愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 187 飛蓬-94 小倉百人一首:(素性法師)今来むと 

2020-12-31 09:51:52 | 漢詩を読む
(21番)今来むと 言ひしばかりに 長月(ナガツキ)の 
      有明(アリアケ)の月を 待ち出(イ)でつるかな 
          素性法師 『古今集』恋4・691 
<訳> 
「今すぐに参ります」とあなたが言ったばかりに、9月の夜長をひたすら眠らずに待っているうちに、夜明けに出る有明の月が出てきてしまいました。(小倉山荘氏) 

oooooooooooooo
今行くよ と言われたので、身繕いして休まずに待っていたのに、……との解釈(=上記<訳>)。今一つ:今夜こそは見えるか と毎夜ずっと待ち続けて、とうとう夜長の九月に至った、……との解釈もなされている。素性法師の女性の立場から詠われた一首です。 

素性法師は、生没年不詳、50代桓武天皇(在位781~806)の曽孫にあたり、父・僧正遍照(百人一首-12番、閑話休題-128)の指示で若年時に出家されている。ユーモア溢れる軽妙でサラリとした歌の作風で、独特の世界を表出している。三十六歌仙の一人である。 

漢詩化するに当たって、二つの解釈のうち、“情”がより濃密に感じられる上記<訳>に従った。五言絶句としました。 

xxxxxxxxxxxxx 
<漢詩原文および読み下し文>  [下平声十二侵韻] 
 白等盼望的人  盼望(マチノゾム)人 白(ムダ)に等(マ)つ 
就来動我心,  就(ス)ぐ来る が我が心を動かし, 
摄衣待来臨。  衣を摄(トトノ)えて来臨を待つ。 
不覚黎明月,  覚(オボ)えず 黎明(レイメイ)の月,
季秋寂蟀音。  季秋(キシュウ) 蟀(シュツ)の音(ネ)寂し。 
 註] 
  摄衣:身繕いをする。    季秋:晩秋、陰暦9月。 
  蟀:コオロギ。

<現代語訳> 
 待ち人来らず 
今行くよ の一言に心動かされて、 
身繕いを整えて来訪を待った。 
待ちに待ち、気づかぬうちに有明の月が出ていて、 
長月の夜更けコオロギが寂しく鳴いている。 

<簡体字およびピンイン> 
 白等盼望的人 Bái děng pànwàng de rén 
就来动我心, Jiù lái dòng wǒ xīn, 
摄衣待来临。 shè yī dài láilín.  
不觉黎明月, Bù jué límíng yuè,  
季秋寂蟀音。 jìqiū jì shuài yīn. 
xxxxxxxxxxxxxx

素性法師は、僧正遍照の在俗時の子息で、桓武天皇の曽孫にあたる。56代清和天皇(在位858~876)の時代に左近将監まで昇進して殿上人となったが、「法師の子は法師になるがよい」との父の指示で出家した と。父とともに、宮廷に近い僧侶として和歌の道で活躍した。

後に54代仁明天皇(在位833~850)の皇子・常康親王(?~869)が出家して雲林院を御所としたとき(851)、親子で出入りを許されていた。親王薨御後は、遍照が同院の管理を任され、また父没後、素性は同院に住まい、和歌・漢詩の会の場としていた と。

59代宇多天皇(在位887~897)の歌合にしばしば招かれて歌を詠んでいる。896年、宇多帝の雲林院に行幸の日に権律師となり、後に大和・石上(イソノカミ)の良因院に移った。898年、宇多上皇の大和国御幸に際し,同院に立ち寄った上皇に召され、供奉して諸所で和歌を奉る。

60代醍醐天皇(在位897~930)にも寵遇を受けたようである。909年、御前に召されて屏風歌を書いている。なお雲林院は、現京都北区紫野に、良因院は現天理市にあったが、両院ともに廃され、現在はない。

素性の歌は、上掲の歌に見られるように、独特の作風によるユーモアに溢れた軽妙で機知に富んだ歌である。三十六歌仙の一人で、古今和歌集では36首入集し、歌数第四位という。勅撰入集は63首。家集に後世の他撰による『素性集』がある。

素性の亡くなった際には、紀貫之や凡河内躬恒が追慕の歌を詠んでいるようで、生前から歌人としての名声は高かったことが窺われる。

素性法師の名歌の一つと讃えられる一首を読んで素性法師紹介の締めとします。秋の紅葉を錦にたとえるのが常識であった当時、新たな美として「春の錦」を提示しています。“都踊り”を思わせる優美な歌である。後に藤原定家や後鳥羽院に影響を与えたとされています。

