愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 202 飛蓬-109 小倉百人一首:(式子内親王)玉の緒よ

2021-03-29 09:09:56 | 漢詩を読む
89番 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば  
      忍ぶることの よわりもぞする 
         式子(ショクシ)内親王『新古今集』恋一・1034  
<訳> 我が命よ、絶えるなら絶えてしまえ。このまま生き長らえると、秘めた恋心を隠す力が弱まって、想いが外に漏れてしまいそうだから。(板野博行) 

ooooooooooooo  
私の命は、今に絶えるというならそれでよし! 永らえては、胸に秘めたこの強い想いが何時しか露見してしまいそうだから……。Platonic love-思春期の少女を思わせる清純な恋心を詠っているように思えます。

作者は、77代後白河天皇(在位1155~1158)の第3皇女。10歳の頃から凡そ10年間、京都・賀茂神社の斎院として奉仕する。藤原俊成に歌の師事を受けた、平安末~鎌倉初期の代表的な女流歌人である。

和歌では第1,2句でピシッと決めています。その勢いを起句に込めて、五言絶句の漢詩としました。

xxxxxxxxxxxxx 
<漢詩原文および読み下し文>  [去声七遇韻] 
 秘思慕    秘めた思慕 
玉带焉憂絶, 玉带(ギョクタイ) 焉(イズク)んぞ絶(タ)えるを憂(ウレ)えん、 
意恐長世路。 意は恐る世路(セジ)の長きを。 
便松心所忍, 便(スナワ)ち忍ぶ所の心 松(ユル)み、 
秘想将発露。 秘めたる想(オモイ) 将(マサ)に発露(ハツロ)せん。 
 註] 
  玉带:玉を貫いた緒、ここでは「体に魂を繋いでいる紐、すなわち命」。 
  世路:処世の道、人生行路。  松:緩める。 
  将:いまに……しそうだ。   発露:表に現れる、露見する。 
  
<現代語訳> 
 忍ぶ恋  
私の命が今絶えようと何ら憂えることはない、 
恐れるのは人の世に生き長えることである。 
なぜなら、堪えに耐えてきた心の緊張が緩み、 
秘めた思いが、今にも漏れ出し、露見してしまいそうだから。

<簡体字およびピンイン> 
 秘思慕 Mì sīmù  
玉带焉忧绝, Yùdài yān yōu jué, 
意恐长世路。 yì kǒng cháng shì, 
便松心所忍, Biàn sōng xīn suǒ rěn,  
秘想将发露。 mì xiǎng jiāng fā. 
xxxxxxxxxxxx 

式子内親王(1149?~1201)は、後白河天皇の第3皇女、1159年賀茂斎院に任じられたが、病のため退下、以後、前斎院として生涯独身で過ごした。大炊御門(オオイノミカド)斎院、萱(カヤノ)斎院とも呼ばれた。

その間、伯父・中納言・藤原公光の失脚、同母兄・以仁 (モチヒト) 王の平家への謀反と戦死(1180)などに遭い、出家し(1191頃)、法然に帰依する。さらに橘兼中夫婦の謀計・託宣事件に連座し、洛外追放になったが、冤罪は晴れた。

保元・平治の乱など、騒々しい世の時代に生き、父・後白河帝を巡る世の動きに振り回された感がある。幸せな生涯であったようではない。1199年なかば頃から体調が優れず、ほどなく病状が悪化して、1201年1月25日薨去。享年53(?)。

和歌は、藤原俊成(百人一首83番、閑話休題155)の師事を受けた。俊成の『古来風体抄』は、式子内親王の求めに応じて、1197年に執筆、献上されたものであるとされている。

歌風は、内に秘めた悲哀の情や孤独感を抑制しつつも、静かににじみ出てくるような作風。同時代の他の歌人の影響を受け、技巧的・前衛的な表現も見られるが、独自の叙情性は失われていない と。

歌合など歌壇活動は必ずしも活発ではなく、百首歌が主で、現存する作品は400首に満たないようである。しかし82代後鳥羽院(1180~1239;在位1183~1198;同99番)は、“人には詠み得ないような”独創性と技巧を備えた歌人“であると賞賛している。

