愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 61 ドラマの中の漢詩 39 『宮廷女官―若曦』-27

2017-12-30 11:16:51 | 漢詩を読む
話をドラマに戻します。雍正帝は、山と積まれた書類を前に、毎日その処理に追われている。傍近くで政務の手援けをしているのは、怡親王(第十三皇子)である。

若曦も帝の傍近くに仕えていて、お茶の用意をするなど、執務に追われる帝の緊張を和らげるよう心を砕いています。また若曦には、かつてと同様、義姉妹の契りをした玉檀が手伝いをしています。

帝は、常々、緊張した険しい表情であるが、若曦と接している際には顔が綻び、笑顔が見える。若曦に対していると、心が休まるようであり、またかつて約束したように、真心で接していることがくみ取れます。

怡親王の娘・承歓は、若曦に懐いていて、よく訪ねて来て一緒に遊ぶ。その様子を見た帝は、「私の子供を産んだ笑顔の君が見たい、それが私の幸せだ」と。最近の帝の接し方に真心を感じ取った若曦は、自分が“張暁”であることを忘れてしまっているかのようである。

そんなある朝、帝が執務中に片方の肩に違和感のあること訴えた。傍に居合わせた怡親王は、帝が「不要だ」というのを押しきって、医者の手配をする。「恐らく就寝の際、何らかの姿勢で肩が押さえられたのであろう」との診断。二人はお互い顔を見合わせて、素知らぬふり。

母の徳太妃の危篤の知らせを受け、皇帝として正装し、“今度こそは”と期待を込めて母を見舞った。母が発した言葉は、「何よりも後悔しているのは、反逆者を世に産み落としたことよ。私の息子はただ一人、十四皇子、お前ではない」と。

母に息子として認められなかったことばかりか、皇太后に就くことも拒まれた。帝の心の傷の深さは計り知れない。特に、皇太后の件は、即位の正当性について、世に示しがつかず、敵対勢力に格好の疑問の口実を与えることを意味する。

廉親王(第八皇子)は、帝位争いとしては“決着が着いた“と、冷静に現実を受け止めているが、臣下や仲間、特に第九皇子は、まだ諦めていない。帝は気が休まることはなく、廉親王らへの攻撃は、日増しに強くなっていきます。

帝は、かつて怡親王を10年間もの軟禁生活に追いやり、自分も自重せざるを得なくなった原因が、廉親王一派の策謀によると確信しており、“この怨みは、決して忘れるものではない”と事あるごとに、険しい表情で口にする。

非常に衝撃的なことが起こった。若曦は、義妹・玉檀が極刑の‘蒸刑’に処せられる現場を目撃したのである。“第九皇子が宮廷に送り込んだ密偵”であったことが判明したというのである。若曦のショックは並みではなく、倒れ込む。

怡親王と巧慧は、“懐妊中です、子供のためにも体を大事に”と、介抱しています。巧慧は、廉親王の側福晋・若蘭が病気で亡くなったのを機に、帝の計らいで若曦に仕えるようになっています。

若曦は、機を見て、玉檀の件で第九皇子を責めます。第九皇子は、“自分の手先になれたことだけでも幸運だ”と、うそぶき、強がる。しかし実は、深い悲しみに駆られて苦しんでいる。

第九皇子は、“その恨みを晴らさずにおれるか”と、重大なことを廉親王の嫡福晋・明慧に耳打ちします。第十三皇子の軟禁、第四皇子を自重に追いやった画策には、若曦の第八皇子への警告が基になっている と。

警告とは、かつて若曦が第八皇子に対して、“第四皇子に注意を”、“隆科多(ロンコド)や年羮尭(ネン コウギョウ)にも“と、情報を提供したことを言っている。

明慧は、若曦の居宅を訪ね、その旨を話し、「私たちの受けた痛みはあなたにも味わってもらう」と、第九皇子の言伝を告げて帰っていった。そこで若曦は、“すべての発端”は自分にあったのだと、自責の念に駆られていきます。

衝撃を受けた若曦は身体がふらつき、巧慧と怡親王に助けられつつ「私のせいよ、私が悪いんだわ」と口ずさむ。下腹部に激痛を覚えて、腹を抱えながら座り込み、「子供が….」と絞り出すように言うと、長衣に鮮血が広がった。

明慧が関わったことを知ると、帝は、廉親王を呼びよせて、「三日以内に離縁せよ」と勅命する。“勅命に背けば、一族郎党皆殺しに逢う”、と 意を決した明慧は、離縁状を認め、廉親王に無理に押印させる。

明慧は、「私の想い人は永遠に親王だけです」と言い残して、八王府に戻るが、そこで住まいに火を点けて自害した。火の手が上がって、駆けつけた廉親王には何ら手の施しようはなかった。

第九、十及び十四皇子は、それぞれ遠地に追いやられています。怡親王と若曦は、兄弟皇子たちをこれ以上陥れることのないよう諫めますが、帝は聞き入れません。そこで若曦はついに覚悟を決めます。

酒瓶を携えた若曦は執務室に飛び入り、一気に酒を飲み干して、怡親王に向かって、「私が警告したせいで、廉親王は第四皇子を陥れる策を考え、あなたを巻き添えにしてしまった。許して!」と、深々と頭をさげます。

また、帝に向かい、「子供も私が死なせたのも同然。仕掛けたのは廉親王たちだけれど、その発端は私よ。」「第八皇子たちにあんな真似をさせたのは、あなたの最愛の人よ。恨む相手が違っていたのよ」と。

帝は、拳を硬くして、顔色を変え、「黙れっ!」、「出ていけ!….、失せろっ!」と。独りになった帝は、やり場のない怒りを香炉にぶつけ、思いっきり蹴り倒した。

若曦は、体調も勝れない中で、かつて第十四皇子が、“もし皇宮を出たいのなら助けになる”と言ったことを思い出す。そこで我が身を第十四皇子の元に預けることを決意して、怡親王を介して第十四皇子に伝えます。

