛かる月を想像させる温雅な歌である。第三者的立場で詠ったというだけでなく、作者の歌風でしょうか。その心は漢詩でも伝えることができたかな と。 

赤染衛門は、藤原道長の正室・源倫子(リンシ)とその娘・66代一条天皇中宮・上東門院彰子(ショウシ)に女房として仕えていて、和泉式部や紫式部の大先輩に当たる。なお口うるさい紫式部も、『紫式部日記』の中で、“風格のある方で、歌は自分が恥じ入るような詠みぶり”であると、高く評価している。 

当時の数多女流歌人の中で、和泉式部(同56番、閑話休題145)と並び称される才媛である。歌風は、和泉式部が情熱的であるのに対して、赤染衛門は穏健且つ典雅な詠みぶりであると。「関白左大臣頼道歌合」(1035)や「弘徽殿女御生子歌合」(1041)などに出詠、活躍している。 

『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に93首入集、歌集『赤染衛門集』がある。また藤原道長を主題にした歴史物語『栄花物語正編30巻』の作者と目されている。夫・匡衝の逝去(1012)後出家し、信仰と子女の育成に尽力したという。享年80余歳。

赤染衛門の子煩悩ぶりを示す次の逸話がある。挙周の就職活動を主導し、和泉国国司に任じられたが、赴任中に病に罹った。京から急遽駆けつけ、住吉神社で “身代わりになってもよい”と次の一首を奉納し、病治癒を祈願した。病はその夜のうちに快癒した と。

代(カ)はらむと 思ふ命は 惜しからで 
  さても別れむ ほどぞ悲しき 
 [息子に代っても、私の命は惜しくないけれども、それより息子と永遠に別れて 
 しまうことはやはり悲しいことであるよ] 
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閑話休題 210 飛蓬-117 小倉百人一首:(大弐三位)有馬山

2021-05-17 14:00:37 | 漢詩を読む
58 有馬山 いなのささ原 風吹けば 
     いでそよ人を 忘れやはする 
         大弐三位(ダイニノサンミ)(『後拾遺和歌集』恋二・709) 
<訳> 有馬山に近い猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音を立てます。さあそれですが、あなたは私に心変わりが心配だとおっしゃいますが、私があなたを忘れたりしましょうか、忘れはしません。(板野博行) 

ooooooooooo 
訪れが遠のいている男性から「貴女が心変わりしているのではと気にして訪ねるのを控えています」と弁解する便りが届いた(詞書による)ので、「何をおっしゃいますの?そうですよ、どうして私が貴男を忘れることがありますか」と、やり返している歌です。 

作者は、大弐三位、紫式部の娘です。歌才はしっかりと母親から受け継いでいるようです。しかしおとなしく慎重で、必ずしも宮廷生活には馴染めない性質の母親とは異なり、娘は、情熱的で活発な性質で、多くの貴公子たちと恋愛を楽しんでいたようです。 

歌の技法が詰まった難解な歌です。 “掛詞”の“そよ”が歌の序詞の部と主題の部を繋ぐ鍵と言えます。漢詩では、“掛詞”の意義を活かす工夫として、発音がやや似た“徐徐(ソヨソヨ)”と“是是(ソウソウ、ソウヨ)”の語を組み込みました。 

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<漢字原文および読み下し文> 
 恋愛的吵架 恋愛の吵架(クチケンカ) [上声四紙韻]  
有馬山前微風起、 有馬山前に微風(ビフウ)起り、 
徐徐竹葉猪名里。 徐徐(ソヨソヨ)たり竹葉(ササノハ) 猪名の里(サト)。
君如挂念吾心变、 君 吾の心变りを挂念(キニカケ)るが如きも、 
是是我安能忘你。 是是(ソウソウ) 我 安(イズグ)んぞ你(ナンジ)を忘れ能(エ)んや。 
 註] 有馬山:歌枕。現在の兵庫県神戸市北区有馬町。; 猪名:有馬山の南東に 
  当たる、猪名川沿いに広がる平野。; 徐徐:そよそよとゆれるさま。; 
  竹葉:笹(子竹)の葉。; 挂念:気にかける。; 是是:強調用法の“是”の重ね 
  型で、“そうよ、そうなのよ!”と一層強調する。

