楊玉環(後の楊貴妃)は、長安の都に身を移し、いよいよ玄宗のお側に侍ることになり、華清の池で浴を賜ります。後々、花も羞らう「羞花美人」と形容され、“ふくよかな、ぽっちゃり体系”の典型的な唐代美人であったようです。
下の写真は、洛陽の竜門石窟に彫られた廬舎那仏像です。楊貴妃の一世代前の女帝・則天武后(624~705)の寄進で彫られたもので、則天武后の容貌の模造では とされています。その是非はさておき、その像は、典型的な唐代美人の容貌を表しているということである。
[竜門石窟、廬舎那仏像; 撮影:‘18.4.23]
この仏像のお姿に、下記・長恨歌13句:「雲鬢(ウンビン) 花顔(カガン) 金歩揺(キンポヨウ)」、さらにロブデコルテの装いを重ねて想像すると、楊貴妃が貴方のお側に生き生きと蘇ってくるのではないでしょうか。
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<白楽天の詩>
長恨歌 [入声十三職韻]
9 春寒賜浴華淸池、 春寒くして浴(ヨク)を賜う 華清(カセイ)の池
10溫泉水滑洗凝脂。 温泉 水滑(ナメ)らかにして 凝脂(ギョウシ)を洗う
11侍兒扶起嬌無力、 侍児(ジジ) 扶(タス)け起こせば 嬌(キョウ)として力無し
12始是新承恩沢時。 始(ハジ)めて是れ新たに恩沢(オンタク)を承(ウ)くる時
13雲鬢花顏金歩搖、 雲鬢(ウンビン) 花顔(カガン) 金歩揺(キンポヨウ)
14芙蓉帳暖度春宵。 芙蓉の帳(トバリ) 暖かにして春宵を度(ワタ)る
15春宵苦短日高起、 春宵苦(ハナハ)だ短く 日高くして起き
16從此君王不早朝。 此(コレ)より君王早朝(ソウチョウ)せず
註] 華淸池:長安の東北、驪山(リザン)の麓の離宮、華淸宮の温泉; 凝脂:きめ細
かく潤いを帯びた白い肌; 侍兒:おつきの者; 嬌:嫋やかで艶めかしいさま;
雲鬢:女の豊かな黒髪; 金歩搖:黄金の髪飾り、歩くたびに揺れるので“歩搖”
という; 芙蓉帳:蓮の花の絵柄を施した、ベッドを囲む幕。芙蓉(蓮の花)は
恋の歌によくうたわれ、甘美な連想を伴う; 不早朝:夜明けとともに始まる
政務にお出ましにならない。
<現代語訳>
とわの悲しみのうた
春まだ浅く、寒い日に華淸池での湯あみを賜った、
温泉の水はなめらかで、つややかな白肌にそそぎかける。
お側の者が支え起こそうとすると、なよなよと力ない風情で、
これが始めて帝の寵愛を受けたばかりの時であった。
雲なす美しい黒髪、花の顔(カンバセ)、歩みとともに揺れる金の髪飾り、
蓮の花模様のとばりの中は暖かく、春の夜は更けていく。
春の夜は甚だ短く、起きだすと日はとうに高く、
これ以後、天子は早朝の政務を怠るようになった。
[主に参考:川合幸三 編訳 『中国名詩選』]
<簡体字およびピンイン>
长恨歌 Cháng hèn gē [上平声四支韻]
春寒赐浴华淸池, Chūn hán cì yù huá qīng chí, [上平声四支韻]
温泉水滑洗凝脂. wēn quán shuǐ huá xǐ níng zhī.
