愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題248 句題和歌 8  白楽天・長恨歌(2)

2022-01-31 09:31:56 | 漢詩を読む
楊玉環(後の楊貴妃)は、長安の都に身を移し、いよいよ玄宗のお側に侍ることになり、華清の池で浴を賜ります。後々、花も羞らう「羞花美人」と形容され、“ふくよかな、ぽっちゃり体系”の典型的な唐代美人であったようです。

下の写真は、洛陽の竜門石窟に彫られた廬舎那仏像です。楊貴妃の一世代前の女帝・則天武后(624~705)の寄進で彫られたもので、則天武后の容貌の模造では とされています。その是非はさておき、その像は、典型的な唐代美人の容貌を表しているということである。

[竜門石窟、廬舎那仏像; 撮影:‘18.4.23]

この仏像のお姿に、下記・長恨歌13句:「雲鬢(ウンビン) 花顔(カガン) 金歩揺(キンポヨウ)」、さらにロブデコルテの装いを重ねて想像すると、楊貴妃が貴方のお側に生き生きと蘇ってくるのではないでしょうか。

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<白楽天の詩> 
 長恨歌 [入声十三職韻]
9 春寒賜浴華淸池、 春寒くして浴(ヨク)を賜う 華清(カセイ)の池 
10溫泉水滑洗凝脂。 温泉 水滑(ナメ)らかにして 凝脂(ギョウシ)を洗う 
11侍兒扶起嬌無力、 侍児(ジジ) 扶(タス)け起こせば 嬌(キョウ)として力無し 
12始是新承恩沢時。 始(ハジ)めて是れ新たに恩沢(オンタク)を承(ウ)くる時 
13雲鬢花顏金歩搖、 雲鬢(ウンビン) 花顔(カガン) 金歩揺(キンポヨウ) 
14芙蓉帳暖度春宵。 芙蓉の帳(トバリ) 暖かにして春宵を度(ワタ)る 
15春宵苦短日高起、 春宵苦(ハナハ)だ短く 日高くして起き 
16從此君王不早朝。 此(コレ)より君王早朝(ソウチョウ)せず 
 註] 華淸池:長安の東北、驪山(リザン)の麓の離宮、華淸宮の温泉; 凝脂:きめ細
  かく潤いを帯びた白い肌; 侍兒:おつきの者; 嬌:嫋やかで艶めかしいさま;
  雲鬢:女の豊かな黒髪; 金歩搖:黄金の髪飾り、歩くたびに揺れるので“歩搖”
  という; 芙蓉帳:蓮の花の絵柄を施した、ベッドを囲む幕。芙蓉(蓮の花)は
  恋の歌によくうたわれ、甘美な連想を伴う; 不早朝:夜明けとともに始まる
  政務にお出ましにならない。
<現代語訳> 
 とわの悲しみのうた 
春まだ浅く、寒い日に華淸池での湯あみを賜った、 
温泉の水はなめらかで、つややかな白肌にそそぎかける。 
お側の者が支え起こそうとすると、なよなよと力ない風情で、 
これが始めて帝の寵愛を受けたばかりの時であった。 
雲なす美しい黒髪、花の顔(カンバセ)、歩みとともに揺れる金の髪飾り、 
蓮の花模様のとばりの中は暖かく、春の夜は更けていく。 
春の夜は甚だ短く、起きだすと日はとうに高く、 
これ以後、天子は早朝の政務を怠るようになった。 
                   [主に参考:川合幸三 編訳 『中国名詩選』] 

<簡体字およびピンイン> 
 长恨歌 Cháng hèn gē  [上平声四支韻] 
春寒赐浴华淸池, Chūn hán cì yù huá qīng chí, [上平声四支韻]
温泉水滑洗凝脂. wēn quán shuǐ huá xǐ níng zhī.
侍儿扶起娇无力, Shì ér fú qǐ jiāo wú lì,
始是新承恩泽时 shǐ shì xīn chéng ēn zé shí
云鬓花颜金歩摇 Yún bìn huā yán jīn bù yáo [下平声二蕭韻]
芙蓉帐暖度春宵 fúróng zhàng nuǎn dù chūnxiāo  
春宵苦短日高起 Chūnxiāo kǔ duǎn rì gāo qǐ  
从此君王不早朝 cóng cǐ jūnwáng bù zǎo cháo
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白居易(楽天)は、秀れた詩才の持ち主で、5,6歳のころ作詩ができたと言われている。15歳時、科挙受験の勉強の為でしょうか、都・長安に赴きます。その折の次のような逸話がその早熟さを物語っています。

