愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題325 飛蓬-178  尋ねても 誰にか問わむ 三代将軍 源実朝

2023-03-27 09:23:41 | 漢詩を読む

故郷を離れて旅にあり、時経て再び故郷に足を運んだとすると、一体、誰に昔語りの種を求めたものか。花は年年歳歳、変わらずに咲いているとしても、昔語りの相手役を果たしてくれることはなかろう と。

 

すなわち、“浦島太郎”を思わせる現代版の話題と言える。この話題に通底する歌は、古くからあり、実朝が恐らくは参考にしたであろうとされる歌が挙げられている。後に触れます。

 

ooooooooo 

  故郷花 

尋ねても 誰にか問わむ 故郷の 

  花も昔の あるじにならねば   (金槐集 春・62) 

 (大意) 故郷に訪ねていったとしても 誰に声をかけたらよいものか 

  今咲いている花も昔の主にはなれないのだ。  

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

   故鄉花      故鄉の花   [下平声十一尤韻]

欲訪故鄉遊, 故鄉を訪ね 遊ばんと欲すも,

如今問無由。 如今(ジヨコン) 問うに由(ヨシ)無し。

比方花旺盛, 比方(タトイ) 花 旺盛(オウセイ)なりとても,

不能為老頭。 老頭に為(ナ)る能(アタ)わず。

 註] 〇如今:当今、いまごろ; 〇比方:たとえ; 〇老頭:年寄り、

  昔の主。  

<現代語訳> 

  故郷の花 

故郷を尋ね、ゆっくりしたいと思うのだが、

近頃 誰を尋ねたものか 当てもない。

たとえ花は満開に咲いていたとしても、

昔色々と教わった主のお年寄りにはなれないのだ。

<簡体字およびピンイン> 

   故郷花      Gùxiāng huā  

欲访故乡游,Yù fǎng gùxiāng yóu,  

如今问无由。rújīn wèn wú yóu

比方花旺盛,Bǐfāng huā wàngshèng, 

不能为老头。bù néng wéi lǎotóu.   

ooooooooo 

 

故郷を思い出す縁として、美しく咲き誇る花、花、……なのであるが、花は昔語りのできる相手ではないのだ と。前回紹介した定家の「見渡せば 花も紅葉もなかりけり ……」の歌を思い出させる歌である。

 

この歌を詠むに当たって、実朝が参考にしたのではないかとして、次の二首が挙げられている(『山家集・金槐和歌集』(日本古典文学大系))。いずれも『百人一首』に撰されている。それらの歌の背景などの概要および漢詩については、拙著『こころの詩(うた) 漢詩で詠む百人一首』をご参照頂きたい。

 

誰をかも 知る人にせむ 高砂の 

  松も昔の 友ならなくに 

        (藤原興風 古今集 雑上 909; 百人一首 34番) 

 (大意) 年老いた今、誰と友情を結んだらよいであろうか、古い親友たちは 

  すでに亡くなった。高砂の松は、寿命が永く、未だに青青としているとは 

  言え、昔から心が通じ合う友ではなかったのだ。  

 

人はいざ こころも知らず ふるさとは 

  花ぞ昔の 香ににほひける 

         (紀貫之 古今集 春上・42 ;百人一首 35番)  

 (大意) あなたの心の内など知る由もないが、それはさておき、ここは私の 

  心の故郷、梅花は庭いっぱい仄かな香りを漂わせて、私を喜んで迎えて 

  くれている。この梅同様、私に心変わりはありませんよ。

  (注) 久しぶりに訪ねた宿屋の(女?)主人から、「心変わりしたのでは」と 

  責められて、それに対する返歌である。 

 

歌人・実朝の誕生 (19) 

 

実朝から「歌はどのように詠んだらいいものか」と問われて、定家が実朝に贈った『近代秀歌』、その概要を見てみます。但し、以下は、門外漢の域を出ない筆者の感想文とご理解頂き、その詳細は、藤平春男 校注・訳 『歌論集』(日本古典文学全集、小学館 刊)をご参照頂きたい。

 

