89番 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの よわりもぞする
式子(ショクシ)内親王『新古今集』恋一・1034
<訳> 我が命よ、絶えるなら絶えてしまえ。このまま生き長らえると、秘めた恋心を隠す力が弱まって、想いが外に漏れてしまいそうだから。(板野博行)
ooooooooooooo
私の命は、今に絶えるというならそれでよし! 永らえては、胸に秘めたこの強い想いが何時しか露見してしまいそうだから……。Platonic love-思春期の少女を思わせる清純な恋心を詠っているように思えます。
作者は、77代後白河天皇(在位1155~1158)の第3皇女。10歳の頃から凡そ10年間、京都・賀茂神社の斎院として奉仕する。藤原俊成に歌の師事を受けた、平安末~鎌倉初期の代表的な女流歌人である。
和歌では第1,2句でピシッと決めています。その勢いを起句に込めて、五言絶句の漢詩としました。
xxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [去声七遇韻]
秘思慕 秘めた思慕
玉带焉憂絶, 玉带(ギョクタイ) 焉(イズク)んぞ絶(タ)えるを憂(ウレ)えん、
意恐長世路。 意は恐る世路(セジ)の長きを。
便松心所忍, 便(スナワ)ち忍ぶ所の心 松(ユル)み、
秘想将発露。 秘めたる想(オモイ) 将(マサ)に発露(ハツロ)せん。
註]
玉带:玉を貫いた緒、ここでは「体に魂を繋いでいる紐、すなわち命」。
世路:処世の道、人生行路。 松:緩める。
将:いまに……しそうだ。 発露:表に現れる、露見する。
<現代語訳>
忍ぶ恋
私の命が今絶えようと何ら憂えることはない、
恐れるのは人の世に生き長えることである。
なぜなら、堪えに耐えてきた心の緊張が緩み、
秘めた思いが、今にも漏れ出し、露見してしまいそうだから。
<簡体字およびピンイン>
秘思慕 Mì sīmù
玉带焉忧绝, Yùdài yān yōu jué,
意恐长世路。 yì kǒng cháng shì lù,
便松心所忍, Biàn sōng xīn suǒ rěn,
秘想将发露。 mì xiǎng jiāng fā lù.
xxxxxxxxxxxx
式子内親王(1149?~1201)は、後白河天皇の第3皇女、1159年賀茂斎院に任じられたが、病のため退下、以後、前斎院として生涯独身で過ごした。大炊御門(オオイノミカド)斎院、萱(カヤノ)斎院とも呼ばれた。
その間、伯父・中納言・藤原公光の失脚、同母兄・以仁 (モチヒト) 王の平家への謀反と戦死(1180)などに遭い、出家し(1191頃)、法然に帰依する。さらに橘兼中夫婦の謀計・託宣事件に連座し、洛外追放になったが、冤罪は晴れた。
保元・平治の乱など、騒々しい世の時代に生き、父・後白河帝を巡る世の動きに振り回された感がある。幸せな生涯であったようではない。1199年なかば頃から体調が優れず、ほどなく病状が悪化して、1201年1月25日薨去。享年53(?)。
和歌は、藤原俊成(百人一首83番、閑話休題155)の師事を受けた。俊成の『古来風体抄』は、式子内親王の求めに応じて、1197年に執筆、献上されたものであるとされている。
歌風は、内に秘めた悲哀の情や孤独感を抑制しつつも、静かににじみ出てくるような作風。同時代の他の歌人の影響を受け、技巧的・前衛的な表現も見られるが、独自の叙情性は失われていない と。
歌合など歌壇活動は必ずしも活発ではなく、百首歌が主で、現存する作品は400首に満たないようである。しかし82代後鳥羽院(1180~1239;在位1183~1198;同99番)は、“人には詠み得ないような”独創性と技巧を備えた歌人“であると賞賛している。
内親王は、晩年(1200)、後鳥羽院の求めに応じて百首歌を詠み、定家(1162~1241)に見せている と。『新古今和歌集』に女性としては最多の49首が入集され、『千載和歌集』以降の勅撰集に現存する全作品の三分の一以上が入集されている と。
家集に『式子内親王集』があり、『正治二年院初度百首』と他2種の百首歌を後人がまとめたのが基礎となり、他の勅撰歌60余首を収めてある。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人である。
上掲の歌で詠まれた“忍ぶ恋”の対象は“どなた”であろうか? 世では幾つかそれらしき根拠を挙げ、藤原定家では? と推測されている。後世、両者の関係を基にした謡曲『定家』など文芸作品が生まれ、また『定家葛』の伝承が生まれている。
定家では?の根拠として、まず俊成の弟子・内親王と幼い定家は、親しい関係にあった筈である。定家は、1181年正月に初めて三条第に内親王を訪れており、以後折々に内親王のもとへ伺候し、家司(ケイシ、家政を司る職員)のような仕事を行っていた。
定家の日記『明月記』中、内親王の話題は多く、特に薨去の前月には、頻繁な見舞いと病状の詳細な記録が記されているが、薨去については一年後の命日まで一切触れられてなく、思わせぶりな書き方である。両者は、相当深い関係にあったと推定できる と。
内親王には下記の歌がある。この歌は、伝聞として、百首歌として発表される以前に、定家に贈ったものだとされている。『新古今和歌集』撰者名注記によると、定家はこの歌を評価しておらず、撰者名に名はない ということである:
いきてよも あすまで人は つらからし
此夕暮れを とはゝとへかし (『新古今和歌集』 巻第十四 恋歌四)
[この命明日まであるかどうかわからない。あなたのつらい仕打ちも
明日にはなくなっていると思うが、訪ねてくれるなら、明日でなく、
