愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 196 飛蓬-103 小倉百人一首:(大納言経信)夕されば 

2021-02-22 10:10:35 | 漢詩を読む
(71番)夕(ユフ)されば 門田(カドタ)の稲葉(イナバ) 
      おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く  
         大納言経信『金葉和歌集』秋・183 
<訳> 夕方になると、家の門前にある田んぼの稲の葉にさわさわと音をたてさせ、芦葺きのこの山荘に秋風が吹き渡ってきた。(小倉山荘氏)  

oooooooooooooo  
稲穂が黄金色に輝く田園、陽が西に傾くころになると、爽やかな秋風がそよと葦葺きの山荘に渡ってくる。稲葉の微かな葉擦れの音とともに。何とも平穏な、心惹かれる田園風景です。 

作者・大納言(源)経信(ツネノブ, 1016~1097)は、平安中・後期に活躍した貴族・歌人。和歌の他漢詩や管弦に優れ、有職故実(ユウソクコジツ)に関する知識も深く、「三船の才」の人と謳われた。最終官位は正二位・大納言、桂大納言と号した。

上の歌は、友人の源師賢(モロカタ)の山荘で催された歌会で、「田家の秋風」の題で詠われたもので、漢詩の詩題としました。漢詩はすっきりした五言絶句とした。秋の夕暮れの頃の爽やかな田園の情景が読み取れるなら幸甚である。

xxxxxxxxxxxxxx 
<漢詩原文および読み下し文>  [下平声七陽韻] 
 田家秋風 田家の秋風  
郷間秋傍晚, 郷間 秋の傍晚(ボウバン), 
门外水田茫。 门外 水田茫(ボウ)たり。 
稲葉徐徐響, 稲葉 徐徐(ジョジョ)と響き, 
爽風到蘆房。 爽風(ソウフウ) 蘆房(ロボウ)に到る。 
 註] 
  田家:農家、農民。      郷間:里、田舎。
  傍晚:夕暮れ。        茫:広々としたさま。 
  徐徐:そよそよと、ゆっくりと。蘆房:蘆葺きの小屋。 

<現代語訳> 
 里の秋風   
里の秋の夕暮れ時、 
門の外には田んぼが広がっている。 
稲の葉がそよそよと揺れて葉ずりの音を響かせて、 
爽やかな秋風が葦葺きのあばら小屋に吹き渡ってくる。 

<簡体字およびピンイン> 
 田家秋风 Tián jiā qiū fēng   
乡间秋傍晚, Xiāngjiān qiū bàngwǎn, 
门外水田茫。 mén wài shuǐtián máng.  
稻叶徐徐响, Dào yè xúxú xiǎng, 
爽风到芦房。 shuǎng fēng dào lú fáng. 
xxxxxxxxxxxxx 

源経信は、平安時代中・後期の歌壇で活躍し、指導的な役割を果たした一人である。宇多源氏・重信流の裔で、父は権中納言道方、祖父は左大臣雅信、また叔母は藤原道長の妻とのことで、有力な一族に属すると言えよう。

子息の俊頼(トシヨリ、1055~1129, 百人一首74番)、孫の俊恵(シュンエ)法師(1113~?, 同85番)と、直系親子三代続いて百人一首の歌人として撰ばれており、唯一の例であり、歌才に優れた血筋と言えようか。

白河天皇(72代、在位1072~1086)の大堰川行幸での、漢詩、和歌、奏楽の3船に分乗させ技量を競わせる遊興行事で、わざと遅れて行って「どの船でもよいから乗せろ」と、自ら万能である事を誇示したという話が伝わっている。

いわゆる万般に優れた才の持ち主であることをいう「三船の才」の人であり、先輩の藤原公任(966~1041、同55番、閑話休題148)と並び称されている。両者ともに晴の歌(宮廷詩)の理論と詠法を完成させた歌人として和歌史上注目されている と。