<現代語訳> 
 恋の口喧嘩  
有馬山の前に広がる野原にそよ風が吹き起こり、 
猪名の里の笹の葉がそよそよと音を立てて揺れている。 
あなたは、私が心変わりしたのではないかと気に掛けているようですが、 
そうよ、まったく、私がどうしてあなたを忘れたりすることができようか。 

<簡体字およびピンイン> 
 恋爱的吵架 Liàn'ài de chǎojià  
有马山前微风起, Yǒumǎshān qián wēifēng qǐ,  
徐徐竹叶猪名里。 xúxú zhú yè Zhūmíng.  
君如挂念吾心变, Jūn rú guàniàn wú xīn biàn, 
是是我安能忘你。 shì shì wǒ ān néng wàng . 
xxxxxxxxxxx 

大弐三位(999?~1082?) は、父・藤原宣孝(ノブタカ)-母・紫式部との間に生まれた娘であるが、3歳の頃、父は亡くなっている。18歳の頃、母・紫式部の後を継いで、一条院の女院・彰子(ショウシ、上東門院)に女房として出仕した。本名は藤原賢子(カタコ/ケンシ)。 

1025年、69代後朱雀天皇(在位1036~1045)の第一皇子・親仁(チカヒト)親王(のちの70代後冷泉天皇、在位1045~1068)の乳母となり、後冷泉即位に伴って従三位に昇叙・典侍となる。併せて夫・高階成章(ナリアキ、990~1058)も大宰大弐に就任した。賢子が大弐三位と称される所以である。 

有名人の娘、あるいは女院の女房という職場環境故か?魅力的な女性であったに違いない。贈答歌などから、藤原頼宗、藤原定頼(百人一首64、閑話休題147)、源朝任ら多くの貴公子たちと交際していたことが知られており、恋愛遍歴は賑やかであったようだ。 

後に関白・藤原道兼の次男・兼隆と結婚、一女を設けている。1037年までの間に東宮権大進・高階成章と再婚、1038年には高階為家および一女を設けている。浮いた話もなく、慎重で感情を表に出さないとされている母親とは異なり、活発な性格であったようだ。 
 
歌才はしっかりと母親から受け継ぎ、一流の歌人の中に混じって歌の世界で活躍していた。「上東門院菊合」(1032)、「源大納言家歌合」(1038)、「内裏歌合」(1049)および「祐子内親王歌合」(1050)と晴の舞台で作詠を競っています。 

中でも「祐子内親王歌合」は特筆すべき歌合と言えようか。時の関白太政大臣・藤原頼道(992~1074)が自宅で、費用の一切を賄って華やかに催した歌合である。当日は“庚申(コウシン)の日”に当たっていたため、夜を徹して宴は続いたという。 

因みに、大弐三位が乳母として養育に関わった親仁親王の母・嬉子(キシ)は頼通の妹である。また祐子内親王(1038~1105)の母・中宮・嫄子(ゲンシ)(1016~1039)は頼通の養女であり、且つ中宮が早世されたのち、頼通は祐子内親王の養育に当たっていた。 

このように大弐三位が頼通と世俗的な深い繋がりを持ったことは確かであるが、大弐三位は、伊勢大輔(同61番)、相模(同65番)、能因法師(同69番)たちと共に選ばれ、参加した由。歌人としても頼通のお眼鏡に適い、一流の歌人たちと渡り合っていたことを示している。 

大弐三位には、家集『大弐三位集』があり、『後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に39首収められている と。女房三十六歌仙の一人である。83歳?で逝去。通称は別に越後弁(エチゴノベン)、藤三位(トウノサンミ)、弁乳母(ベンノメノト)とも呼ばれている。 