都から離れて恂勤郡(ジュンキングン)王となっている第十四皇子は、朝議の後、「先帝から指示された婚姻の許可が欲しい」と言って、雍正帝に聖旨を提示した。確かにそれは、今は亡き康熙帝のもので、“若曦を側福晋に”という聖旨であった。

第十四皇子が、大将軍王として華々しい活躍をしていた頃、西域討伐の功績として先帝が与えた褒美のようであった。雍正帝は、動揺を悟られぬように、拳に力をいれて、“沙汰を待つように”と告げた。

聖旨があったとは若曦も予想外であったが、「嫁ぐと言っても形だけよ。第十四皇子もわかっている」と、心配する怡親王に声をかけて、安心させます。

恂勤郡王の元に“嫁入り”した若曦と郡王は、いかにも仲睦まじい生活を送っているように見えた。そんなある夜、泥酔した群王は、若曦の部屋に現れ、皇位への未練を嘆きつつ、賀鋳(ガチュウ)の詞「六州歌頭」を詠んだ。

“血気盛んな若かりし日、同志と契りを結ぶ、
正義を貫き、不条理に怒りを燃やす、….。“

大将軍王として、華々しく活躍していた若き頃を思い出していたに違いない。若曦は、酔い潰れた郡王にそっと布団を掛けてやった。

賀鋳の「六州歌頭」については、後半の一部を既に紹介しました(閑話休題49、’17.09.06投稿)。今回は、その最初の部分に当たります。該当する数句の原文、読み下し文及び現代語訳を以下に挙げてあります。ご参照ください。(第28,29,30,31,32,33,34話)

xxxxxx
 六州歌頭   賀鋳
少年侠氣,  少年の 侠氣,
交結五都雄。交り結ぶ 五都の雄。
肝膽洞,   肝胆 洞(つらぬ)き,
毛髮聳。   毛髮 聳(そばだ)つ。
立談中,    立談の 中,
生死同,   生死を同(とも)にし,
一諾千金重。 一諾は千金の重み。
註]
五都:五つの都市、ここでは各地の大都市。唐代では、京都(長安)、河南(洛陽)、鳳翔(宝鶏市?)、江陵および太原
立談:立ち話、ちょっとした話
一諾千金:四字成語で“一度承諾したことは、千金より重い”。その故事は、既に紹介しました(閑話休題39、2017.5.20投稿)。
<現代語訳> 
若いときは男気をもって、
各地の英雄豪傑と交わりを結んで来た。
お互いに心を打ち明けあい、気心は互いに通じ合い、
毛髪がそばだつほどに、意気盛んであった。
ちょっとした話の中でも、
生死をともにし、
一度承諾したことは千金より重く、信義を貫き通してきた。
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閑話休題60 飛蓬-漢詩を詠む 8 -ニュージーラントの旅-3(完)

2017-12-20 11:15:10 | 漢詩を読む
これまで2回にわたってニュージーランド (NZ) の大自然の姿およびNZに住む生き物たちの姿、さらにNZの人々について触れてきました。

今回のNZ旅行に当たって、今一つ、見定めたいことがありました。南半球について決まって話題になる“南十字星”を目にすることでした。結果的に、残念ながら目にすることができませんでしたが。

星の観察を試みたのは、アオラギ・クック山の観光に臨む際の宿営所(?)となるHermitage Hotel(写真1)の屋外である。アオラギ・マウント クック国立公園内にあり、外装が穏やかな色合いの佇まいである。

写真1:The Hermitage Hotel

夜8時半ごろホテル着、夕食後屋外に出て、星の観察を試みる。夜10時前後である。ホテルの灯りも減じていた。写真手前の広場に出て、天を仰ぎ、四方八方に頭を巡らして、それらしい星座“南十字座”を探したが、遂に探し当てることはできなかった。

昼間の状況から推して、天候が悪い状態であったとは思えない。天空一杯に星が散っていることは確認できた。恐らく、目には入ったが、心の目で捉えることができなかった というだけのことだったのか?

NZでは、“南十字星”の観察には3~5月頃がもっとも容易である由。今回訪れた11月は、同星座は地平線近くに低くなっていて、周囲の山や建物の陰に隠れていて、確認できなかったのか?

捜しあぐねて末、記憶に残る、かつて見た故郷の星空に想像は馳せていた。“郷愁”というより、過去の記憶を頼りに、一つの‘基準尺度’として、NZの星空を見ようとした と言う方が正しいでしょうか。

つまり、新しい状況に遭遇した際、その内容を“理解する”のに、過去の経験や記憶を、判断の基準として活用する ということは、通常の思考過程であり、そういう意味である。

記憶にある故郷とは、鹿児島県喜界島のことである。そこでは、四季を通じて、星空は、天空一杯に散った星々の“星明かり”で天空は明るく見える。その中にあっても、多くの星々は一層きらきらと輝いて見えるのである。

ただ、筆者はかつて南の島で種々の星座について思考を凝らしたことはない。天を仰げば、北極星や北斗七星を含む‘おおくま座’など、容易に判読できたのである。

そこでNZ行に際しても、“空を仰げば何とかなるさ、航海の目印となるくらいだ”と、安易な気持ちであったことは確かである。ツアーでは『星空ウオッチング』のオプションがあったのだが、当日の参加希望は叶えられなかった。

結果として、ホテルの裏庭(?)に出て、星空観察を行ったという次第である。それはさておき、連想は、故郷の空からさらに孫娘(小5)が作った俳句へと広がっていった。その句とは:

『さそり座がおおきくねそべるきびばたけ』

この句は、孫娘が夏休みに喜界島を訪ねた折に作ったもので、某機関の募集に応募して、“大賞”の評価を得ています。この句の詠まれた背景となる風景を少し説明しておきます。

島では一面にサトウキビ畑が広がっています(写真2)。サトウキビの葉は、ススキに似て、先が針状に尖って細長くなっています。春から夏・秋にかけては、青々と葉を茂らせて成長する時期です。