白河天皇の命による第四代勅撰和歌集『後拾遺和歌集』(成立1086)が、自分を差しおいて藤原通俊(1047~1099)によって撰集された。これに対し『後拾遺問答』・『難後拾遺』を著して批判している。これらは一種の歌論書と言えるでしょうか。

上掲の歌は詞書で「友人・源師賢(1035~1081)の山荘で催された歌会で、“田家秋風”の詩題で詠われた」とある。山荘は、現京都市右京区梅津にあった。大堰川(/桂川)に掛かる“渡月橋”のやや下流、川を挟んで西芳寺/苔寺の対岸に広がる平野部である。

当時、貴族たちは田舎に別荘を建て、美しい田園風景の中で遊び、楽しいひと時を過ごすことが流行していたという。師賢の山荘もその一つである。嵐山の山裾に広がる黄金色の稲穂の大海、夕暮れの頃に稲穂を揺らすそよ風、想像するだけで十分に命の洗濯ができそうである。

叙景歌を得意としていたという経信の面目躍如たる歌と言えよう。経信の歌は『後拾遺和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に87首が入集されている。家集に『経信集』があり、また晩年、大宰府に赴任していた際の漢文日記『帥記』がある。

経信は、少年時代、父親に連れられて大宰府の菅原道真(845~903、同24番、閑話休題137)の廟所・天満宮安楽寺を訪ね、道真所縁の梅を見ていたようである。79歳のころ、自ら権帥として大宰府に赴き梅の老木を目にして感慨を歌にしている(下記)。なお経信は3年後、都に帰ることなく、大宰府で没している、行年82歳。

神垣に 昔わが見し 梅の花  
  ともに老木(オイキ)と なりにける哉(『金葉和歌集』雑 大納言経信) 
 [昔わたしが安楽寺の垣根の内に見た梅の花がいまではわたし同様に 
 老木になっていることだ](小倉山荘氏) 
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閑話休題 195 飛蓬-102 小倉百人一首:(持統天皇)春過ぎて

2021-02-15 10:19:13 | 漢詩を読む
2番 春過ぎて 夏きにけらし 白妙の 
      衣ほすてふ 天の香具山 
            持統天皇(『新古今和歌集』夏・175)              
<訳> いつの間にか春が過ぎて、いよいよ夏が来たようだ、あの天(アマ)の香具山に。夏になると真っ白な衣を干していたと言われており、(今、あのように衣が翻っているのですから)。(小倉山荘氏)

oooooooooooooo
新緑に映える聖なる天香具山に初夏の陽光を受けて真っ白な衣が翻っている、田植えが始まる初夏の訪れだ。昔、村の早乙女(サオトメ)たちが身を清めて、田の神様に神楽を奏上して豊作を願っていたという。身に纏う衣を陽に当てて、清めている情景なのだ。

作者は41代持統天皇(在位686~697)である。お米を主食とする農耕民族にとって、特に稲作は、政権中枢にとっても最重要関心事と言えよう。新装なった藤原京から天香具山を望むと、真っ白な衣が目にまぶしい。今年も豊作に恵まれ、国民が安寧であるように、と願ったことでしょう。

百人一首の巻頭に取り上げられた天智天皇(38代、在位668~671)の秋の稲の収穫真近の歌(閑話休題-193)に続いて、二番手として田植えに取り掛かる初夏の頃を詠った歌である。やはり『万葉集』にある歌の改変版である。七言絶句の漢詩としました。