長安で詩壇の大御所・顧況(コキョウ)に謁見した。顧況は、名前の“居易”をみて、笑いながら、「長安は米や物価は高く、生活は易しくないぞ」と言われた。しかし携えてきた詩「賦得古原草 送別」(下記)を見せられると驚き、「こんな詩が作れるなら、「長安も居(ス)み易(ヤス)いだろう、さっきは冗談だ」と行って、絶賛した と。

 賦得古原草 送別 白居易
   古原の草を賦し得て 送別す (野原の草を賦しながら送別の意を表す
 離離原上草,
   離離(リリ)たり 原上の草,    (生い茂る野原の草は、
 一歳一枯榮。 
   一歳に 一たび 枯榮(コエイ)す。  (一年に一度枯れてはまた栄える。
 野火燒不盡, 
   野火 燒けども 盡きず,   (野火に焼かれても、根が焼き尽くされることはない、 
 春風吹又生。 
  春風 吹きて 又生ず。   (春風の吹く頃には芽吹き、また生えてくるのだ。
遠芳侵古道,
遠芳 古道を 侵し, (遠くまで伸びる芳しい草はやがて古道を覆い、
晴翠接荒城。
晴翠(セイスイ) 荒城に 接す。   (晴れ渡る空の下、緑の草木は荒れ果てた城壁へと続く。
又送王孫去,
又 王孫の去るを 送れば, (今日も又、遠くへ旅立つ君を送る、
萋萋滿別情。
萋萋(セイセイ)として 別情 滿つ。 (青々と茂る草にも別れを惜しむ情が満ち満ちているのだ。
  [主に参考:白雪梅 『詩境悠遊』]
 
なお、この詩は、白居易の出世作とされ、洛陽香山の「白園」にある墓の前の石碑に刻まれている と。筆者は、「白園」の門前まで訪ねたことがあるが、ある事情で門前払いに遭いました。残念な思いをしながら、この詩を口ずさんだことを思い出します。

野草のたくましく再生する生命力を詠い、併せて別れ行く友の無事と再会の希望を訴える内容となっています。大御所・顧況が驚き、絶賛した という話も実感として受け入れることができます。

[追記] 
 「句題和歌」の紹介は、適切な歌が見当たらずスルー。
 
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閑話休題247 句題和歌 7  白楽天・長恨歌(1)

2022-01-24 09:34:26 | 漢詩を読む
白楽天の「長恨歌」を取りあげます。「長恨歌」は、白楽天 (居易、772~846)が詠んだ唐・第6代皇帝・玄宗とその寵妃・楊貴妃の悲恋を描いた長編詩で、楽天35歳時の作とされています。中国ばかりでなく、本邦でも古くから読まれて来ている不朽の名作です。

『白氏文集』巻十二 「長恨歌」は、七言120句からなる長編詩です。この機会に、部分に分けて、全篇をジックリと読んで行くことにします。併せて、各部分に関連のある内容の和歌を取りあげます。厳密な意味で“句題和歌”に該当するか否かは不問として進めることにします。

長恨歌序章1~8句。天性の美女・楊貴妃が大人になったばかりですが、未だ世に識られていないころです。玄宗の頃から、ようやく半世紀ほど経過したころの作ですが、話は、数百年以上遡り、古代の漢の時代の出来事として書き起こしています。