写真2:サトウキビ畑

海に囲まれた小さな島では、日が暮れると、陸から海側へと微かに風が起こるのが常です。孫娘は、夕涼みの散歩にと、屋外へ出て行ったのでしょうか。南の空を仰ぐと、サトウキビの葉の影が微風に揺れて、その上に“さそり座”がシッポを巻いて寝そべっている という情景か と想像します。

残念ながら南十字星に対する感慨を詠むことはできませんでした。宿題として胸に秘して置くことにします。しかしそれなりに、赤道を跨いで、南半球から北半球と遥かな思いに駆られる結果となった。この思いを七言絶句として詠んで見ました。以下をご参照下さい。

xxxxxx
・在奥拉基庫克山脚 回顧故郷 
・・奥拉基庫克山脚(アオラギクック山の麓)にて故郷を回顧す
深夜逍遥奥山脚, 深夜(ヨフケ)逍遥す奥山(アオラキサン)の脚(フモト)、
南十字架今何照。 南十字架 今 何(イズコ)にてか照(カガヤ)ける。
蓬莱南島甘蔗園, 蓬莱(ホウライ)南島 甘蔗(カンシャ)の園(エン)、
躺臥蝎星閃閃耀。 躺臥(トウガ)す蝎星(シエシン) 閃閃(センセン)と耀(カガヤ)く。
・註]
・・奥山脚:奥拉基庫克(アオラギクック)山の麓
・・南十字架:南十字星
・・甘蔗園:サトウキビの畑
・・躺臥:寝そべる、横になる
・・蝎星:さそり座(天蝎座)の星々
・・※転句と結句は、小学生の句:「さそり座が大きくねそべるきびばたけ」に拠る。

<現代語訳>
 アオラギクック山の麓で遥か遠くの故郷を思う
夜更けてホテルの灯りが減る頃、奥拉基庫克(アオラギクック)山の麓を逍遥し、
南十字星を求めたが、今 何処で輝いているのか、探し当てることができず。
サトウキビ畑が広がる蓬莱の南の島の夜空へ思いは馳せた、
そこには横たわるさそり座の星々がきらきらと輝いている。
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閑話休題59 飛蓬‐漢詩を詠む 7 -ニュージーラントの旅-2

2017-12-15 11:27:40 | 漢詩を読む
前回はニュージーランド (NZ) の大自然の姿を見てきました。“銀シダ”が群生する原生林、“土ボタル”が煌くワイトモ鍾乳洞、雲を貫き、氷河が残るアオラギ・クック山、U字谷にできたターコイドブル-の氷河湖、など。

続けて、NZに住む生き物たちの姿を紹介し、最後にマオリ族の人々について触れます。この旅行を詠んだ漢詩は末尾に再掲(一部修正あり)してあります。今回の話は、詩中後半4句と関連した内容です。

まず、注意を引く点は、果てしなく広がる放牧場で悠々と草を食む牛(写真1)や羊(写真2)の群れです。羊の群れには、2、3匹の可愛い仔羊が親の周りを飛び回っている情景も微笑ましく、目についた。

写真1:牛の放牧(バス窓越しに撮る)
写真2:羊の放牧(バス窓越しに撮る)

この放牧場の風景の多くは、バスの走る高速道を間に挟んで、左右の両脇に遼遠と広がり、その遥か先には山に連なっていきます。すなわち、典型的なU字谷にできた盆地状の牧場なのです。

今一つ目についた放牧場の情景は、恐らくスプリンクラーであろうと推測していますが、写真3に見るような車輪の付いた構造物です。両脇に車輪がついた孤状の造りで、その長さ3,40m。このような造りが十数個以上連なっています。

写真3:スプリンクラー?(バス窓越しに撮る)

現在、牛や羊の他、多くの種の哺乳動物が住んでおり、鹿やウサギも目撃することができました。ただ、過剰繁殖したある種の動物を駆逐するために、天敵の別の動物を導入する….というエンドレスの対策に追われており、目下、ポッサムの過剰繁殖が問題となっている由。

クイーンズタウンから片道300余km往復の一日行程で、ミルフォードサウントを訪ねる。南アルプスの東西両サイドのU字谷を通り、タルボット山を18年かけて手掘りで貫通したというホーマー・トンネルを通過して、両都市が結ばれている。

地図の上で、クイーンズタウンとミルフォードサウンドの間を結ぶと、南アルプスのほぼ東西に位置していて、直線距離100km前後と思える。

実際の走行は、クイーンズタウンから南西にテ・アテウまで約170km下り、反転して約120km北上、ホーマー・トンネルを通過してミルフォードサウンドに到る。勿論、帰路は同ルートを逆に走る。南アルプス中、此処以外に、越え得る峠道はない由である。

このルートでは、2日前には猛吹雪で交通が遮断されていたとのことである。我々のグループは、アオラギ・クック山でそのニュースを聞いた。覚悟して来たが、幸いに好天に恵まれ、道路脇にその名残りの雪が残る程度であった。

ミルフォードサウンドと呼ばれているが、ミルフォード・フィヨルドが正しい呼び名だ と聞いた。つまり“海峡”ではなく、“フィヨルド”であると。当初、“海峡”だと考えられていたが、後に、U字谷に海水が入り込んだ“フィヨルド”であることが明らかになったというわけである。

ミルフォードサウンドのフィヨルドを、遊覧船(写真4)で約1時間半ほど巡行する。出港後まず目にする滝がボーエン滝(写真5)で、操舵室から撮った一コマです。この滝のシブキを身に受けると、若返る と。

写真4:遊覧船Pride of Milford号
写真5:ボーエン滝(遊覧船の操舵室から撮る)

外海に開けた所を経て、反転、帰路に就く。帰路には風が強くなっていた。強風下、老若男女を問わず、多くの人々が甲板に出て、ボーエン滝のシブキをたっぷりと身に受けた。カメラは懐に仕舞って。

このフィヨルドでの楽しみの一つは、イルカに逢えることであった。巡行中、所を変えて、背中を出したかと思うと白波を残して潜り込む、カメラを持つ人にとっては、気を揉む行動に度々逢った。結局、イルカの姿を写真に収めることは叶わなかった。

