愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題321 飛蓬-174  いとほしや 見るに涙も 三代将軍 源実朝

2023-02-27 10:17:22 | 漢詩を読む

両親がともに亡くなったという、まだその事情が呑み込めないのであろう幼気な童が、母を求めて泣いている現場に遭遇しています。‘物言わぬ獣さえ、親は子を思う’と詠った実朝でした。

 

目前の親を亡くした子に対して何もしてやれない、何とも可哀そうだ、涙が溢れ出るばかりである と、心情を吐露しています。この歌でも実朝は庶民に目を向けており、庶民の生活の場での目撃談とも言えます。

 

oooooooooooooo 

  詞書] 道のほとりに幼きわらはの母を尋ねていたく泣くを、その辺りの人

   に尋ねしかば、父母なむ身まかりしにと答え侍りしを聞きて 

いとほしや 見るに涙も とどまらず 

  親もなき子の 母をたづぬる   (金槐集 雑・608) 

 (大意) かわいそうでたまらない、見ていると涙が止まることなく溢れてしま

  う。父母の亡くなった幼い子が母の行方を求めているのだ。 

xxxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

  失去双親幼童   双親(リョウシン)を失くした幼童(ワラベ) [下平声一先韻] 

路上幼童何可憐, 路上の幼童(ヨウドウ) 何と可憐(アワレ)なることか,

不堪看自泣漣漣。 看(ミ)るに堪えず 自(オノ)ずから泣(ナミダ)漣漣(レンレン)たり。

惟聴父母已亡故, 惟(タ)だ聴くは 父母 已(スデ)に亡故(ボウコ)すと,

覓尋母親啼泫然。 母親を覓尋(サガシモト)めて 啼(ナ)くこと泫然(ゲンゼン)たり。

 註] 〇可憐:哀れである、かわいそうである; 〇漣漣:涙などがとめどな

  く流れ落ちるさま; 〇覓尋:探し求める; 〇啼:(人が声を出して)泣

  く; 〇泫然:涙がはらはらとこぼれるさま。

<現代語訳> 

  両親を亡くしたわらべ 

路上のわらべ なんと可哀そうなことだ、

見るに堪えず 自然と涙が溢れ出て来る。

聞くと 両親ともに亡くなったとのこと、

母親を求めて涙をはらはらと流して泣いているのだ。 

<簡体字およびピンイン> 

  失去双亲幼童    Shīqù shuāngqīn yòu tóng

路上幼童何可怜, Lù shàng yòu tóng hé kělián

不堪看自泣涟涟。 bù kān kàn zì qì lián lián

惟听父母已亡故, Wéi tīng fù mǔ yǐ wánggù, 

觅寻母亲啼泫然。 mì xún mǔqīn tí xuànrán.   

ooooooooooooo

 

新古今集には、藤原定家の次の歌が撰されている: 

 

玉ゆらの 露も涙も とどまらず 

  亡き人恋ふる 宿の秋風  (新古今集 哀傷・788)

 (大意) 草木に宿った玉の露も私の涙も、止まることなく流れ落ちて、亡き母を恋い

  慕っているうちに、秋風が我が家を吹き抜けていく。 

 

恋うる相手はともに母親であり、実朝が幼子の感情を移入した状況、定家は実母の違いがあるとは言え、詠われている心情は共通している。しかし実朝の歌が、親なき子に直面して、直情的で強く訴えるのに対し、定家の歌では、“秋風”が深みを醸しているようで、一味違いが感じられます。

 

歌人・実朝の誕生 (15) 

 

源道行は、1204(元久元)年7月、『蒙求和歌』を書き終えると、直ちに『百詠和歌』の著述に取り掛かり、同年10月、3ケ月で完了したようである。その熱意の程が伺えます。

 

『百詠和歌』とは、初唐、李嶠(リ キョウ、645~714)が、『蒙求』と並ぶ幼学書のひとつとして著した『李嶠百二十詠』を基に、道行が、本邦の児童向けに、と言うより実朝のために、和歌作歌の教本として著した書である。『李嶠百二十詠』も、平安時代に日本に伝えられていて、広く読まれたようである。

