加藤虎之助清正(1562~1611)は、安土桃山時代の武将、豊臣秀吉・子飼いの大名である。幼名・夜叉丸、元服後、虎之助清正と改名した。“関ケ原の戦い後、”肥後一国の領主となり、領内の川普請、新田開発を進め、今日の肥後平野の基礎をつくった。
清正築城とされる壮大堅牢な熊本城本丸御殿には、「昭君の間」と呼ばれる最も格式の高い部屋がある。その壁面には、煌びやかな金箔をバックに中国古代伝説に登場する王昭君物語に纏わる場面の絵が描かれている(下記写真参照)。
熊本城・「昭君の間」の壁画
右端で琵琶を抱え、白馬に跨る王昭君
狩野派の絵師・言信(源四郎)の筆になる、鉱石を砕いてつくられた粒子状の絵具・岩絵具(イワエノグ)を用いた障壁画ということである。なお、「昭君の間」は、豊臣秀吉の子・秀頼を迎えるために造られたとされています。
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次韻蘇軾「和孔密州五绝 東欄梨花」 [下平声九青 八庚韻]
称賛加藤虎之助请正的成就
落雁邀客老松青, 落雁(ラクガン) 客を邀(ムカ)え 老松青し,
仰望峨峨熊本城。 仰(アオ)ぎて望む 峨峨(ガガ)たる熊本城。
白川循街潤花木, 白川は街を循(メグ)りて花木(カボク)を潤(ウルオ)し,
虎助遺民永光明。 虎助(トラノスケ) 民(タミ)に永(トハ)の光明を遺(ノコ)す。
註] 落雁:“落雁の美女”・王昭君のこと、王昭君が琵琶を奏でると、美貌と琵琶の
音に誘われて飛んでいる雁が落ちたという伝説に拠る。熊本城の接見の間の壁画
には王昭君の絵が描かれている; 峨峨:高く聳え立つさま; 白川:阿蘇外輪に
発し、熊本市街を流れる川; 虎助:加藤虎之助清正公の略。
<現代語訳>
蘇軾「和孔密州五绝 東欄梨花」に次韻す
加藤虎之助清正公の業績を讃える
昭君の間では、青々とした老松の木陰で琵琶を奏でる“落雁の美女”が賓客を迎える、
高く聳え立ち 遥かに仰ぎ見る熊本城。
阿蘇外輪に発する白川は街を巡って流れ 民の生活を潤しており、
清正公は 築城・治水等 民に今に至る光明を遺している。
<簡体字およびピンイン>
次韵苏轼「和孔密州五绝 东栏梨花」
称赞加藤虎之助请正的成就
落雁邀客老松青, Luòyàn yāo kè lǎo sōng qīng,
仰望峨峨熊本城。 yǎn wàng é é Xióngběn chéng.
白川循街润花木, Báichuān xún jiē rùn huā mù,
虎助遺民永光明。 Hǔzhù yí mín yǒng guāngmíng.
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ooooooooooooo
<蘇軾の詩>
和孔密州五絶 東欄梨花 [下平声九青 八庚韵]
梨花淡白柳深青, 梨花(リカ)は淡白 柳は深青(シンセイ)」,
柳絮飛時花满城。 柳絮(リュウジョ) 飛ぶ時 花 城に满つ。
惆悵東欄一株雪, 惆悵(チュウチョウ)す 東欄(トウラン) 一株(イッシュ)の雪,
人生看得幾请明。 人生 看(ミ)得(ウ)るは幾(イク)请明(セイメイ)。
註] 五絶:絶句五首の意; 東欄梨花:密州の官舎の東の欄干の傍らに咲いていた
梨の花; 柳絮:柳の種についた白毛。暮春のころ綿のように乱れ飛ぶ;
惆悵:悲しみ歎くようす; 一株雪:梨の花を雪に譬えた; 请明:春分の後
十五日目。陽暦の四月五、六日ごろ。
<現代語訳>
東欄の梨花
梨の花はほんのりと白く、柳の葉は深い緑色,
柳の綿が舞う頃、花は町中に咲き誇る。
胸が傷むのは あの東の欄干のそばに雪のように咲いていた梨の花の思い出、
短い人生 これから何回このような素晴らしい春の景色と出会えるだろう。
[石川忠久 「NHK新漢詩紀行」に拠る]
<簡体字およびピンイン>
東欄梨花 Dōng lán lí huā
梨花谈白柳深青, Lí huā tánbái liǔ shēnqīng,
柳絮飞时花满城。 liǔxù fēi shí huā mǎn chéng.