 
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閑話休題 209 飛蓬-116 『新撰万葉集』(菅原道真) 奥(オク)山(ヤマ)丹(ニ)

2021-05-13 15:16:08 | 漢詩を読む
百人一首-5番 猿丸大夫 
 奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき 

ooooooooooooo  
前回の当ブログに読者の方からコメントを頂きました:「…… 猿丸大夫の歌の菅原道真による漢詩版があった ……」と。かねて機会があれば紹介しよう と思っていた矢先、ちょうどよい機会ですので、ここで取り上げます。 

出典は、菅原道真(845~903)が著した『新撰万葉集』です。万葉仮名表記の和歌と漢詩七言絶句から構成されており、当歌の例は下に示しました。 “読み下し文と註”、“現代語訳”および“簡体字とピンイン”の部は、参考として筆者が付しました。 

なお、投稿頂いたRumiさんからは、度々刺激的なコメントを頂いております。必ずしもお役に立つお答えはできませんが、機会を見ては話題として取り上げて、共に勉強の機会となれば と念じております。今後ともよろしくお願いします。 

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<万葉かな> 菅原道真 著『新撰万葉集』から 
オクヤマニ モミジフミワケナクシカノ コエキクトキゾアキハ カナシキ 
奥山丹黄葉蹈別鳴麋之音聴時曽秋者金敷
 
<漢詩原文および読み下し文> [韻:日本語音読み レイ] 
秋山寂寂葉零零, 秋山 寂寂(セキセキ)として葉 零零たり, 
麋鹿鳴音数処聆。 麋鹿(ビロク) 鳴く音 数(アマタ)の処に聆(キ)く。 
勝地尋来遊宴処, 勝地(ショウチ) 尋(タズ)ね来たりて遊宴の処, 
無朋無酒意猶冷。 朋(トモ)無く酒も無く 意(ココロ)猶(ナ)お冷(サム)し。
 註] 
  寂寂:ひっそり寂しいさま。  零:おとろえる、しおれる。
  麋鹿:オオシカの一種。角はシカに、尾はロバに、脚はウシに、首は 
    ラクダに似ているが、全体ではどれにも似ていないので、 
    “四不像(シフゾウ)”と呼ばれる。 
  聆:聞く、さとる。

<現代語訳> 
秋の山は寂しく、木の葉はしおれ落ちている、 
あちこちから鹿の鳴き声が聞こえてくる。 
景勝の場所に訪ねきており、酒盛りの宴が相応しい所だが、 
連れは無く、また酒も無い 心はますます寂しくなる。 

<簡体字およびピンイン> 
秋山寂寂叶零零, Qiūshān jí jí yè líng líng,   
麋鹿鸣音数处聆。 mílù míng yīn shù chù líng.  
胜地寻来游宴处, Shèngdì xún lái yóu yàn chù, 
无朋无酒意犹冷。 wú péng wú jiǔ yì yóu lěng. 
xxxxxxxxxxxxxx 
 
頂いたコメントで 「“競作ライバル、平安人と腕比べ……」と、ひと鞭当てられた格好ですが、とてもとても!? 恐れ多くも、思うだに冷や汗ものです。道真公は、微塵ほどでも”恩沢“を賜って頂けるものならば…と足元に跪き、手を合わせる”学問の神様“です。 

“競作ライバル”という言葉に拘って、少しばかり思いを巡らしてみたいと思っています。筆者が目指すのは、あくまでも日本文化の華/宝である素晴らしい和歌を漢詩に翻訳すること。微力ながら、漢語圏の人々に、歌の作者の“こころを伝える”ことができたら…と 大それた想いを胸に秘めつつ。 

