愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題39 漢詩を読む ドラマの中の漢詩25 『宮廷女官―若曦』-13

2017-05-20 15:16:46 | 漢詩を読む
漢詩の形式が定まり、多くの詩人が輩出した唐の時代、その建国の頃の李氏(高祖:李淵;太宗:李世民)を巡る話をドラマ『宮廷女官―若曦』から拾い、関連する詩を詠んでいきます。

先ず。ドラマの展開を追います。ドラマは、閑話休題36('17.4.23)から続きます。

紫禁城での“中秋の宴”の後、若曦が床に臥すほど落ち込んでいたのは、“結婚相手も自分で決められず、帝の一存によるのだ”という“現実”を知ったからです。いずれ自分にも 降りかかる難題であろうと、強い危惧の念に襲われたのでした。

若曦は、「想いを忌憚なく語り、愛する相手と結ばれる、これこそ現代人の思想です」と。「実は、私は第十皇子が好きというわけではない」と告白する。「では、何故に第十皇子の誕生日に部屋を飾り、歌を歌い祝福したのか?」と第十三皇子は責めます。

以後、両人の問答が続きます。若:「虬髯客(キュウゼンカク)と紅払(コウフツ)が始めて出逢った時のことを覚えていますか?」;皇子:「紅払は髪を梳いていました。」;若:「男女の仲でも、虬髯客と紅払のように、恋仲にならなくとも、真の友情は結べるはずです。」

皇子:「その言葉、気に入った!」と、お互いわだかまりが解けて、第十三皇子の行きつけの酒屋に押しかけます。若:「芸妓ですか?」;皇子:「軽蔑していますか?」;若:「人は誰しも平等なのよ!」

酒屋で、第十三皇子と近しい芸妓・緑撫(リョクブ)が会話に加わります。皇子:「例の“命知らずの十三妹”だよ」と 若曦を緑撫に紹介します。ご三方揃って、国事や宮中のことなど、また歴史上の賢人に至るまで話が弾み、時間を忘れて飲み明かします。

雑談の中、若:「あなたも嵆康(ケイコウ)の信奉者なの?」;皇子:「当然だよ!彼は古いしきたりに縛られることがなかった。君の言う‘幸福になる権利’を求めていた、彼は、まさに君が主張している“自由主義”の人だ!」;若:「その通り!」

緑:「お二方は高貴な身分の人でありながら、お互い疑問をぶつけあう勇気がおありです。敬服します。」;皇子:「君もしがらみに縛られており、自由を望んでいる。」;若:「現代人の思想を持った私たちに乾杯!」

このご三方は、以後、非常に心の通い合う仲間となって、苦境に対してはともに助け合っていくようになります。なお、以上の会話を通して、やはり第十三皇子が“命知らず”と評されている事情が読み取れます。

さて、“虬髯客と紅払”と“嵆康”と新たな話題が出てきました。“虬髯客と紅払”は、唐末の時代に書かれた短編伝奇小説『虬髯客伝』(作:杜光庭?850~933)の中の登場人物です。

“嵆康”は、“三国志”の話に関わりますが、魏国の曹氏の代から司馬氏が“晋国”を興すころ、世から隠れていて、“竹林の七賢”と言われていた中の一人です。

まず“虬髯客と紅払”について。

“虬髯客”とは、‘虬(ミズチ:龍)のようにちぢれた頬ひげを生やした旅人’という意味です。“紅仏”は、‘紅の仏子(ブッシ)を持っていた妓女’と言う意味で、仏子とは、牛馬の尾の毛を束ねて柄を付けた仏具で、もとは蚊やハエを追うのに用いたもの と。

『虬髯客伝』では、後の太宗・李世民と後の唐初の名宰相・李晴(リセイ)という実在した人物が登場します。話の筋は:虬髯客が、李晴の紹介で、太原にいる李世民を知る。虬髯客は、望気術によって、‘李世民こそ真の天子’であると見抜き、長安で李世民の旗揚げを援助する。