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<漢字原文および読み下し文>    [上平声十五刪韻]  
 喜来到孟夏所插秧  插秧(タウエ)せし所の孟夏(モウカ)到来を喜ぶ  
空碧雲奇緑逾映、 空は碧(ヘキ)に雲は奇(キ)にして 緑逾(イヨイヨ)映(ハ)え、 
崗腰処処白妙斑。 崗(ヤマ)の腰(チュウフク)処処に白妙(シロタエ)斑(マダ゙ラ)にあり。 
伝説昔日插秧布、 伝説(イイツタエラレ)し昔日(セキジツ)の插秧(タウエ)の布(コロモ)ならん、 
春已夏天香具山。 春 已(スデ)に夏か 天(アマ)の香具山。 
 註] 
  雲奇:陶淵明の「四時の歌」の「夏雲奇峰多し」に拠る。 
  白妙:和歌での枕詞であることから、敢えて日本語そのままの形を活かした。
    また“白い布”という意味もある。 
  插秧布:和歌の中の“白妙の衣”とは? 初夏、田植えの時期、村の娘たちが 
    早乙女の資格を得るために、山に入って物忌みのお隠(コモ)りをしている、
    彼女らの“斎服”であるとする説を考慮した。 
  天香具山:奈良県橿原市にある大和三山の一つ。“香具山”は固有名詞、 
    この山は天から降りてきたという伝説がある。
    そこで「天(アマ)の」が頭につく。 
   
<現代語訳> 
 初夏田植えの時期到来を喜ぶ     
真っ青な空には奇雲が浮かび、山の若緑はますます照り映えている、 
山の中腹の所々には白い布が干してあり、斑模様に見える。 
言い伝えられている、昔干してあったという早乙女の田植え衣であろうか、 
春はすでに過ぎて夏になったのだなあ、天の香久山に。 

<簡体字およびピンイン> 
 喜来到孟夏所插秧 Xǐ láidào mèngxià suǒ chāyāng  
空碧云奇绿逾映,Kōng bì yún qí lǜ yú yìng, 
岗腰处处白妙斑。gǎng yāo chùchù báimiào bān. 
传说昔日插秧布,Chuánshuō xīrì chāyāng bù,  
春已夏天香具山。chūn yǐ xià tiān Xiāngjùshān. 
xxxxxxxxxxxxxx

地図を開くと、持統帝が造営した藤原京のあった場所を取り囲むように大和三山がある:東南に天香具(アマノカグ)山、西南に畝傍(ウネビ)山、東北に耳成(ミミナシ)山。地図上の記載は”天香具山”であるが、地域名勝の地名としては”香具山”のようである。

標高152mの小高い山・天香具山は、天から降ってきたという伝説があり、古代から聖なる山として崇められてきた と。『万葉集』でも13首に歌の対象とされている由。今日なお季節行事の一つとして“御田植祭”が執り行われているようである。

農耕民族にとって特に稲作に関わる農事は、特別の意味合いがあったと思われる。聖なる天香具山は、稲作の豊作を願い、あるいは豊作に感謝の意を表する場として、“信仰?”の対象とされたのではないでしょうか。山に翻る“白妙の衣”に、単なる叙景としてではなく、田植えの始まる時期と読み取っていたのでしょう。

持統帝(645~702;鸕野讃良皇女 ウノノサララノヒメミコ)は、天智天皇の第2皇女である。13歳で天智帝の弟・大海人皇子( オオアマノオウジ; ?~686;40代天武天皇:在位673~686)に嫁いでいる。病の天智帝を見舞ったのちの大海人の吉野行には行動をともにした。

天智帝薨御の翌年、大海人は「壬申の乱」(672)を起こし、天智帝の第一皇子・大友皇子(39代弘文天皇;在位671~672)を近江大津京で自害に追いやった。鸕野讃良もこの乱を「ともに謀った」とされている。

大海人皇子が即位(673)すると、鸕野讃良は皇后として、常に天武帝の傍にいて、政事を補佐したという。685年頃から、天武帝が病気がちになると、皇后が代わって統治者として存在感を高めていった と。

686年天武帝が没すると、大津皇子の謀反が発覚、皇子は自殺に追いやられた。皇太子・草壁皇子のライバルと目され、鸕野讃良が先手を打って、亡き者にしたのではないかと考える人が多い と。大津皇子は、鸕野讃良の実姉・大田皇女と天武帝との間に生まれた皇子である。