内親王は、晩年(1200)、後鳥羽院の求めに応じて百首歌を詠み、定家(1162~1241)に見せている と。『新古今和歌集』に女性としては最多の49首が入集され、『千載和歌集』以降の勅撰集に現存する全作品の三分の一以上が入集されている と。

家集に『式子内親王集』があり、『正治二年院初度百首』と他2種の百首歌を後人がまとめたのが基礎となり、他の勅撰歌60余首を収めてある。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人である。

上掲の歌で詠まれた“忍ぶ恋”の対象は“どなた”であろうか? 世では幾つかそれらしき根拠を挙げ、藤原定家では? と推測されている。後世、両者の関係を基にした謡曲『定家』など文芸作品が生まれ、また『定家葛』の伝承が生まれている。

定家では?の根拠として、まず俊成の弟子・内親王と幼い定家は、親しい関係にあった筈である。定家は、1181年正月に初めて三条第に内親王を訪れており、以後折々に内親王のもとへ伺候し、家司(ケイシ、家政を司る職員)のような仕事を行っていた。

定家の日記『明月記』中、内親王の話題は多く、特に薨去の前月には、頻繁な見舞いと病状の詳細な記録が記されているが、薨去については一年後の命日まで一切触れられてなく、思わせぶりな書き方である。両者は、相当深い関係にあったと推定できる と。

内親王には下記の歌がある。この歌は、伝聞として、百首歌として発表される以前に、定家に贈ったものだとされている。『新古今和歌集』撰者名注記によると、定家はこの歌を評価しておらず、撰者名に名はない ということである:

いきてよも あすまで人は つらからし 
   此夕暮れを とはゝとへかし (『新古今和歌集』 巻第十四 恋歌四) 
  [この命明日まであるかどうかわからない。あなたのつらい仕打ちも 
  明日にはなくなっていると思うが、訪ねてくれるなら、明日でなく、 
  生きているこの夕暮れに訪ねてきてほしい]  

  
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閑話休題 201 飛蓬-108 小倉百人一首:(待賢門院堀河)ながからむ 

2021-03-22 09:27:57 | 漢詩を読む
80番 ながからむ 心も知らず 黒髪の 
     乱れてけさは ものをこそ思へ 
        待賢門院堀河(『千載和歌集』恋三・802) 
<訳> あなたが変わらぬ愛を誓ってくださっても、その心が本当かどうかは私にはわかりません。あなたとお別れした今朝、黒髪が乱れているように、心も千々に乱れ、物思いに沈んでいます。(板野博行) 

oooooooooooooo  
「貴男は、“私への愛は長しえに変わりませんよ”と仰せられたが、先は計り知れず、今朝の乱れた黒髪のように心乱れる私です」と。すでに出家し、世を捨てた筈の女性が、一夜を共にしたその朝相手に贈った返歌です。百人一首中最も官能的な恋の歌である。

作者は、その生没年は不詳、平安時代後期の歌人で、74代鳥羽天皇(在位1107~1123)の中宮・待賢門院藤原璋子(ショウシ/タマコ)に仕え、堀河と呼ばれていた。主人・璋子が仏門に入ったのを機に、追って出家されている。父は神祇伯・源顕仲(アキナカ、1058~1138)。

一夜を共にしたその朝を衣衣(キヌギヌ)または後朝(コウチョウ/ゴチョウ)と言い、男は帰宅後に歌を贈り、女はそれに対する返歌を贈るという雅な慣習があった と。七言絶句の漢詩としました。 

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声八庚韻] 
 衣衣以后给他回信  衣衣(キヌギヌ)以後 他(カレ)への回信(カイシン)  
君剛起誓永恒愛, 君 永恒(エイコウ)の愛を起誓(チカッ)た剛(バカリ)ながら,
難以預測正真情。 正(マサ)に真情(シンジョウ)は預測し難し。 
鏡子里見乱黑発, 鏡の里(ウチ)に乱れている黑髪を見るにつけ, 
千頭万緒天未明。 天 未だ明(ア)けず千頭(セントウ)万緒(マンショ)にあり。 
 註] 
  衣衣:衣を重ねて掛けて共寝をした男女が、翌朝別れるときそれぞれ自分の衣を 
   身に着けることから言う。 
  難以預測:予測しがたい。     真情:本心。 
  千頭万緒:考えが入り乱れているさま。 
 
