[九帖 葵―1 要旨] (光源氏 22~23歳)
桐壺帝が譲位、弘徽殿女御の息子・朱雀帝が即位、右大臣家の権勢が強まる。葵の上は懐妊する。六条御息所の娘が伊勢の斎宮に選ばれ、源氏に冷遇されている御息所は、娘とともに伊勢への下向を考える。
賀茂祭の御禊(ゴケイ)の日の行列の見物に出かけていた葵の上および六条御息所の間で車争いが起こり、御息所は車に傷を付けられ、恨みに思う。
翌日の賀茂祭の日に源氏は二条院の若紫を訪ね、祭りに出かけましょうと、手ずから若紫の髪を調える。終わると、源氏は「千尋」と髪そぎの祝いことばを発し、歌を詠うと、若紫は、返歌を紙に認めていた。源氏の歌:
はかりなき 千尋の底の 海松房(ミルブサ)の
生ひ行く末は われのみぞ見ん (光源氏)
葵の上は、やや体調が勝れない状態でしたが、御子-夕霧-の出産後亡くなる。御息所の生霊に取りつかれたようである。正妻を失った源氏は、生涯の伴侶・紫の上と新枕をかわす。
本帖の歌と漢詩
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はかりなき 千尋の底の 海松房(ミルブサ)の
生ひ行く末は われのみぞ見ん (源氏)
[註] 〇海松房:緑藻みる、みるぶさ、みるな、みるめなどと呼ばれる海藻、“海松”は“みる”の当て字。
(大意) 測り知れなく深い海の底に生える海松(ミル)のように豊かに成長していく黒髪の将来は私だけが見届けよう。
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<漢詩>
前途楽趣 前途楽趣 [下平声七陽韻]
千尋深海底, 千尋(センジン)もある深い海底,
出壯海松房。 出壯(ヨクソダッ)た海松房(ミルブサ)。
豊富汝頭髮, 豊富(ユタカ)な汝(ナンジ)の頭髮(クロカミ),
前途余見祥。 前途 余が祥(メデタサ)を見ん。
[註] 〇楽趣:喜び、楽しみ; 〇出壯:のびのびと強く育っている; 〇海松房:緑藻の一種“みる”; 〇祥:さいわい、福。
<現代語訳>
行末の楽しみ 千尋の深い海底で、よく育ったみる房。みる房の如く、豊かな黒髪の君、幸せな行末は しっかりと私が見届けよう。
<簡体字およびピンイン>
前途乐趣 Qiántú lèqù
千寻深海底, Qiān xún shēn hǎidǐ,
出壮海松房。 chūzhuàng hǎisōng fáng.
丰富汝头发, Fēngfù rǔ tóu fā,
前途余见祥。 qiántú yú jiàn xiáng.
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源氏の歌の返しに、若紫は、
千尋ともいかでか知らむさだめなく
満ち干る潮ののどけからぬに (若紫)
(大意) 千尋もの深い愛と言われても、どうして分るでしょうか。満ちたり引いたりして定まることのない海潮のようなあなたのことですから。
zzzzzzzzzzzzzzz 葵-2
[九帖 葵―2 要旨] (光源氏 22~23歳)
御息所は、源氏に深い愛情を感じているが、十分な応えが得られない。不幸な恋とは知りつゝ、恋の沼に嵌っていく自分に煩悶している。車争いという小さな出来事が刺激となり、恋の病、また物思いは一層嵩じていった。
寝ても醒めても煩悶するせいか、次第に心が体から離れて行き、失神状態を自覚するようになって、病気らしくなった。一方、葵夫人は、物の怪が付いたふうの容態で非常に悩んでおり、大臣家では加持祈祷を進めていた。
予定の産期より早く、葵の上は俄かに産気づく。源氏が、励まし、慰めると、「……私は苦しいから、法力を緩めて頂きたいとあなたにお願いしたいのです。私は、ここに出て来ようとは思わないのですが、物思いをする人の魂は自分から離れていくものなのです」と、懐かしい調子で言ったあとで:
嘆きわび 空に乱るる わが魂を
結びとめてよ 下がいの褄
(葵の上に取り憑いた六条御息所)
声も様子も葵夫人ではなかった。夫人はすっかり六条御息所になっていた。
やがて葵上は出産するが、生霊に囚われ急死する。正妻を亡くした源氏は、若紫と新枕を共にし、夫婦の関係となる。
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嘆きわび 空に乱るる わが魂を
結びとめてよ 下がいの褄 (葵の上に取り憑いた六条御息所)
(大意) 嘆きわずらう気持ちから、(体から離れて)空に迷う私の魂を結び
とどめてください、着物の裾の両端を結ぶかのように
※ 着物の下前の褄を結んでおくと身体から魂が抜け出ることはないと信じ
られていた。
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<漢詩>
纏住鬼魂 纏住(トリツ)いた鬼魂 [上平声一東韻]
過於悲嘆傷我衷, 過於(ヒドイ)悲嘆で我が衷(ココロ)が傷(イタ)む,
淒愴魂離旋転空。 淒愴(ヒサン)にも 魂は離れて 空を旋転(センテン)しおり。
下擺両端堅関閉, 下擺(スソ)の両端を堅(シッカリ)と関閉(シメ)てくれ,
還期把魂留意中。 還(ナオ) 魂をして 意中に留(トドメ)るを期(ノゾ)む。
[註] ○纏住:憑(ト)りつく; 〇鬼魂:物の怪; 〇淒愴:悲惨である; 〇下擺:着物のすそ。
<現代語訳>
憑りついた物怪
余りにも酷い嘆き悲しみのため 心を痛めている、悲惨にも魂は私を離れて 宙に彷徨っているのです。長着の裾の両端をしっかりと結び留めてくれ、なお 私の魂が心の中に留まるように。
<簡体字表記>
缠住鬼魂 Chán zhù guǐhún
过于悲叹伤我衷, Guòyú bēitàn shāng wǒ zhōng,
凄怆魂离旋转空。 qīchuàng hún lí xuánzhuǎn kōng.
下摆两端坚关闭, Xià bǎi liǎng duān jiān guān bì,.
还期把魂留意中。 hái qī bǎ hún liú yì zhōng.
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【井中蛙の雑録】
・源氏22~23歳。
・平安時代、貴族は呪術的な陰陽道に篤い信仰を傾けていたようである。今回、生々しいその現場に遭遇する帖でした。