しかし草壁皇子は病没する(689)。皇位継承計画の変更を余儀なくされ、鸕野讃良は、草壁の子・珂留(カル)/軽皇子(当時7歳)を望むが若齢故に立太子も憚られた。そこで自ら即位することにした。史上3人目の女帝・持統天皇である。

「日本律令体制の基礎は天武政権の下で定まった」と言われるほどに、国の形を整える上で、歴史上天武朝の意義は非常に大きかったようである。「日本」、「天皇」という称号を使い始めたのは天武帝とされている。

律令の編纂や身分制度の制定等多くの改革が天武帝の許で発案・開始され、持統帝の時代に完成を見ている。文化面においても、各地の土着文化を掘り起こす『風土記』や歴史書『古事記』および『日本書紀』、漢詩集『懐風藻』の編纂等々、多くが天武-持統期の成果と言えそうです。

日本歴史を語る上で忘れてならない“藤原氏”は?「壬申の乱」の折、藤原不比等(フヒト)は13歳、若年故にか?“お咎めの目”から逃れた。大舎人の登用制度により出仕し下級官人からのスタート。皇室に取り入り、42代文武天皇(珂留皇子)の擁立に尽力する。

以後、大宝律令の編纂に中心的役割を果たし、表舞台に登場する。文武天皇2年(698)、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。従兄弟たちは中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することになった。

『万葉集』(成立年不詳)に収められた持統帝の歌(下記)を読みます。見たままの叙景歌であるが、訴える力が強く感じられる。ほぼ500余年後に改変され、『新古今集』(1205年成立)に収載された歌は、回顧的な伝聞歌となり、奥行きが感じられないように思えるが如何であろう。

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の
  衣干したり 天の香具山 (『萬葉集』巻一 二十八) 
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閑話休題 194 飛蓬-101 令和3年初春 第二次緊急事態宣言

2021-02-10 14:53:11 | 漢詩を読む
昨年の暮れから今年正月にかけて、コロナ感染症の第三波に襲われ、まさに感染爆発を思わせる状態に至った。さもなければ、最も賑やかに且つ楽しく送るはずの時期に、市民生活は瀕死の状態に置かれることになった。

幸いに、1月7日発効、向こう一ケ月間の「第二次緊急事態宣言」発出の英断により、コロナ感染の拡大は顕著に抑えられてきた。「宣言」延長は余儀なくされたが、所によっては宣言解除の声が聞こえてきている。今少しの辛抱である。

ただ、今回の結果を見て、この程度の強さの“ブレーキ”が、第三波の立ち上がりの頃(去年11月半ば頃)に発出されていたなら、一ケ月後の12月半ばには……。当時、第三波の始まりでは?との声はかなりあったが、「第三波ではない」という主張が通ったのであった。

その折に、英断が下されていたなら、暮れから今年正月にかけて、市民生活や各業界の活動には、より高い自由度が確保されていたのではなかったろうか。失したタイミングは悔やまれることである。

うン? そうだ、仮定の話にはコメントを差し控えましょう。

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<原文および読み下し文> [下平声一先韻] 
辛丑孟春第二次告緊
辛丑(シンチュウ)の孟春(モウシュン) 第二次告緊(コクキン)
生民菜館共惨然, 生民 菜館(サイカン)共に惨然(サンゼン)たり, 
君子小集夕化仙。 君子 小集して 夕(ユウベ)に仙と化す。 
世上施事無忖度, 世上の施事(セシ)忖度(ソンタク)無し, 
即把冠状可左遷。 即(スナワ)ち冠状(コロナ)を左遷すべし。 
註]
孟春:初春。
告緊:緊急事態宣言、特に不要不急の外出自粛・外食産業の午後8時以後の
営業自粛等々。
生民:ひとびと。        小集:数人の集まり、小宴会。
化仙:俗界を離れて、不老不死で、飛翔できるなど神通力をもつと言われる
仙人になること。     施事:何かの動作を行う人や事物。
冠状:コロナウィルス。
左遷:低い地位におとすこと。ここでは、強力なブレーキでコロナ感染拡大を
抑えることを意味する。