<現代語訳>  
 後朝の歌への返信 
末永く永久に変わらぬ愛と、あなたは誓ったばかりですが、 
真情がこの先いつまで続くかは 測りかねます。 
鏡に映った黒髪の乱れを見るにつけても、 
まだ明けやらぬ朝まだき、乱れ髪のごとく千々に心が乱れているのです。 

<簡体字およびピンイン> 
 衣衣以后给他回信 Yī yī yǐhòu gěi tā huíxìn 
君刚起誓永恒爱, Jūn gāng qǐshì yǒnghéng ài, 
难以预测正真情。 nányǐ yùcè zhèng zhēnqíng. 
镜子里见乱黑发, Jìngzi lǐ jiàn luàn hēi fǎ, 
千头万绪天未明。 qiān tóu wàn xù tiān wèi míng.
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待賢門院堀河は、神祇伯・源顕仲の娘。若いころ72代白河天皇(在位1072~1086)の皇女・令子(レイシ)内親王に仕えていた。当時、皇女が賀茂神社の斎院(サイイン)を勤めていたことから、当時、堀河は“前斎院六条(サキノサイインロクジョウ)”と呼ばれていた。

のちに待賢門院藤原璋子に仕え、堀河と呼ばれるようになった。因みに“斎院”とは、上・下両賀茂神社で祭祀を行う未婚の内親王を言う。参考までに、伊勢神宮では“斎宮”と称され、両者合わせて“斎王(斎皇女)”と称するようである。

璋子は、74代鳥羽帝の皇后であり、75代崇徳帝(在位1123~1141、百人一首77番、閑話休題159)の母親である。色香漂う美女・璋子は、当初、鳥羽帝の祖父・白河帝と親しく、その関係は鳥羽帝の皇后となった後も公然と続いていた と。

白河帝‐璋子-鳥羽帝の三角関係と崇徳帝の出生の疑惑、武士の台頭を表す“保元の乱”の発生……、と。当時は、乱れた世の歴史的転換の予兆の時代と言えるのではなかろうか。その詳細は閑話休題158 & 159で記しました。ご参照ください。

待賢門院堀河は、女房名が堀河に変わったその頃に結婚し、一子を設けている。子供が未だ幼いころに夫とは死別した。子供は自分の実家・顕仲のもとに預けて養育したようである。

1142年、仕えていた璋子が仏門に入ると、堀河も同僚の女房達とともに出家します。しかし璋子は3年後に亡くなります。西行(同86、閑話休題114)の『山家集』などに収められた歌の遣り取りから、出家した堀河はしばらく西行と歌の交流があったことが知られる。

崇徳院は14名の歌人を選び百首の歌を詠進させ、1150年(久安六年)『久安百首』の編纂を藤原俊成(同83番、閑話休題155)に命じた。堀河も詠者の一人に撰ばれて同集に歌を残している。定家によって百人一首に採られた上掲の“ながからむ”の歌は、そのうちの一首である。

すなわち“ながからむ”の歌は、出家後、“黒髪”も失われたであろう頃の堀河の作であり、また題詠である事から現実の歌ではないと想定される。俗世で、また出家後と世の酸い・甘いを知り尽くし、人間的に枯れた(?) 達人の域にある歌人なればこそ、実感のこもった後朝の歌を詠めたのではなかろうか と愚行する次第である。 

待賢門院堀河は、女房三十六歌仙、中古六歌仙の一人に選ばれており、『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に多くの歌が入集されている。私家集『待賢門院堀河集』があり、165首収められている。 
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閑話休題 200 飛蓬-107 コロナ・ワクチン海外より届く

2021-03-17 10:51:49 | 漢詩を読む
新コロナ感染に収束の目途は未だ立たない状況にある。折々のWith Coronaにおける市民生活の一断面を漢詩に切り取って今回で6作目となる。一日も早い収束を願いつつも果たされぬ希望に つい愚痴りたくなる日々ではある。

