61番 いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほいぬるかな
伊勢大輔(タイフ)(『詞歌和歌集』春・29)
<訳> 昔、奈良の都で咲いていた八重桜が、今日はこの宮中で色美しく咲き誇っていることよ。(板野博行)
oooooooooooooo
古都の奈良で有名なあの八重桜が、今、平安の都で咲き誇っているよ と。一条帝の中宮・彰子に、奈良の人から八重桜が献上された折、新参の取次ぎ役女房・伊勢大輔が求めに応じて即興で詠んだ歌である。平安の都では八重桜が珍しい時でした。
伊勢大輔は、代々祭祀を司る大中臣氏の裔の一人である。生没年は不詳であるが、1008年頃から一条天皇の中宮・上東門院彰子に仕え、先輩の赤染衛門・紫式部や後輩の和泉式部たちと妍を競った女流歌人の一人である。
歌の技法を駆使した技巧的な歌風であるという。その風は、当歌でも読み取れますが、中でも“八重”桜と“九重”と対照的に用いて平安京の一層の賑わいを暗示しています。漢詩でもその特徴を生かすべく、敢えて“重”の字を重複して詠いこみました。
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<漢字原文および読み下し文>
新都燦爛桜花 新都に燦爛たり桜花 [下平声一先韻]
昔洛桜花傲階前, 昔の洛(ラク) 樱花(オウカ) 階前に傲(オゴ)る,
有八重瓣万朵妍。 八重の瓣(ハナビラ) 有りて 万朵(マンダ)妍なり。
如今献上幾條梗, 如今(ジョコン) 献上されし 幾條(イクジョウ)かの梗(エダ),
燦爛平安九重天。 平安 九重(キュウチョウ)の天に燦爛(サンラン)たり。
註]
燦爛:華やかで美しいさま。
洛:中国古代に栄えた洛陽、ここでは古都奈良の意。
朵:花や雲などを数える量詞。 如今:今日、現在。
九重天:天子の奥深い宮殿を指す。
<現代語訳>
新都平安京に燦爛と咲き誇る八重桜
昔日の奈良の都では階前に桜花が咲き誇って、
八重の花びらの無数の花が艶やかに華やいでいた。
今日、奈良より献上された幾本かの桜の枝では、
新都平安京の宮中で、八重の花が煌びやかに咲いている。
<簡体字およびピンイン>
新都灿烂樱花 Xīn dū cànlàn yīnghuā
昔洛樱花傲阶前, Xī luò yīnghuā ào jiē qián,
有八重瓣万朵妍。 yǒu bā chóng bàn wàn duǒ yán.
如今献上几条梗, Rújīn xiànshàng jǐ tiáo gěng,
灿烂平安九重天。 cànlàn Píng'ān jiǔchóng tiān.
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伊勢大輔の曽祖父・大中臣頼基(ヨリモト)は、平安中期の貴族・歌人である。従四位下・神祇大副、939年には伊勢神宮第25代祭主を兼ねた。続いて祖父・能宣(ヨシノブ)、父・輔親(スケチカ)共に、神祇官・祭主を歴任している。伊勢大輔の名は、父が伊勢の祭主で神祇官の大輔であったことに依る。
一方、頼基および能宣(百人一首49番、閑話休題183)は三十六歌仙、輔親は中古三十六歌仙、伊勢大輔は中古三十六歌仙および女房三十六歌仙と、頼基を祖として4代に亘って名歌人を輩出している。更に伊勢大輔は高階成順(ナリノブ)と結婚、康資王母(ヤススケオウノハハ)など優れた歌人を設けている。
伊勢大輔が中宮・上東門院彰子に女房として出仕して間もないころ、中宮に奈良・興福寺の僧から八重桜の花が献上された。献上物の受け取り役は紫式部が予定されていたが、紫式部は「新人の方に」とその役割を伊勢大輔に譲ったのである。
さらに居合わせていた権力者・藤原道長から「歌を」との所望があり、伊勢大輔が即座に詠まれたのが当歌である。中宮をはじめとする人々の賞賛を受け、一躍歌才を認められることとなった。道長、紫式部ともに伊勢大輔の血筋を承知の上で図ったことでしょう。
伊勢大輔の作風は、趣向や修辞を凝らした伝統的な歌風で、掛詞や縁語を駆使した技巧的な歌が特徴である と。当歌で、古都・奈良と新都・平安京を対照的に据えて、華やかな八重桜で有名な古都に対し、平安京(九重天)は、+1と“一層”華やぐ都であると主張しているように思える。
伊勢大輔は、歌人として多くの歌合に出詠しており、その活動期は長く、「上東門院彰子歌合」(1032)から「皇后宮寛子春秋歌合」(1056)に至る多くの歌合せに出詠、また「志賀僧正正明尊の九十賀」(1060)に出詠するなど、多くの賀歌や屏風歌を残していると。
「後拾遺和歌集」(27首)以下の勅撰和歌集に51首入集されている。家集に『伊勢大輔集』がある。1060年志賀僧正90歳の賀歌を最後に、間もなくかなりの高齢で亡くなったようである。