<現代語訳> 
令和3年初春 第二次緊急事態宣言   
一般市民や飲食業界は共に苦境にあり、痛ましい限りだ、 
君子は数人集まって、夜ともなれば(繁華街で)宴を開き、仙人気取りである。 
(コロナばかりか君子とて)世の中の物・人には忖度など期待できないのだ、 
直ちに身の周りからコロナを追っ払ってくれ。 

<簡体字および読み下し文> 
辛丑孟春第二次告紧
Xīn chǒu mèng chūn dì èr cì gào jǐn
生民菜馆共惨然,Shēng mín càiguǎn gòng cǎnrán,
君子小集夕化仙。jūnzǐ xiǎo jí xī huà xiān.
世上施事无忖度,Shìshàng shī shì wú cǔndù,
即把冠状可左迁。jí bǎ guānzhuàng kě zuǒqiān.  
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過去の経験は、失敗・成功に関わらず、振り返り、活かしていけるよう謙虚な対応を採られるよう、指導的立場の人々にお願いする次第である。特に非生物に近い生物に対しては、念い・念力では打ち克てないことを肝に銘じて頂きたい。

ブレーキ/アクセルの踏み具合の強さ・時期等々、特に今回の“宣言“で得られた効果を念頭に、小出し方策で結果的に長引く苦境に喘ぐのではなく、科学的思考を基盤とした、メリハリの利いた対応を期待する次第である。 

“With Corona”下での社会生活の断面を 昨春の「コロナ禍の春日」(閑話休題-157)から始めて、季節または年中行事などの節目に、漢詩で綴ってきました。今回5回目となります。一日も早く明るい内容になるよう願いつゝも、なおコロナ克服の道は半ばである。 

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閑話休題 193 飛蓬-100 小倉百人一首:(天智天皇)秋の田の

2021-02-08 09:56:59 | 漢詩を読む
1番 秋の田の 仮庵(カリホ)の庵(イホ)の 苫(トマ)をあらみ  
       わが衣手(コロモデ)は 露にぬれつつ 
            天智天皇 (『後撰集』秋中・302) 
<訳> 秋の田のほとりに建てられた仮小屋は、屋根の苫の目が粗いので、そこにこもって番をしている私の袖は夜露で濡れてしまっているよ。(板野博行) 

oooooooooooooo  
一面黄金色に垂れる稲穂を獣に荒らされないよう夜を通して仮小屋で見張っている。小屋は粗末な苫ゆえに、夜露が滴り落ちてきて衣を濡らすが、意に介することはない。実り豊かな秋、収穫を間近にした農夫の作業の一場面と言える。 

作者は、38代天智天皇(在位668~671)である と。天智帝は皇太子の頃、“乙巳の変”を通して有力氏族・蘇我入鹿・蝦夷を葬り去り、政治改革“大化改新”をスタートさせた帝とされている。その地位や人柄から推して、素直には信じ難いが、帝が“一農夫”として農作業に従事していることを思わせる情景の歌である。百人一首の巻頭を飾っています。

七言絶句としました。 この歌の元歌と思しき歌が『万葉集』に“詠み人しらず”としてあります。漢詩化に当たっては、収穫を間近にした“一農夫”の情景を表したものとして捉えて臨みました。