『近代秀歌』の構成は、[歌論]、[秀歌例(八大集撰抄)] 83首および[秀歌例(近代六歌仙)] 26首を例示している。”近代六歌仙”として挙げられた歌人は、大納言(源)経信、源俊頼朝臣、左京太夫(藤原)顕輔、藤原清輔朝臣、皇太后大夫(藤原)俊成および藤原基俊で、いずれも百人一首歌人である。 

 

[歌論]の部は、(一)前文、 (二)和歌史批判、(三)自分の立場、(四)作歌の原理と方法、および(五)付言から成る。それらの中で、本稿に最も関係が深く、且つ実朝の歌を理解する上で重要と思える「作歌の原理と方法」の一部分について、藤平春男著から抜き書きさせてもらいます。

 

『歌に用いる詞は古典的歌語を尊重し、表現内容は未だ詠まれていない世界をとらえようとし、卓越した理想的表現を求めて、宇多朝以前の歌風を学ぼうとするならば、自然と秀歌が生まれると言うこともないわけではありません。

 

古典語を理想とするということから、古歌の歌詞をそのままに新しい歌の中に詠みこんで定着せしめる表現方法を、即ち「本歌とする」と申します。その本歌について考えてみますと、………』。以下、古典語を詠みこむ際の注意すべき点があげられています。

 

実朝の天賦の歌才に加わるに、「鬼に金棒」とも言える、源光行による『蒙求和歌』・『百詠和歌』等を参考にした「句題和歌」等の技法、さらに定家の『近代秀歌』にみる「本歌取り」の技法が伝授され、歌人・実朝の歌風確立が多いに促されたものと推察されます。

 

本稿でも、実朝の「本歌取り」技法の応用例は、今回の上記例を含め、参考とされたであろう先人の歌が、度々「本歌」として挙げられてきました。斯様に、「本歌取り」の作歌法は、実朝の歌の重要な特徴とされております。

 

実朝は、当初、素朴な感動を詠う「万葉調」歌人と評価されていたが、近年「新古今集」の影響も大きいことが指摘されてきている。学習初期の源光行および完成期の藤原定家の薫陶が如何に大であったか、頷けるようである。

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閑話休題324 飛蓬-177  天の原 ふりさけみれば 三代将軍 源実朝

2023-03-20 10:01:17 | 漢詩を読む

“天の原 ふりさけみれば”の句は、万葉集に多くみられるという。最も身近に感じられるのは、遣唐使・阿部仲麿の歌で、百人一首にも撰されている歌が思い出されます。本歌は、一種の“本歌取り”の歌と言えようか。

 

実朝の歌では、澄み切った秋の夜空に皓皓と輝く月光の下、清澄な空気感に浸りつゝ、何事か思いに耽っていて、時の経つのを忘れ、気がつくと随分と夜も更けていることだよ と我に返った所を詠っているように思われる。

 

ooooooooooooo 

  [詞書] 月歌とて 

天の原 ふりさけみれば 月きよみ

  秋の夜いたく 更けにけるかな 

          (金槐集 秋・210; 新拾遺集 巻五 秋下 425) 

 (大意) 大空を仰ぎ見れば、月がさやかに照っていて、秋の夜がひどく

  更けてしまっているよ。

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<漢詩> 

  清澄月夜    清澄(セイチョウ)な月夜  [下平声八庚韻] 

仰望長天眼界清, 長天(チョウテン)を仰望(ギョウボウ)すれば 眼界(ガンカイ)清く,

月輪皓皓露晶晶。 月輪(ゲツリン)皓皓(コウコウ)として露 晶晶(ショウショウ)たり。

無声氣爽月光徹, 声無く 氣 爽やかにして月光徹(トオ)る,

知是素秋已深更。 知る是(コ)れ 素秋(ソシュウ) 已(スデ)に深更(シンコウ)。

 註] 〇仰望:仰ぎ見ること; ○長天:果てしなく広い空; ○眼界:視界; 

  〇月輪:まるい月; 〇皓皓:清く明らかなさま; 〇晶晶:きらきら輝

   くさま; 〇徹:射る、突き刺す; 〇素秋:秋。

<現代語訳> 

  澄んだ秋月夜 

澄み切った大空をふりさけ見れば視界は澄んで、

円い月は皓皓として輝き、草葉に置く露滴がキラキラと輝いている。

物音一切なく、外気は爽やかにして、月光が射しており、

秋の季節、すでに夜更けの頃であるよ。

<簡体字およびピンイン> 

   清澄秋月夜     Qīng chéng qiū yuè yè 

仰望长天眼界清, Yǎngwàng cháng tiān yǎnjiè qīng,  

月轮皓皓露晶晶。 yuè lún hào hào lù jīng jīng.

