愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題64 飛蓬-漢詩を詠む 9 -保津川下り

2018-01-20 17:49:59 | 漢詩を読む
2016年盛夏、保津川下りを楽しむ機会があった。小舟で1時間半ほどかけて、亀岡から嵐山まで下る“保津川下り”は、保津峡の両岸に展開する景色や川下りのスリルは言わでもの事、日常を離れて十分に楽しいものであった。

川下りの間、船頭さんは、ガイド役も務めるのだが、その解説の中で、“舵を取る竹竿の先端は、岩の決まった点に当てます”という趣旨の話があった。事実であるとするなら、驚嘆に値することと言える。

以下、‘保津川下り’の模様を簡単に紹介して、かじ取りの技を覗いてみたいと思います。

丹波高地に源を発し、亀岡・嵐山を経て、淀川に注ぐ‘桂川’のうち、亀岡から嵐山の間を‘保津川’と呼んでいる と。直線距離7.3 kmであるが、山間を蛇行することから、実際の流れは11.5kmになる と。

亀岡-嵐山間の標高差は、50 m。その間、幾つもの滝があり、高低差2 mに及ぶものもある と。そのような‘滝つぼ’に小舟が突っ込む際には、“イエーッ”と船頭さんに合わせて、皆さんが大声で掛け声を発し、合わせて水飛沫を浴びるのである。

亀岡を発してしばらくは、流れは緩やかで、舟の前後2本の櫂と一本の竹竿で舟を進める(写真1)。竹竿の操者は、舳先にいて竿先を川底に着けたら、身体を後方に運びながら、舟に推力を付けるのである。

写真1:

写真2は、今にも滝つぼに突っ込まんとする直前である。狭い岩間を、舟を巌にぶつけることなく、的確に方向付けして進める。このような狭い岩間の急流を、巌にぶつけることなく、舟を進めること自体驚きである。

写真2:

滝つぼに突っ込んだ瞬間、水飛沫が飛び散って、視界を遮る(写真3)。後方の櫂操者も、必死に櫂を操作して、舟が巌に衝突するのを防ぐ役割を果たしているようにみえる(写真4)。

写真3:
写真4:

舟の方向付けは、主に竹竿の操者が担っているようである。川の両岸の巌に竹竿を当てて、舵を取るのである。その際、竹竿を当てる箇所は、毎回、決まって巌の定点であると、船頭さんの先の解説であった。

確かに、注意して見ていて、一度だけ、筆者の肉眼でそれらしい状況を確認できた。しかし、客観的に提示できるよう、その‘現場’(?)を写真に捉えることは、至難、というより不可能であった。

筆者は、旅の模様を、ビデオに収めるのが常である。当日の遊覧の模様のビデオ映像を再生して、改めて詳細を調べてみた。過たず、的確に竹竿の先が‘ピシャリ定点’と思える箇所に当てられている映像を探し当てることができた。

写真5~8は、ビデオ映像から、一コマおき(ほぼ0.06秒毎)に静止画としたものである。舟は右方向に進んでいます。竹棹の先端がブレることなく、見事に小孔に当てられていることが、見てとれます。

写真5写真6

写真7写真8

不規則に揺れ動く小舟に乗って、的確に定点に竹棹を当て、推力とともに舵をとる、その匠の‘ワザ’は、驚嘆に値します。

「雨垂れ石を穿つ」という諺はよく耳にします。長い年月、同一箇所に竹竿の先端が当てられると、いかな巌とは言え、穿(ウガ)たれて‘孔’を作っていくことになるのでしょう。

この旅の模様を漢詩にしてみました。下に挙げた漢詩をご参照下さい。

なお、“保津川下り”の魅力は、スリル満点のダイナミックな面ばかりでなく、四季折々の、両河岸や保津峡谷の景観にもあるようである。これらの点は、機会を改めて触れることができれば、と思っています。

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原文と読み下し文

・游覧保津川而下  保津川下りを游覧す
河流激烈水花散、 河流 激烈(ゲキレツ)にして 水花(スイカ)散る、
舵避与磐舟撞難  舵(カジ) 舟の磐(イワオ)と撞(ブツカル)難(ナン)を避(サ)く。
篙做孔如泰山霤、 篙(サオ) 孔を做(ツク)ること泰山の霤(アマダレ)の如し、
艄公本領人驚嘆。 艄公(センドウ)の本領(ウデマエ) 人驚嘆(キョウタン)す。
・註]
・脚韻:十五翰の韻
・水花:水しぶき
・泰山の霤:雨垂れ石を穿(ウガ)つ。「泰山の霤」については末尾、[蛇足]を参照。
・艄公:船頭
・本领:腕前、技量