 

『蒙求』が、「偉人・有名人の事跡/事績」を対象としていたのに対して、『李嶠百二十詠』では、過去の「著述書の故事」を対象として、五言律詩 百二十首に纏めた書籍である。その中から、『百詠和歌』では律詩百首を選び、詩中の2句を基に和歌を詠った“句題和歌”集と言えます。

 

余談ながら、“句題和歌”については、本blogで曽て話題としました。特に、白楽天の長編詩・「長恨歌」を対象にした“句題和歌”をシリーズとしてとりあげました。この作歌法は、平安中期、特に盛んであったようで、三十六歌仙の一人、大江千里に歌集『大江千里集』(別名『句題和歌』)がある。

 

『李嶠百二十詠』の著者・李嶠について触ておきます。字は巨山()、15歳で五経に通じ、20歳に進士合格、則天武后(在位690~705)の鳳閣舎人(天子の文冊・大号令を作る仕事)を務める。玄宗(在位712~756)の頃、滁州別駕、のち廬州別駕に左遷されている。70歳(715)で没した。

 

李嶠は、六朝風の華麗な言辞の詩風で、宮廷詩人として名声を博していた。文章を綴ると、人々はそれを伝え、声を上げて諳んじてうたったという。晩年、諸家が没したのち、ひとり文章の宿老として、文を学ぶ者は手本とした という。

 

『李嶠百二十詠』は、題詠漢詩集と言えようか。すなわち、話題を天文、草木、文物等々、12部に部立てして、各部に10題(例:“喜樹”の部では、松、桂、等々の10題)設け、各題に10首の五言律詩、計百二十首からなる。

 

律詩中の各句は、古代を含めた過去の著書に拠ったもので、詩には“故事”が満載されており、興味をそそられる内容となっているのである。参照された古文書については、後世の研究書・“校注書”によって知ることができる。

 

『百詠和歌』は、基本的には『李嶠百二十詠』に準ずる構成となっているようであるが、次の点、非常に特徴的な内容となっている。先ず、『李嶠百二十詠』中、8句から成る律詩一首から2句を選び、その内容に基づき、2句を単位として10項の部立て(例:芳草、嘉樹、等々)に分類してある。

 

各部に10題(例:嘉樹部で、松、桂、等々)設定、各題の中の2句それぞれに、句に対応した和歌を一首詠い、計百題の句に対応した和歌を収めてある。『百詠和歌』の構成は、各々の“漢詩句”に続いて、簡単な故事などを含む“説明文”、その後に“和歌”を置く構成となっている。実例は、次回に譲ります。

参考文献:栃尾武 偏『百詠和歌 注』(汲古書院)1993.04.01 

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閑話休題320 飛蓬-173   春雨の 露もまだひぬ  三代将軍 源実朝

2023-02-20 09:40:02 | 漢詩を読む

春雨は、特に草木の成長を促し、“好雨”として喜ばれる反面、人にとっては“花の鑑賞”に また小鳥にとっては“蜜を吸う”のに好ましからざる事象とも言えよう。鶯は雨後に梅の枝に止まり、羽をぬらしながら囀っています。雨が止んだことを喜んでいるのでしょう。

 

ooooooooo

 [詞書] 雨後鶯

春雨の 露もまだひぬ 梅が枝(エ)に 

  うは毛しをれて 鶯ぞ鳴く (金塊集 春・28) 

 (大意) 春雨に濡れて梅の枝は未だ乾いていない、上毛はしおれたままで、鶯が鳴いている。

 註] 〇露もまだひぬ:雨のしずくの露の玉になっているのが、まだかわいて

  いない; 〇うは毛:鳥・獣の毛や羽で表面にあるもの。  

xxxxxxxxxx

<漢詩> 

 孟春雨後情景   孟春 雨後の情景   [下平声一先-上平声十四寒韻 通韻]