惆怅东栏一株雪, Chóuchàng dōng lán yī zhū xuě,
人生看得几请明。 rénshēng kàn dé jǐ qīngmíng.
ooooooooooooo
2016(平成28)年4月14~16日に激しい地震(最大震度7)が熊本地方を襲い、さしもの熊本城も倒壊した。あれから5年、天守閣は再建できたが、多くの重要文化財に属する建造物などは未だに手つかずの状態である と。
筆者が最近に熊本城を訪ねたのは、2011年4月であった。天守閣内を巡って、最も印象的で、鮮明に脳裏に焼き付いたのは「昭君の間」の障壁画(上掲写真参照)であった。人工物は壊れるという摂理があるにしても、障壁画の被災・復旧状況が気がかりな点ではある。再度観ることができるであろうか。
一方、同障壁画の鮮やかさ、と王昭君が何故に熊本城内に?との思いが綯い交ぜになって、未だに胸の奥に蟠っている。清正が秀頼公を迎えるために狩野派の絵師に描かせたもので、中国・明時代に著された帝王学の教科書・「帝鑑図説」に拠るとされている。同著書は、秀頼が愛読していた書物であったという。
それにしても、“図説”中幾百もの絵物語から王昭君の物語を選んだ意図は?気になります。結局、秀頼を同間に迎えることは叶えられなかったようで、「将軍の間」となる筈が「昭君の間」となった とダジャレで語られることがあるようです。方広寺鐘の「国家安康 君臣豊楽」に類するか?とも思える。
清正は、肥後に入国後、自ら船に乗り、何度も白川を往復して検分し、治水対策に意を注いだと。特に白川、坪井川について、流路を変更し、防衛上、城の内堀、外堀とし、また治水対策、流域の穀倉地帯への潅水など、今日の肥後平野の基礎を造ったとされる。
蘇軾の詩は、42歳の作(1077)。4年間の密州(現・山東省諸城市)知事を務め、徐州(現・江蘇省徐州市)知事に転任した。その折、後任の孔宗翰(ソウカン、孔子46代の孫)知事から詩を贈られたため、それに答えて詠った作品である。
起句での梨花の淡い白と柳の深い緑、絵画にも秀でた才の蘇軾の色使いの感性が現れた詩と言えよう。東の欄干の傍に咲いていた、あの美しい梨花の情景を思い出して、この先、何度見ることができるのであろう と感傷的に詠っています。
[註]
王昭君の伝説については、前回・閑話休題242 句題和歌シリーズをご参照ください。王昭君に纏わる漢詩および和歌を話題としました。
清正築城とされる壮大堅牢な熊本城本丸御殿には、「昭君の間」と呼ばれる最も格式の高い部屋がある。その壁面には、煌びやかな金箔をバックに中国古代伝説に登場する王昭君物語に纏わる場面の絵が描かれている(下記写真参照)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/fd/77f9187256b310d22b7fa6a56f3bd2de.jpg)
熊本城・「昭君の間」の壁画
右端で琵琶を抱え、白馬に跨る王昭君
狩野派の絵師・言信(源四郎)の筆になる、鉱石を砕いてつくられた粒子状の絵具・岩絵具(イワエノグ)を用いた障壁画ということである。なお、「昭君の間」は、豊臣秀吉の子・秀頼を迎えるために造られたとされています。
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次韻蘇軾「和孔密州五绝 東欄梨花」 [下平声九青 八庚韻]
称賛加藤虎之助请正的成就
落雁邀客老松青, 落雁(ラクガン) 客を邀(ムカ)え 老松青し,
仰望峨峨熊本城。 仰(アオ)ぎて望む 峨峨(ガガ)たる熊本城。
白川循街潤花木, 白川は街を循(メグ)りて花木(カボク)を潤(ウルオ)し,
虎助遺民永光明。 虎助(トラノスケ) 民(タミ)に永(トハ)の光明を遺(ノコ)す。
註] 落雁:“落雁の美女”・王昭君のこと、王昭君が琵琶を奏でると、美貌と琵琶の
音に誘われて飛んでいる雁が落ちたという伝説に拠る。熊本城の接見の間の壁画
には王昭君の絵が描かれている; 峨峨:高く聳え立つさま; 白川:阿蘇外輪に
発し、熊本市街を流れる川; 虎助:加藤虎之助清正公の略。
<現代語訳>
蘇軾「和孔密州五绝 東欄梨花」に次韻す
加藤虎之助清正公の業績を讃える
昭君の間では、青々とした老松の木陰で琵琶を奏でる“落雁の美女”が賓客を迎える、
高く聳え立ち 遥かに仰ぎ見る熊本城。
阿蘇外輪に発する白川は街を巡って流れ 民の生活を潤しており、
清正公は 築城・治水等 民に今に至る光明を遺している。
<簡体字およびピンイン>
次韵苏轼「和孔密州五绝 东栏梨花」
称赞加藤虎之助请正的成就
落雁邀客老松青, Luòyàn yāo kè lǎo sōng qīng,
仰望峨峨熊本城。 yǎn wàng é é Xióngběn chéng.
