愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 118 飛蓬-32: 小倉百人一首 (3番) あしびきの

2019-09-24 10:42:55 | 漢詩を読む
 (3番) あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
        ながながし夜を ひとりかもねむ
                  柿本人麻呂
<訳> 山鳥の長く垂れ下がっている尾のように、いつまでも明けない秋の夜長を、恋する人と離れてただ一人寂しく寝るしかないのだろうか。(板野博行)

先に触れたように(閑話休題115)、山部赤人とともに「山柿」と併称される万葉のもう一人の“歌聖”、柿本人麻呂の歌に挑戦します。敢えて“挑戦”としたことにはわけがあります。

和歌には、上記の「あしびきの」のような“枕詞”という修辞法があります。一見、無意味な“飾りのことば”に思え、その漢詩化に当たって難題の一つと言えます。一つの試案を提示しました。ご批判を頂けるとありがたいです。

xxxxxxxx 
<漢字原文および読み下し文>
 秋独夜    秋の独夜       [下平声十二侵韻]
曳足山鳥尾, 足を曳(ヒキズ)る山の鳥の尾,
樹上下垂吟。 樹上に下垂(タレサゲ)て吟(ウタ)う。
長夜秋天候, 長夜 秋天(シュウテン)の候,
但恨莫同衾。 但だ恨(ウラ)むらくは同衾(ドウキン)莫(ナ)しを。
 註]
  曳足: “山”の枕詞、「あしびきの」に対応する。「足を引きずりながら登る」の意を込
めた。
  山鳥:キジ科の鳥でオスの尾が非常に長い。そのため「長いこと」を表す時に使われる。
<簡体字>
 秋独夜
曳足山鸟尾, Yè zú shān niǎo wěi
树上下垂吟。 shù shàng xiàchuí yín
长夜秋天候, Cháng yè qiūtiān hòu
但恨莫同衾。 dàn hèn mò tóngqīn

<現代語訳>
 秋の独夜
足を引きずりながら登る険しい山に住む山鳥の尾、
彩り鮮やかな長い尾を樹上から垂らして、山鳥は美しい声で歌っている。
山鳥の尾のような秋の夜長を
褥(シトネ)を共にする人もなく、一人で寝るのがなんとも恨めしいことである。
xxxxxxxxx

和歌には、枕詞(マクラコトバ)、序詞(ジョコトバ)、掛詞(カケコトバ)、等々、 “語呂合わせあるいは言葉遊戯”とも言える修辞法があります。それらを駆使することで、和歌に深みを与えているようで、和歌にとっては非常に重要な要素といえます。

和歌を漢詩化するに当たって、これらの修辞法を如何に表現するか、誠に難問といえます。まず枕詞について考えます。今回の歌について言えば、「あしびきの」が枕詞に相当します。

上記の先達の<訳>文中、枕詞に相当すると思える表現は見当たりません。つまり枕詞は、言語遊戯の技法のひとつであり、その語自体、和歌の“訳”を考える上では、意味がなく、したがって訳出しする必要がないということのようです。

では翻訳した漢詩に“枕詞に相当する表現”がなくてよいのであろうか。和歌のありようを率直に表現するには、必須であると考えられ、避けて通るわけにはいくまいと考えています。

作者・柿本人麻呂は、枕詞の創造、古い枕詞の新しい解釈等々、今に生きる枕詞の活用に、多大な貢献をされた歌人とされている。“あしひきの”については、元々は「足を引く」意味ではなかったが、「足引きの」→「足引きながら登る」→「山」と関連付けたのも、彼の功績である と。 

今回は、“あしひきの”の翻訳に2字の“曳足”を当てたが、3字を要する際には“曳足登”と活かせるように思う。このように、 “導く語・山”との関連が、想像できる枕詞については、比較的に容易に漢詩にも生かせるように思われる。

実際に、枕詞とそれを導く言葉との関連性についての意味合いは、必ずしも一様ではなく、またその数1,000を超すとされる。百人一首の中でも数多いと思われ、これから漢詩化を進める上で、予想を超える難題と覚悟が要りそうだ。

