流刑の地 黄州に着いて後、貧窮の生活を強いられていたが、荒れ地を開墾し、自耕できる土地を得て農耕に精出している頃の蘇軾です。絶句《東披》では、農作業を終え、杖の助けを借りて、石ころ道を帰宅途中の様子でしょうか? 夕食後、息抜きの散歩の時間でしょうか?
荒れた土地の開墾には想像を超える苦労を伴ったことであろう。その模様は後述することとして、秋の収穫の喜びを念頭に置くからこそ、苦労も厭わず精も出るというもの。拙詩・《期望初收穫》では、初収穫を間近にした状況を想像し、蘇軾を励まし、応援する思いで書きました。
xxxxxxxxxxxxxx
<漢詩と読み下し文> [下平声八庚韻]
次韻蘇軾《東坡》 期望初收穫
黃穗碧空秋氣清, 黃いろの穗(イナホ) 碧(アオイ)空 秋氣 清し,
東坡犖确荷鋤行。 東坡(トウバ)の犖确(ラクカク) 鋤(クワ)を荷(ニ)なって行く。
流浪田家豈不苦、 流浪(ルロウ)の田家(デンカ) 豈(アニ)苦しからざらんや、
就知却喜搗稻声。 就(ヤガテ)知らん 却(カエ)って喜ぶ 稻(モミ)を搗(ツ)くの声を。
註] 黃穗:黄金色した稲穂; 東坡:流刑に遭った蘇軾が住んだ黄州の土地で、
蘇軾が名付けた; 犖确:石ころ道; 鋤:鍬、農機具; 田家:農家、農民;
搗:精米するために、臼(ウス)に入れた籾(モミ)を杵(キネ)で搗く、脱穀すること。
<現代語訳>
蘇軾《東披》に次韻す 初収穫への期待
爽やかな秋気に満ちた紺碧の空の下、たわわに実った黄金色の稲穂が微風に揺れている、
私は、鋤を肩にかけて 田んぼの草取りや整地のため 東坡の石ころ道を行く。
流刑に遭い、辿り着いた俄か農民にとって、農作業は苦しくないわけではないが、
初収穫を間近にして、やがて籾を搗く杵の音の響きが思われて、却って喜び一入である。
<簡体字およびピンイン>
次韵苏轼《东坡》 期望初收获
Cìyùn SūShì 《Dōng pō》 Qīwàng chū shōuhuò
黄穗碧空秋气清, Huáng suì bì kōng qiū qì qīng,
东坡犖确荷鋤行。 dōng pō luò què hè chú xíng.
流浪田家岂不苦、 Liúlàng tiánjiā qǐ bù kǔ,
就知却喜捣稻声。 jiù zhī què xǐ dǎo dào shēng.
xxxxxxxxxxxxxxx
ooooooooooooo
<蘇軾の詩>
東坡 東坡(トウバ) [下平声八庚韻]
雨洗東坡月色清, 雨は東坡(トバ)を洗うて 月色(ゲッショク)清し,
市人行尽野人行。 市人(シジン)行き尽くして 野人(ヤジン)行く。
莫嫌犖确坡頭路, 嫌(キラ)うこと莫(ナ)かれ 犖确(ラクカク)坡頭(ハトウ)の路(ミチ),
自愛鏗然曵杖声。 自ら愛す 鏗然(コウゼン)杖(ユエ)を曵(ヒ)くの声。
註] 市人:まちに住む人; 野人:田舎の人; 犖确:石ころだらけのさま;
鏗然:杖をつく音のさま; 曵杖:杖をつく。
<現代語訳>
東坡
雨は東坡を洗い、月の色は清らかに澄んでいる、
町の人はもう通らず、いなか暮らしの私だけが通る。
石ころだらけの堤の道をいやがってはいけない、
私はこつこつと杖をつく音がすきなのだ。
[石川忠久 『NHK文化セミナー 漢詩を読む 蘇東坡 1990』に拠る]
<簡体字およびピンイン>
東坡 Dōng pō
雨洗东坡月色清, Yǔ xǐ dōng pō yuè sè qīng,
市人行尽野人行。 shì rén xíng jǐn yě rén xíng.
莫嫌犖确坡头路, Mò xián luò què pō tóu lù,
自爱鏗然曵杖声。 zì 'ài kēngrán yè zhàng shēng.