これら三人の出会いは劇的です。隋の煬帝(ヨウダイ)の司空(大臣)である楊家の妓女、天女のような美人の“紅仏”は、李晴の聡明さに惹かれて、駆け落ちします。逃亡中、宿の炉端で“紅仏”が長い髪を地面に垂らして梳きながら肉を煮ていた。

そこへ毛むくじゃらの虬髯客が現れて、炉の前に来て横になり、無遠慮にジロジロと“紅仏”を見ている。外で馬の世話をしていた李晴は、恋人をそんな男の視線に晒すに堪えられず、一触即発の状況。この場面が、先に若曦と皇子の会話に出てきた箇所です。

結局、“紅仏”と虬髯客が、“張”という同姓であることが判り、同姓の好みから仲良くなり、以後、3人は行動を共にする。虬髯客は、長安で大勢の召使いのいる大邸宅に住んでいる。ある日、虬髯客は、李晴を自宅に招待して、宴会を開きます。 

宴会の後、虬髯客は、大邸宅を含めて全財産を李晴に譲り、また李世民の旗揚げを援助するよう李晴に言い残して、自らは海外の新天地へと去っていく。以上、『虬髯客伝』の話。

さて、太宗は、大唐の基盤を確立し、“貞観(ジョウガン)の治”と呼ばれる太平の世を築いた人物です。歴史的背景や人物像などについては改めて筆を起こすつもりです。

今回は、魏徴(ギチョウ)の詩を詠みます。詩の原文は、その読み下し文と現代訳を添えて、末尾に挙げましたが、長編ゆえに、一部省略してあります。また故事に関わる句が多く、やや難解ですが、それら故事もその要約を付記しました。

李氏の唐建国のおり、長安の李氏の軍に対し、強力な敵対勢力として、洛陽近傍の洛口倉を中心に李蜜(リミツ)が勢力を張っていた。魏徴は、この李蜜軍に属していました。李蜜軍の敗退後に、その才を認められて李氏軍に加わります。

挙げた詩は、魏徴が、山東に散在する李蜜軍の旧部隊に対し、唐への帰順を促す重大な任務を得て、出発しようとする折に作られたもののようです。引用されている故事から推しても、重大ながら、非常に難しい任務であることが想像されます。

如何に難しい任務とは言え、かつて敵対していたにも関わらず、自分の才を認め、重用する李氏に対し、‘意気’に感じて、その恩に報いようと心に誓う魏徴の姿が目に浮かびます。

なお、後に太宗の世でも、何ら憚ることなく諫言を行い、‘諫言大夫’と称されるほどに信頼を得て重用されています。魏徴が亡くなった折、「魏徴の葬送を望む」と題する詩を作り、魏徴の亡くなったことを悼んでいます。

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述懐         魏徴
<原文>     <読み下し文>
中原還逐鹿、  中原(チュウゲン) 還(マ)た鹿を逐(オ)う、
投筆事戎軒。  筆を投じて 戎軒(ジュウケン)を事(コト)とす。
縦横計不就、  縦横(ジュウオウ)の計(ケイ) 就(ナ)らざるも、
慷慨志猶存。  慷慨(コウガイ)の志(ココロザシ) 猶(ナ)お存(ソン)す。
杖策謁天子、  策(サク)に杖(ツエ)して 天子に謁(エツ)し、
駆馬出関門。  馬を駆(カ)って 関門を出づ。
請纓繋南粤、  纓(エイ)を請(コ)うて 南粤(ナンエツ)を繋(ツナ)ぎ、(§1)
憑軾下東藩。  軾(ショク)に憑(ヨ)って 東藩(トウハン)を下(クダ)さん。(§2)
…..中略….
豈不憚艱険、  豈(アニ) 艱険(カンケン)を憚(ハバカ)らざらんも、
深懐国士恩。  深く懐(オモ)う国士(コクシ)の恩。
季布無二諾、  季布(キフ)に二諾(ニダク)無く、(§3)
侯贏重一言。  侯贏(コウエイ) 一言(イチゲン)を重んず。(§4)
人生感意気、  人生 意気に感ず、
功名誰復論。  功名 誰か復(マ)た論ぜん。