首都圏3都県は今なお緊急事態宣言(2週間延長)下にあり、さらにその延長/解除の岐路・3月21日を迎えようとしている。全国的に見ても、爆発的な第3波は脱したものの、感染状況は下げ止まり、あるいは微々増の状況にある。

この状況は、市中には常にある割合で “隠れ陽性者”が存在することを示唆している。現状を脱却する最善の方策は、全国民一斉に、短期間の内にPCR検査を実施し、徹底的に“隠れ陽性者”を洗い出し、隔離すること と思われる……が。

この期に及ぶと、やはり“ワクチン”に全幅の希望と信頼を寄せる外はなさそうである。

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<漢詩原文および読み下し文> [入声十薬韻] 
 辛丑季春疫苗来了 辛丑季春 疫苗(ワクチン)来たる 
世人痛苦新冠病, 世人(セジン)痛苦(トンクウ)する新(シン)冠(コロナ)の病, 
誰疑疫苗期望薬。 疫苗 期望(キボウ)の薬なるに誰か疑おう。 
全日白翼才入口, 全日(ANA)の白翼(ハクヨク) 才(ヤッ)と入口(ニュウコウ)するも, 
但聞続班無明約。 但だ聞く 続(ツヅ)く班(ビン)に明らかなる约(ヤク)無しと。 
 註] 
  辛丑季春:令和3年 晩春。    痛苦:ひどい苦しみ。 
  期望:期待をかける。      全日白翼:白い胴体のANA機。 
  入口:(外地から)移入する。   約:約束、契約、案内。  
   
<現代語訳> 
 令和3年の晩春 コロナ・ワクチン海外より届く  
世の人々が今なお新コロナ感染で苦しんでいる中、 
ワクチンが期待される特効薬であろうことに疑う人は居るまい。 
最近、白い胴体のANA機がやっとそれを海外より搬入してきた、 
ただ それに続く輸入便の予定は明らかではないということである。 

<簡体字およびピンイン>  
 辛丑季春疫苗来了 Xīn chǒu jìchūn yìmiáo láile 
世人痛苦新冠病, Shìrén tòngkǔ xīn guān bìng,
谁疑疫苗期望药。 shéi yí yìmiáo qīwàng yào.
全日白翼才入口, Quánrì bái yì cái rùkǒu,
但闻续班无明约。 dàn wén xù bān wú míng yuē.
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コロナ・ワクチンの実用化に至ったことは真に喜ばしいことである。しかし地球全域に広がる夥しい数の感染者に対し、数社の生産力では到底賄いきれない。かつて“科学立国”を標榜した日本が “指を咥えて”待つ現状には一抹の寂しさを覚えるのである。
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閑話休題 199 飛蓬-106 小倉百人一首:(周防内侍)春の夜の

2021-03-15 09:29:11 | 漢詩を読む
67番 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に 
     かひなくたたむ 名こそ惜しけれ 
        周防内侍(スオウノナイジ)(『千載和歌集』巻第十六 雑歌上) 
<訳> 春の夜の短い夢のように儚いあなたの手枕を借りたがために、つまらなくも立ってしまうような浮名なんて口惜しいだけですよ。(板野博行) 

oooooooooooooooo  
ある夜、女官たちと揃って世間話していて、少し疲れを覚えて「枕が欲しいな」とつぶやいた。すると御簾の奥に隠れていた男の人が、そっと腕を差し伸べて「この腕をどうぞ枕に」と言われた。そこで即座にこの歌を書いて彼に差し出したのである と。

作者は、周防内侍。“内侍”とは、女性だけの機関の役職名で、天皇に常侍して経理・総務・人事・庶務などの事務処理全般を行う、今でいう「秘書」のような仕事。平安中・後期に活躍した歌人である。

内侍の歌に対し、彼はすぐに“縁があるからこそ手枕を差し出したのだ……”という趣旨の返歌を贈ったということである。恋の遣り取りの一幕ということで「恋愛ごっこ」の詩題とし、七言絶句にしました。