今回取り上げた和歌で、今一つ大事な要素は、序詞(ジョコトバ)である。すなわち、「山鳥の長く垂れ下がった尾のように」は、「長々し夜」を導きだす序詞に当たります。ここで翻訳した漢詩・絶句で言えば、起句と承句が序詞に当たります。

一般に、絶句の漢詩で、起句と承句は、広い意味での、和歌で言う“序詞”に相当する部分であると考えられるのではないでしょうか。つまり、転句・結句の結論に導くために“情景の説明または提示”をする部分である と。

作者・柿本人麻呂は、大和時代後期(7世紀末ころ)に、天武・持統・文武天皇に仕えた宮廷歌人であるが、その生没の詳細は不明のようです。三十六歌仙の一人で、『万葉集』を代表する歌人とされており、450首以上の歌が残っている と。

『万葉集』に長歌20首、短歌75首が収められている と。かの有名な七五調の『いろは歌』“いろはにほへと ちりぬるを …… ”の作者ではないか とする説があるようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 117 旅-2、 杜甫 岳を望む

2019-09-14 16:47:26 | 漢詩を読む
この一対の句:

 会(カナラ)ず当(マサ)に絶頂を凌(シノ)ぎて,
   一覧(イチラン)すべし衆山(シュウザン)の小なるを。

杜甫(712~770)の若い(20代後半)ころ、「周りの群小の山々を見下ろす泰山のようになりたいものだ」と、青雲の大志を表明した詩です。李白らと連れ立って、山東の辺りを旅していた折の作でしょうか。

泰山とは如何なる山か と詠み進むうちに、湧き上がる雲に胸の高鳴りを覚え、
飛ぶ鳥に目を見張り、心の高揚を覚えていきます。遂には、いずれは絶頂に立って……と、世に出て名を著すことを思い描きます。

xxxxxxxx 
<原文および読み下し文>
望岳     岳を望む
岱宗夫如何, 岱宗(タイソウ) 夫(ソ)れ如何(イカン),
斉魯青未了。 斉魯(セイロ) 青(セイ)未(イマ)ダ了(オワ)らず。
造化鍾神秀, 造化(ゾウカ) 神秀(シンシュウ)を鍾(アツ)め,
陰陽割昏暁。 陰陽 昏暁(コンギョウ)を割(ワ)かつ。
盪胸生曾雲, 胸を盪(ウゴ)かして曾雲(ソウウン)生じ,
決眥入帰鳥。 眥(マナジリ)を決すれば帰鳥(キチョウ)入る。
会当凌絶頂, 会(カナラ)ず当(マサ)に絶頂を凌(シノ)ぎて,
一覧衆山小。 一覧(イチラン)すべし衆山(シュウザン)の小なるを。
註]
 岱宗:山東省泰安市の北方にある泰山。五岳の一つで東岳ともいう。“宗”は五岳の長の意。
 夫:それ、いったい、そもそも; 斉魯:山東省東北部から西武;
 造化:造物主; 神秀:神々しく秀でているもの;
 陰陽:ここでは、山の北側と南側; 盪:ゆさぶる;
 決眥:目を大きく見開くさま;

<現代語訳>
 泰山を望む
泰山は、一体どのような山か、
青い山並みは、斉の国から魯の国にまたがり、果てしなく広がっている。
天地創造の造物主は、この山に万物の霊気をあつめ、
山の北と南では夕方と朝方と異にするほどである。
この山から重なり合った雲の沸き立つのをみれば、胸が揺すぶられ、
ねぐらに帰る鳥を見送れば、まなじりが裂けんばかりである。
いつの日にかきっと、この山の頂に登って、
周りの多くの小さな山々を見下ろしたい
xxxxxxxxxxx

泰山は、古来、山自体が信仰の対象とされてきている名山で、道教信仰の五岳の一つである。山東省泰安市の近郊にあり、東方を守る意味で東岳、または五岳の長(主峰)として、特に、岱宗とも称される。

因みに五岳とは、嵩(スウ)山(中岳、河南省鄭州市登封)を中心として、北に恒(コウ)山(北岳、山西省渾源県)、西に崋(カ)山(西岳、陝西省華陽市)、南に衡(コウ)山(南岳/寿岳、湖南省衡陽県)、そして東の泰山をいう。