[註]
中原:天下の中心の地域
逐鹿:鹿は帝位。群雄が権力を争うことを狩に見立てている
戎軒:戦車。転じて戦争
関門:函谷関、長安(現西安)と洛陽とを結ぶ道に位置し、多くの攻防戦の舞台となった。
纓:胸懸け。馬の鞍を固定するため、胸の前に廻したひも
南粤:南越。広東と広西の地域
軾:昔、馬車の前に設けた横木。車中で敬礼するときに手をかけたところ
東藩:東方(現山東省辺り)の敵対勢力
国士:国家有用の人物

<現代語訳>
群雄がまた覇権を争う状況となってきて、
私も筆を捨てて、武器を手に戦うことになった。
弁舌によって天下を平和にする計略を成功させることはできなかったが、
国の乱れを嘆き、憤る熱い心は未だ失ってはいない。
出陣するべく馬の鞭を手にして、天子に謁見して、
馬に跨って函谷関の関所を過ぎ、東に走らせる。
天子から馬の胸懸けを頂いて、南越の大将を縛り付けて来よう、
馬車の横木に拠って、山東の敵対勢力を降してこよう。
……中略…..
この度の苦難を恐れぬわけではないが、
自分を登用してくれた君主の恩が深く思われるのである。
季布は、一度約束したことは必ず守った、
また侯贏は主君との約束を重んじて自ら命を絶ったのだ。
人として生まれてきたからには、“意気”に感じて行動するものだ、
手柄を立て、名声が得られるかなど、誰が問題にするものか。

§1~4は、それぞれ以下のような中国の故事に拠る。
§1:前漢武帝の頃、18歳で博士になった秀才・終軍(シュウグン)の話。漢武帝の命を受け、南越に帰順するよう説得にいく。出立に当たって、「もし南越王が命を聞かなければ、首に縄を掛けて連れ帰ります」と誓った。南越王は、同意したが、宰相が反対して謀反を起こし、王とともに殺害された。
§2:秦末、劉邦の命を受けた酈食其(レキイキ)が東方の斉王に帰順を説き、斉王は聞き入れた。しかし、その直後、手違いがあって別の将軍が斉を責めた。そこで、斉王は、「だました」と怒って、先の将軍を殺害した。
§3:秦末、季布は、項羽の軍の将軍として活躍、かなり劉邦軍を苦しめた。それ故劉邦は、勝利し皇帝に即位した後、多額の懸賞金を掛けて、季布逮捕の布令を出した。しかし季布は義侠心が厚く、かつて世話を受けた人々が匿ってくれた。ほとぼりが冷めるのを待って、某氏が、季布が好漢であることを劉邦に訴え、季布は赦免される。以後、劉邦の下で官職を得ている。約束は必ず守っていたことから、世に、「黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如かず」との話が流布され、同じ意味の“一諾(イチダク)千金”という四字成語が生まれている。
§4:侯贏:戦国時代の魏国の隠者。公子信陵君に厚遇された。BC257年、秦国の白起が趙の邯鄲を攻めようとしたとき、邯鄲を援助するため出陣する信陵君に策略を授けた。侯贏自身は、年老いて従軍できないので、命をもって‘はなむけ’にと、信陵君の出発後に自刎した。 

注]“虬髯客と紅払”の項:『中国古典小説選』2005-2009 明治書院
『虬髯客伝』 井波律子 訳に拠る。
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閑話休題38 漢詩を読む ドラマの中の漢詩24 『宮廷女官―若曦』-12

2017-05-10 15:03:49 | 漢詩を読む
李白作「早に白帝城を発す」の作年代についての話題を進めます。

長江は、その上流の三峡をさらに遡って行くと重慶(じゅうけい)、瀘州(ろしゅう)および宜賓(ぎひん)を経てチベット高原に到る。重慶、瀘州および宜賓はそれぞれ北方からの支流が長江に注ぎ交わる交通の要所です。