无声气爽月光彻, Wú shēng qì shuǎng yuèguāng chè,   

知是素秋已深更。 zhī shì sùqiū yǐ shēn gēng.

ooooooooooooo 

 

歌人・実朝の誕生 (18) 

 

歌人・実朝 総仕上げの師と言える藤原定家(1162~1239)の生涯を概観しておきます。定家は、和歌史における一時期を画した偉人の一人と言えよう。歌人・俊成の次男で、16歳の頃、和歌の学習を始めたようである。

 

20歳時(1181年)、『初学百首』、翌年、父の命により『堀河題百首』を詠んでいる。その折、両親は、息子の歌才を確信して感涙したという。なお、当時、歌百首を詠ずることが歌人としての出発宣言の意味もあったようである。

 

1186年(25歳)、西行法師の勧進により、伊勢神宮に奉納するために詠まれた歌集『二見浦百首』ができた。その中の一首に、定家作の次の歌がある。この歌は『新古今集』にも撰されている。

 

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 

  浦の苫(トマ)屋の 秋の夕暮れ    (新古今集 秋上・363)

 (大意) 見渡してみると、美しく咲く花も見事な紅葉もない。海辺の粗末 

  な苫葺きの小屋だけが目に映る、秋の夕暮れであるよ。 

 

秋の夕暮れの寂寞とした情趣を詠ったものであるが、まず美しい情景を提示し、後にそれらを否定することにより、一層侘しさが強調されている。平安時代、和歌の常識が、美しい花鳥風月を見たままを中心に詠むことが当然であったが、それを否定しており、定家・新風提示の歌と言えます。 

 

その頃から、定家は、九条家に家司(ケイシ、家政の事務を司った職)として仕え、良経を中心に九条家歌壇で俊成、慈円、寂蓮、西行等々と交わり、活発に作歌活動を展開し、徐々に仲間も増え、新風も輪を広げていきます。

 

一方、後鳥羽院が和歌に執心するようになり、1200年、定家を含む23名に百首の詠歌を命じられた。以後、定家は、院の愛顧を承けるようになり、宮廷歌壇を中心に定家の歌風が世に受け入れられるようになっていく。

 

更に後鳥羽院は、定家を宮廷歌壇の首位に抜擢するに至ります。翌年、院は『新古今集』の編纂を下命し、定家も撰者の一人に撰ばれた。異端児から歌壇の権威へと躍り出ることになります。

 

その頃、将軍実朝との交流が始まり、1205年には未公開の『新古今集』を実朝に献上、1209年、実朝は歌30首定家に送る。一方、定家は『近代秀歌』を献上している。1213年には実朝の『金槐和歌集』が成立している。

 

1220年(59歳)、内裏歌会に提出した定家の歌が後鳥羽院の怒りに触れ、勅勘を被って、公の出座・出詠を禁ぜられる。異端児から歌壇の中心歌人へと 抜擢した院と袂を分かつことになった。

 

しかし1221年、承久の乱が勃発、院は隠岐に流刑となる。一方、院と袂を分かち謹慎していた定家は、西園寺家や九条家の引き立てによって、再び歌人として活動できるようになった。

 

1232年(71歳)、後堀河天皇の命で『新勅撰和歌集』を 一人で3年かけて編集。また1235年、宇都宮頼綱の求めにより嵯峨中印山荘の障子色紙形(小倉色紙)、後の「小倉百人一首」を撰している。後鳥羽院の崩御(1239) 2年後、80歳で薨御した。

 

定家は、六条家など旧派の歌人たちから「ヘンな歌を詠む」異端児とされ、その歌風は大論争を巻き起こした。さらに定家は、『源氏物語』や『白氏文集』などの古典に学び、想いを得て作る「本歌取り」の技法を確立した。