けふ九重に にほいぬるかな
伊勢大輔(タイフ)(『詞歌和歌集』春・29)
<訳> 昔、奈良の都で咲いていた八重桜が、今日はこの宮中で色美しく咲き誇っていることよ。(板野博行)
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古都の奈良で有名なあの八重桜が、今、平安の都で咲き誇っているよ と。一条帝の中宮・彰子に、奈良の人から八重桜が献上された折、新参の取次ぎ役女房・伊勢大輔が求めに応じて即興で詠んだ歌である。平安の都では八重桜が珍しい時でした。
伊勢大輔は、代々祭祀を司る大中臣氏の裔の一人である。生没年は不詳であるが、1008年頃から一条天皇の中宮・上東門院彰子に仕え、先輩の赤染衛門・紫式部や後輩の和泉式部たちと妍を競った女流歌人の一人である。
歌の技法を駆使した技巧的な歌風であるという。その風は、当歌でも読み取れますが、中でも“八重”桜と“九重”と対照的に用いて平安京の一層の賑わいを暗示しています。漢詩でもその特徴を生かすべく、敢えて“重”の字を重複して詠いこみました。
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<漢字原文および読み下し文>
新都燦爛桜花 新都に燦爛たり桜花 [下平声一先韻]
昔洛桜花傲階前, 昔の洛(ラク) 樱花(オウカ) 階前に傲(オゴ)る,
有八重瓣万朵妍。 八重の瓣(ハナビラ) 有りて 万朵(マンダ)妍なり。
如今献上幾條梗, 如今(ジョコン) 献上されし 幾條(イクジョウ)かの梗(エダ),
燦爛平安九重天。 平安 九重(キュウチョウ)の天に燦爛(サンラン)たり。
註]
燦爛:華やかで美しいさま。
洛:中国古代に栄えた洛陽、ここでは古都奈良の意。
朵:花や雲などを数える量詞。 如今:今日、現在。
九重天:天子の奥深い宮殿を指す。
<現代語訳>
新都平安京に燦爛と咲き誇る八重桜
昔日の奈良の都では階前に桜花が咲き誇って、
八重の花びらの無数の花が艶やかに華やいでいた。
今日、奈良より献上された幾本かの桜の枝では、
新都平安京の宮中で、八重の花が煌びやかに咲いている。
<簡体字およびピンイン>
新都灿烂樱花 Xīn dū cànlàn yīnghuā
昔洛樱花傲阶前, Xī luò yīnghuā ào jiē qián,
有八重瓣万朵妍。 yǒu bā chóng bàn wàn duǒ yán.
如今献上几条梗, Rújīn xiànshàng jǐ tiáo gěng,
灿烂平安九重天。 cànlàn Píng'ān jiǔchóng tiān.
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伊勢大輔の曽祖父・大中臣頼基(ヨリモト)は、平安中期の貴族・歌人である。従四位下・神祇大副、939年には伊勢神宮第25代祭主を兼ねた。続いて祖父・能宣(ヨシノブ)、父・輔親(スケチカ)共に、神祇官・祭主を歴任している。伊勢大輔の名は、父が伊勢の祭主で神祇官の大輔であったことに依る。
一方、頼基および能宣(百人一首49番、閑話休題183)は三十六歌仙、輔親は中古三十六歌仙、伊勢大輔は中古三十六歌仙および女房三十六歌仙と、頼基を祖として4代に亘って名歌人を輩出している。更に伊勢大輔は高階成順(ナリノブ)と結婚、康資王母(ヤススケオウノハハ)など優れた歌人を設けている。
伊勢大輔が中宮・上東門院彰子に女房として出仕して間もないころ、中宮に奈良・興福寺の僧から八重桜の花が献上された。献上物の受け取り役は紫式部が予定されていたが、紫式部は「新人の方に」とその役割を伊勢大輔に譲ったのである。
さらに居合わせていた権力者・藤原道長から「歌を」との所望があり、伊勢大輔が即座に詠まれたのが当歌である。中宮をはじめとする人々の賞賛を受け、一躍歌才を認められることとなった。道長、紫式部ともに伊勢大輔の血筋を承知の上で図ったことでしょう。
伊勢大輔の作風は、趣向や修辞を凝らした伝統的な歌風で、掛詞や縁語を駆使した技巧的な歌が特徴である と。当歌で、古都・奈良と新都・平安京を対照的に据えて、華やかな八重桜で有名な古都に対し、平安京(九重天)は、+1と“一層”華やぐ都であると主張しているように思える。
伊勢大輔は、歌人として多くの歌合に出詠しており、その活動期は長く、「上東門院彰子歌合」(1032)から「皇后宮寛子春秋歌合」(1056)に至る多くの歌合せに出詠、また「志賀僧正正明尊の九十賀」(1060)に出詠するなど、多くの賀歌や屏風歌を残していると。
「後拾遺和歌集」(27首)以下の勅撰和歌集に51首入集されている。家集に『伊勢大輔集』がある。1060年志賀僧正90歳の賀歌を最後に、間もなくかなりの高齢で亡くなったようである。