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<白楽天の詩> 
 長恨歌 [入声十三職韻]
1 漢皇重色思傾国, 漢皇(カンコウ) 色を重んじて傾国(ケイコウ)を思う,
2 御宇多年求不得。 御宇(ギョウ) 多年(タネン)求むるも得ず。 
3 楊家有女初長成, 楊家(ヨウカ)に女(ムスメ)有り 初めて長成(チョウセイ)す, 
4 養在深閨人未識。 養われて深閨(シンケイ)に在り 人未(イマ)だ識らず。 
5 天生麗質難自棄, 天生(テンセイ)の麗質(レイシツ) 自(オノズカ)ら棄て難く, 
6 一朝選在君王側。 一朝(イッチョウ) 選ばれて君王の側(カタワラ)に在り。 
7 迴眸一笑百媚生, 眸(ヒトミ)を迴(メグ)らして一笑すれば百媚(ヒャクビ)生じ, 
8 六宮粉黛無顏色。 六宮(リクキュウ)の粉黛(フンタイ) 顏色(ガンショク)無し。 
 註] 漢皇:漢の武帝、舞台を漢に設定している。実際は唐の玄宗を指す; 傾国:
  国を傾けるほどの美女、李延年の詩中、“傾城経国”に由来する(閑話休題14); 
  御宇:世界を統治する; 六宮:中国で、皇后と五人の夫人が住む六つの宮殿、
  後宮; 粉黛:おしろいとまゆずみ、宮女たちをさす; 顏色:恐れや驚きのため
  顔色が青くなるさま、完全に圧倒されて手も足もでないさま。
<現代語訳> 
 とわの悲しみのうた
漢の帝は女色を好み、国を傾けるほどの美女を得たいと願いながら、
皇帝の位に着いてから長年探したが、見つけることはできなかった。
この時、楊家に娘がいて、ようやく大人になったばかり、
深窓に育って未だ世に知られていない。
生まれもっての美貌がそのまま埋もれるはずもなく、
ある日突然、選ばれて天子のお側に侍ることになった。
振り返って一たびほほえむと艶めかしさが溢れ、
後宮の美しい宮女たちも色あせてしまうのである。
                   [参考:川合幸三 編訳 『中国名詩選』] 

<簡体字およびピンイン> 
 长恨歌 Cháng hèn gē
汉皇重色思倾国, Hàn huáng zhòng sè sī qīng guó
御宇多年求不得。 yùyǔ duō nián qiú bù.
杨家有女初长成, Yáng jiā yǒu nǚ chū zhǎng chéng,
养在深闺人未识。 yǎng zài shēnguī rén wèi shí.
天生丽质难自弃, Tiān shēng lì zhì nán zì qì,
一朝选在君王侧。 yī zhāo xuǎn zài jūnwáng ,
迴眸一笑百媚生, Huí móu yī xiào bǎi mèi shēng,
六宫粉黛无颜色。 liù gōng fěndài wú yán.
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楊貴妃(719~756)の生い立ちについて:名は玉環。本籍地は、蒲州永楽県(現・山西省運城市一帯)、父・楊玄琰(ゲンエン)は、北魏・冀州刺史・楊順の末裔である と。父が蜀州(現・四川省)司戸参軍として在任中に蜀州で719年6月1日に誕生した。

司戸参軍とは、官名で、地方行政区の州で戸籍や土地の事を担当する役所と言うことである。なお玉環は四女で、3人の姉がおり、後に、それぞれ、韓国夫人、虢(カク)国夫人、秦国夫人となっている。また又従兄にあたる楊国忠も中央政界で活躍するに至る。

玉環は、16歳(735)時に玄宗-武恵妃の第18子・寿王李瑁(リボウ、?~775)の妃となる。お二方を結ぶに至るイキサツは不明である。

寿王李瑁について触れます。玄宗-武恵妃間に生まれた子はすべて夭逝したようで、第18子・李清は誕生後 玄宗の兄・李憲の元に預けられた。玄宗とは疎遠で拝謁が許されることはなかったようであるが、7歳時拝謁の機会があり、その挙動に優れた才能を認められた と。

王に封じられるのは遅く、十数年経って、725年に寿(現・安徽省淮南、寿春?)の王に封じられて宮中に入った。735年、開府儀同三司を加えられ、瑁と改名。その頃、楊玉環を妃に迎えている。一時、立太子の運動があったが、武恵妃の逝去(737)もあり、立太子は叶わなかった。

玉環は、740年、長安の東・温泉地華清宮において玄宗に見初められる。その後、内縁関係にあったようですが、一時、出家し女道士(女冠)となり、道号・太真と号する。息子から妻を奪う形になるのを避ける処置とされる。

長恨歌は、35歳の白楽天が長安西郊の地方事務官であった頃の作品で、皇帝の恋愛を描いていることから広い階層の人々の興味を掻き立て、歓迎されたようである。楽天の詩名を一躍高めた名作の一つである。

本稿で読む「長恨歌」の各部分ごとに、詩句に“想い”を得たと思える和歌を一首宛て読んでいきます。ただ関連する勅撰和歌があるとは限らないであろうから、以降、私撰集をも対象に含めていきます。今回は、藤原高遠の「長恨歌」第4句に“想い”を得た歌:

唐櫛笥(カラクシゲ) あけてし見れば 窓深き 
  玉の光を 見る人ぞなき(大弐高遠集) 

(大意) 唐で作られた化粧箱を開けてみると、光り輝く玉が目に入った、まだ誰も見た
 ことのない玉であるよ 
  註] 唐櫛笥:“唐製の化粧箱”と“唐国の深窓”と掛けた表現でしょうか。
 
藤原高遠(949~1023)は、平安時代の歌人。従兄弟に藤原公任(百人一首55番、閑話休題148)がおり、中古三十六歌仙の一人。『拾遺集』以下の勅撰集に27首入集、家集に『大弐高遠集』がある。即興で作る非凡な歌才を持つ風流士であった と。

追記]
漢詩と関連する歌は、ネット上:
<千人万首 資料編 (和歌に影響を与えた漢詩文)(asahi-net.or.jp)> に依っています。
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閑話休題245 句題和歌 6  在原業平/白楽天 贈内

2022-01-10 09:43:05 | 漢詩を読む
おほかたは 月をもめでじ これぞこの
  積もれば人の 老いとなるもの  在原業平 (古今集巻十七 雑歌上 0879) 

oooooooooooo  
誰しもが、特に中秋にあっては名月として、 “月”を愛でるようであるが、「だいたい、月を愛でることはしないでしょう」と、なぜなら「この月こそ積もり積もって 老いに繋がりますから」と。禅問答のようですが、天上の“月”と、歳月の“月”と 掛けた、言葉遊び と言えそうです。一面、「歳は取りたくないもの」と、真理を突いた歌とも言えます。

白居易(楽天、772~846)の七言絶句「内に贈る」(下記参照)の第3,4句の影響を受けた歌です。訴えたい主旨がやや異なるように読めるが、実は主旨は同じで、その展開の相違に因るようです。

楽天の詩では、今や野山は晩夏の様相であり、愁思の時節・秋の訪れも間近である。どうか月明かりの中で、過去を偲ぶことのないように。もの思いに沈んでいると容色を損ない、寿命を縮めることに繋がりますから と、遠くにいる妻への思い遣りである。

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<白楽天の詩> 
 贈内       内(ナイ)に贈る [下平声一先韻] 
漠漠闇苔新雨地、 漠漠(バクバク)たる闇苔(アンタイ) 新雨の地、
微微涼露欲秋天。 微微たる涼露(リョウロ) 秋天(シュウテン)ならんと欲す。 
莫対月明思往時、 月明に対して 往時を思う莫(ナカ)れ、 
損君顔色減君年。 君が顔色を損じ 君が年を減(ゲン)ぜん。 
 註] 漠漠:広々として果てしないさま; 闇苔:びっしりと覆っている苔。

<現代語訳> 
 妻に贈る 
果てしなく緑の苔が覆っている、雨上がりの大地、
うっすらと涼しげな露が降りて、もうすぐ秋の季節を迎える。
月明かりに向かって、往時を偲ぶことのないように、
さすれば、容色を損ない、寿命を縮めることになるであろうから。

<簡体字およびピンイン> 
 贈内       Zèng nèi 
漠漠暗苔新雨地、 Mòmò àn tái xīn yǔ dì, 
微微凉露欲秋天。 wéiwéi liáng lù yù qiūtiān. 
莫対月明思往时、 Mò duì yuè míng sī wǎngshí,  
损君颜色减君年。 sǔn jūn yánsè jiǎn jūn nián.
xxxxxxxxxxxxxxx 

一見、歌と漢詩と異なったことを言っているように思えるが、言いたいことは一緒で、捉え方が表裏の関係であるだけに思われる。すなわち、漢詩では“寿命を縮める”と言い、“表”とするなら、歌では、“老いが進み、(寿命が縮まるよ)”と、裏からアプローチしています。

在原業平(825~880)は、51代平城天皇の皇子・阿保親王の子で、臣籍降下して“在原”の姓を賜った。当時の歴史書に記載されるほどの美男子で、恋愛の話題には事欠くことなく、『伊勢物語』の主人公とされている。和歌に優れ、六歌仙、三十六歌仙の一人に数えられ、百人一首にも採入されている(百人一首17番、閑話休題135)。 