ooooooooooooo
蘇軾には、掲詩・《東坡》とは別に、《東坡八首》の連作がある。《東坡八首》の長文の“序”中では、黄州に左遷された直後の蘇軾の生活状況が語られている。非常に赤裸々に語られているので、下にその邦訳・大意を挙げます。
// 《東坡八首》序 から
私は、黄州に来て2年、日々の生活に困窮を窮めていた。友人の馬正卿(バセイケイ)は、私が食べ物に乏しく窮しているのを知って、役所に掛け合い、郡中の元兵営の地であった土地、数十畝(下注参照)を借り受け、そこで耕作することができるようにしてくれた(1081)。
その土地は、長年荒れ放題で、雑草、瓦礫の場となっていて、その上、その歳は大干ばつであった。このような荒れ地を開墾する労たるや、筋力はほとんど力尽き果て、耒(スキ)を投げ捨てて、歎くこと頻りであった。
そこでここに詩を作り、自らその労をねぎらう次第である。来年の収穫が、この苦労を忘れさせてくれること 切に請い願いつつ。
[注] 現・中国:1畝=6.667アール; 1アール=100m2; 当時の面積単位は
不明であるが、数十畝とは、結構な広さのようである。//
蘇軾は、1079年暮れに流謫の命、翌年2月黄州に着任している。着任早々、お寺・定恵院(ジョウエイン)に住んでいたが、1年後 居を移し、あてがわれた新居を臨皋亭(リンコウテイ)と名付けた。また借り受けた耕地を“東坡”と名付け、自ら“東坡居士”と号した。
因みに“東坡”とは、東の堤 という意味である。曽て白楽天が江州から忠州(重慶)に移され、その郊外の東の堤(東坡)に手ずから桃李を植えて、その場を愛した と。これに倣ったものとされている。
掲詩・《東坡》では、例え“がらくた道”の田舎道とは言え、置かれた環境での生活を愛して止まない蘇軾の人柄がよく出た詩であるように思える。その心根を応援するべく、当詩に次韻して、「初収穫への期待」を書きました。
[追記] 前稿・閑話休題249に関し、{喜界島は“クレオパトラ アイランド”?}と、読者の方からコメントを戴いています。有難うございます。少々調べたので、ここに、以下概要をお伝えいたします。
[記] ペリー艦隊は、1854年、「日米和親条約」締結(3月)後、(太平洋を)琉球に向け南下、6月に喜界島―奄美大島間を通過した。その折、喜界島を“Bungalow island ”と名付けた と(ペリー著、金井圓訳『ペリー日本遠征記』)。
その8年ほど前(1846.05)、仏・サビーヌ号ゲラン艦長は、(東シナ海を)沖縄から長崎に向かう途中、「二つの小さな島で、円錐形、ともに無人。互いに接近してあり、火山性の形成物、噴火口がある。その南端は、北緯28°48‘、統計128°59’30”」、これらの島を”Kleopatra island”と名付けた と。(フォルカード著、中島昭子、小川早百合訳『幕末日仏交流記:フォルカード神父の琉球日記』?)
以上の記載から、”Kleopatra island”とは現・吐噶喇(トカラ)列島の“横当島・上の根島”である。“Bungalow island ”、 ”Kleopatra island”ともに、命名の根拠は不明である。ただ、後者については、関連は不明ですが、ゲラン艦隊には、艦船‘クレオパトラ号’が同道していたという。[『喜界町誌』および『国立国会図書館』調査報告書を参考にした。]
荒れた土地の開墾には想像を超える苦労を伴ったことであろう。その模様は後述することとして、秋の収穫の喜びを念頭に置くからこそ、苦労も厭わず精も出るというもの。拙詩・《期望初收穫》では、初収穫を間近にした状況を想像し、蘇軾を励まし、応援する思いで書きました。
xxxxxxxxxxxxxx
<漢詩と読み下し文> [下平声八庚韻]
次韻蘇軾《東坡》 期望初收穫
黃穗碧空秋氣清, 黃いろの穗(イナホ) 碧(アオイ)空 秋氣 清し,
東坡犖确荷鋤行。 東坡(トウバ)の犖确(ラクカク) 鋤(クワ)を荷(ニ)なって行く。
流浪田家豈不苦、 流浪(ルロウ)の田家(デンカ) 豈(アニ)苦しからざらんや、
就知却喜搗稻声。 就(ヤガテ)知らん 却(カエ)って喜ぶ 稻(モミ)を搗(ツ)くの声を。
註] 黃穗:黄金色した稲穂; 東坡:流刑に遭った蘇軾が住んだ黄州の土地で、
蘇軾が名付けた; 犖确:石ころ道; 鋤:鍬、農機具; 田家:農家、農民;
搗:精米するために、臼(ウス)に入れた籾(モミ)を杵(キネ)で搗く、脱穀すること。
<現代語訳>
蘇軾《東披》に次韻す 初収穫への期待
爽やかな秋気に満ちた紺碧の空の下、たわわに実った黄金色の稲穂が微風に揺れている、
私は、鋤を肩にかけて 田んぼの草取りや整地のため 東坡の石ころ道を行く。
流刑に遭い、辿り着いた俄か農民にとって、農作業は苦しくないわけではないが、
初収穫を間近にして、やがて籾を搗く杵の音の響きが思われて、却って喜び一入である。
<簡体字およびピンイン>
次韵苏轼《东坡》 期望初收获
Cìyùn SūShì 《Dōng pō》 Qīwàng chū shōuhuò
黄穗碧空秋气清, Huáng suì bì kōng qiū qì qīng,
东坡犖确荷鋤行。 dōng pō luò què hè chú xíng.
流浪田家岂不苦、 Liúlàng tiánjiā qǐ bù kǔ,
就知却喜捣稻声。 jiù zhī què xǐ dǎo dào shēng.