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<漢字原文および読み下し文>  [去声二十三漾韻] 
 恋愛遊戯     恋愛の遊戯(アソビ) 
雖然一瞬如春夢、 春(の夜)の夢の如く一瞬と雖然(イエドモ)、 
不会枕着君臂上。 君の臂上(ウデジョウ)に枕着(マクラスル)こと不会(アリエズ)。 
没趣艶聞即伝遍、 没趣(ツマラヌ)艶聞(エンブン) 即(ソク)伝遍(デンペン)す、 
豈能容忍損声望。 豈(ア)に声望(セイボウ)損(ソコナワレ)るを容忍し能(アタ)うるや。 
 註] 
  臂:腕、肩から手首までの部分。  没趣:つまらない。 
  艶聞:浮名。           伝遍:広く伝わる。 

·<現代語訳> 
  恋愛ごっこ 
瞬時に覚める短い春夜の夢のような一瞬の間でさえ、 
あなたの腕に手枕をするはずはないですよ。 
甲斐ない浮名がたちまち広く伝わることになるよ、 
どうして私の名望が損なわれることに我慢ができようか。 

<簡体字およびピンイン> 
  恋爱游戏    Liànài yóuxì  
虽然一瞬如春梦。 Suīrán yīshùn rú chūn mèng.  
不会枕着君臂上, bù huì zhěnzhe jūn bì shàng, 
没趣艳闻即传遍, Méiqù yànwén jí chuán biàn,  
岂能容忍损声望。 qǐ néng róngrěn sǔn shēngwàng. 
xxxxxxxxxxxxxxxx 

周防内侍(1037?~1109-1111?)、本名は平仲子(タイラノチュウシ)。父は桓武平氏の周防守従五位上・平棟仲(ムネナカ)、母は加賀守従五位下・源正職(マサモト)の女(ムスメ)。70代後冷泉天皇(在位1045~1068)から73代堀河天皇(在位1086~1107)の4朝に仕えた。

父・棟仲は、当時活躍した歌人集団“和歌六人党”の一人である。“和歌六人党”とは、歌道に精進すべく、権門または庇護者らの主催する歌合や自邸での歌合に出詠し、家集を編纂するなど、精力的に歌作に励んだ集団で、和歌史上独特の位置を占めている。

周防内侍は、多くの歌合に参加、公家・殿上人との贈答歌も残されており、知的に洗練された詠風で即詠にも優れていた と。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に35首入集されている。

私家集に『周防内侍集』(96首)があり、現存する同集は藤原俊成筆で重要文化財に指定されている と。“女房三十六歌仙”の一人である。1108年以後、病のため出家、1111年までの間に没したとされている。

藤原道長・頼通の栄華を中心に59代宇多帝から73代堀河帝に至る15代、約200年間の歴史が物語風に書かれた『栄花物語』(正編30巻・続編10巻)がある。周防内侍はその“続編”の作者の一人ではないかとされている。

歌の中で“手枕に”と腕を差し出したのは、藤原忠家(1033~1091)とされており、後世、和歌に“幽玄”の風を唱えた俊成(1114~1204)の祖父に当たる人である。内侍と忠家の恋愛譚は尾鰭がついて(?) 、元禄年間に江戸で流行した土佐浄瑠璃の作品『周防内侍美人桜』の成立に繫がっている。

“手枕(タマクラ/テマクラ)”とは、当時の歌を理解する上で通念として“一夜を過ごす” ことと理解できようか。したがって忠家が“腕”を差し出したことは“求婚”の意思表示であり、上の歌は、それを巡って両者が丁々発止と歌で遣り取りする情景の一幕と言えよう。

蛇足ながら、古代の歌に現れる“枕”の位置づけを整理しておきます。“俗信”と捨てきれない面白みがあります。“草枕”は旅の、”手枕“は艶のある恋路の用語。(恐れ多いが)釈迦様の涅槃像で見られる肘を曲げた自らの腕の“枕”、歌の世界では“独り寝”の際の“枕”は“腕”ではなく、衣の“片袖”のようです。