春雨暗香伝, 春雨 暗香(アンコウ)伝う,

梅枝沾未乾。 梅枝 沾(ウルオイ)未(イマ)だ乾(カワ)かず。

露珠留在羽, 露(ツユ)の珠(タマ) 羽に留り,,

枝上鶯語闌。 枝上の鶯の語(ナキゴエ)闌(タケナワ)なり。

 註] ○孟春:初春; 〇露珠:露の玉; 〇闌:真っ最中、最も盛んな時。  

<現代語訳> 

  初春の雨後の情景 

春雨が止んだ後、何処からとも梅の香りが伝わってきた、

濡れた梅の枝はまだ乾いていない。

鶯の上毛には露の玉が載っており、

枝に止まった鶯の鳴き声が、今を盛りと聞こえてくる。

<簡体字およびピンイン> 

 孟春情景     Mèng chūn qíngjǐng 

春雨暗香 Chūn yǔ àn xiāng chuán,  

梅枝沾未干。 méi zhī zhān wèi gān.   

露珠留在羽, Lù zhū liú zài yǔ,  

枝上莺语阑 zhī shàng yīng yǔ lán

ooooooooo

 

実朝の歌は、次の寂蓮法師の歌の影響を受けた歌と言われています。法師の歌は、『百人一首』にも撰されており、その漢詩訳はすでに発表しました。

 

むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ち上る 秋の夕暮れ 

    (寂蓮法師 新古今集 秋下・491、百人一首 87番) 

 

歌人・源実朝の誕生 (14)

 

源光行は、実朝のため教材として『蒙求和歌』を用意しました。その中で、「李陵初詩」は、◎ 歴史上の人物・李陵の事跡、◎ 四字句の意味すること、および◎ 和歌作りへの発想の展開の面白さ等、特に興味を惹く例と思え、ここで李陵を巡る一稿を設けます。まず李陵の事跡から。

 

李陵(BCx?~BC74) は、前漢の全盛期、第7代皇帝・武帝(BC141~BC87)の頃活躍した人である。BC99年、騎都尉に任命され、先陣の弍師将軍李広利(?~BC88)の援軍として5千の兵を与えられ、対匈奴戦に出陣した。

 

李広利との合流前に、匈奴の単于に率いられた3万の騎兵軍と遭遇、奮戦したが、多勢に無勢、降伏・捕虜となる。李陵の才能と人柄を気に入った単于の強い勧めで、李陵は帰順、匈奴の右校王となり数々の武勲を立て、BC74年、匈奴で没した。

 

漢では武帝が激怒、李陵の妻子および一族を皆殺しするという事態となった。対匈奴戦の敗戦の責めに対し、司馬遷のみは、李陵の勇戦と無実を訴え、李陵を庇った。武帝は、李広利を誹るものだとして、司馬遷を投獄、宮刑に処した。司馬遷は、後に名著・『史記』を著したことは広く知られるところである。

 

話は変わって、李陵と共に、皇帝の待中を務めていた蘇武(BC140?~BC60)が、BC100年、中郎将として匈奴への使者に任命された。しかし匈奴の内紛に巻き込まれて、蘇武は捕らえられることになった。 

 

単于は匈奴への帰順を勧めたが、蘇武は頑として拒否。蘇武は穴倉に捨て置かれ、のちに北海(現バイカル湖)のほとりに移送された。北海の流刑地では、雄の羊とともに、草の実を食うなどの辛酸を舐めつゝ生き長らえた。「羊が乳を出したら帰してやる」と言われたという。

 

漢では、昭帝の世となり、匈奴と和親、蘇武らの救出の使者を度々匈奴に送っていた。その都度「蘇武はすでに死亡」と取り合ってくれなかった。抑留19年目、蘇武の従者が、「蘇武は生存」という情報を得て、蘇武救出の一計を案じた。

 