《現代語訳》
 保津川下りを楽しむ
保津川の流れは激しく、岩に当たって水飛沫をあげて流れる、
巧みなかじ取りで 小舟の巌にぶつかる難は避けられている。
船頭の竹棹による岩にできた穴は、「泰山の雨垂れ石を穿つ」の例えに似て、
棹先を定点に当てる船頭の見事な棹捌きには 驚嘆するばかりである。

[蛇足]
「泰山の霤(アマダレ)石を穿(ウガ)つ」の由来:
前漢(BC202~)の時代、BC154年、“呉楚七国の乱”と言われる諸侯の反乱があり、その頃の話。呉王が反乱を起こそうとした折、家臣の枚乗(バイジョウ)は、その非を説いて諫めた。すなわち、“呉王は現在恵まれた地位にある。それを危険に晒すことは愚な事である。いったん道に外れた行いをすれば、最初は小さなことでも、いずれ積み重なって大きな災いとなる” と。そのたとえとして、「泰山の霤(アマダレ)石を穿(ウガ)つ」と言ったという。但し、何故“泰山”かは 不明である。結果として呉は敗れた。
今日、「雨垂れ石を穿つ」として、“非力であっても根気よく続けてやれば、ついには成功する”と、“持続して努力することの大切さ”を説く諺となっている。
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閑話休題 63ドラマの中の漢詩 40『宮廷女官―若曦』-28 (完)

2018-01-12 16:28:00 | 漢詩を読む
若曦は、恂勤郡(ジュンキングン)王(第十四皇子)に‘嫁入り’して、紫禁城の外に出ることが叶った。郡王との日常は、非常に仲睦まじいように見える。

郡王が、屋外で激しく剣舞を舞った後、若曦がハンカチで郡王の顔の汗を拭いてあげ、その後に手を取り合って屋内に入っていく。前回に触れたように、郡王が、夜に若曦の部屋で過ごすこともあった。

このような状況は、雍正帝(第四皇子)が放った密偵によって逐一帝の元に報告されているのである。しかし帝は、快からぬ報告に怒り心頭で、報告の書状を破り捨て、“若曦の近況報告はもういらぬ!”と命ずる始末である。

一方、郡王は、帝に、<ならず者の劉邦が皇帝となり、英雄の項羽は自害した。英雄たちは墓前で嘆くだけである>と、嫌みな書状を送ることもあった。帝は、不機嫌に、“十四弟からの書状は、以後読まぬ”と、決めた。

実は、密偵を逆手に利用して、仲睦まじい様子など偽情報を報告させ、また自らも嫌みな書状を送るなど、これらの行動は、郡王の帝に対する嫌がらせ策のようであった。

雍正帝と若曦は、ともに想いは募るばかりであり、それぞれ“想い出”の中で生きていると言えようか。

若曦は、体が徐々に弱っていく中で、習字に励んでいます。帝の筆跡に倣い、‘行きて水の窮まる処に至り、座して雲の起こる時を見る’の2句を飽かずに練習しています。帝が、かつて皇子の折に胸に秘めていた‘野望’を表す句です。

若曦は、日中に眠気に襲われることが多くなった。ある時、目を閉じると、目の前が明るくなり、回廊の向こうに立っている帝を見つけた。駆け出して行って抱きしめようとすると、帝の姿は消えてしまった。

若曦は、自分の死期を悟り、巧慧に筆を用意させて、帝宛に手紙を認めます。帝との来し方を反芻しながら、“….私の心にいるのは、皇帝ではなく四皇子だけ。愛すれど結ばれず、忘れたくても想いは募る。….あなたとまた会える日を夢見て…、若曦”と、認めた。

“この手紙を帝に渡してほしい”と郡王に頼みます。ちょっと険しい表情をした郡王ですが、若曦の衰弱した様子に心を痛め、率直に引き受けました。(急いで!明後日には帝に読んでもらえ、3日後には会える)とつぶやきます。

郡王は、預かった封筒の筆跡が皇帝とそっくりであったため、その封書を別の封筒に入れて、自ら宛先を書いて送ることにした。早馬で届けた。帝は、“また自分を挑発する内容であろう”と、開封することなく、打ち捨てておいた。

3日後、若曦は、帝が訪ねて来るものと信じて、身支度を整えて待っていた。しかし終日待っても、帝は現れなかった。若曦の落胆は大きく、“私の存在など、もはや心にもなく、無関心なのだ”と、巧慧に訴え、涙する。

翌日、若曦は、親交のあった人たちへの遺言状やら、記念品の分配やらの頼みごとを巧慧にお願いする。記念品には、四皇子から贈られた「鼻煙壺」、「モクレンのかんざし」と、かつて庭園で身を庇ってもらった「鉄の矢」が赤い布で包まれてあった。