“枕”だけは、“恋の秘密”をよく知っており、また“人の心や夢の内容”を知ってしまうが、“人に話す”ことはないので心配することはない。“枕に塵が積もる”、または“枕から塵が立つ”のは、想い人の訪れが遠のいたことを意味して、深刻なこと。

“枕の置き方”で“見る夢の内容が変わる”と思われていた節もある。現代ながら、筆者は子供の頃、“ある人の夢を見たとき、枕をひっくり返してまた寝すると、その人が自分の夢を見るよ”と聞かされたことがある。試したかどうかは記憶にない が。
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閑話休題 198 飛蓬-105 小倉百人一首:(俊恵法師)夜もすがら

2021-03-08 09:42:59 | 漢詩を読む
85番 夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで 
      ねやのひまさへ つれなかりけり 
         俊恵(シュンエ)法師 『千載和歌集』恋二・766  
<訳>ひと晩中、恋の嘆きで沈んでいるこの頃は、なかなか夜が明けないで、寝室の板戸の隙間までも白んでくる様子もなく、まったくよそよそしいものですねえ。(板野博行)

oooooooooooooo  
恋とは不思議なものだ。悩みは増々募り、夜通し寝付けず寝返りを打ちつつ、夜明けが待ち遠しい。目に留まる何物もが疎ましく、明かりの射さない板戸の隙間さえ恨めしく思える と。お坊さんが恋多き一女性に成り代わって詠った歌のようである。

作者は、俊恵法師、前回話題にした源俊頼の子息、 “三船の才”と謳われた前々回の源経信の孫に当たる。前半生を東大寺僧として過ごし、40歳を過ぎて、京都・白川に移り、僧坊・「歌林苑」を構えて、多くの歌人を集めて作歌活動を進めた。

想い人に何とか“意”は通じないものかと思い悩みつつも、修行中の坊主の身、……自らのその葛藤を一女性の身に託して詠った歌 と思えますがいかがでしょう? 「恋とは不思議なもの」の詩題で、五言絶句の漢詩としました。

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声八庚韻] 
 恋慕是莫名其妙的  恋慕は是(コレ) 莫名其妙なり   
通宵憂慮生, 通宵(ツウショウ)憂慮(ユウリョ)生じ,
老不到天明。 老(イツマデ)も天明に到(イタ)らず。
窓縫猶無亮, 窓の縫(スキマ)も猶 亮(ヒカリ)無く、
令人感薄情。 人を令(シ)て薄情を感じせしむ。 
 註] 
  莫名其妙:何が何だかさっぱりわけがわからない、不思議である。 
  通宵:夜通し、一晩中。    憂慮:思い悩む。 
  天明:夜明け。        縫:縫い目、隙間。   

<現代語訳> 
  恋とは不思議なもの   
一晩中、恋の嘆きで思い悩み、
いつまで経っても夜が明ける気配がない。
寝室の窓の隙間も猶、明るくなる気配がなく、
それさえ薄情に思われてくるのである。

<簡体字およびピンイン> 
 恋慕是莫名其妙的 Liànmù shì mòmíngqímiào de   
通宵忧虑生, Tōngxiāo yōulǜ shēng,  
老不到天明。 lǎo bù dào tiānmíng. 
窗缝犹无亮, Chuāng fèng yóu wú liàng, 
令人感薄情。 lìng rén gǎn bóqíng. 
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俊恵(1113~1191?)は、父・俊頼(1055~1129、百人一首74番、閑話休題197)に和歌を学んでいたが、17歳のとき父と死別、奈良・東大寺の僧となった。約20年間の長きに亘って、作歌活動から遠ざかっていた。40代後半に京都に移る。

京都・白川に僧坊・「歌林苑」を構え、文芸サロンとして開放し、身分・職業・性別に拘らず、多くの歌人、歌の好きな人々を集め、歌会、歌合を開催し、当時衰えつつあった歌壇に大きな刺激を与えた。『方丈記』著者の鴨長明も歌の手解きを受けた一人で、俊恵の歌論を『無名抄(ムミョウショウ)』の中で後世に伝えている。