すなわち、使者は、「漢の天子が狩りで射止めた一羽の雁の足に帛(キヌ)がつけられていて、帛には“蘇武は大沢(ダイタク)の中にいる”と書いてあった、生存中だ」と主張。匈奴は折れて、蘇武は無事に帰還を許された と。“便り”を意味する“雁書”・“雁信”・“雁帛(ガンパク)”という用語の起こりである。

 

蘇武が都に帰ることを知った李陵は、蘇武に詩・「蘇武に与う三首」を贈った。その一首“其三”の出だし2句は次の通りである:[携手上河梁 (手に手を取って橋の上に立つ)、遊子暮何之 (旅行く君よ、日暮れて何処へ向かうか。) 

 

ここで大事なことは、「一句は“五言”からなる詩である」ということである。同詩は『文選』にも載せられており、その李周翰注に「五言の詩 陵より始まる」とある。すなわち、『蒙求』中の「李陵初詩」とは、「李陵は五言詩を初めて作った人」という李陵の事績を示す句である。

 

さて、本稿の締めに、「李陵初詩」を基に作られた『蒙求和歌』中の和歌の例を見てみましょう(実際は片仮名書きですが、漢字・平仮名表記で示す):

 

おなじ江に 群れいる鴨の あはれにも 帰る波路を 飛び遅れける 

 [解説] 一緒に川に群れていた鴨が かわいそうなことに、一羽だけ帰るとき

  に飛び遅れたのだなあ。  

 

先に見た「孫康映雪 車胤聚蛍」では、キーワードを活かした、比較的に判りやすい作歌の例でした。「李陵初詩」では、“人”が“鴨”に置きかわる発想の飛躍があり、作歌の幅が広げられている例と言えよう。 

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閑話休題319 飛蓬-172   乳房吸ふ まだいとけなき  三代将軍 源実朝

2023-02-13 14:13:47 | 漢詩を読む

歳の暮れ、母の乳房を吸っている幼子が愚図ついている場面に出くわし、ともに泣いてしまった としています。涙を流して一緒に泣いているということではないでしょう。嬰児の泣き声についほだされて、胸が熱くなってきたということではないでしょうか。

 

実朝は、トップにある為政者としては珍しく(?)、庶民、弱い立場にある世人に目を向けた歌を多く遺しています。この歌も対象は庶民の親子でしょう。でなくば、“乳母”がさっさと愚図つく子を連れていき、あやして治めたことでしょうから。

 

oooooooooooo

 [詞書] 歳暮

乳房吸ふ まだいとけなき みどり子の

    共に泣きぬる 年の暮れかな  (金槐集 冬部・349) 

 (大意) まだあどけない 乳飲み子が 母の乳房に吸い付きながら泣いている、つい貰い泣きするこの年の暮れであるよ。

xxxxxxxxxxxxxx

<漢詩>

 同情嬰児啼哭   嬰児が啼哭(ナク)のに同情す    [上平声一東韻]

天真嬰在母懷中, 天真(アドケナ)き嬰(アカゴ) 母の懷中(カイチュウ)に在り,

吮母咂兒臉頰紅。 母の咂兒(チブサ)を吮(ス)って 臉頰(ホオ)は紅いに。 

不覚為何開始哭, 為何(ナニユエ)か覚(オボエ)ず 哭(ナ)き開始(ハジメ)た, 

灑同情淚此年終。 灑同情淚(モライナキ)している 此の年の終(クレ)である。 

 註] 〇天真:あどけない、無邪気である; 〇吮:吸う; ○咂兒:乳房;〇臉頰:ほお; 〇灑:こぼす、こぼれる。

<現代語訳> 

 泣いている幼子に貰い泣き 

あどけない嬰児が 母の胸に抱かれて、

乳房を吸って ほっぺが紅に染まっている。

何故か知らないが、泣き出したよ、

つい貰い泣きしている この年の暮れである。 

<簡体字およびピンイン> 

  同情婴児啼哭    Tóngqíng yīng'ér tíkū

天真婴在母怀中, Tiānzhēn yīng zài mǔ huái zhōng,  

吮母咂儿脸颊红。 shǔn mǔ zā er liǎnjiá hóng.  