生きているこの夕暮れに訪ねてきてほしい]
忍ぶることの よわりもぞする
式子(ショクシ)内親王『新古今集』恋一・1034
<訳> 我が命よ、絶えるなら絶えてしまえ。このまま生き長らえると、秘めた恋心を隠す力が弱まって、想いが外に漏れてしまいそうだから。(板野博行)
ooooooooooooo
私の命は、今に絶えるというならそれでよし! 永らえては、胸に秘めたこの強い想いが何時しか露見してしまいそうだから……。Platonic love-思春期の少女を思わせる清純な恋心を詠っているように思えます。
作者は、77代後白河天皇(在位1155~1158)の第3皇女。10歳の頃から凡そ10年間、京都・賀茂神社の斎院として奉仕する。藤原俊成に歌の師事を受けた、平安末~鎌倉初期の代表的な女流歌人である。
和歌では第1,2句でピシッと決めています。その勢いを起句に込めて、五言絶句の漢詩としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [去声七遇韻]
秘思慕 秘めた思慕
玉带焉憂絶, 玉带(ギョクタイ) 焉(イズク)んぞ絶(タ)えるを憂(ウレ)えん、
意恐長世路。 意は恐る世路(セジ)の長きを。
便松心所忍, 便(スナワ)ち忍ぶ所の心 松(ユル)み、
秘想将発露。 秘めたる想(オモイ) 将(マサ)に発露(ハツロ)せん。
註]
玉带:玉を貫いた緒、ここでは「体に魂を繋いでいる紐、すなわち命」。
世路:処世の道、人生行路。 松:緩める。
将:いまに……しそうだ。 発露:表に現れる、露見する。
<現代語訳>
忍ぶ恋
私の命が今絶えようと何ら憂えることはない、
恐れるのは人の世に生き長えることである。
なぜなら、堪えに耐えてきた心の緊張が緩み、
秘めた思いが、今にも漏れ出し、露見してしまいそうだから。
<簡体字およびピンイン>
秘思慕 Mì sīmù
玉带焉忧绝, Yùdài yān yōu jué,
意恐长世路。 yì kǒng cháng shì lù,
便松心所忍, Biàn sōng xīn suǒ rěn,
秘想将发露。 mì xiǎng jiāng fā lù.
xxxxxxxxxxxx
式子内親王(1149?~1201)は、後白河天皇の第3皇女、1159年賀茂斎院に任じられたが、病のため退下、以後、前斎院として生涯独身で過ごした。大炊御門(オオイノミカド)斎院、萱(カヤノ)斎院とも呼ばれた。
その間、伯父・中納言・藤原公光の失脚、同母兄・以仁 (モチヒト) 王の平家への謀反と戦死(1180)などに遭い、出家し(1191頃)、法然に帰依する。さらに橘兼中夫婦の謀計・託宣事件に連座し、洛外追放になったが、冤罪は晴れた。
保元・平治の乱など、騒々しい世の時代に生き、父・後白河帝を巡る世の動きに振り回された感がある。幸せな生涯であったようではない。1199年なかば頃から体調が優れず、ほどなく病状が悪化して、1201年1月25日薨去。享年53(?)。
和歌は、藤原俊成(百人一首83番、閑話休題155)の師事を受けた。俊成の『古来風体抄』は、式子内親王の求めに応じて、1197年に執筆、献上されたものであるとされている。
歌風は、内に秘めた悲哀の情や孤独感を抑制しつつも、静かににじみ出てくるような作風。同時代の他の歌人の影響を受け、技巧的・前衛的な表現も見られるが、独自の叙情性は失われていない と。
歌合など歌壇活動は必ずしも活発ではなく、百首歌が主で、現存する作品は400首に満たないようである。しかし82代後鳥羽院(1180~1239;在位1183~1198;同99番)は、“人には詠み得ないような”独創性と技巧を備えた歌人“であると賞賛している。
内親王は、晩年(1200)、後鳥羽院の求めに応じて百首歌を詠み、定家(1162~1241)に見せている と。『新古今和歌集』に女性としては最多の49首が入集され、『千載和歌集』以降の勅撰集に現存する全作品の三分の一以上が入集されている と。
家集に『式子内親王集』があり、『正治二年院初度百首』と他2種の百首歌を後人がまとめたのが基礎となり、他の勅撰歌60余首を収めてある。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人である。
上掲の歌で詠まれた“忍ぶ恋”の対象は“どなた”であろうか? 世では幾つかそれらしき根拠を挙げ、藤原定家では? と推測されている。後世、両者の関係を基にした謡曲『定家』など文芸作品が生まれ、また『定家葛』の伝承が生まれている。
定家では?の根拠として、まず俊成の弟子・内親王と幼い定家は、親しい関係にあった筈である。定家は、1181年正月に初めて三条第に内親王を訪れており、以後折々に内親王のもとへ伺候し、家司(ケイシ、家政を司る職員)のような仕事を行っていた。
定家の日記『明月記』中、内親王の話題は多く、特に薨去の前月には、頻繁な見舞いと病状の詳細な記録が記されているが、薨去については一年後の命日まで一切触れられてなく、思わせぶりな書き方である。両者は、相当深い関係にあったと推定できる と。
内親王には下記の歌がある。この歌は、伝聞として、百首歌として発表される以前に、定家に贈ったものだとされている。『新古今和歌集』撰者名注記によると、定家はこの歌を評価しておらず、撰者名に名はない ということである:
いきてよも あすまで人は つらからし
此夕暮れを とはゝとへかし (『新古今和歌集』 巻第十四 恋歌四)
[この命明日まであるかどうかわからない。あなたのつらい仕打ちも
明日にはなくなっていると思うが、訪ねてくれるなら、明日でなく、
生きているこの夕暮れに訪ねてきてほしい]