侍儿扶起娇无力, Shì ér fú qǐ jiāo wú lì,
始是新承恩泽时 shǐ shì xīn chéng ēn zé shí
云鬓花颜金歩摇 Yún bìn huā yán jīn bù yáo [下平声二蕭韻]
芙蓉帐暖度春宵 fúróng zhàng nuǎn dù chūnxiāo
春宵苦短日高起 Chūnxiāo kǔ duǎn rì gāo qǐ
从此君王不早朝 cóng cǐ jūnwáng bù zǎo cháo
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白居易(楽天)は、秀れた詩才の持ち主で、5,6歳のころ作詩ができたと言われている。15歳時、科挙受験の勉強の為でしょうか、都・長安に赴きます。その折の次のような逸話がその早熟さを物語っています。
長安で詩壇の大御所・顧況(コキョウ)に謁見した。顧況は、名前の“居易”をみて、笑いながら、「長安は米や物価は高く、生活は易しくないぞ」と言われた。しかし携えてきた詩「賦得古原草 送別」(下記)を見せられると驚き、「こんな詩が作れるなら、「長安も居(ス)み易(ヤス)いだろう、さっきは冗談だ」と行って、絶賛した と。
賦得古原草 送別 白居易
古原の草を賦し得て 送別す (野原の草を賦しながら送別の意を表す
離離原上草,
離離(リリ)たり 原上の草, (生い茂る野原の草は、
一歳一枯榮。
一歳に 一たび 枯榮(コエイ)す。 (一年に一度枯れてはまた栄える。
野火燒不盡,
野火 燒けども 盡きず, (野火に焼かれても、根が焼き尽くされることはない、
春風吹又生。
春風 吹きて 又生ず。 (春風の吹く頃には芽吹き、また生えてくるのだ。
遠芳侵古道,
遠芳 古道を 侵し, (遠くまで伸びる芳しい草はやがて古道を覆い、
晴翠接荒城。
晴翠(セイスイ) 荒城に 接す。 (晴れ渡る空の下、緑の草木は荒れ果てた城壁へと続く。
又送王孫去,
又 王孫の去るを 送れば, (今日も又、遠くへ旅立つ君を送る、
萋萋滿別情。
萋萋(セイセイ)として 別情 滿つ。 (青々と茂る草にも別れを惜しむ情が満ち満ちているのだ。
[主に参考:白雪梅 『詩境悠遊』]
なお、この詩は、白居易の出世作とされ、洛陽香山の「白園」にある墓の前の石碑に刻まれている と。筆者は、「白園」の門前まで訪ねたことがあるが、ある事情で門前払いに遭いました。残念な思いをしながら、この詩を口ずさんだことを思い出します。
野草のたくましく再生する生命力を詠い、併せて別れ行く友の無事と再会の希望を訴える内容となっています。大御所・顧況が驚き、絶賛した という話も実感として受け入れることができます。
[追記]
「句題和歌」の紹介は、適切な歌が見当たらずスルー。
下の写真は、洛陽の竜門石窟に彫られた廬舎那仏像です。楊貴妃の一世代前の女帝・則天武后(624~705)の寄進で彫られたもので、則天武后の容貌の模造では とされています。その是非はさておき、その像は、典型的な唐代美人の容貌を表しているということである。
[竜門石窟、廬舎那仏像; 撮影:‘18.4.23]
この仏像のお姿に、下記・長恨歌13句:「雲鬢(ウンビン) 花顔(カガン) 金歩揺(キンポヨウ)」、さらにロブデコルテの装いを重ねて想像すると、楊貴妃が貴方のお側に生き生きと蘇ってくるのではないでしょうか。
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<白楽天の詩>
長恨歌 [入声十三職韻]
9 春寒賜浴華淸池、 春寒くして浴(ヨク)を賜う 華清(カセイ)の池
10溫泉水滑洗凝脂。 温泉 水滑(ナメ)らかにして 凝脂(ギョウシ)を洗う
11侍兒扶起嬌無力、 侍児(ジジ) 扶(タス)け起こせば 嬌(キョウ)として力無し
12始是新承恩沢時。 始(ハジ)めて是れ新たに恩沢(オンタク)を承(ウ)くる時
13雲鬢花顏金歩搖、 雲鬢(ウンビン) 花顔(カガン) 金歩揺(キンポヨウ)
14芙蓉帳暖度春宵。 芙蓉の帳(トバリ) 暖かにして春宵を度(ワタ)る
15春宵苦短日高起、 春宵苦(ハナハ)だ短く 日高くして起き
16從此君王不早朝。 此(コレ)より君王早朝(ソウチョウ)せず
註] 華淸池:長安の東北、驪山(リザン)の麓の離宮、華淸宮の温泉; 凝脂:きめ細
かく潤いを帯びた白い肌; 侍兒:おつきの者; 嬌:嫋やかで艶めかしいさま;
雲鬢:女の豊かな黒髪; 金歩搖:黄金の髪飾り、歩くたびに揺れるので“歩搖”
という; 芙蓉帳:蓮の花の絵柄を施した、ベッドを囲む幕。芙蓉(蓮の花)は
恋の歌によくうたわれ、甘美な連想を伴う; 不早朝:夜明けとともに始まる
政務にお出ましにならない。
<現代語訳>
とわの悲しみのうた
春まだ浅く、寒い日に華淸池での湯あみを賜った、
温泉の水はなめらかで、つややかな白肌にそそぎかける。
お側の者が支え起こそうとすると、なよなよと力ない風情で、
これが始めて帝の寵愛を受けたばかりの時であった。
雲なす美しい黒髪、花の顔(カンバセ)、歩みとともに揺れる金の髪飾り、
蓮の花模様のとばりの中は暖かく、春の夜は更けていく。
春の夜は甚だ短く、起きだすと日はとうに高く、
これ以後、天子は早朝の政務を怠るようになった。
[主に参考:川合幸三 編訳 『中国名詩選』]
<簡体字およびピンイン>
长恨歌 Cháng hèn gē [上平声四支韻]
春寒赐浴华淸池, Chūn hán cì yù huá qīng chí, [上平声四支韻]
温泉水滑洗凝脂. wēn quán shuǐ huá xǐ níng zhī.