不觉为何开始哭, Bù jué wèihé kāishǐ kū, 

洒同情泪此年终。 sǎ tóngqíng lèi cǐ nián zhōng

oooooooooooo

 

藤原定家撰の『百人一首』では、渚で小舟を操る海女が主題の歌:「世の中は 常にもがもな 渚こぐ 海女の小舟の 綱手かなしも」が取り上げられていました。この歌の漢詩訳版は、すでに報告済みです。

 

『百人一首』については、本blogで連載してきましたが、『こころの詩(うた) 漢詩で詠む百人一首』(文芸社、2022)として、出版できました(文末参照)。特に、万葉から新古今期に至る300余年の歴史の流れの中での“歌風”の変遷についてもその概略を追ってあります。興味のある方は覗いて見てください。

 

歌人・源実朝の誕生 (13) 

 

源光行の著した『蒙求和歌』とは、『蒙求』596句の中から251句を選び採り、それらの表題(例. 孫康映雪)と、その内容説明文としての【説話文】およびそれを基に詠われた【和歌】を添えた体裁の著書です。一例を示します:

oooooooooooooooo 

061 孫康映雪 雪 

説話文】 孫康、家マズシクシテ、油ナカリケレバ、映雪、書を読ミニケリ。少(ワカ)カリシ時、小人ニマジワリアソブ事モナク、文ニノミ心ヲソメケル。後ニ、御史大夫ニイタリニケリ。

和歌

 ヨモスガラ スダレヲノミゾ カカゲツル フミシルニハノ ユキノトモシビ 

[註] 〇ふみ:“踏み”と“文”とを掛ける。

[解説] 一晩中、簾だけをまくり上げていた。踏んでいた庭の雪を灯火として文章を読む。

ooooooooooooooooo

表題「孫康映雪」の頭に置いた数字は、『蒙求和歌』中の付番、冬の“”は、四季に分類された句について、その主題を示唆する語として付されている。【和歌】の部の[註]および[解説]は、参照した著書の読者のための記述で、実朝に渡された『蒙求和歌』中にはないものと推察します。

参考までに、『蒙求』で、「孫康映雪」との対句である「車胤聚蛍」についてみると、次のようである。【説話文】は、大略、類似しているため省略します。

..............................

030車胤聚蛍 蛍 

和歌

ヒトマキヲ アケモハテヌニ アケニケリ ホタルヲトモス ナツノヨノソラ 

 [解説]一巻を開き終わらないうちに明けてしまったのだなあ。蛍を灯火がわりにした夏の夜の空。

.............................

説話文】と【和歌】を対照してみると、「孫康」では、冬の“雪”、“灯り”および“ふみ”、「車胤」では、夏の“蛍”および“灯す”等々、キイワードを活かして【和歌】に至る繋がり、すなわち、主題やキイワードから連想を膨らませて、新しい歌へと発展させている様子が読み取れます。

表題の付番から解るように、『蒙求』では対句として隣り合わせてあった2句が、『蒙求和歌』では遥かに離れて置かれています。それは後者では、各句をその内容に応じて、日本の勅撰八代集の分類にあわせて、春・夏・秋・冬・恋・祝・羇旅……等、14部に部立てし、その順に配列されているためです。

『蒙求』では、既述の通り、「平水韻目表」に従い纏められた8句の“塊”を一組として配列されている。ただその“塊”の配列順序は、次句の韻を決めるル-ル (?) に従い、「切韻(セツイン)によって決められた韻字」の順で配列されている と。その具体的な意味は筆者の理解の外にあり、…… (Ww)。

いずれにせよ、『蒙求』では、あくまでも、 “文字”を基礎にした配列・構成となっている。対して『蒙求和歌』では、その内容によって分類した4字句を、四季に比重を置いた八大集の部立てに従った配列となっている。 