一方、岸辺の大きな岩の上では、アザラシが集団で、気持ちよさそうに昼寝中(写真6)。“甲羅”干しと言いたいところだが(?)。筆者は確認できなかったが、波打ち際辺りでは、金色の鉢巻きをした格好の小さいNZペンギンがいたらしい。

写真6:岩の上で甲羅干し(?)中のアザラシ群

NZは、かつてコウモリ以外の哺乳動物がいなかったという特異な環境である。虎や豹などの猛獣類がいない環境で、鳥類も独特な進化を遂げている。飛ぶことを忘れた“飛べない鳥”の誕生である。羽が退化し、体重に構うことのない肉付きの良い鳥となったのである。

かつて、モア(Moa)と呼ばれる大型の飛べない鳥がいたらしい。ダチョウの仲間で、背丈3 mにも及んだ と。マオリ族の人々が入植後、格好のタンパク源として乱獲の結果、絶滅した由。現在目にすることはできない。

最も有名な飛べない鳥として、キイウイ(Kiwi) (写真7)がおり、NZやNZ人などの代名詞として使用されるほどである。ロトルア郊外では、夜行性のキイウイを暗いキウイ・ハウス内で飼い、観覧できるようにしてはいるが、暗中では姿を確認できなかった。

同施設内に、キイウイ剥製が展示されている (写真7)。キイウイフルーツからの連想で、小さな可愛い小鳥かと思いきや、背丈は3, 40 cmほどの大きい鳥です。なお、キイウイフルーツは、中国原産であり、NZの生産量(1915)は、世界第3位、トップは中国である と。

写真7:剥製のキイウイ (Kiwi)

今一つ目に留まった飛べない鳥としてタカヘ(Takahe)(写真8)がいる。タカヘに似た飛べない鳥にプケコ(Pukeko)がいるが、足がより長く、嘴が赤色である他、羽の色はタカヘとなんら変わらないようである。

写真8:飛べない鳥タカヘ (Takahe)

飛べる鳥で身近に見た鳥に山岳オームのケア(Kea)があり(写真9、10)、カラスよりやや大きな体つきである。人懐こい鳥で、ピョンピョンと跳びながら、カメラを構えた人々の間を縫っていく。

写真9:山岳オーム ケア (Kea)
写真10:飛び立つ瞬間のケア

このケアは、終には、柵木の上に止まり、飛び去って行った。飛び立つその瞬間を捉えたのが写真10で、羽の内側が黄・赤模様で実に美しい。別の2羽のケアは、やや離れたところで、リンゴを突っついていた。人を恐れることなく、寄って来るのは、ご馳走に有り付けるからのようである。

その他、山中や湖岸で次のような幾種類かの鳥を見かけたが、筆者はその名を知らない。写真11:キイウイを思わせる鳥だが、嘴が短い;写真12:カラスほどの大きさ;写真13:スズメよりやや大きい;写真14:かもの仲間でしょう。

写真11:名は不明、大きさや体つきはキイウイに似ているが
写真12:名は不明、カラスの大きさ
写真13:名は不明、スズメよりやや大きい
写真14:名は不明、カモの仲間(?)

最後に、マオリ族の人々について触れます。

NZを紹介する文書で、まずNZでの公用語が“英語”、“マオリ語”および“NZ手話”の3種との記載に注意を引かれました。“少数者を排除せず”、“共存共栄”の基本理念が貫かれているように思われてならない。

併せて、現在、政治の世界で首相は白人、副首相はマオリ族の人が担っているとのこと、また通称クック山の正式名称はAoraki-Mount Cook (アオラキ・クック山)である など、通底する理念が感じられて、明るい気持ちになる。

ロトルア近郊のテ・プイアでは、先に挙げたキウイ・ハウス、またマオリの生活文化や風習を伝える施設、時に温泉水を吹き出す間欠泉など、見て回る。その施設の入り口に木の彫刻が立っている(写真15)。

写真15:マオリ族の木の彫刻

彫刻のデザインは、部族によって異なり、また一つ一つに重要な意味があるとのことである。その晩のホテルでは、ハンギ・デイナーとマオリ・コンサートであった。ハンギとは、地熱を利用した蒸し料理のことで、昔からマオリ人が活用していた料理法である と。

マオリ・コンサートでは、マオリ人固有の歌や踊りが披露された(写真16、17)。写真は、その一コマですが、“戦い”を表す踊りで、相手部族を脅す仕草であると。

写真16:マオリ族の踊り、ハカ (Haka) ?
写真17:マオリ族の踊り

このコンサートの冒頭、舞台に勢揃いしたマオリ人たちが、「キア オーラ」と大声を張り上げて、観衆に向かって、“まねをして言えよ!”と手招きしながら、繰り返して叫んだ。何回かの練習(?)を経て、観衆が声を揃えて「キア オーラ」、大拍手してOK。

「キア オーラ:Kia Ora」とは、マオリ語で「こんにちは」という意味である と。NZの市民の間でも、使われている風であった。“キア”と軽く言った後に、口を大きく開け、張り上げて“オー”と伸ばした後に、軽く“ラ”。その発音がまことに明るく響くのである。

独特な自然の偉容、青い空と美味しい空気、悠々然と活きる動物たち、心の豊かさを感じさせる人々の生きざま、…、いいところだな!
「キア オーラ! ニュージーランド!」

[付記] まるごと8日間、好天に恵まれた素晴らしい旅であった。また、添乗員や現地の案内人たちも明るい方々で、和やかで、明るい旅を演出してくれた。お礼を言わねばなるまい、月並みながら、“有難う!”と。(つづく)