 

後世、定家は、巧緻・難解、耽美主義的・夢幻的で、代表的な新古今調の歌人と評されるようになる。著・編書には、2勅撰和歌集の撰進の他、秀歌撰、歌論書、家集、また『源氏物語』他古典の書写・注釈などがある。

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閑話休題323 飛蓬-176  塔を組み 堂をつくるも 三代将軍 源実朝

2023-03-13 09:29:40 | 漢詩を読む

高々と幾重もの塔を建て、煌びやかな社を造ったとて、功徳にはなりませんよ と。外形・見栄えよりは、心が大切です ということでしょうか。かなり厳しい内容の歌に思える。実朝の率直・純真な想いであろうと推察します。

 

漢詩化に当たって、五言にせよ、七言にせよ、絶句の形には整えることができませんでした。思い切って 自由詩としました。

 

ooooooooo 

 懺悔歌 

塔を組み 堂をつくるも 人なげき

  懺悔にまさる 功徳やはある  (金槐集 雑・616) 

 (大意) 立派な塔を組み 絢爛たる社を築くのは、人の難儀の元となる、懺悔

  にまさる功徳があろうか。

  註] 〇人なげき:人の難儀となる; 〇懺悔:神仏の前で罪悪を告白し悔

    い改めること。 

xxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 懺悔歌     懺悔(ザンゲ)の歌  

建嶄嶄塔,   嶄嶄(ザンザン)たる塔を建て, 

築煌煌堂。   煌煌(コウコウ)たる堂を築く。 

此自因麻煩,  此れ自ずから麻煩(メイワク)の因(モト), 

孰能終担負。  孰(タレ)か能(ヨ)く 終(ツイ)には担負(タンフ)せんか。 

応知宿心行功德,応(マサ)に知るべし 功德を行(ナ)さんとの宿心(シュクシン),  

不比懺悔任何事。懺悔に比(ヒ)するものなし 任何事(ナニゴト)にせよ。 

 註] ○嶄嶄:高く、威儀の立派なさま; 〇煌煌:キラキラと輝くさま; 

    〇麻煩:難儀なこと; 〇孰:誰か; 〇担負:負担する; 〇宿心:兼

    ねがね胸に抱いていた思い; 〇任何:いかなる、どんな。 

<現代語訳>

 懺悔の歌 

立派な高塔を建て、

煌びやかな堂を築く。

これは 迷惑なことであり、

終には誰かが難儀を背負うことになる。 

初心の功徳を施そうと思うなら、

懺悔に勝るものはない、何事を為そうとも。

<簡体字およびピンイン> 

 忏悔歌     Chànhuǐ gē 

建崭崭塔,      Jiàn zhǎn zhǎn tǎ,

筑煌煌堂。      zhú huáng huáng táng.

此自因麻烦,    Cǐ zì yīn máfan,

孰能终担负。    shú néng zhōng dānfù.

应知宿心行功德,Yīng zhī sù xīn xíng gōngdé, 

不比忏悔任何事。bù bǐ chànhuǐ rènhé shì. 

xxxxxxxxxxx 

 

上掲の歌がいつ頃詠われたか定かではないが、実朝は“こころ”、“こころ”……と、頑なに唱えて実践していたわけではない。後年、大慈寺(大倉新御堂)の建立、その総門に安置するための金剛力士像の建造、途絶えていた二所詣での復活等々、信心深い面の活動が実践されています。

 

大慈寺は、後鳥羽上皇への恩、父・頼朝の徳を称えるために発起、建立されたもので、その供養は、禅僧・栄西の導師で盛大に執り行われている (1214年7月27日)。七堂伽藍を備えた壮大な寺院であったようである。江戸時代に廃寺された。

 

二所詣は、頼朝により始められ、その没後途絶えていたが、実朝が復活させた。その復活に当たって、実朝の心情を端的に示すエピソードが語られている。征夷大将軍に任じられた翌年、1204年1月18日の出来事である。

 

初度の二所詣である。実朝が年少であったため、実朝の代行として鶴岡八幡宮別当阿闍梨・尊暁、奉幣使に義時が当たり、代参することになった。その出発の際、尊暁は、従者を門外に待機させ、御所の南庭に控えていた。