その頃、帝は、激務の後、背もたれにもたれて、目を閉じた。“帝!帝!”と、耳慣れた懐かしい声に目を開けると、眼前に若曦が立っていた。思わず駆け寄り抱きしめようとすると、姿が消えて、目が覚めた。

若曦の体調はますます落ちていき、支えなしには歩けないほどに衰弱している。郡王は、先に呼んでいた“楽師の曲を聴きましょう”と誘うと、「外に連れ出して」と、若曦は消え入るような声で言う。

屋外で、若曦は一輪のモクレンの花を手に、椅子に座り、力なく郡王の肩にもたれかかっている。外には桃の花が今を盛りと咲き誇っています。若曦は、紅の桃の花を愛でながら、次のような詩を口ずさんだ:

“草の色は緑 染むるに堪え、
桃の紅は燃えんと欲す。”

この詩は、帝の好きな詩人王維が‘輞川(モウセン)別業’(輞川別荘)で詠んだ『田園楽七首 其の六』に拠ると思われます。詩は、末尾に上げてあります。なお、‘輞川別業’については、閑話休題52(投稿‘17.10.05)をご参照下さい。

郡王は、「来年もまたここで桃の花を愛でましょう」と励まします。若曦は、力を振り絞って“お願いがある”と言い、“自分が死んだら遺体を火葬にして、その灰を風の吹く日に空に撒いてほしい”と。

当時、‘火葬’は大罪を犯した者への罰である。納得しない郡王に、若曦は、“自由に生きたかったのに、紫禁城で囚われの身となった。二度と束縛されず、風とともに逝きたい”と訴える。

「よし分かった。必ず守る」との郡王の返事を聞いて、ほっとした若曦の頬に一筋の涙が伝わり、手にしたモクレンの花がはらりと地に落ちた。

若曦逝去の報は、直ちに紫禁城に伝わり、雍正帝はじめ皇子たちはそれぞれに動転した様子で、恂勤郡王の所に設けられた祭壇に集まった。

遺灰は、雍正帝によって崖の上から青空高く撒かれた。怡親王は、感慨深気に、「これで若曦は、自由を手に入れて、未来に戻れるのだな」と言った。
……….
……….
その頃、張暁は病院のベッドにいた。「目が覚めた?先生!意識が戻りました!」と、看護師は慌てて医師を呼んだ。(第34 & 35話;完)

[蛇足]
邯鄲(カンタン)の枕:
慮生という青年が、邯鄲で道士の呂翁から枕を借りて眠ったところ、富貴を極めた五十余年を送る夢を見た。目覚めてみると、炊きかけの黄梁(コウリョウ;大粟)もまだ炊き上がっていないわずかな時間であった。この話は、唐の沈既済(チンキセイ、750~80)の小説『枕中記』による。
人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえ。“邯鄲の夢”、“(黄梁)一炊(イッスイ)の夢”とも言われる。
さしずめ、“(清) 張暁の夢”と言えようか。しかし愉しみの多いドラマではあった。ドラマ製作スタッフに感謝を!謝謝!

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・田園楽七首  其の六
桃紅復含宿雨、 桃は紅(クレナイ)にして 復(マ)た宿雨(シュクウ)を含み、
柳緑更帯春煙。 柳は緑にして更に春煙(シュンエン)を帯(オ)ぶ。
花落家童未掃、 花落ちて 家童(カドウ) 未(イマ)だ掃(ハラ)わず、
鶯啼山客猶眠。  鶯(ウグイス) 啼(ナ)いて 山客(サンカク) 猶(ナ)お眠る。

<現代語訳>
・田園の楽しみ七首 其の六
桃の花は夕べの雨を含んでつやつやと赤く、
柳は青さを増して春の霞に煙る。
庭に散り敷いた花びらはそのまま、召使も掃き清めたりしない、
鶯がしきりにさえずる中、山荘の主は夢の中。
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閑話休題62 漢詩を読む 酒に対す-1

2018-01-05 11:41:13 | 漢詩を読む
正にピッタリ この一句!!
 蝸牛角(カギュウカク)上 何事をか争う
  ―この小っちゃな星屑の上で、何の諍(イサカ)いをしてまんのヤ?―
白居易(楽天)の七言絶句「酒に対す(酒を飲んで)」の起句です。

読者の皆さん、明けましてお目出とうございます。

昨2017年のノーベル平和賞にはICAN、奇しくも長崎にご縁のあるカズオ イシグロ氏にノーベル文学賞が授与されました。ICANのフィン事務局長は、受賞講演の中で、“私たちは、核兵器の終わりかまたは私たちの終わりか、のどちらかを選ばなければならない”と述べておられます。