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・完整新西蘭 八天游  完整(カンセイ)新西蘭(シンシ-ラン) 八天(ハチニチ)の游(タビ)
碧落雲浮羊歯繁,  碧落(ヘキラク) 雲浮いて 羊歯(シダ)繁る,
群星閃爍岩穴暗。  群星(グンセイ)閃爍(センシャク)す 岩穴(イワアナ) 暗し。
摩天頂雪奥拉基,  摩天(マテン) 雪を頂く 奥拉基(アオラキ),
山脚蓝绿氷水満。  山脚 (ヤマフモト) 蓝绿(ランリョク) 氷水(ヒョウスイ)満(ミナギ)る。
遼闊草原羊牛歇,  遼闊(リョウカツ)の草原 羊牛 歇(ヤス)み,
峡湾绝壁海豚玩。  峡湾(キョウワン)绝壁 海豚(イルカ) 玩(アソ)ぶ。
忘飛山鳥無虎豹,  飛ぶを忘れし山鳥 虎豹(コヒヨウ) 無く,
基啊噢啦新西蘭。  基啊噢啦(キア オ--ラ) 新西蘭。
 註]
・新西蘭:New Zealand (NZ) の漢字表記
・羊歯:ここでは‘銀シダ’のこと。‘銀シダ’は、NZ特有の”木性”のシダで、葉の裏が白(銀)色である。NZ Air機の胴体やラグビー・チーム、オール・ブラックスのシンボル図章は‘銀シダ’の葉を表徴したもの。
・岩穴:鍾乳洞のこと。暗く広い洞窟内には‘土ホタル’が生息していて、満天の下 星が煌くように見える。
・奥拉基:マオリ語でクック山のこと。同山の公式名称は‘アオラギ・クック山’
・氷水:氷河によりできた U字谷で、氷河解けの水で出来た氷河湖の湖水、ターコイド・ブルーを呈している。
・峡湾:フィヨルド、U字谷に海水が侵入してできた湾
・基啊噢啦:Kia Ora(キア オ-ラ);マオリ語で‘こんにちは’を意味する挨拶語。明るく、おおらかに響き、この一言で心が和む。

<現代語訳>
  まるごとニュージーランド 8日間
碧天に白雲が浮き、地上にはNZを代表する銀シダの木が茂る、
暗い鍾乳洞の洞窟内では、満天‘土ホタル’の星が降るように煌いている。
雪を頂くアオラギ・クック山の尖頂は、天に突き刺さらんばかりに、
山裾の氷河湖にはターコイド・ブルーの水が満ちている。
果てしなく広がる緑の牧野には羊や牛の群れが草を食み、また休んでおり、
フィヨルドの湾内では、イルカが遠泳を楽しんでいるようだ。
虎や豹など天敵のいない島、飛ぶことを忘れた鳥が餌を請うて近寄ってくる、
キア オ-ラ と、明るく挨拶を交わす、空気や好しニュージーランドである。
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閑話休題58 飛蓬‐漢詩を詠む 6 -ニュージーラントの旅-1

2017-12-10 17:30:18 | 漢詩を読む
2017.11.5 (日)~11.12 (日)の間、HK交通社trapics企画の“新まるごとニュージーラント 8日間”に参加して、ニュージーラント縦断旅行を行った。その旅行記録を兼ねて、以下感想を綴ってみたい。

例によって本稿は、“旅”の印象を“漢詩に詠む”ことを旨としています。漢詩は末尾に挙げました。本文は、漢詩の内容を理解して頂くよう、漢詩の解説を兼ねております。

まず、ニュージーラント(以下、NZ)について、基本事項を押さえておきたい。

NZの位置だが、地球表面を、赤道を折線にして南北折り重ねたとすると、北島の玄関口オークランドは、北茨木-富山を結んだ線上、また南島のクイーンズタウンは、北海道宗谷岬の利尻島とクッチャロ湖を結んだ線上にある。

日本の東北-北海道に当たる地域と言える。したがって気象状況は凡そ類推できます。が、一般に365日中100日は雨と言われているようで、雨は多いようだ。また、経度上30数度東に寄っていて、時差は3時間(9~4月サマータイムで4時間)。この中途半端な時差は、時差調整に難儀を覚える。

NZは、太古に大陸から切り離されて、他の陸地から孤立して、独特の動・植物の生態系を形成している と。その詳細は、追々述べますが、筆者が最も驚いた点は、陸上でコウモリ類以外、哺乳動物が全くいなかったということである。

NZに最初に入植した人々は、ポリネシア人で、9世紀ごろとされ、現在、マオリ族と言われている人々である。人口の14.9%を占めている。一方、大航海時代の17世紀半ばごろ欧州の白人の探検隊が足跡を残している。

1769~1770年には、ジェームス・クックが、エンデヴァー号で3度にわたって訪れ、英国人入植の糸口を作っている。現在、欧州白人(主に英国人)の占める人口は74%で、その他アジア系人が10%超である由。

統計上、NZの面積約26,9万 km2、人口4,693,000万(2016)、人口密度17.5人/km2。一方、日本は、約37,8万km2、127,110,347人 (’15.10)で人口密度336人/km2。
山岳地の占める割合は日本:約70%、NZ:約30%(筆者推定) を考慮するなら、可住・耕作面積当たり人口密度の開きはさらに大きくなる。

なお、日本・NZともに、太平洋造山帯に属していて、地震が多く、温泉の湧出が豊富で、気候条件も含めて、保養に適した国である点、共通しているようである。

以下、NZ旅行の印象を点描していくことにします。

オークランドからバスで235 km、南東に下るとロトルア。その郊外に森林浴を楽しめる森、レッドウッド・フォレストがあり、約30分間散策する(写真1)。高さ4, 50m超のレッドウッド(セコイア杉)が真っ直ぐ天に向かって延び、林立する森である。

写真1

大樹は、樹幹から推して樹齢千年前後かと思われる。この木々の間を透かして見ると、大小さまざまな“木性シダ”の群生が見られる(写真2)。写真3は、他の原生林中に群生した“木性シダ”である。このような“木性シダ”の群生は、NZの至るところの原生林中で見られる風景である。

写真2

写真3

この“木性シダ”は、別名“銀シダsilver fern”と呼ばれていて、NZを代表する植物とされています。葉の表面は緑色であるが、裏が白(銀)色であることから“銀シダ”と呼ばれている。ただ、筆者は、実際に裏の白色を確認していませんが。