上記の白居易(楽天)の詩 “贈内”は、遠くにいる妻に贈った詩と思えることから、江州司馬として左遷(815)されていた折に作られた作品かと思われたが、そうではなさそうである。その頃作られた詩には、長江を九江から忠州(現重慶市中部)に向かう舟中で詠われた「舟夜贈内」と題する作品がある。

楽天は、ロマン的にして、非常な愛妻家のようである。先人の研究によれば、直接的に“贈内”の主旨の詩が7首あり、“贈内”と題する詩は、805および814年作とされる2首がある。掲詩が何れに該当するかは、筆者は、残念ながら確認することはできていない。
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閑話休題244 句題和歌 5  藤原俊成/白楽天「香炉峰下」

2022-01-03 10:21:56 | 漢詩を読む
新年明けましておめでとうございます。読者の皆さんのご健康と更なる発展・飛躍を祈念しております。詩歌を通して、日本文化と漢文化の交流に目を向けて、気の向くままに進めていく所存です。今後とも、ご贔屓によろしくお願いします。
oooooooooooo 

暁と つげのまくらを そばだてて
  聞くもかなしき 鐘の音かな  藤原俊成 (新古今和歌集雑下、1809) 

oooooooooooo  
黄楊枕(ツゲノマクラ)を枕にしてまだ寝(ヤス)んでいる朝まだき、夜明けを告げる鐘の音に眼を覚ます。枕を傾け高くして、猶残る鐘の音の余韻に耳を澄まし、弥増す悲しみに堪えている様子である。“黄楊”と“告げ”の掛詞の技法を駆使した歌と言える。

当歌は、白楽天の七言律詩(下記参照)の第三句:「遺愛寺(イアイジ)の鐘は枕を欹(ソバダ)てて聴き」に思いを得た歌で、“句題和歌”の一首と考えられます。本漢詩は、清少納言の『枕草子』でも話題にしており、当時、非常に有名であった漢詩でしょうか。

当漢詩は、楽天が越権行為の廉で江州の司馬に左遷された折に、廬山・香炉峰の麓に庵を新築して住まった。そこで詠まれた詩である(817)。「都の長安だけが故郷ではないワイ!」と、“胸中の思い”とは裏腹に、強がって見せている風情です。 

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<白楽天の詩> 
 香炉峰下新卜山居 草堂初成偶題東壁    [上平声十四寒韻] 
  香炉峰(コウロホウ)下 新たに山居を卜(ボク)し草堂初めて成り偶(タマ)たま東壁に題す 
日高睡足猶慵起, 日(ヒ)高く睡(ネム)り足りて 猶(ナ)お起(オ)くるに慵()モノウし,
小閣重衾不怕寒。 小閣に衾(シトネ)を重ねて 寒さを怕(オソ)れず。
遺愛寺鐘欹枕聴, 遺愛寺(イアイジ)の鐘は枕を欹(ソバダ)てて聴き,
香炉峰雪撥簾看。 香炉峰の雪は簾(スダレ)を撥(カカ)げて看(ミ)る。
匡蘆便是逃名地, 匡蘆(キョウロ)は便(スナワ)ち是(コ)れ名を逃るるの地,
司馬仍為送老官。 司馬は仍(ナ)お老を送るの官(カン)為(タ)り。
心泰身寧是帰処, 心(ココロ)泰(ヤス)く身(ミ)寧(ヤス)きは 是れ帰(キ)する処,
故郷何独在長安。 故郷 何ぞ独(ヒト)り長安にのみ在(ア)らんや。
 註] 香炉峰:廬山(江西省九江市の西南の名); 卜山居:山中に住まいの場所を 
  占い定めること; 遺愛寺:香炉峰の北方にあった寺; 欹枕:枕を縦にして、 
  頭を斜めに乗せること; 匡蘆:廬山のこと; 司馬:州の長官を補佐する役; 
  帰処:落ち着くべき所、最終目的地。 
<現代語訳> 
日が高く昇るまでずいぶん眠ったが、まだ起きるのは面倒だ、
小さな部屋でふとんにくるまっていると、寒くはない。
遺愛寺の鐘の音は枕をずらして耳をすまし、
香炉峰の雪は簾をあげて、布団の中から眺める。
廬山は俗世間から隠れ住むのにふさわしい土地であり、
老人が余生を送るにはちょうどよい。
身も心も安らかならば、ほかに望むことがあろうか、
長安の都へ帰りたがるのは愚かなこと、長安だけが故郷ではあるまい。
                    [石川忠久 NHK新漢詩紀行に拠る] 
<簡体字およびピンイン> 
 香炉峰下新卜山居 草堂初成偶题东壁 
   Xiānglú fēng xià xīn bo shānjū  cǎo táng chū chéng ǒu tí dōng bì    
日高睡足犹慵起, Rì gāo shuì zú yóu yōng qǐ, 
小阁重衾不怕寒。 xiǎo gé zhòng qīn bù pà hán. 
遗爱寺钟欹枕听, Yí ài sì zhōng yī zhěn tīng, 
香炉峰雪拨簾看。 xiānglú fēng xuě bō lián kàn. 
匡庐便是逃名地, Kuāng lú biàn shì táo míng dì, 
司马仍为送老官。 sīmǎ réng wéi sòng lǎo guān. 
心泰身宁是归处, Xīn tài shēn níng shì guī chù, 
故乡何独在长安。 gùxiāng hé dú zài cháng'ān. 
xxxxxxxxxxxxxxx 