道真の漢詩については、結論から言えば、決して翻訳ではない、と筆者は考えております。元歌を読みこなした後、“自らの思い”を主眼/主題とした“翻案”あるいは“派生詩(うた)”であり、独立した“道真作”の詩作品と捉えるべきであろうと考えております。意外なことですが、『新撰万葉集』中の、漢詩を“翻訳”と考えている方々が結構おられるのも事実ですが。 

その根拠を、実際に和歌および漢詩について愚考し、紐解いていきたく思います。和歌では、「紅葉が散り始める山の様子にはそれなりに秋の侘/悲しさを感ずるが、“雌を求めて彷徨っている鹿の鳴き声を聞く時こそ”特に悲しさを感ずる」と詠っております。 

一方、漢詩では、「紅葉が散り始め、あちこちから鹿の鳴き声が聞こえて来る侘しい季節、“この景勝地にあって友たちと遊宴したいところ、一人の友もいない、お酒も無い”、一層寂しさが募る」と。わびしさの元凶、すなわち歌/詩の主眼/主題が、一方は“鹿の鳴き声”、他方は”友無し・酒無し“と全く異なります。明らかに”翻訳“ではなく、”翻案“の詩であると考える方が妥当であると考えられます。 

『新撰万葉集』中、すべての歌/漢詩を検討したわけではありませんが、目にした十数首については、漢詩は、やはり“翻訳”ではなく “翻案”と見做すべき作品と言えます。以上は筆者の私見です。未だ手にしていませんが、世には已に同書の研究著書が幾つかあります。是非先達の研究成果を調べてみたいと思っているところです。

なお、参考までに筆者の愚作を読み下し文と共に末尾に示しました。元歌に忠実に…と心がけたつもりです。上述のように、幸いにも道真公と“競作ライバル”の立場にはないものと確信し、胸を撫で下ろしております。 

二三興味を引く点を挙げると、万葉仮名については、すべて漢字の音読みで、今日、内容が理解できる用語・用法です。ただ“金敷(=悲しき)”と突飛な用法もあります。また漢詩については、1,2、4句の脚韻は、邦語の「れい」の音読みでしっかりと韻を踏んでいます。しかし近代漢詩のルールで見ると、1,2句は韻を踏んでいますが、4句の語“冷”が外れた韻の語です。やはり時の変遷あるいはお国の違いを感じます。

菅原道真および猿丸大夫については、それぞれ、閑話休題-137および-141をご参照ください。但し猿丸大夫の漢詩は、下記のごとくに一部修正しました。

vvvvvvvvvvvvvv
 季秋有懐      季秋に懐(オモ)い有り   [上平声四支韻] 
遥看深山秋色奇, 遥かに看(ミ)る深山 秋色奇(キ)なり, 
蕭蕭楓景稍許衰。 蕭蕭(ショウショウ)として楓の景(アリサマ)に稍許(イササ)か衰えあり。 
呦呦流浪踏畳葉, 呦呦(ヨウヨウ)鳴きつつ畳(チリシイ)た葉を踏んで流浪(サマヨ)うか, 
聞声此刻特覚悲。 鹿の鳴き声を聞くその時こそ 特に秋の悲しさを覚える。 
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閑話休題 208 飛蓬-115 小倉百人一首:(藤原道信朝臣)明けぬれば

2021-05-10 09:34:06 | 漢詩を読む
52番 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら
      なほ恨めしき あさぼらけかな 
           藤原道信朝臣『後拾遺集』恋二・672 
<訳> 夜が明けてしまうと、また日が暮れて夜になる(そしてあなたに逢える)とは分かっているのですが、それでもなお恨めしい夜明けです。(小倉山荘氏)

oooooooooooooo  
当時、恋仲にあっては男が女の家で夜を過ごし、翌朝(後朝)に自宅に帰る。帰宅後に便りを届けるのが礼儀でした。当歌は後朝の歌で、やがて日が暮れて再会できると分かってはいても、夜明けは何とも恨めしいと、別れの切なさを詠っています。