現在は、この枝・葉が図章化されて、NZ国を表す象徴として使われている。例えば、NZ航空の機体後方の絵(写真4)、ラグビーのオール・ブラックスの象徴などがそうである。記憶がやや薄れつつあるが、この図章を国旗に と提案されて、国民投票の結果、否決されるということがあった(1998)。

写真4

なお、NZ航空機体尾翼の絵柄は、メリノ種雄羊の角を基にしたデザインの様である(写真5)。

写真5

“木性シダ”について。シダ類の植物は、幹部分の組織に、横方向に太く“成長”する機能がないとのこと。“銀シダ”では、成長するにつれて、生来の“幹”の表面に“根”が重なり、蓄積されていき、一見、太い“木”に見えているのであると。“木性”の冠語が付けられている理由である。

なお、古来、マオリ族の人々は、その葉に“聖なるもの”を感じて、信仰の対象として扱っていた由である。

ロトルアからバスで155km西にワイトモの街があり、その郊外にワイトモ鍾乳洞がある。山口県の秋芳鍾乳洞と比較すると特徴が解りやすい。秋芳鍾乳洞では、天井が比較的低く、洞内が横に広がり、池を思わせる水溜まりもある。一方、ワイトモ鍾乳洞は、三角屋根の屋根裏のようで、上下、縦方向に広がり、横幅は比較的に狭い。

想像を逞しくして、切り立った2枚の石灰質の岩盤が、地殻変動により、その天辺部分でくっついて、その間にできた三角屋根状の空洞内の天井部分に鍾乳石が蓄積していったものと考えるとピッタリと来る。

山の中腹にある入口から入り、電光で明るく照らされた洞内を上り下りしながら進む。壁面には、縦長の裂けた、鋭い縁の岩石が乱立しているように見える。ある処では、尖塔のある教会、またある処ではパイプ・オルガン….と目を楽しませてくれる。

写真6は、この鍾乳洞の出口部分の写真である。この写真で、乳房状の鍾乳石の先端や壁面から、太さ1 mm前後、長さ10~30 cmほどの紐が無数にぶら下がっている様子を想像して頂きたい。そのような特徴的な風景も目に付くのである。

写真6

さらに進み、下りの階段を10数m下ると、真っ暗闇の中で、懐中電灯の微かな光で、川淵にいることを知らされる。その川に浮かべたボートに乗って静かに進みつつ、天を仰ぎ見ると、満天に無数の星が散っているように見える (写真7)。

写真7

この写真では平面的で、左程に感興の湧く風景ではない。先述のように、洞内構造は、三角屋根状で、立体的に、天空部分が深く奥まっている。天を仰ぐと、奥まった屋根の頂き部分では、はるか彼方の宇宙から幾光年も経て届いた星々の光を想像させ、神秘的な空間となるのである。

天を仰ぎ、約10分前後、(と想像するが?)、異空間に身を置いて、時空を忘れて、やがて山裾の明るい出口に至り、我を取り戻すのである。

この光は、邦名“土ボタル”、正式名はglowworm (光を発する虫)と呼ばれる“虫”が発するもので、この鍾乳洞を世界的に有名にしている、最も特徴的な風景にしている。

この“土ボタル”だが、大きさ、形状ともに“蚊”に似た“虫”という。暗闇で光を発し、他の虫類をおびき寄せ、捉えて御馳走とする と。先にご想像頂いた“ひも状”のものは、他の虫類を捕らえる“装置”で、ちょうど蜘蛛が巣を張って飛んでくる虫を捕らえるのに似ている と。

なお、洞内、特に、“土ボタル”の鑑賞に当たっては、静粛を保ち、また写真撮影は禁止である。本稿“土ボタル”の写真は、観光用資料の部分コピーである。

ロトルアからNZ航空機で南島のクライストチャーチへ、さらにバスでマウントクックに移動(330 km)。筆者にとっては、この旅のクライマックスを迎えることになる。

通称クック山、正式名称はAoraki/Mount Cook(アオラキ・クック山)の由。Aoraki(アオラキ)は、マウリ語で、「雲の峰 / 雲を突き抜ける峰」という意味であると言われている。クック山は、NZ探検を行った英人James Cookに因んだ名称である。

南島を縦に南アルプスが走っており、その最高峰がアオラキ・クック山で、標高3,724 m、富士山より54 m 低いことになる。この山容も、富士山に劣らず麗しい姿である。

写真8では、碧天の下、雲を突き抜けている姿を捕らえることができました。また夕日に映えるその姿(写真9)も秀麗である。雨天の日が多いと言われるNZで、その秀麗な姿を真近に望むことができ、鳥肌の立つ思いであった。

写真8

写真9

写真10は、その壁面に残る氷河を示しています。写真中央部、右下および左上の方向の崖状の箇所が、やや緑を帯びた青色で透き通るような色を呈しています。氷河の部分です。

写真10

アオラキ・クック山の全容を望まんものと、ケア・ポイント(Kea Point)を目指してトレッキング。写真8および11は、そのコースの様子です。ホテルから出発点まではバスで移動し(写真8)、以後は、大きな岩石がゴロゴロと転がる歩道(写真11)を進みます。

写真11

写真8および11で、谷間の形状は、盆地状で、山また山の間をクネクネと蛇行している様子が伺えます。すなわちU字型の谷間であり、氷河の流れで形成された川床である。大きな岩石は、氷河によって運ばれてきて、置き去りにされたものである と。

通常、水流により形成された渓谷は、水流が狭い幅で、より鋭くまた深く大地を抉っていく結果、V字型の谷間となる。氷河の流れで形成された盆地状のU字谷は、NZの土地を特徴付けるkeywordと言えるようである。

山の麓で、U字谷が堰き止められてできた氷河湖は圧巻である。写真12および13はその一つデカポ湖で、遥か先にアオラキ・クック山が望めます。湖水の独特の柔らかい色合いは、水に含まれる岩粉による太陽光の反射の結果である と。