 

実朝は、南の階段から庭に下り、伊豆、箱根、三島の方向に向って、それぞれ、7回づつ計21回、拝礼を行った と。実朝の純な心を想像させる事象であると思われる。尊暁、義時らの一行は、その後に出立した。

 

歌人・実朝の誕生 (17) 

 

歌人・実朝の総仕上げの師と言えよう、藤原定家との巡りあわせである。実朝と定家(または京都)との繋がりについて、『吾妻鏡』から点描しておきます。

 

1205(元久二)年(14歳)、「将軍家が十二首の和歌を詠んだ。」(4月12日)とある。内容は不明であるが、歌作りの端緒に着いた頃でしょう。内藤兵衛尉知親が、京都から下着して『新古今和歌集』を届けた(9月2日)。

 

知親は、在京の実朝近臣で、定家の門弟でもあり、以後も実朝-定家の連絡の役目を果たしている。なお、届けられた『新古今和歌集』は、上皇奉覧されたばかりで、未公開のものであった。

 

1209(承元三)年(18歳)、知親を使者として、実朝は、「夢の導きに従って、20首を住吉社に奉納」した。ついでに、これまでに詠んだ歌30首を定家に届けた(7月5日)。その折、実朝は、定家に歌に関する疑問点を何点か提示していた模様である。

 

同年8月13日、知親が京都から帰参。その折、実朝の歌に対する評価と詩歌の口伝書一巻を持ち帰った。この口伝書は、実朝のために書かれた詩歌の理論書で、今日『近代秀歌』として知られている。

 

1213(建歴三)年(22歳)、定家は、飛鳥井雅経を介して和歌の書物などを献上(8月17日)、また、やはり雅経を介して、相伝の私本『万葉集』を献上した(11月23日)。これに対して実朝は、「何物にも優る重宝である」と喜ばれた と。この頃には、雅経が、京都-鎌倉間の連絡役となっている。

 

同年8月17日、定家から雅経を介して「和歌文書」が届けられている。その内容は不明である。この頃までに定家に届けられた歌が纏められて、奥書に「建暦三年十二月十八日」とある『金塊和歌集』が編纂されている。

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閑話休題322 飛蓬-175   世の中は 鑑にうつる 三代将軍 源実朝

2023-03-06 09:28:26 | 漢詩を読む

日常、鏡に向かい自らの像(影)と対面しているのであるが、なんら不思議なことが起こっているわけではない。物理学的に満足な説明ができる現象なのである。しかしこの歌に対すると、一歩も、2歩も後退りすることを覚える。

 

表面的には難しい用語があるわけではなく、読むのに苦労する歌ではない。しかしその歌の真意は、仏教に触れる内容であり、非常に難しい歌である。漢詩では、“詞書”にある“中道観”について詠みこんだ。

 

ooooooooo 

  詞書] 大乗作中道観歌  

世の中は 鑑にうつる 影にあれや 

  あるにもあらず なきにもあらず (金槐集 雑・614) 

 (大意) 世の中は 鏡に映る、実体の無い像のようなものなのであろうか、

  “有る”のでもなく、かと言って、“無い”のでもない。  

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 中道観歌     中道観(ガン)の歌   [上平声七虞韻]

仏説中道途、 仏教 中道観の途を説く、

中與仮空殊。 中道観は仮(ケ)観や空観とは殊(コト)なる と。

世是鏡中影、 世は是(コ)れ鏡中の影ならんか、

非有亦非無。 有(アル)にも非(アラ゙)ず 亦(マタ) 無(ナキ)にも非ず。

 註] 〇仏:仏教; 〇中道:一方に偏らない考え方・やり方、中道観; 

  ○途:考え方; 〇仮空:“仮”は仮の姿(仮観)、“空”は実体はなく“空”で 

  あること(空観); 〇世:この世の中。  

<現代語訳> 

 中道観の歌 

仏教では、普遍で中正の道、中道観を説く、

中道観とは、仮の姿と すべて存在しない空と異なり 三観の一つ。

この世の中は、鏡に映った像であると言えようか、

実態があるわけでもなく、かと言って無いわけでもない。

<簡体字およびピンイン> 

 中道观歌       Zhōng dào guān gē

仏説中道途、 Fó shuō zhōng dào

中与仮空殊。 zhōng yǔ fǎn kōng shū

世是镜中影、 Shì shì jìng zhōng yǐng, 

非有亦非無。 fēi yǒu yì fēi

ooooooooo 

 

