両親がともに亡くなったという、まだその事情が呑み込めないのであろう幼気な童が、母を求めて泣いている現場に遭遇しています。‘物言わぬ獣さえ、親は子を思う’と詠った実朝でした。
目前の親を亡くした子に対して何もしてやれない、何とも可哀そうだ、涙が溢れ出るばかりである と、心情を吐露しています。この歌でも実朝は庶民に目を向けており、庶民の生活の場での目撃談とも言えます。
oooooooooooooo
詞書] 道のほとりに幼きわらはの母を尋ねていたく泣くを、その辺りの人
に尋ねしかば、父母なむ身まかりしにと答え侍りしを聞きて
いとほしや 見るに涙も とどまらず
親もなき子の 母をたづぬる (金槐集 雑・608)
(大意) かわいそうでたまらない、見ていると涙が止まることなく溢れてしま
う。父母の亡くなった幼い子が母の行方を求めているのだ。
xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩>
失去双親幼童 双親(リョウシン)を失くした幼童(ワラベ) [下平声一先韻]
路上幼童何可憐, 路上の幼童(ヨウドウ) 何と可憐(アワレ)なることか,
不堪看自泣漣漣。 看(ミ)るに堪えず 自(オノ)ずから泣(ナミダ)漣漣(レンレン)たり。
惟聴父母已亡故, 惟(タ)だ聴くは 父母 已(スデ)に亡故(ボウコ)すと,
覓尋母親啼泫然。 母親を覓尋(サガシモト)めて 啼(ナ)くこと泫然(ゲンゼン)たり。
註] 〇可憐:哀れである、かわいそうである; 〇漣漣:涙などがとめどな
く流れ落ちるさま; 〇覓尋:探し求める; 〇啼:(人が声を出して)泣
く; 〇泫然:涙がはらはらとこぼれるさま。
<現代語訳>
両親を亡くしたわらべ
路上のわらべ なんと可哀そうなことだ、
見るに堪えず 自然と涙が溢れ出て来る。
聞くと 両親ともに亡くなったとのこと、
母親を求めて涙をはらはらと流して泣いているのだ。
<簡体字およびピンイン>
失去双亲幼童 Shīqù shuāngqīn yòu tóng
路上幼童何可怜, Lù shàng yòu tóng hé kělián,
不堪看自泣涟涟。 bù kān kàn zì qì lián lián.
惟听父母已亡故, Wéi tīng fù mǔ yǐ wánggù,
觅寻母亲啼泫然。 mì xún mǔqīn tí xuànrán.
ooooooooooooo
新古今集には、藤原定家の次の歌が撰されている:
玉ゆらの 露も涙も とどまらず
亡き人恋ふる 宿の秋風 (新古今集 哀傷・788)
(大意) 草木に宿った玉の露も私の涙も、止まることなく流れ落ちて、亡き母を恋い
慕っているうちに、秋風が我が家を吹き抜けていく。
恋うる相手はともに母親であり、実朝が幼子の感情を移入した状況、定家は実母の違いがあるとは言え、詠われている心情は共通している。しかし実朝の歌が、親なき子に直面して、直情的で強く訴えるのに対し、定家の歌では、“秋風”が深みを醸しているようで、一味違いが感じられます。
歌人・実朝の誕生 (15)
源道行は、1204(元久元)年7月、『蒙求和歌』を書き終えると、直ちに『百詠和歌』の著述に取り掛かり、同年10月、3ケ月で完了したようである。その熱意の程が伺えます。
『百詠和歌』とは、初唐、李嶠(リ キョウ、645~714)が、『蒙求』と並ぶ幼学書のひとつとして著した『李嶠百二十詠』を基に、道行が、本邦の児童向けに、と言うより実朝のために、和歌作歌の教本として著した書である。『李嶠百二十詠』も、平安時代に日本に伝えられていて、広く読まれたようである。
『蒙求』が、「偉人・有名人の事跡/事績」を対象としていたのに対して、『李嶠百二十詠』では、過去の「著述書の故事」を対象として、五言律詩 百二十首に纏めた書籍である。その中から、『百詠和歌』では律詩百首を選び、詩中の2句を基に和歌を詠った“句題和歌”集と言えます。
余談ながら、“句題和歌”については、本blogで曽て話題としました。特に、白楽天の長編詩・「長恨歌」を対象にした“句題和歌”をシリーズとしてとりあげました。この作歌法は、平安中期、特に盛んであったようで、三十六歌仙の一人、大江千里に歌集『大江千里集』(別名『句題和歌』)がある。
『李嶠百二十詠』の著者・李嶠について触ておきます。字は巨山(‼)、15歳で五経に通じ、20歳に進士合格、則天武后(在位690~705)の鳳閣舎人(天子の文冊・大号令を作る仕事)を務める。玄宗(在位712~756)の頃、滁州別駕、のち廬州別駕に左遷されている。70歳(715)で没した。
李嶠は、六朝風の華麗な言辞の詩風で、宮廷詩人として名声を博していた。文章を綴ると、人々はそれを伝え、声を上げて諳んじてうたったという。晩年、諸家が没したのち、ひとり文章の宿老として、文を学ぶ者は手本とした という。
『李嶠百二十詠』は、題詠漢詩集と言えようか。すなわち、話題を天文、草木、文物等々、12部に部立てして、各部に10題(例:“喜樹”の部では、松、桂、等々の10題)設け、各題に10首の五言律詩、計百二十首からなる。
律詩中の各句は、古代を含めた過去の著書に拠ったもので、詩には“故事”が満載されており、興味をそそられる内容となっているのである。参照された古文書については、後世の研究書・“校注書”によって知ることができる。
『百詠和歌』は、基本的には『李嶠百二十詠』に準ずる構成となっているようであるが、次の点、非常に特徴的な内容となっている。先ず、『李嶠百二十詠』中、8句から成る律詩一首から2句を選び、その内容に基づき、2句を単位として10項の部立て(例:芳草、嘉樹、等々)に分類してある。
各部に10題(例:嘉樹部で、松、桂、等々)設定、各題の中の2句それぞれに、句に対応した和歌を一首詠い、計百題の句に対応した和歌を収めてある。『百詠和歌』の構成は、各々の“漢詩句”に続いて、簡単な故事などを含む“説明文”、その後に“和歌”を置く構成となっている。実例は、次回に譲ります。
参考文献:栃尾武 偏『百詠和歌 注』(汲古書院)1993.04.01