歌の作者・藤原俊成は、八代勅撰集、第八代『新古今和歌集』の撰および百人一首の編者、定家(97番)の父親であり、自らも第七番『千載和歌集』の撰者となり、歌も百人一首に採られている(83番、閑話休題155)。“幽玄”という和歌の理念を確立した人である。

百人一首の歌では、「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入(イ)る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」と詠い、世の中の苦を逃れて隠棲するつもりで山に入ったが、鹿の悲しい鳴き声を聞き、山中でさえ安寧な世界ではないのだ と悟り、煩悩や苦しみの多い娑婆に舞い戻っている。

掲題の歌は、「世の中よ ……」と同じく、27歳の頃の作のようです。掲歌単独で読むと、通い婚の時代柄、後朝の歌かと思われるが、「世の中よ ……」と読み合わせると、浮いた話題ではないことが理解できる。寝覚めの鐘の音に苦悩は一層募るのでしょう。

白楽天の当漢詩について、避けて通れない話題の一つは、清少納言の『枕草子』で語られている当漢詩の第四句「香炉峰の雪は簾(スダレ)を撥(カカ)げて看(ミ)る」に纏わる、一条帝の中宮・定子と清少納言との遣り取りであろう。

雪が随分降り積もったある夜、中宮は、部屋の簾を下ろして、火を興した火鉢を中心にして女房達と談笑していた。中宮が「清少納言よ、香炉峰の雪はどうであろうかのう?」と問うたので、清少納言は人に命じて簾をあげさせた。中宮はニコッとされた と。

中宮は意図的に清少納言を試す心つもりであったようです。女房達のみなさんが楽天の詩について知らないわけではないが、“簾を上げる”ということには気づくことはなかった。この機転に、女房達は「やはり清少納言は、中宮に仕えるに相応しいお人である」と囁き合った と。

廬山と詩人について触れておきます。司馬遷は、紀元前126年、中国各地をまわる大旅行に出発、まず長江・淮水に向かう。その折に登った廬山の見聞が『史記』に記され、以後、陶淵明に始まり、多くの文人墨客が訪れている。彼らが詠んだ廬山についての詩詞は、4,000首を越すという。

歴史的な代表例を挙げると、六朝時代・東晋の詩人・陶淵明(365~427)は、40歳の頃、官職を辞して、廬山の麓に住んで創作を行い、「飲酒二十首」、「帰去来の辞」等、漢詩の世界に田園詩の伝統を遺している。作品は詩124首、文12首が遺されている と。

盛唐時代の詩人・李白(701~762)は、廬山を5度訪れて、廬山およびその周辺についての詩歌14首を遺している と。その一首「望廬山瀑布」は、中国古典詩歌の典範とされている。中唐時代の詩人・白居易(772~846)は、上記の詩に見られるように、左遷の結果とは言え、「廬山草堂」という庵を築いて廬山の麓に住み、詩の創作に没頭している。

宋代の文学者・蘇軾は、朝政誹謗の罪で入獄、死を覚悟したが、恩赦で死刑は免れて、黄州へ左遷された。その折に廬山を訪ねて、僧侶と交流する機会があり、仏教への思いに深く傾注する。廬山に関わる、禅問答を思わせるような詩が遺されている。後世、「唐代に香山(白楽天)有り、宋代に子瞻(蘇軾)有り」と言われているようである。
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