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<漢詩原文および読み下し文>  [上平声七虞・六魚韻] 
 一夜在監視廬 監視廬(ロ)での一夜 
金黄稲穗輝映乎, 金黄の稲穗(イナホ) 輝映(キエイ)乎(コ)たり,
田畔修建暫住廬。 田の畔(ソバ)に暫住(ザンジュウ)の廬(イオリ)修建(シュウケン)してあり。
蓋室茅苫糙編制, · 室を蓋(オオ)う茅(カヤ)の苫(トマ) 編制(ヘンセイ) 糙(アラ)く,
露沾衣袖意悠如。 露に沾(ヌレ)る衣袖 意(イ)悠如(ユウジョ)たり。
 註] 
  監視廬:監視小屋、穀物を獣が荒らすことから守るための番小屋。 
  輝映乎:照り映える。謝霊運:「登江中孤嶼」の詩中“雲日相輝映”に依る。 
    “乎”は感嘆詞。 
  修建:修築する。      暫住:仮住まいの。 
  編制:編む、編み目。    沾:ぬれる、湿る。 
<現代語訳> 
 番小屋での一夜  
黄金色の稲穂がまばゆいばかりに照り映えている収穫間近なころ、
田んぼの傍に設けた番小屋で寝泊まりして獣から穀物を守る。
小屋を覆う茅の苫の編み目が粗いために、
隙間から落ちる夜露に、袖は濡れるがままに任せている。

<簡体字およびピンイン> 
 一夜在监视庐 Yīyè zài jiānshì lú  
金黄稻穗辉映乎, Jīnhuáng dào suì huī yìng ,  
田畔修建暂住庐。 tián pàn xiūjiàn zàn zhù . 
盖室茅苫糙编制, Gài shì máo shān cāo biānzhì, 
露沾衣袖意悠如。 lù zhān yī xiù yì yōu. 
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歌の作者とされる天智天皇 [皇子名:中大兄皇子(ナカノオオエノオウジ)]について、その政治暦について大略触れます。飛鳥板蓋宮(アスカイタブキノミヤ)大極殿で、皇子の母・皇極天皇(35代、在位642~645)臨席の下、三韓(朝鮮半島)からの御調(ミツギ)を奉る、今で言う国際会議が行われていた。

蘇我倉山田石川麻呂(クラヤマダイシカワマロ)が三韓の上表文を読み終えようとする時、槍を持って隠れていた中大兄皇子が突如現れて、臨席の蘇我入鹿(イルカ)に襲いかかった。一、二撃で入鹿は絶命。中臣鎌足は、弓矢を整えて周囲を守っていたようだ。いわゆる「乙巳(イッシ)の変(645年7月)」である。

甘樫野(アマカシノ)にいた入鹿の父・蝦夷(エミシ)は自害し、この変を経て豪族・蘇我氏は没落した。以後、異母兄・古人大兄皇子(645年9月)、蘇我倉山田石川麻呂(649)、36代孝徳天皇(在位645~654)の遺児・有間皇子(658)など、皇位継承に関わりのある人々が謀反の疑いで処刑または自害に追いやられた。

中大兄皇子は、母・37代斉明天皇(皇極の重祚)の薨御(661) 7年経って、668年1月に即位する。皇太子時代には漏刻(ロウコク、水時計)の作製、また即位後、近江令の制定、全国規模で最古の戸籍・『庚午年籍』を作成するなど、国の統治に力を注いでいる。

その間諸々の事象・事業に中臣鎌足の指南・補佐があったことは言うまでもない。鎌足は亡くなる前日に内大臣に任じられ、藤原の姓を賜った(669)。奈良から続く平安時代を通して栄え、権力を恣(ホシイママ)にする“藤原氏”祖の誕生である。

天智帝は671年10月病に倒れ、弟の大海人皇子を枕辺に呼び、後事を託そうとした。大海人は拝辞して受けず、剃髪して僧侶となり、吉野に去った。帝は、近江大津京で崩御されたと言われているが、真相は定かではないようだ。

歌の作者としては、『万葉集』中に天智天皇作として“大和三山の歌・長歌と反歌”および相聞歌がある。一方、百人一首の歌の出所は、天智帝の時代からほぼ300年後に撰された第2代勅撰和歌集・『後撰和歌集』(951成立)である。