現代の世界の“ありよう”を考える上で、先人たちの著作の中には、重要なヒントが語られているように思われます。2018年頭に当たって、白 居易の詩「酒に対す」を読みます。

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対酒       酒に対す   白(ハク) 居易(キョイ)
蝸牛角上争何事  蝸牛角(カギュウカク)上(ジョウ) 何事(ナニゴト)をか争(アラソ)う、
石火光中寄此身  石火光(セッカコウ)中 此の身を寄(ヨ)す。
随富随貧且歓楽  富に随(シタガ)い 貧しきに随いて 且(シバ)らく歓楽すべし、
不開口笑是痴人  口を開きて笑わざるは 是(コレ)痴人(チジン)。
[註]
・蝸牛角::カタツムリの角、空間的に小さいこと
・石火光:火打ち石の光が飛ぶ一瞬の間、時間的に短いこと
<現代語訳>
酒を飲んで
蝸牛の角のような狭い世界で、何を争っているのか、
火打石の光のような一瞬の時間に身を置いているというのに。
金持ちは金持ちなりに、貧乏は貧乏なりに、しばらく楽しもうよ、
大きく口を開けて笑わない奴はバカ者だよ。
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“蝸牛角上の争い”とは、『荘子』-雑篇の「則陽」にある説話のひとつです。

中国、戦国の世で、魏の恵王と斉の威王は盟約を結んだが、斉王がそれに背いた。怒った魏王は、斉に刺客を送ろうと言う。ある将軍は、刺客は恥ずべきことであるから、堂々と軍隊を送って討とうという。別の人は、今は平和が続いているから、討つべきではないと進言する。

別の“ある人”は、斉の討伐の賛・否論者ともに世を乱す者であり、そう言っている自分も世を乱す者だ と言う。「では、どうしたらよいのだ?」と、困っている魏王に対して、“ある人”は、‘道を求めるのみです’と答えます。

荘子は、次のような“戴晋人(タイシンジン)”なる人物と魏王との間で交わされた寓話の問答を通して、“ある人”の言わんとするその真意を説いていきます。

蝸牛の左の角には触氏が国をつくり、右の角には蛮氏が国をつくっている。ある時、二国は土地をめぐって戦争を始めた。数万人もの戦死者が出たばかりか、勝った方は半月間も逃げる相手を追いかけて、やっと引き返した。

その話を聞いた魏王は、「馬鹿々々しい作り話だ」と取り合わなかった。“戴晋人”は、現実に当てはまる話であるとして、次のような問答を交わした:「王様は、この宇宙の四方上下に際限があると思われますか?」

「際限はない」と答える魏王に、“戴晋人”は、「心をその無窮の世界に遊ばせる者にとって、自分の足で到達できる、魏や斉のような国々など有るか無きかもわからぬチッポケなものではありませんか。

こんなチッポケな魏国の中に都の大梁があり、大梁の中に王様がおられます。宇宙の無窮に比べれば、斉を討とうの討つまいのと、想い迷われる王様と蝸牛角上の触氏や蛮氏にどれほどの違いがありますか?」と。

魏王は、蝸牛の角に国を持つ触氏や蛮氏と同じにされてしまいました。“戴晋人”が退出した後、魏王はがっかりした様子で、大事なものを失くした様な有様であった と。

この説話のミソは、“ある人”が「道を求めるのみです」と答えたことのようです。それは戦争を超越し、平和さえ超越した「道」の立場、つまり天地自然の立場に立つことである と。

ここで“ある人”の言わんとする「道」について、朧げながら感じ取ることはできても、ストンと胸の底に落ちていくほどに論ずることは、筆者の成せる技ではなさそうである。

思うに、「蝸牛角上 何事をか争う」の句は、今様の、“XXファースト”に通ずるようである。2,000年以上の時を経て進歩したことは、‘弓矢’が‘核爆弾’に、‘自分の足’が‘飛行機やICBM’になったことだけであろう。

さて、酒と人との関わり合いは、非常に興味のあるテーマです。“酒が入る”と、大らかに人生訓を吐露することは、日常よく知るところで、白居易に限りません。

今後、詩作の先人たちの詩を通して、いろいろな角度から‘酒と人との関わり合い’を探って行くことにします。できるだけ明るい話題を取り上げるよう心掛けるつもりです。

本稿、荘子の説話は、『「老子」「荘子」をよむ(下)』(峰屋邦夫著;NHK 宗教の時間テキスト、2010、)および『中国故事物語』(後藤基巳、駒田信二、常石茂 編、河出書房新社、1963)を参考にしました。
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