「歌林苑」は、ほぼ20年間にわたって活動を続け、その成果は『歌苑抄』、『歌林抄』などの撰集として伝えられている。当時の代表的な歌人、百人一首歌人でも藤原清輔(84番)、僧侶の寂蓮法師(87番、閑話休題152)や道因法師(82番)、女流歌人の殷富門院大輔(90番)や二条院讃岐(92)等が参加していた。

俊恵の歌風は、余情を重んじ多くを語らない静かさの漂う”幽玄”の世界、風景と心情が重なり合った平明な美の世界を和歌に表現しようとしていた。この趣向は漢詩作においても心掛けていく方向であるように思われる が。

同時代の藤原俊成(1114~1204、百83番、閑話休題155)も和歌に異なる”幽玄”の世界を唱えている。この歌風は定家(1162~1241)に継がれて、“新古今調”として一世を風靡する。そんな中、俊恵は新古今風にも影響を与え、また『新古今和歌集』以後の歌壇に迎えられ、影響を及ぼした と。

俊恵作と伝えられている歌は千百余首あり、『詞花和歌集』以下の勅撰和歌集に84首入集されている。家集に『林葉和歌集』(1178、79年頃自選? 約1,000首所収)があり、その他上記の『歌苑抄』や『歌林抄』などの私撰集がある。

王朝文化が爛熟した時期にあるように思われるこの頃、“力”に目覚めた武士の活動が活発化してくる。治承の時代 ―80代高倉天皇(在位1168~1180)~81代安徳天皇(在位1180~1185)― に入ると源平の争乱が激しくなる。風流な会合も難しくなり、「歌林苑」は自然消滅していったようである。

(ちょっと横道に逸れます) 唐の詩人・杜甫(712~770)に五言24句からなる俳律・「石壕(セキゴウ)の吏(リ)」という詩がある。安史の乱(755)が起こり、世が騒々しい頃(759)、旅に出て、河南省、函谷関の近くにある石壕村の民家に宿をとった。

偶々宿に徴兵の役人が来る。悟った宿の爺さんは直ちに裏から垣を超えて逃げ、婆さんが出て応対する。“家には誰もいません、3人の息子は出征し、二人は戦死、奥に乳飲み子を抱えた娘がいるが、貧乏でまともな衣もなく、恥ずかしく出て来れません。

私を連れて行ってください。老いたりと雖も朝飯炊きぐらいはできます“と。……夜中にすすり泣くような声が微かに聞こえたようだ。翌朝、別れに応対したのは、爺さん一人であった。下に詩の抜粋を示しましたが、見る通り、宿で見聞きした事象をただ淡々と述べるだけ、作者の感想・批評は一切ない詩です。

1 暮投石壕村  暮れに投ず 石壕の村  
2 有吏夜捉人  吏(リ)有り 夜 人を捉(トラ)う 
3 老翁踰牆走  老翁 牆(カキ)を踰(コ)えて走り 
4 老婦出門看   老婦 門を出(イ)でて看(ミ)る  
……
18請従吏夜帰   請(コ)う 吏に従いて夜に帰(キ)せん (今夜にも私が行きましょう) 
……
22 如聞泣幽咽  泣きて幽咽(ユウエツ)するを聞くが如し 
23 天明登前途  天明 前途に登るに (翌朝、出発する時) 
24独與老翁別   独(ヒト)り老翁と別るるのみ  

(閑話休題)鴨長明の『無名抄』の中で、俊成の自讃歌について俊恵が評価・評論する場面がある[“俊成自讃歌事”]。俊成の歌の評論に続いて、俊恵が自分自身の自讃歌を提示しています。定家は、俊恵の代表歌として上掲の「夜もすがら」の歌を選んでいますが。

俊恵が自讃歌として挙げた歌は、下記の「み吉野の」の歌でした。「将来とやかく言う人があったら、“本人がそう言っていた”と答えよ」と念を押すほど、自信をもって選んだ自讃歌と言えそうです。この歌を読みつつ、情景・事象は全く違いますが、ヒョッと杜甫の「石壕の吏」が頭を過ぎった次第。

み吉野の 山かき曇り、雪降れば
  ふもとの里は うちしぐれつつ(俊恵法師 新古今和歌集 冬 588) 
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