百人一首の歌は、『万葉集』中で“詠み人知らず”としてよく似た歌があり(下記参照)、その改変では?との疑問が提示されている。ほぼ300年の時間差、また改変(?)の意義を含めて多くの議論が展開されています。

その中の一点は、天智天皇自ら農作業に従事、あるいは萬葉集歌の改変に関わったのであろうか?併せてのちに藤原定家(1162~1241)がこの歌を百人一首の巻頭に撰した意図は? いずれも疑問、議論は尽きない課題ではあるが、論は外に譲ります。

ただ件の歌について、筆者に興味があり、注目したい点は、農作業のある一過程に携わっている庶民・農夫の「姿」が描き出されていることです。秋季の夜半、屋根から露が滴り落ちるほどの荒葺きで粗末な番小屋で、寒さなど忘れて、垂れ下がった黄金色の稲穂を見守っている「姿」です。

百人一首を通覧した時、庶民の作業する「姿」を詠った歌としてもう一首ある事に気が付きます。庶民・漁師の「姿」がリアルに描かれた歌、鎌倉右大臣(3代将軍・源実朝)の歌です(閑話休題-154)。その歌を参考のため再掲します:

(93番)世の中は 常にもがもな 渚(ナギサ)漕ぐ 
      海女の小船(オブネ)の 綱手(ツナデ)かなしも 
         鎌倉右大臣 『新勅撰和歌集』羇旅・525 

波静かな浜辺で、恐らくは漁を終え、跳ねる魚を満載した小船を 船上で漕ぐ人と、波打ち際で綱を引っ張って誘導している人と息の合った作業をしている「姿」です。丘の上から見ているのでしょう、源実朝の暖かい眼差しも感じられる歌と言えます。

本題の歌の元歌と思しき『萬葉集』中 “詠み人知らず”の歌を示します。

秋田刈る 仮廬(カリホ)を作り わがをれば 
  衣手さむく 露ぞおきにける(万葉集十 よみ人知らず) 
 [秋に田を刈るための仮小屋を作って わたしがこもっていると袖口には 
 露がたまって寒いことだ](小倉山荘氏) 
 
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閑話休題 192 飛蓬-99 小倉百人一首:(中納言兼輔)みかの原 

2021-02-01 10:05:40 | 漢詩を読む
27番 みかの原 わきて流るる 泉川(イヅミガハ)  
      いつ見きとてか 恋(コヒ)しかるらむ 
          中納言兼輔『新古今和歌集』恋・996           
<訳> みかの原から湧き出て、原を二分するようにして流れる泉川ではないが、いったいいつ逢ったといって、こんなに恋しいのだろうか(一度も逢ったことがないのに)。(小倉山荘氏) 

ooooooooooooo
昔、修行中の弘法大師が、飲水が欲しくて杖で地面をついたら、埋められた“みか”(甕・瓶)から水が湧き出て、泉川になった(?)という伝説があるとかー“みかの原”と“泉川”の名の由来。「いつ見」た(逢った)かは定かでないが、何とも恋しいあのひとであるよ。 

作者は、藤原兼輔(877~933)、平安時代中期の公家・歌人。紫式部の曽祖父に当たる人で、賀茂川堤に邸宅があったことから、堤中納言と号した。三十六歌仙の一人である。60代醍醐天皇(在位897~930)の外戚であったことから、その庇護を得て高官に昇った。 

七言絶句の漢詩としました。和歌では、“いづみ川”と“いつ見き…”の掛詞で“川”と“思い”を繋いでいます。漢詩では、「川の流れは元には戻らない(逝川)」のに、「“思い”は纏綿として蘇り、益々深まる」として“川”と“思い”を関連つけました。 