宜賓に注ぐ支流は岷江(びんこう)。岷江は、四川省の省都、成都の西郊を下り、その中流辺り、西に峨眉山(がびさん)が鎮座しています。峨眉山は、中国仏教四大名山の一つとされています。

今回話題にしたい詩は、李白の「峨眉山月の歌」です。その原文、読み下し文および現代語訳は末尾に示しました。

この詩中、李白は、彼の乗る船の船足をたどれば、蜀の故郷を発って、峨眉山にかかる半輪の月を見ながら、平羌江(現青衣江)、さらに岷江と下る。夜なかに清渓を発って、長江の渝州(現重慶)、三峡へと進んでいきます。岷江を下るころでしょうか、月は見えなくなります。

結句の「君を思えども見えず……」中の“君”は、文面上“月”と採ることができます。しかし筆者が目を通した先達のほとんどの著書で、故郷に残してきた“恋人”を意味しているのであろうと解説されています。

起句の“峨眉”は、美しい眉や美人を意味する“蛾眉/娥眉”を、また“半輪の月”も女性の眉を連想させます。李白の胸の内には、やはり“逢いたいと思っても、今や逢えなくなった恋人”が偲ばれて、“月”に託して表現していると思われます。

すなわち、25歳の頃、故郷を後に、中央の表舞台へと心を躍らせて旅立って行く中でも、後ろ髪を引かれる思いに駆られている李白の心の内が想像されます。

本論「早に白帝城を発す」の作年代を考えます。

李白は、渝州を経て、三峡の白帝城に至り、宿泊します。翌早朝、“白帝城を発”して長江をさらに下っていきます。白帝城を発つ際に目にした“彩雲”は、李白の胸の奥に潜む故郷の“恋人”を再び蘇らせたのではないでしょうか。

「峨眉山月の歌」と「早に白帝城を発す」とを合わせて読むならば、李白が故郷を発って長江を下っていく間、一貫して胸に潜む“恋人”への想いがあることが読み取れます。以上から筆者は、「早に……」は李白の若い頃の作とする説に同感です。

敢えて、追記するなら、50歳代、配流の罪が免ぜられた折、その解放感から心を弾ませていたであろうことは想像に難くない。しかし“早朝の彩雲”の意味に拘るなら、起句にこの表現が用いられることにはやや違和感を禁じ得ません。

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峨眉山月歌    峨眉山月の歌

<原文>      <読み下し文>
峨眉山月半輪秋  峨眉山月 半輪(ハンリン)の秋
影入平羌江水流  影は平羌江水(ヘイキョウコウスイ)に入って流る
夜発清渓向三峡  夜 清渓(セイケイ)を発して三峡に向かう
思君不見下渝州  君を思えども見えず渝州(ユシュウ)に下る
 [註]
平羌江:現在の青衣江、峨眉山東北の麓を流れ、岷江に合流する川。
 清渓:峨眉山の東南にある岷江沿岸の宿場。
 渝州:現在の重慶

<現代語訳>
峨眉山には秋の半月が掛かっている。
その月影は平羌江の水面に映って流れていく。
夜に清渓を発って三峡に向かっている。
この月を見たいと思うが、もう見えなくなり、舟は渝州へと下っている。
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閑話休題37漢詩を読む ドラマの中の漢詩23 『宮廷女官―若曦』-11

2017-05-01 16:19:21 | 漢詩を読む

前回、 “巫山の夢”や“朝雲暮雨”、”雲“、”雨“などが、男女の艶やかな関係を表現するのに用いられるようになった由来について触れました。ちょっと道草して、それらの用語がどのように活かされているか、実際の詩について見てみたい。

一例として、李白の「早に白帝城を発す」を詠みます。その詩の原文、読み下し文および現代語訳は末尾に示しました。

起句の、早朝の、白帝城を染める朝焼け雲は、宋玉が描いた「朝には雲となり、夕暮れには雨となって、朝な夕なあなたの傍に参ります」という情景を想像させます。艶めかしい情景が想像され、作者は後ろ髪を引かれているように思われます。