侍儿扶起娇无力, Shì ér fú qǐ jiāo wú lì,
始是新承恩泽时 shǐ shì xīn chéng ēn zé shí
云鬓花颜金歩摇 Yún bìn huā yán jīn bù yáo [下平声二蕭韻]
芙蓉帐暖度春宵 fúróng zhàng nuǎn dù chūnxiāo
春宵苦短日高起 Chūnxiāo kǔ duǎn rì gāo qǐ
从此君王不早朝 cóng cǐ jūnwáng bù zǎo cháo
xxxxxxxxxxxxxxx
白居易(楽天)は、秀れた詩才の持ち主で、5,6歳のころ作詩ができたと言われている。15歳時、科挙受験の勉強の為でしょうか、都・長安に赴きます。その折の次のような逸話がその早熟さを物語っています。
長安で詩壇の大御所・顧況(コキョウ)に謁見した。顧況は、名前の“居易”をみて、笑いながら、「長安は米や物価は高く、生活は易しくないぞ」と言われた。しかし携えてきた詩「賦得古原草 送別」(下記)を見せられると驚き、「こんな詩が作れるなら、「長安も居(ス)み易(ヤス)いだろう、さっきは冗談だ」と行って、絶賛した と。
賦得古原草 送別 白居易
古原の草を賦し得て 送別す (野原の草を賦しながら送別の意を表す
離離原上草,
離離(リリ)たり 原上の草, (生い茂る野原の草は、
一歳一枯榮。
一歳に 一たび 枯榮(コエイ)す。 (一年に一度枯れてはまた栄える。
野火燒不盡,
野火 燒けども 盡きず, (野火に焼かれても、根が焼き尽くされることはない、
春風吹又生。
春風 吹きて 又生ず。 (春風の吹く頃には芽吹き、また生えてくるのだ。
遠芳侵古道,
遠芳 古道を 侵し, (遠くまで伸びる芳しい草はやがて古道を覆い、
晴翠接荒城。
晴翠(セイスイ) 荒城に 接す。 (晴れ渡る空の下、緑の草木は荒れ果てた城壁へと続く。
又送王孫去,
又 王孫の去るを 送れば, (今日も又、遠くへ旅立つ君を送る、
萋萋滿別情。
萋萋(セイセイ)として 別情 滿つ。 (青々と茂る草にも別れを惜しむ情が満ち満ちているのだ。
[主に参考:白雪梅 『詩境悠遊』]
なお、この詩は、白居易の出世作とされ、洛陽香山の「白園」にある墓の前の石碑に刻まれている と。筆者は、「白園」の門前まで訪ねたことがあるが、ある事情で門前払いに遭いました。残念な思いをしながら、この詩を口ずさんだことを思い出します。
野草のたくましく再生する生命力を詠い、併せて別れ行く友の無事と再会の希望を訴える内容となっています。大御所・顧況が驚き、絶賛した という話も実感として受け入れることができます。
[追記]
「句題和歌」の紹介は、適切な歌が見当たらずスルー。