写真12

写真13で手前湖岸の紫色の花はルピナスです。この辺りの国道沿いでは色鮮やかに咲かせた姿がバスの窓越しにもよく見られ“ルピナス街道”と呼ばれているようです。ただ、これは外来植物で、繁殖力旺盛なため、駆逐するのに苦労している由である。(つづく)

写真13

今回の点描は、下記律詩の前半4句に該当しています。漢詩の内容が、“総天然色の静・動画”としてイメージ頂けるなら、本望とするところであります が。

xxxxxxxx
・完整新西蘭 八天游  完整(カンセイ)新西蘭(シンシ-ラン) 八天(ハチニチ)の游(タビ)
碧落雲浮羊歯繁,  碧落(ヘキラク) 雲浮いて 羊歯(シダ)繁る,
群星閃爍岩穴暗。  群星(グンセイ)閃爍(センシャク)す 岩穴(ガンケツ)暗し。
摩天頂雪奥拉基,  摩天(マテン) 雪を頂く 奥拉基(アオラキ),
山脚蓝绿氷水満。  山脚 蓝绿(ランリョク) 氷水(ヒョウスイ)満つ。
遼闊草原羊牛歇,  遼闊(リョウカツ)草原 羊牛歇(ヤス)む,
峡湾绝壁海豚玩。  峡湾(キョウワン)绝壁 海豚(カイトン)玩(アソ)ぶ。
忘飛山鳥無虎豹,  飛ぶを忘れし山鳥 虎豹(コヒヨウ) 無し
基啊噢啦新西兰。  基啊噢啦(キア オラ) 新西兰。

註]
・新西蘭:New Zealand (NZ) の漢字表記
・羊歯:ここでは‘銀シダ’のこと。‘銀シダ’は、NZ特有の”木性”のシダで、葉の裏が白(銀)色である。NZ Air機の胴体やラグビー・チーム、オール・ブラックスのシンボル図は‘銀シダ’の葉を表徴したもの。
・岩穴:鍾乳洞のこと。暗く広い洞窟内には‘土ホタル’が生息していて、満天の下 星が煌くように見える。
・奥拉基:マウリ語でクック山のこと。同山の公式名称は‘アオラギ・クック山’
・氷水:氷河によりできた U字谷で、氷河解けの水で出来た氷河湖の湖水で、ターコイド・ブルーを呈している。
・峡湾:フィヨルド、U字谷に海水が侵入してできた湾
・基啊噢啦:Kia Ora(キア オ-ラ);マウリ語で‘こんにちは’を意味する挨拶語。明るく、おおらかに響き、この一言で心が和む。

<現代語訳>
  まるごとニュージーランド 8日間
碧天に白雲が浮き、地上にはNZを代表する銀シダの木が茂る、
暗い鍾乳洞の洞窟内では、満天‘土ホタル’の星が降るように煌いている。
雪を頂くアオラギ・クック山の尖頂は、天に突き刺さらんばかりに、
山裾の氷河湖にはターコイド・ブルーの水が満ちている。
果てしなく広がる緑の牧野には羊や牛の群れが草を食み、また休んでおり、
フィヨルドの湾内では、イルカが遠泳を楽しんでいるようだ。
虎や豹など天敵のいない島、飛ぶことを忘れた鳥が餌を請うて近寄ってくる、
キア オ-ラ と、明るく挨拶を交わす、空気や好しニュージーランドである。
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閑話休題57ドラマの中の漢詩 38『宮廷女官―若曦』-26

2017-12-01 17:12:45 | 漢詩を読む
今回は、第十三皇子の思い人、緑蕪の生涯が主題です。南宋時代の女流詩人で官妓の厳蕊(ゲン ズイ)が、詞「卜算子」に描いた自らの生涯に、緑蕪の生涯が、驚くほどに重なることが注意を引きます。

あっという間の政変劇でした。第四皇子は、帝位に登りました。雍正帝として新しい国家秩序の形成に心血を注ぐ毎日・夜です。平穏に見えて、巷間、疑念はくすぶり、何時“内乱が”起こらないとも限らない状況にあるようです。

第十三皇子は、軟禁を解かれ、怡(イ)親王に昇格しました。新帝は、怡親王を招き、若曦とともに食卓を囲む機会を作った。しかし怡親王は、居住まい正しく、恐縮した振る舞いに終始して、早々に“公務がある”と箸を置いて、帰ります。

新帝は、“帝王への尊敬と畏怖の念は必要だが、他人行儀であって欲しくない。昔の兄弟のようなままであって欲しいのに”と寂しげに語る。若曦は、“10年も軟禁されていて、急な変化に戸惑いを感ずるでしょう。焦らずに….“と慰めます。

怡親王は、王府に帰ると、帳簿を精査する公務に忙しい毎日です。傍には、緑蕪が仕えていて、多忙な中にも幸せ一杯の日常を送っているようです。「二度とお前に肩身の狭い思いはさせない。側福晋として賜るよう帝に計るつもりである」と。

緑蕪は、「私は身分が欲しいのではありません。あなたの傍にいるだけで幸せです」と、胸を合わせる緑蕪の表情は、本当に幸せそうでした。

幾日か経って、帝の執務室に、怡親王が“火急の用だ!”と、慌てて飛び込んで来た。何事かと問えば、「緑蕪が、承歓をおいて、書置きを残して王府を出て行った。都を出ることを許して頂きたい」と、早口に告げる。

新帝は、否応なく許可するとともに、軍で捜索するよう隆科多(ロンコド)に命ずる。若曦は似顔絵の複製を作成して、捜索活動を援ける。怡親王の一団は、馬を飛ばして、街中、山中を問わず、「緑蕪!緑蕪!…」と叫びながら捜索を続けます。

書置きには、「王府の生活に馴染めず、故郷に戻るので、捜してくれるな」と書いてあった由。王府内の‘女の諍い’の犠牲になったようです。

ある日、緑蕪は娘の承歓と、庭で走り回って楽しそうに遊んでいた。そこに嫡福晋と側副晋が通りかかり、嫡福晋が、“旦那のためにお参りに行くので、承歓を連れて行きたい”と誘う。未だ5,6歳の承歓は、「市ではサンザシが食べられる」と喜んだ。