お国柄、文字を発明した中国、対して四季により生活が大きく影響される日本。『蒙求』および『蒙求和歌』について、構成する句の配列の違いが、お国柄の違いを反映しているようで、興味をそそられます。 

『蒙求和歌』も、やはり写本が“万”とあるようである。大きく片仮名書き本と平仮名書き本があり、序文(片仮名序および真名序)および跋文(バツブン、あとがき)等、書籍として整っているのは片仮名書き本であり、それが“精選本”であろうとされています。上で片仮名表記を例示した理由でもあります。

参考文献:(『「蒙求和歌」校注』 章剣 著、2012、渓水社) 

付記] 最新刊の『こころの詩(うた) 漢詩で詠む百人一首』:

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閑話休題318 飛蓬-171   梅の花 色はそれとも  三代将軍 源実朝

2023-02-06 09:51:08 | 漢詩を読む

この歌を想像させる現実の情景にやがて遭遇するのではないでしょうか。花の開いた梅の枝に雪が降りかかり、花と雪と見分けつかなくなってしまう。雪も含めて“花”と見て、自然の美の世界として愛でるか、“花”を鑑賞したいのに、と“雪”を恨むか。

 

漢詩の世界では、しばしば“雪”を“天花”と表現します。此処でも借用させてもらいました。[詞書]から、実朝は、屏風絵を見て歌を作っています。一枚の絵の“静”の世界から、“天花”が舞う“動”の世界へと引き込まれてしまう歌です。

 

ooooooooooooo

 [詞書] 屏風の絵に、梅花に雪のふりかかるを 

梅の花 色はそれとも 分かぬまで

  風にみだれて 雪はふりつゝ 

          (『金槐集』巻之上・春・12;続後撰集 巻一春上・25) 

 (大意) 梅の花は咲き乱れている。梅の花は真っ白であり、梅の上に降る雪

  もまつしろである。いづれが梅かいづれが雪かみわけもつかない。 

  そして雪は風に散り乱れて降りつゞくのである。 

xxxxxxxxxxxxxxx

<漢詩> 

 分不清花雪         花と雪 分清(ミワケ)ならず  [上平声十灰-四支通韻] 

肯定梅枝花盛開, 肯定(カナラズヤ)梅の枝 花 盛開(セイカイ)ならん, 

天花恢恢大円馳。 天花(テンカ) 恢恢(カイカイ)たる大円(ダイエン)を馳(ハ)す。 

令人失法分清兩, 人を令(シ)て 兩(フタツ)の花を分清(ミワケ)る法を失わめるに, 

更尙乱風下雪滋。 更尙(ナオサラ)に乱風 雪の下(フ)ること 滋(シゲ)し。 

 註] 〇肯定:きっと、必ずや; 〇天花:雪; 〇恢恢:非常に広大なさま; 〇大円:大空; 〇分清:はっきりと見分ける; ○兩:梅花と天花(雪); 〇滋:ふえる、増す。 

<現代語訳>

 梅の花と雪が見分けがつかない 

きっと梅の枝には真っ白な花が満開になっているであろうが、

広大な大空には雪が舞っている。

共に真っ白な梅花と雪と見分けが付かなくなっており、

それでもなお風は乱れ吹き、降雪は酷(ヒド)くなっているよ。

<簡体字およびピンイン> 

 分不清花雪     Fēn bù qīng huā xuě 

肯定梅枝花盛开, Kěndìng méi zhī huā shèng kāi,  

天花恢恢大圆驰 tiān huā huī huī dà yuán chí.  