作者・藤原道信(972~994)は、平安中期の貴族・歌人。法住寺太政大臣・藤原為光の3男で、摂政・藤原兼家の養子となる。順調に昇進し、官位は従四位上、左近衛中将に至る。和歌に秀でた雅な貴公子であったと。23歳という若さで亡くなっています。

詩題を「後朝の便り」として、七言絶句の漢詩としました。

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<漢詩原文および読み下し文>  [上平声十灰韻] 
 後朝之信     後朝(コウチョウ)の信(タヨリ) 
天亮継而飛日回、 天亮(テンリョウ)に継(ツ)いで飛ぶがごとくに日は回(メグ)り、
自知幽会暮就来。 自(オノ)ずから知る 幽会(ユウカイ)の暮 就(ジキ)に来るを。
依依離汝往家走、 依依(イイ)として汝(ナンジ)に離(ワカ)れて家(イエ)に走(カエ)る、
還是黎明抱怨催。 還(ナオ)是(コレ) 黎明(レイメイ)に抱怨(ボウエン)を催す。
 註] 
  天亮:夜が明ける。       継而:続いて。 
  飛:(飛ぶように)速い。     幽会:逢い引き。 
  依依:後ろ髪を惹かれるさま。  黎明:夜明け、黎明。 
  抱怨:恨み言を言う。 

<現代語訳> 
 後朝の便り  
夜が明けたら飛ぶように早く日はめぐり、 
再会できる暮れ時が直に訪れることは分かっている。 
貴方と別れて、後ろ髪を惹かれる思いで、家路に着きましたが、 
やはり、別れて帰る夜明けには恨めしさを感じずにはいられないのだ。 

<簡体字およびピンイン> 
 后朝之信 Hòu zhāo zhī xìn  
天亮继而飞日回, Tiānliàng jì'ér fēi rì huí, 
自知幽会暮就来。 zì zhī yōuhuì mù jiù lái.  
依依离汝往家走、 Yīyī lí rǔ wǎng jiā zǒu, 
还是黎明抱怨催。 hái shì límíng bàoyuàn cuī. 
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道信は、為光の3男、母が謙徳公(百人一首45番、閑話休題-161)の娘である。14歳時(986)に時の権力者、兼家の養子となり、従五位上に直叙され、侍従に任じられた。以後、順調に昇進、従四位上、左近衛中将に至った。

奥ゆかしい性格で、見た目も申し分なく、特に和歌の才に秀でていて、雅な貴公子であったと。歌人の藤原公任(同55番、閑話休題-148)、藤原実方(同51番、閑話休題-207)、藤原信方らと親しくしていた。

藤原道長(966~1027)が全盛を窮め、花山(在位984~986)‐一条天皇(在位986~1011)の治世下、王朝文化の花満開の頃に当たるでしょうか。紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔等々、煌びやかな花園で、道信は青春を謳歌したことでしょう。

当歌は、若い道信の恋情が何の飾り・技巧もなく直截的に詠われているように思える。道信は、中古三十六歌仙のひとりで、『拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に49首入集しており、家集に『道信朝臣集』がある。

990年、養父・兼家が、また2年後に実父・為光が相次いで亡くなっている。道信は、994年正月従四位上に叙されたが、同年7月に急逝している。天然痘罹病によるという。享年23歳であった。

道信には、若き貴公子の面目躍如たる恋の逸話がある。相手は為平親王の娘・婉子(エンシ)女王で花山天皇の女御。宮中に入った翌年天皇は出家した。道信は恋歌を贈るなど働きかけたが、女王は権力者・藤原実資に嫁した。その折、女王に贈った歌が『大鏡』に遺されている:

うれしきは いかばかりかは 覚ゆらむ 
   憂きはみにしむ ここちこそすれ (『大鏡』「右大臣師輔」) 
  [あなたは想いが叶って どんなにかうれしいことでしょう。 
  わたしは深く身に浸む哀しい思いに暮れています]  

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