いずれの山も、道教ばかりでなく、仏教や儒教の聖地でもある。中でも泰山は、古来、封禅(ホウゼン)の礼が行われたところとして、歴史的にも特殊な山と言える。秦始皇帝や漢武帝が主催した儀が、比較的によく話題とされる。

封禅とは、古代に天子/皇帝が主催し、山上で土壇を作って天を、山の下で地を祓い清めて山川を祭る行事という。皇帝だれでも実施できるのではなく、善政を行い、世を安寧に導いたと誰もが認めた皇帝に主催する資格が与えられるという。

今の泰山は、1987年にユネスコの世界遺産に登録されている。高さ1,500mほどあり、麓から山頂に至る約9kmの登山道に7,000段の石段がある。なお、ほぼ中央まで車道ができ、その上はロープウェイで行けるという。

登山道に沿って、多くの寺や廟があり、山頂からの眺めと合わせて、観光名所となっている。中でも山麓にある泰山府君(病気や寿命に関わる道教の神)を祀ってある岱廟の壮大さは、孔廟、紫禁城と並んで、中国三大建築の一つとされているようです。

杜甫の詩については、これまでに幾つか触れてきましたが、ほとんど壮年以後の作品でした。実際30歳以前の作品はほとんど残っていないという。「望岳」は青年期の作品と思われ、貴重な作品と言えるのでしょうか。

杜甫の祖先には、西晋(265~316)のころ、儒家が作った経典(教書)を研究する学問分野で杜預(トヨ)という著名な学者がいた。また武則天(在位690~705)のころ、祖父の杜審言(トシンゲン)は宮廷詩人として活躍している。

杜甫も、このような家系を背負って、家名や詩名を高めようという秘めた志は並々ならぬものがあったと推察されます。いつか必ず中央に飛躍して、天下を見下ろしたい と。「望岳」は、青年杜甫の意気込みが率直に伝わってくる詩といえます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 116 旅-1、 韓愈 送桂州厳大夫

2019-09-03 14:47:24 | 漢詩を読む
この一対の句:

江は青羅(セイラ)の帶(オビ)を作(ナ)し,
山は碧玉(ヘキギョク)の簪(カンザシ)の如し。

中国の湘南、洞庭湖の遥か南に位置する景勝の地・桂林の風景を詠った名句です。「桂林山水 甲天下」(桂林の山水の風景は天下一、並ぶものなし)と、古くから言い継がれてきたようです。そのさまを見事に表現した句と言えようか。

向後、“旅シリーズ”として、“旅”に纏わる話題:景勝地・旅での出来事・おいしい話、等々、気の赴くままに、漢詩を通して見ていきたいと心づもりしております。今回の詩は、このシリーズの劈頭に最もふさわしい詩として選びました。

この詩は、韓愈(768~824)晩年(55歳)の作です。厳大夫が左遷されて、桂州都督として赴くにあたって、「仙人の住むような素晴らしい所です。気を落とさずに」と、心を込めて送り出す詩です。少々難解ですが、味わい深い詩と言えます。

xxxxxxxx 
<原文および読み下し文>
  送桂州嚴大夫  桂州の嚴(ゲン)大夫を送る
蒼蒼森八桂, 蒼蒼(ソウソウ)たり 森(シン)たる八桂(ハッケイ)、
茲地在湘南。 茲(コ)の地 湘南(ショウナン)に在り。
江作青羅帶, 江は青羅(セイラ)の帶(オビ)を作(ナ)し,
山如碧玉簪。 山は碧玉(ヘキギョク)の簪(カンザシ)の如し。
戶多輸翠羽, 戶は多く 翠羽(スイウ)を輸(ハコ)び、
家自種黃甘。 家は自(オノ)ずから黃甘(コウカン)を種(ウ)ゆ。
遠勝登仙去, 遠勝(エンショウ) 登仙(トウセン)して去れば,
飛鸞不假驂。 飛鸞(ヒラン) 驂(サン)するに假(イトマ)あらず。 
 註] 森:樹木が多いさま。ここでは金木犀の木が茂っているさま。
八桂:八株の金木犀の木があるという伝説の月の宮殿。
青羅:青い薄地の絹の織物。
鸞:中国の想像上の鳥。