令人失法分清两, Lìng rén shī fǎ fēnqīng liǎng,  

尙乱下雪 gèng shàng luàn fēng xià xuě . 

ooooooooooooo

 

掲題の実朝の歌は、万葉集および古今和歌集にある次の歌に影響を受けたのであろう とされています。

 

梅の花 枝にか散ると みるまでに 

   風に乱れて 雪ぞ散りける  (忌部黒麻呂(イムベノクロマロ)『万葉集』 巻八) 

 (大意)梅の花が枝から散るのかと思えるほどに、風に乱れて雪が降ってくる。 

梅の花 それともみえず 久方の 

  天霧(アマギ)る雪の なべてふれれば (柿本人麻呂(?)『古今和歌集』巻六) 

  (大意) 梅の花か雪か区別がつかない。大空を霧のようにかき曇らせる雪が

  一面に降っているので。  

 

歌人・源実朝の誕生 (12) 

 

源光行は、1204年、13歳の実朝のために、歌の教材として『蒙求(モウギュウ)和歌』、『百詠和歌』および『楽府(ガフ)和歌』3部作を著述して用意した。残念ながら『楽府和歌』は、散逸して現存しないということである。

 

翌1205年には、実朝は「和歌12首を詠む」と『吾妻鏡』に記されており、DNAもさることながら、その師や教材を含めた“教育機関?”の効果は、絶大であったと思える。その教材・『蒙求和歌』および『百詠和歌』について、紐解いてみたい。和歌への理解、翻訳に参考になること大では と期待するからである。

 

まず、『蒙求和歌』。その基になる書物は、中国・唐代に、李瀚(リカン)によって著された『蒙求』である。“蒙求”とは、易経の中の一句「童蒙求我 (童蒙我に求む)」(“蒙”は“無知な”という意味で、童蒙とは幼い童(ワラベ)のこと)に拠る命名である と。李瀚については、ほとんど何も知られていないようである。

 

『蒙求』は、幼童用の教科書で、中国・上代から南北朝までの有名人の事跡や逸話を子供に解りよいように簡単に紹介し、人名と事跡を4字句・一句にまとめ、対称的な2句を対として、覚えやすいように連ねたものである。総数596句からなっている。平安時代に日本に伝わり、以後広く利用されたようである。

 

例を挙げると、「孫康(ソンコウ)映雪193,車胤(シャイン)聚螢(シュウケイ)194。」(肩数字は、『蒙求』中、順番を示す) 。孫康および車胤は、ともに家が貧しくて油が無く、書物を読むのに、それぞれ、灯りとして雪および蛍を利用して勉強に励み、後に大成した と。両句は「蛍雪の功」として語られる通りである。

 

一方、『蒙求和歌』とは、『蒙求』596句から半数少々の251句を選び、各句の内容を「説話文」として紹介したのち、その内容と何らかの関連が示唆されるような和歌を作り、添えた書物である。その詳細は改めて紐解きます。

 

『蒙求』の内容をいま少し覗いてみます。596句は、一塊8句の集合体(下記例)が順次繋がった形となっている。最も特徴的なことは、偶数番目の句の4文字目(赤)が、同一韻、ここでは、“下平声八青”韻で統一されていることです。

 

49孫康映雪193,車胤聚194。李充四部195,井春五196

50谷永筆札197,顧愷丹198。戴逵破琴199,謝敷應200

  [参考] yíng、 jīng、qīng、xīng 

 

すなわち、『蒙求』は、ある韻で統一された対句4つからなる8句の塊が順次繋がった、596句(2,384字)からなる “ながーい長い一首の詩” である ということである。

 

李瀚は、如何なる意図をもって句を並べ、繋いでいったか、興味のある点である。ザッと596句通覧したとき、陶淵明に関連して、武陵桃源(ブリョウトウゲン)343(非人物)、陶潛(トウセン)歸去(キキョ)488、淵明(エンメイ)把菊(ハギク)525、そして曽祖父・陶侃(トウカン)酒限(シュゲン)574と4句も挙げられ、曽祖父が後出である点、注意を引きます。

 

これらの点から見て・句が年代順に羅列されたわけではない、・596人すべて異なる人物ではない、また・全句で人物が表記されているわけではない、等々、窺い知ることができます。

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