側福晋が、「他の子供たちは茶菓子を好むのに。母親の素性を考えれば仕方ないのね。妓楼で長年生きていれば、染みついた卑しさは消えないもの」と。嫡福晋は、「口が過ぎるわよ!」とたしなめつつ、承歓を連れてその場を離れます。側福晋は、緑蕪の耳元でそっと、「親王だけでなく、承歓まで陰口を言われてもよいの?」と。

緑蕪は、“愛する人のためにも、自分が傍にいてはいけない”と決意して、霧の立ち込める湖に身を投じたのでした。遺体は見つかり、その報告を受けた新帝は、「そのことは周りに漏らしてはならない、特に怡親王には」と念を押します。

怡親王は、捜索を続けるが、緑蕪を探し当てることができず、アヘンと酒浸りの毎日を過ごしています。新帝も心を痛めており、“怡親王を説得できるのは若曦しかいない”と若曦に説得するよう頼みます。

怡親王を訪ねた若曦は、昔同様、隣り合って腰かけて、ともに徳利を傾けます。若曦は、“かつて緑蕪から書状を頂いた。書状には“緑蕪の生まれ故郷は、浙江省烏程(ウテイ)である”と認められていた と告げた。次いで「私の話を聞いて、緑蕪から聞いた話よ」と次のような話をした。

「先帝が即位した時、烏程では国を揺るがす大事件‘明史事件’が起きています。それに関与した者はその家族を含めてすべて罪に問われて、処刑、流刑、牢獄刑などの処罰を受けた。その折、緑蕪の家族も離散したそうです。」

「緑蕪がここで10年も苦しみを共にしたのが愛のためなら、こうして去って行ったのも孝行のためでしょう。緑蕪を思うなら、責めないであげて、どこかの地で静かに過ごさせてあげましょう」と。

懐から封書を出して、そっと怡親王の傍に置きます。若曦は、立ち上がって、“自由の身となれば、往年には戻らじ、山花を髪に飾れるなら、行く先は聞かざるべし”(厳蕊:卜算子)と、口ずさみながら帰っていきます。

若曦は、“怡親王も捜索を諦め、元気になるはずです”と新帝に報告する。新帝は驚き、「どんな手を使ったのか?」と。若曦は、「嘘をついたの、行く途中に閃いて、‘明史事件’について言い聞かせたのです」と。

新帝は、「実は、怡親王から‘緑蕪を側副晋に’との上奏を受けていて、慣例によって身元を調べました。確かに緑蕪はあの事件の罪人の娘でした」と、驚きを隠さない。若曦の作り話は史実であったということです。

さて先に若曦が口ずさんだ“自由の身となれば、…..”(厳蕊 卜算子)について見ていきます。詞は末尾に挙げました。“自由の身となれば、…..”は、この詞の後半四句に相当する部分です。

ドラマ展開との関連を見る前に、作者厳蕊について触れます。厳蕊は、南宋の孝宗淳熙年間(1174 -1189)の人で、彩色兼備の世によく知られた官妓の様です。当時、政官界では官僚の腐敗が著しく、官僚が弾劾を受けていた。

儒学者の朱熹は政治的手腕が買われて、xx茶塩公事に任命されていた。朱熹は、積極的に弾劾を行い、特に、1182年7月から始まる台州(現浙江省臨海市)知事唐仲友への弾劾は、年月が明記されるほどに、激しかったようです。

その弾劾の罪状の一つに、唐仲友と厳蕊との不倫関係が挙げられていた。それは事実無根でしたが、朱熹は、供述を取るために、今にも死ぬほどに、厳蕊に拷問をかけた。しかし厳蕊は、‘例え死すとも屈せず’と否認を貫いた。

後になって、朱熹の非が明らかとなり、逆に朱熹が、“為害風教(風教に害を為した)など”六大罪の廉で追われる結果となった。唐仲友、厳蕊ともに疑いは晴れ、また厳蕊は、身受けされて、妓の勤めから身を引くことができた。

朱熹が、特に、唐仲友を弾劾した理由について、詳細は不明のようであるが、当時、唐仲友の‘永康学派’が‘朱熹理学’を批判したことが挙げられている。つまり、‘学派’間の争いの一端であったようです。

さて、ドラマの展開と詞中の厳蕊とを並べて見ますと、いずれも、“好き好んで風塵(芸妓)”となったわけではないことから始まり、遂には“花いっぱいの自由の身”となって表舞台から姿を消す。見事な符合ではないでしょうか。(第26、27話)

xxxxxxxxxx
・卜算子       卜算子(ボクサンシ)   厳蕊 (ゲン ズイ)
不是愛風塵, 風塵(フウジン)を愛(コノ)むに是(ア)らず,
似被前緣誤。 前緣(ゼンエン)に被(ヨ)り誤るに似たり。
花落花開自有時, 花落ち花開くに自(オノ)ずから時有り,
總賴東君主。 總て東(トウ)の君主に賴る。 
去也終須去, 去るは 終須(ケッキョク)は去り,
住也如何住。 住(トト) まるは 如何(ナンシテ)も住まる。
若得山花插滿頭, 若(モ)し山花を得て頭滿(イッパイ)に插していても,
莫問奴歸處。 奴(ワタシ)の歸處を問う莫(ナカ)れ。
  註] ・卜算子:詞牌の名、詞の内容とは直接関係ない
・・・・・風塵:さすらいの身、ここでは‘芸妓の身’ともとれる
・・・・・東:主人:昔、席に着く時、主人は東側、客は西側に座ったことから。
・・・・・東の君主:ここでは、天の神様みたいな存在か、運命
<現代語訳>
・卜算子
好き好んでさすらいの身になっているわけではありません、
前縁があって、誤ってこのような事態になっています。
花は落ちても、時が至れば自ずからまた開きます、
すべては運命のなすことです。
去ると思えば、遂には去り、
留まると思えば、何としても留まります。
もし山の花を髪一杯に挿しているのを見ても、
私の帰らんとする所を問うのは控えて下さい。
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