中道観とは、 「大乗の教えの中に三観がある。そのうち、“有”にも偏せず、“空”にも偏せぬ中道を観ずるのを中道観という。この歌はその中道観を説いたのである。」『山家集・金槐和歌集』 (日本古典文学大系 岩波書店 1971)の頭注の記載である。

 

驚かされるのは、掲歌を含めて、実朝が、宗教的内容、あるいは慈悲心の歌を少なからず詠っていることである。その面について、実朝の宗教、中でも仏教との関りを『吾妻鑑』から拾い、点描してみます。

実朝は、1203(建仁三)年9月15日、12歳、征夷大将軍の宣旨を受け、10月24日右兵衛佐に叙任された。翌25日、御所に荘厳房行勇を招き、法華経の講義を受け、12月1日には“法華八講”に参加している。法華八講とは、法華経8巻を一巻づつ最初から8回に分けて講義して称える法会である と。

 

1204年1月8日には、御所で真智房法橋を導師として、心経会(シンギョウエ)に臨んだ。心経会とは、禍を防ぎ福を招くため “般若心経”を読み、講義を聞くことである。

 

一方、儒教で重視される『孝経』について、源仲章(ナカアキラ)の指導で、“御読書始め”が行われたのは、1204年1月12日である。“御読書始め”とは、禁中、将軍家、公家などで、幼少の者がはじめて読書を行なう儀式で、書物は『御注孝経』が多く用いられた。

 

また和歌の学習に必要な『蒙求和歌』や『百詠和歌』が源光行によって用意されたのが、それぞれ、1204年7月及び10月である。すなわち、宗教行事への参加は、他の学問や和歌の学習に先立って行われていたのである。

 

庶民への眼差し、弱者への慈悲心を表す歌が少なからず作られている事実は、いわゆる政治的な意図を持つ“撫民”策としてではなく、上記の如き教育実践の結果によるものと思われ、実朝の純真さに根差していると言えようか。

 

歌人・実朝の誕生 (16) 

 

前回、『李嶠百二十詠』と『百詠和歌』の関係について述べました。以下、“嘉樹”のひとつ“桂”について、両著書の内容を例示します。下は、“桂”についての五言律詩である。読み下し文及び韻名は、参考までに筆者が付した。

 

これらの『李嶠百二十詠』の句は、庾信『周書』、王嘉『拾遺記』、屈原『楚辞』、作者?『世本』等に拠ったもののようである。律詩中、第4及び6句を対象にして詠まれた和歌は、『百詠和歌』に示した。

  

<『李嶠百二十詠』>   [下平声十一尤韻] 

桂 未植銀宮裏、 銀宮の裏(ウチ)に未だ植えられてなく、 

  寧移玉殿幽。 寧(ヤスラカ)に玉殿の幽(ユウ)に移す。 

  枝生無限月、 枝を生ず無限の月、 

  花満自然秋。 花 満(ミ)つる自然の秋。 

  侠客条為馬、 侠客(キョウキャク)は条(エダ)を馬と為(ナ)し、 

  仙人葉作舟。 仙人は葉を舟と作(ナ)す。 

  願君期道術、 願わくは 君 道術を期して、 

  攀折可淹留。 攀折(ヒキオ)り淹留(エンリュウ)す可し。 

 

<『百詠和歌』>  

“桂”:

花満自然秋 泰山の上に桂の林あり 秋を向かう事ごとに 花白く盛んなり。

 風かほる 春のにほいを みつる哉

   かつらの里の 秋の木ずえに  

仙人葉作舟 仙人かつらの葉の船にのれり。黄帝見浮葉。乃為船也。

 かつら河 木の葉の舟に さほ指して 

   波をわたるは 山おろしの風 

 

参考文献:栃尾武 偏『百詠和歌 注』(汲古書院)1993.04.01 

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