白川循街润花木, Báichuān xún jiē rùn huā mù,
虎助遺民永光明。 Hǔzhù yí mín yǒng guāngmíng.
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<蘇軾の詩>
和孔密州五絶 東欄梨花 [下平声九青 八庚韵]
梨花淡白柳深青, 梨花(リカ)は淡白 柳は深青(シンセイ)」,
柳絮飛時花满城。 柳絮(リュウジョ) 飛ぶ時 花 城に满つ。
惆悵東欄一株雪, 惆悵(チュウチョウ)す 東欄(トウラン) 一株(イッシュ)の雪,
人生看得幾请明。 人生 看(ミ)得(ウ)るは幾(イク)请明(セイメイ)。
註] 五絶:絶句五首の意; 東欄梨花:密州の官舎の東の欄干の傍らに咲いていた
梨の花; 柳絮:柳の種についた白毛。暮春のころ綿のように乱れ飛ぶ;
惆悵:悲しみ歎くようす; 一株雪:梨の花を雪に譬えた; 请明:春分の後
十五日目。陽暦の四月五、六日ごろ。
<現代語訳>
東欄の梨花
梨の花はほんのりと白く、柳の葉は深い緑色,
柳の綿が舞う頃、花は町中に咲き誇る。
胸が傷むのは あの東の欄干のそばに雪のように咲いていた梨の花の思い出、
短い人生 これから何回このような素晴らしい春の景色と出会えるだろう。
[石川忠久 「NHK新漢詩紀行」に拠る]
<簡体字およびピンイン>
東欄梨花 Dōng lán lí huā
梨花谈白柳深青, Lí huā tánbái liǔ shēnqīng,
柳絮飞时花满城。 liǔxù fēi shí huā mǎn chéng.
惆怅东栏一株雪, Chóuchàng dōng lán yī zhū xuě,
人生看得几请明。 rénshēng kàn dé jǐ qīngmíng.
ooooooooooooo
2016(平成28)年4月14~16日に激しい地震(最大震度7)が熊本地方を襲い、さしもの熊本城も倒壊した。あれから5年、天守閣は再建できたが、多くの重要文化財に属する建造物などは未だに手つかずの状態である と。
筆者が最近に熊本城を訪ねたのは、2011年4月であった。天守閣内を巡って、最も印象的で、鮮明に脳裏に焼き付いたのは「昭君の間」の障壁画(上掲写真参照)であった。人工物は壊れるという摂理があるにしても、障壁画の被災・復旧状況が気がかりな点ではある。再度観ることができるであろうか。
一方、同障壁画の鮮やかさ、と王昭君が何故に熊本城内に?との思いが綯い交ぜになって、未だに胸の奥に蟠っている。清正が秀頼公を迎えるために狩野派の絵師に描かせたもので、中国・明時代に著された帝王学の教科書・「帝鑑図説」に拠るとされている。同著書は、秀頼が愛読していた書物であったという。
それにしても、“図説”中幾百もの絵物語から王昭君の物語を選んだ意図は?気になります。結局、秀頼を同間に迎えることは叶えられなかったようで、「将軍の間」となる筈が「昭君の間」となった とダジャレで語られることがあるようです。方広寺鐘の「国家安康 君臣豊楽」に類するか?とも思える。
清正は、肥後に入国後、自ら船に乗り、何度も白川を往復して検分し、治水対策に意を注いだと。特に白川、坪井川について、流路を変更し、防衛上、城の内堀、外堀とし、また治水対策、流域の穀倉地帯への潅水など、今日の肥後平野の基礎を造ったとされる。
蘇軾の詩は、42歳の作(1077)。4年間の密州(現・山東省諸城市)知事を務め、徐州(現・江蘇省徐州市)知事に転任した。その折、後任の孔宗翰(ソウカン、孔子46代の孫)知事から詩を贈られたため、それに答えて詠った作品である。
起句での梨花の淡い白と柳の深い緑、絵画にも秀でた才の蘇軾の色使いの感性が現れた詩と言えよう。東の欄干の傍に咲いていた、あの美しい梨花の情景を思い出して、この先、何度見ることができるのであろう と感傷的に詠っています。
[註]
王昭君の伝説については、前回・閑話休題242 句題和歌シリーズをご参照ください。王昭君に纏わる漢詩および和歌を話題としました。