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<漢詩原文および読み下し文> [下平声十二侵韻] 
 害単思病     単思(タンシ)の病を害(ワズラ)う   
水湧泉河滋潤野, 水湧いて泉河(イズミガワ) 野(ヤ)を滋潤(ジジュン)するも, 
二分瓶原隔開心。 瓶原(ミカノハラ)を二分(ニブン)し 心を隔開(カクカイ)するか。 
所思何日逢値過, 所思(オモウトコロ)には 何れの日に逢値(ホウチ)せしか, 
異逝川安弥念深。 逝川(セイセン)と異なり 安(イズク)んぞ 弥(イヨ)いよ念(オモ)い深からん。
 註」 
  単思:片思い。       滋润:潤す。 
  泉河:泉川、現在の木津川。
  瓶原:みかの原、現京都府相楽郡加茂町、木津川の北側。かつて 
    聖武天皇の時代に、恭仁京(クニキョウ)が置かれた(740)地域。 
  所思:思うところ、恋人。「古詩十九首 其九」“将以遣所思”(将に以て 
    思う所に遣らん)に依る。  
  逢値:出会う、めぐり合う(三国・『周魴伝』)。 
  逝川:『論語』子罕(カン)の「川上の嘆」に基づいた謝瞻の詩句 
    “逝川豈往復”(川の流れはもとに戻ることはない)に拠る。 
  弥:いよいよ、ますます。 

<現代語訳> 
 片思いの恋煩い  
湧き出た水は泉川となって流れ、“みかの原”の土地を潤しているが、 
“みかの原”を二分して、二人の心を引き裂いているかのようだ。 
かの心に思っている人にはいつめぐり逢ったのであろうか、 
流れ去る川の水は返らぬが、どうして彼女への思いは再々蘇り深まるのであろう。 

·<簡体字およびピンイン> 
 害单思病 Hài dān sī bìng  
水涌泉河滋润野, Shuǐ yǒng Quánhé zīrùn yě, 
二分瓶原隔开心。 Èr fēn Píngyuán gé kāi xīn.  
所思何日逢值过, Suǒ sī hé rì féng zhí guò,  
异逝川安弥念深。 yì shì chuān ān mí niàn shēn. 
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藤原兼輔は、醍醐天皇の外戚であったことからその春宮時代から仕え、即位すると昇殿を許される。非蔵人として醍醐帝に仕える傍ら、右衛門少尉を兼ね、902年従五位下に叙爵する。

一方、醍醐帝の伯父で右大臣に登る定方(873~932、百人一首25番、閑話休題-129)は、兼輔の従兄弟で、義父に当たる。兼輔は、藤原北家嫡流ではないが、醍醐帝および定方の庇護を得て順調に昇進し、諸官を経て、最終官位は権中納言従三位右衛門督に至った。

賀茂川提近くに邸を構え、そこを中心に義父の定方はじめ紀貫之(同35番、閑話休題-140)や凡河内躬恒(オオシコウチノミツネ、同29番、閑話休題-177)らとサロンを形成し、文化人たちの庇護者的存在であった。和歌説話集・『大和物語』にはそこでの逸話がいくつも伝えられているという。

紫式部(同57番、閑話休題-122)の曽祖父に当たり、三十六歌仙の一人に選ばれている。『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に56首入集し、家集に『兼輔集』がある。

当時、世に最もよく知られていた兼輔の歌は、下記の「人の親の…」であったという。醍醐帝の更衣となった娘の身を案じての親心の歌であると言われているようです。お酒の席で詠われた由であるが、真心が率直に詠われ、今に生きる時代を超えた歌であると言えようか。

なお紫式部の『源氏物語』の中では、この歌の断片または全体の形として、20数回引用されていると。“おじいちゃま”の歌ということもあろうが、やはり訴えるところがあるからでしょう。

人の親の 心は闇に あらねども 
   子を思う道に まどひぬるかな(『後撰和歌集』 雑 兼輔朝臣) 
  [子を持つ親の心は闇というわけではないが 子どものことになると 
  道に迷ったようにうろたえるものですな](小倉山荘氏) 
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