一方、承句では、千里も離れた江陵には一日で着くという、先を急ぐ気持ちが表れているように思われ、起句の想いと先を急ぐこの想いが入り交ざった、複雑な状況に置かれているように思われます。

ところで、この詩の作られた時期は定かではなく、大きく2説があるようです。作られた時期により、自ずと詩の解釈も異なるでしょうから、詩が作られた時期についてまず先達の説を紹介します。

一説は、若く25歳の頃、故郷を後に、胸を膨らませて中央の大地に旅立つて行く途上での作とする。今一説は、59歳の頃、謀反の罪で配流の途中、罪が免ぜられて、長江を下る際の作としています。

李白の出身地については諸説があって定かではありませんが、20歳ころまで蜀(現四川省)で育ち、剣術を好み、また道士の修業を積んだとされています。25歳のころ蜀を離れて、長江を下って、三峡を過ぎた折に、この詩が作られたとするのが、若年説。

一方、42歳で宮廷詩人として玄宗皇帝に仕えるが、宦官高力士らの讒言に逢い、44歳で宮廷を追われます。その経緯はすでに述べました(閑話休題22、2016.11.23参照)。

宮廷を追われたのち、李白はまた各地を漂泊します。その間に “安史の乱”(755~763)が勃発し、翌年、玄宗皇帝は長安を脱出し、蜀に避難、また第3子李亨は、軍を率いて長安北方の霊武に拠って、安禄山に対抗していた。霊武で李亨は第10代粛宗として帝位を継ぎます。

その頃、李白は、廬山に滞在していたが、勤王の目的で立ち上がった永王(李璘)の招きで、永王軍の幕僚となる。永王は、玄宗の第16子、粛宗の異母弟で、江陵に封じられていた。

757年、粛宗は、永王に対して蜀にいる父玄宗のもとに参内するように命じた。しかし兄のこの勅命に従わず、永王は軍を動かしたので反乱軍と見做されて討伐されることになります。

幕僚として参加した李白も捕らえられて尋陽(現九江市)で獄に繋がれていたが、さらに夜郎(現貴州省北部)への流罪となった。配流の途上、旧友らによる助命の嘆願が入れられて、759年、白帝城の近くで釈放されます。

すなわち、「早に………」は、その折の作とするのが、第2の説です。この説では、罪を解かれた李白は、白帝城を経つと江陵には一日で着くのだ と勇む心を表現しているものと解釈されています。

以上、「早に………」を読んできましたが、次回、もう少し作年代について考えを巡らしてみたいと思います。

なお、先に、李白が宮廷から追われる基となった詩・「清平調詩」三連作のうち「其の一および二」を紹介しました。この連作の詩中「其の二」の起および承句では:

「一枝(イッシ)の濃艶(ノウエン) 露(ツユ) 香(コウ)を凝(コ)らす
 雲雨(ウンウ)巫山(フザン) 枉(マ)げて断腸(ダンチョウ)」

と詠われています。この承句の“雲雨巫山”もまた、宋玉の“巫山の夢”に関わる情景句と言えます(閑話休題22参照)。

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<原文>      <読み下し文>
早発白帝城      早に白帝城を発す   李白
朝辞白帝彩雲間  朝(アシタ)に辞す 白帝 彩雲(サイウン)の間(カン)
千里江陵一日還  千里の江陵(コウリョウ) 一日にして還(カエ)る
両岸猿声啼不住  両岸の猿声(エンセイ) 啼(ナ)いて住(ヤ)まざるに
軽舟已過万重山  軽舟(ケイスウ) 已(スデ)に過ぐ 万重(バンチョウ)の山

<現代語訳>
早朝に、朝焼け雲に染まる白帝城に別れを告げて、
千里も隔たった江陵にはたったの一日で着くのだ。
両岸からは猿の泣き声が絶え間なく聞こえてくる中を、
自分の乗る小舟は、重なる山々をとっくに通り抜けていた。

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