<現代語訳>
 桂州都督として赴任する厳大夫を送る
伝説上の月の宮殿のように桂(金木犀)の木が生い茂る、
こんな美しい所が湘江の南に在る。
川は青い羅(ウスギヌ)の帯のようであり、
山は碧玉で作った簪のようである。
家々の戸口からはカワセミの翠(ミドリ)の羽が運び出され、
どの家でもミカンの木が植えられている。
はるか景勝の仙人の住むところに行くと、
鸞鳥が背に乗せて休むことなく案内してくれるのだ。
xxxxxxxxxxx

話題の桂林(Guìlín グイリン)について:

中国・広西壮族(チュアンゾク)自治区に位置する地級市である。カルスト(石灰岩)地形で、タワーカルストが林立し、正に“碧玉でできた簪”のように美しい風景を呈している(写真参照)。

写真1:桂林の風景 (2015.10.19撮影)

著名な英国の地形学者Marjorie Sweetingが、かつて桂林を訪ねた際に、「もしもここの石灰岩地形が最初に研究対象とされていたら、“カルスト”に代わって“グイリン”という語が生まれていただろう」と語ったという。

“カルスト”とは、もともと欧州中部・スロベニア北西部の地方名である。そこには典型的な石灰岩台地が発達している。そこで石灰岩地形の研究が最初になされたために、石灰岩地形を表す一般用語として“カルスト”が定着した と。

桂林市を貫くように、青羅の帯をなす“漓江”が流れている。この江の4時間余の“川下り”も圧巻である。九馬画山、童子拝観音等々名づけられた、それぞれ異なる山容をまじかに見ながら、遊覧船で下る。まさに「百里の漓江、百里の画廊」である。

桂林から西安に向かう機中で、偶々隣の席の若者たちと片言の会話をする機会があった。十数人の団体であった。聞くと、長安美術大学の学生たちで、桂林で写生をした帰りという。「やはり景勝の地であった」と納得した次第である。

作者の韓愈について:

韓愈については、先にちょっと触れたことがある(閑話休題112)。“推敲”という用語の生みの親である。

792年(25歳)に進士に及第、諸官を歴任している。崇仏皇帝とも称される皇帝・憲宗が、ある寺院の仏舎利を長安の宮中に迎え、供養することになった。それに対して韓愈が激しく諫めた。

これが皇帝の逆鱗に触れ、潮州刺史に左遷された(819、51歳)。「朝に上奏したら、夕べには左遷された」と憤慨する詩を残している。潮州は、遥か南方、広東省の東部、南シナ海に面した所である。そこに韓愈の祠があるという。

この諫言は、六朝から隋唐にかけての崇仏の傾向を排斥し、中国古来の儒教の地位を回復しようとする彼の「儒教復興」の姿勢・思想と繋がるものと言える。この思想はまた、後述の「古文復興運動」と表裏をなしている。

翌820年、憲宗が死去し、穆宗が即位すると、複権して、枢要な官を歴任している。824年、57歳で死去し、礼部尚書を追贈された。

詩文の分野における韓愈の特筆すべきことは、「古文復興運動」を興したことである。当時主流であった艶麗な駢儷文(閑話休題109参照)を批判し、秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱した。唐宋八大家の第一に数えられている所以である。

ただ、新奇な語句が多く用いられる傾向にあり、難解な詩風とも評されている。柳宗元はこの運動に共鳴して活躍し、両者は「韓柳」と並称されているようである。さらに贾島や孟郊など多くの「韓門の弟子」と称する詩人たちが排出した。

この運動は大きなうねりとなって宋代に繋がっていく。因みに“唐宋八大家”とは、唐代の韓愈と柳宗元に、宋代の欧陽脩、蘇洵、蘇軾、蘇轍(蘇軾の弟)、曽鞏および王安石を加えた八人をいう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする