(42番) 契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波こさじとは
<訳> 二人は固く約束しましたよね。お互いに涙で濡れた袖を絞りながら、あの末の松山を波が決して越す筈がないように、どんなことがあっても二人の愛は変わらないようにしましょうと。(板野博行)
嘗ては契りを結んだ相手でしたが、どうしたことか、破局を迎えてしまった男性のボヤキです。受けた衝撃があまりにも大きくて沈み込んでいるのでしょうか。詞書(コトバガキ)によると、心変わりした女性に対する恨みを男性本人に代わって詠ったという。
上の歌中の「末の松山 波こさじ」は、“歌枕(ウタマクラ)”と呼ばれ、和歌を理解する上では非常に重要な表現要素の一つと言えるようです。和歌の漢語訳に当たって、数語からなる常套句の形で表現できるとよいなと思っているのですが。
本稿では“歌枕”について話題にします。上の和歌を七言絶句の漢詩にしてみました(下記参照)。
xxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [下平声八庚 九青韻]
.失恋男叨唠 失恋男の叨嘮(トウロウ)
曾発誓永相憶情, 曾て誓いを発す 永(トハ)に相憶(アイオモウ)の情、
被涙沾袖幾次擰。 涙に沾(ウルオ)えし袖を幾次(イクタビ)か擰(シボ)りつつ。
末松山濤襲不越, 末の松山 濤(オオナミ)襲うも越すことできず,
如斯長莫改心霊。 如斯(カクノゴト)くに長(トコシナエ)に心霊改める莫(ナ)からんと。
註]
叨嘮:愚痴。 発誓:固く約束する、誓う。
擰:絞る。
末松山:現宮城県多賀城市にあり、昔は近くの海岸が名所であった。かつて決して波に
越えられることはなかったことから、歌では“永遠”の象徴として用いられている と。
濤:おおなみ。 心霊:こころ。
<現代語訳>
失恋男の愚痴
曽て永久に想い合っていきましょう と誓いをした、
涙で濡れた袖を互いに幾度も絞りながら。
末の松山は 大波が寄せても越されたことがないという、
かくの如くに、長(トコシナエ)に心変わりがないように と。
<簡体字およびピンイン>
失恋男叨唠 Shīliàn nán dāoláo
曾发誓永相忆情,Céng fā shì yǒng xiāng yì qíng,
被泪沾袖几次拧。bèi lèi zhān xiù jǐ cì níng.
末松山涛袭不越,Mòsōngshān tāo xí bù yuè,
如斯长莫改心灵。rúsī cháng mò gǎi xīnlíng.
xxxxxxxxxxxxxx
“歌枕”とは、古くは意味は広く、和歌で使われる言葉や題材などを集めた書籍を意味していたようです。そのうちに和歌の題材を意味するようになり、今日では、題材としての日本の名所旧跡を指すようになってきた。
名所旧跡の風景もさりながら、その言葉の持つイメージも活かされるようになった。例えば、昔関所のあった「逢坂山」の、“坂”・“山”・“関”は、人が“逢う”のに障害となる。そこで男女が逢う恋愛に関わる歌に“歌枕”としてよく詠まれるようになった。
“末の松山”は、漢詩の註に触れたように、宮城県多賀城市にある名所である。和歌で使われるようになったのは、歴史上有名な、貞観地震(貞観十一年、869)に由来している。
当時の陸奥国(ムツノクニ/ミチノク)、現東北地方の東方沖を震源とする大地震、続く津波により多賀城一帯は海のようになった。その折、末の松山と呼ばれていた名所の台地は波に襲われることから免れた と。
その後、次のような津波の経験を読み込んだ東歌(アズマウタ)と呼ばれる歌謡が口伝えに東の国々で広まっていったということである:
君をおきて あだしこころを わがもたば 末の松山波もこえなむ
(古今和歌集 東歌)
あなたを差し置いて浮気心をわたしが持つようなことがあれば、
末の松山を波が越えることでしょう (小倉山荘あ・ら・か・る・た)
清原元輔の歌は、この歌を基に詠ったのでした。このような歌を「本歌取り」と言うようです。「本歌取り」については、稿を改めて触れるつもりにしています。
“2011東日本大震災”は記憶に新しく、その被害の甚大さには心を奪われたものです。“貞観地震”に匹敵する災害であると伝えられていました。今回の地震・津波においても末の松山は、幸いに波に襲われるのを免れ得たということです。
この例に見るように、歌枕にはそれぞれに“歴史”が詰まっているように思われる。和歌を外国語に翻訳するに当たっても、心に留めておくべきことか と思われる。常套句としての表現法を望む所以ですが、上の漢詩では、七言を要しており、検討を要する。
作者・清原元輔(908~990)について簡単に触れます。清原深養父(フカヤブ、百人一首36番)の孫、清少納言(同62番、閑話休題-123参照)の父親です。平安中期、“梨壷の五人”(後注)の一人として、和歌の世界で多大な業績を残している。
一つは、『後撰和歌集』の編纂。今一つは、『万葉集』を現在のような20巻本の形に整えるとともに、訓点を施しています。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に約100首を入集、家集に『元輔集』がある。
頭の回転が速く、ウィットに富んだ面白い人で、ひょうきんな人柄であったようである。上の歌は、知人に代わって作られた“代作”である由、清原元輔ならではの名作と言えるのではないでしょうか。
注)
梨壷の五人:62代村上天皇の命(951、天歴五年)により、梨壷の和歌所で『後撰和歌集』の編纂や『万葉集』の訓点施しを行った五人の寄人(ヨリウド):清原元輔、紀時文、大中臣能宣、源順、および坂上望城。梨壷とは、庭に梨の木が植えられていたことから、昭陽舎の異称。
末の松山 波こさじとは
<訳> 二人は固く約束しましたよね。お互いに涙で濡れた袖を絞りながら、あの末の松山を波が決して越す筈がないように、どんなことがあっても二人の愛は変わらないようにしましょうと。(板野博行)
嘗ては契りを結んだ相手でしたが、どうしたことか、破局を迎えてしまった男性のボヤキです。受けた衝撃があまりにも大きくて沈み込んでいるのでしょうか。詞書(コトバガキ)によると、心変わりした女性に対する恨みを男性本人に代わって詠ったという。
上の歌中の「末の松山 波こさじ」は、“歌枕(ウタマクラ)”と呼ばれ、和歌を理解する上では非常に重要な表現要素の一つと言えるようです。和歌の漢語訳に当たって、数語からなる常套句の形で表現できるとよいなと思っているのですが。
本稿では“歌枕”について話題にします。上の和歌を七言絶句の漢詩にしてみました(下記参照)。
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<漢字原文および読み下し文> [下平声八庚 九青韻]
.失恋男叨唠 失恋男の叨嘮(トウロウ)
曾発誓永相憶情, 曾て誓いを発す 永(トハ)に相憶(アイオモウ)の情、
被涙沾袖幾次擰。 涙に沾(ウルオ)えし袖を幾次(イクタビ)か擰(シボ)りつつ。
末松山濤襲不越, 末の松山 濤(オオナミ)襲うも越すことできず,
如斯長莫改心霊。 如斯(カクノゴト)くに長(トコシナエ)に心霊改める莫(ナ)からんと。
註]
叨嘮:愚痴。 発誓:固く約束する、誓う。
擰:絞る。
末松山:現宮城県多賀城市にあり、昔は近くの海岸が名所であった。かつて決して波に
越えられることはなかったことから、歌では“永遠”の象徴として用いられている と。
濤:おおなみ。 心霊:こころ。
<現代語訳>
失恋男の愚痴
曽て永久に想い合っていきましょう と誓いをした、
涙で濡れた袖を互いに幾度も絞りながら。
末の松山は 大波が寄せても越されたことがないという、
かくの如くに、長(トコシナエ)に心変わりがないように と。
<簡体字およびピンイン>
失恋男叨唠 Shīliàn nán dāoláo
曾发誓永相忆情,Céng fā shì yǒng xiāng yì qíng,
被泪沾袖几次拧。bèi lèi zhān xiù jǐ cì níng.
末松山涛袭不越,Mòsōngshān tāo xí bù yuè,
如斯长莫改心灵。rúsī cháng mò gǎi xīnlíng.
xxxxxxxxxxxxxx
“歌枕”とは、古くは意味は広く、和歌で使われる言葉や題材などを集めた書籍を意味していたようです。そのうちに和歌の題材を意味するようになり、今日では、題材としての日本の名所旧跡を指すようになってきた。
名所旧跡の風景もさりながら、その言葉の持つイメージも活かされるようになった。例えば、昔関所のあった「逢坂山」の、“坂”・“山”・“関”は、人が“逢う”のに障害となる。そこで男女が逢う恋愛に関わる歌に“歌枕”としてよく詠まれるようになった。
“末の松山”は、漢詩の註に触れたように、宮城県多賀城市にある名所である。和歌で使われるようになったのは、歴史上有名な、貞観地震(貞観十一年、869)に由来している。
当時の陸奥国(ムツノクニ/ミチノク)、現東北地方の東方沖を震源とする大地震、続く津波により多賀城一帯は海のようになった。その折、末の松山と呼ばれていた名所の台地は波に襲われることから免れた と。
その後、次のような津波の経験を読み込んだ東歌(アズマウタ)と呼ばれる歌謡が口伝えに東の国々で広まっていったということである:
君をおきて あだしこころを わがもたば 末の松山波もこえなむ
(古今和歌集 東歌)
あなたを差し置いて浮気心をわたしが持つようなことがあれば、
末の松山を波が越えることでしょう (小倉山荘あ・ら・か・る・た)
清原元輔の歌は、この歌を基に詠ったのでした。このような歌を「本歌取り」と言うようです。「本歌取り」については、稿を改めて触れるつもりにしています。
“2011東日本大震災”は記憶に新しく、その被害の甚大さには心を奪われたものです。“貞観地震”に匹敵する災害であると伝えられていました。今回の地震・津波においても末の松山は、幸いに波に襲われるのを免れ得たということです。
この例に見るように、歌枕にはそれぞれに“歴史”が詰まっているように思われる。和歌を外国語に翻訳するに当たっても、心に留めておくべきことか と思われる。常套句としての表現法を望む所以ですが、上の漢詩では、七言を要しており、検討を要する。
作者・清原元輔(908~990)について簡単に触れます。清原深養父(フカヤブ、百人一首36番)の孫、清少納言(同62番、閑話休題-123参照)の父親です。平安中期、“梨壷の五人”(後注)の一人として、和歌の世界で多大な業績を残している。
一つは、『後撰和歌集』の編纂。今一つは、『万葉集』を現在のような20巻本の形に整えるとともに、訓点を施しています。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に約100首を入集、家集に『元輔集』がある。
頭の回転が速く、ウィットに富んだ面白い人で、ひょうきんな人柄であったようである。上の歌は、知人に代わって作られた“代作”である由、清原元輔ならではの名作と言えるのではないでしょうか。
注)
梨壷の五人:62代村上天皇の命(951、天歴五年)により、梨壷の和歌所で『後撰和歌集』の編纂や『万葉集』の訓点施しを行った五人の寄人(ヨリウド):清原元輔、紀時文、大中臣能宣、源順、および坂上望城。梨壷とは、庭に梨の木が植えられていたことから、昭陽舎の異称。