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<蘇軾の詩>
東坡 東坡(トウバ) [下平声八庚韻]
雨洗東坡月色清, 雨は東坡(トバ)を洗うて 月色(ゲッショク)清し,
市人行尽野人行。 市人(シジン)行き尽くして 野人(ヤジン)行く。
莫嫌犖确坡頭路, 嫌(キラ)うこと莫(ナ)かれ 犖确(ラクカク)坡頭(ハトウ)の路(ミチ),
自愛鏗然曵杖声。 自ら愛す 鏗然(コウゼン)杖(ユエ)を曵(ヒ)くの声。
註] 市人:まちに住む人; 野人:田舎の人; 犖确:石ころだらけのさま;
鏗然:杖をつく音のさま; 曵杖:杖をつく。
<現代語訳>
東坡
雨は東坡を洗い、月の色は清らかに澄んでいる、
町の人はもう通らず、いなか暮らしの私だけが通る。
石ころだらけの堤の道をいやがってはいけない、
私はこつこつと杖をつく音がすきなのだ。
[石川忠久 『NHK文化セミナー 漢詩を読む 蘇東坡 1990』に拠る]
<簡体字およびピンイン>
東坡 Dōng pō
雨洗东坡月色清, Yǔ xǐ dōng pō yuè sè qīng,
市人行尽野人行。 shì rén xíng jǐn yě rén xíng.
莫嫌犖确坡头路, Mò xián luò què pō tóu lù,
自爱鏗然曵杖声。 zì 'ài kēngrán yè zhàng shēng.
ooooooooooooo
蘇軾には、掲詩・《東坡》とは別に、《東坡八首》の連作がある。《東坡八首》の長文の“序”中では、黄州に左遷された直後の蘇軾の生活状況が語られている。非常に赤裸々に語られているので、下にその邦訳・大意を挙げます。
// 《東坡八首》序 から
私は、黄州に来て2年、日々の生活に困窮を窮めていた。友人の馬正卿(バセイケイ)は、私が食べ物に乏しく窮しているのを知って、役所に掛け合い、郡中の元兵営の地であった土地、数十畝(下注参照)を借り受け、そこで耕作することができるようにしてくれた(1081)。
その土地は、長年荒れ放題で、雑草、瓦礫の場となっていて、その上、その歳は大干ばつであった。このような荒れ地を開墾する労たるや、筋力はほとんど力尽き果て、耒(スキ)を投げ捨てて、歎くこと頻りであった。
そこでここに詩を作り、自らその労をねぎらう次第である。来年の収穫が、この苦労を忘れさせてくれること 切に請い願いつつ。
[注] 現・中国:1畝=6.667アール; 1アール=100m2; 当時の面積単位は
不明であるが、数十畝とは、結構な広さのようである。//
蘇軾は、1079年暮れに流謫の命、翌年2月黄州に着任している。着任早々、お寺・定恵院(ジョウエイン)に住んでいたが、1年後 居を移し、あてがわれた新居を臨皋亭(リンコウテイ)と名付けた。また借り受けた耕地を“東坡”と名付け、自ら“東坡居士”と号した。
因みに“東坡”とは、東の堤 という意味である。曽て白楽天が江州から忠州(重慶)に移され、その郊外の東の堤(東坡)に手ずから桃李を植えて、その場を愛した と。これに倣ったものとされている。
掲詩・《東坡》では、例え“がらくた道”の田舎道とは言え、置かれた環境での生活を愛して止まない蘇軾の人柄がよく出た詩であるように思える。その心根を応援するべく、当詩に次韻して、「初収穫への期待」を書きました。
[追記] 前稿・閑話休題249に関し、{喜界島は“クレオパトラ アイランド”?}と、読者の方からコメントを戴いています。有難うございます。少々調べたので、ここに、以下概要をお伝えいたします。
[記] ペリー艦隊は、1854年、「日米和親条約」締結(3月)後、(太平洋を)琉球に向け南下、6月に喜界島―奄美大島間を通過した。その折、喜界島を“Bungalow island ”と名付けた と(ペリー著、金井圓訳『ペリー日本遠征記』)。
その8年ほど前(1846.05)、仏・サビーヌ号ゲラン艦長は、(東シナ海を)沖縄から長崎に向かう途中、「二つの小さな島で、円錐形、ともに無人。互いに接近してあり、火山性の形成物、噴火口がある。その南端は、北緯28°48‘、統計128°59’30”」、これらの島を”Kleopatra island”と名付けた と。(フォルカード著、中島昭子、小川早百合訳『幕末日仏交流記:フォルカード神父の琉球日記』?)
以上の記載から、”Kleopatra island”とは現・吐噶喇(トカラ)列島の“横当島・上の根島”である。“Bungalow island ”、 ”Kleopatra island”ともに、命名の根拠は不明である。ただ、後者については、関連は不明ですが、ゲラン艦隊には、艦船‘クレオパトラ号’が同道していたという。[『喜界町誌』および『国立国会図書館』調査報告書を参考にした。]