見渡せば 柳桜を こきまぜて 
   都ぞ春の 錦なりける (古今和歌集 春 素性法師)
  [桜の花盛り 都大路に植えられた柳の若緑が桜の淡いピンクと
  混在している そのさまはまるで錦のようではないか](小倉山荘氏)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 186 飛蓬-93 小倉百人一首:(藤原興風)誰をかも 

2020-12-27 10:01:54 | 漢詩を読む
34番 誰(タレ)をかも しる人にせむ 高砂の  
      松もむかしの 友ならなくに 
         藤原興風(オキカゼ) 『古今集』雑上・909 
<訳> 私はいったい誰を心の許せる友としたらいいのでしょうか。あの千年の寿命を保っている松でさえも、昔からの友ではないのに。(板野博行)

oooooooooooo 
親しい友は一人また一人と亡くなっていった。青葉を保つ松とて、曽て誼を結んだことはなく、今更である。これから胸襟を開いて話し合える友をどうしたものか と。作者何歳時の作か不明であるが、人生の重い課題を問う歌ではある。 

作者・藤原興風は、“我が世の春”を謳歌する多くの藤原氏族の中では、さして恵まれたとは言えない家系にあったようで、地方官を重ねている。時代を遡れば、日本最古の歌論書『歌経標式』を著したご先祖・浜成が居り、優れた歌才を受け継いでいると言えよう。 

率直な気持ちを詠った歌であり、調子を合わせて五言絶句としました。 

xxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文>  [上平声十四寒・十一真韻]  
 郁郁不楽   郁郁(イクイク)として楽しまず 
今和誰結懽, 今や誰と懽(カン)を結ばん,
石友各成塵。 石友(セキユウ)は各(オノ)おの塵と成る。
高砂松雖寿, 高砂(タカサゴ)の松 寿(イノチナガ)しと雖(イエド)も,
曾非那所親。 曾(カツ)て那(ソ)れは親しむ所に非(アラ)ず。 
 註] 
  結懽:友人として交際する。 石友:堅くて変わらぬ交わりをする友。 
  成塵:亡くなる。      雖寿:曹操:「亀雖寿」に依る。 
  高砂の松:現兵庫県高砂市の浜辺、白砂青松の名所。歌枕である。 

<現代語訳> 
 うつうつとして楽しまず 
今や誰と親しく友情を結んだらよいであろうか、
親友たちは一人また一人と已に亡くなっていった。
高砂の松は寿命が永く、未だに青々としているとはいえ、
それは昔から心が通じ合う友ではなかったのだ。

<簡体字およびピンイン>
 郁郁不乐 Yùyù bù lè 
今和谁结欢, Jīn hé shéi jié huān,
石友各成尘。 shí yǒu gè chéng chén.
高砂松虽寿, Gāoshā sōng suī shòu,
曾非那所亲。 céng fēi nà suǒ qīn.
xxxxxxxxxxxx

藤原興風は、生没不詳であるが、平安時代前期の歌人・官吏で、59代宇多天皇(在位887~897)のころ活躍した。数多くの歌合に出詠しており、『古今和歌集』(17首)以下の勅撰和歌集に38首入集、三十六歌仙の一人で、家集に『興風集』がある。管弦、特に琴に秀でていた と。

興風は、京家・藤原浜成の曾孫で、相模掾・道成の子息。父と二代続けて相模掾に任ぜられている。治部少丞を挟んで、上野権大掾、上総権大掾、位階は正六位上に至る。中央の政界では出世できず、父子ともに地方官を歴任している。

曾祖父・浜成(727~790)は、藤原・京家の祖、万葉歌人である麻呂(695~737)の嫡男である。46代孝謙(749~)-47代淳仁(758~)48代称徳(764~)-49代光仁(770~)-50代桓武天皇(781~806)に仕えた公卿・歌人である。

麻呂より一世代近く早く、他の藤原3家、南家・武智麻呂(680~737)、北家・房前(681~737)、式家・宇合(694~737)が誕生している。四者ともに不比等の子息であるが、麻呂は他3者の異母弟で、麻呂の母は五百重娘(天武夫人のち不比等の妻)、他3者の母は蘇我娼子である。

浜成は、従四位上(771)、参議に叙任(772)と出世されているが、他3家の同世代に比して出世は遅い。年齢差もあろうが、立太子や天皇の践祚の過程で他3家と歩調が合わなかった点も大きな要因であったようである。

特に山部親王(光仁帝第一皇子、後の桓武帝)の立太子に当たって、同親王の母の身分が低いことを理由に異を唱え、他の候補を立てて、激しく対立したようである。

後に山部親王が桓武帝として即位(781)すると、報復と思われ、浜成は太宰帥として下向、さらに太宰員外帥に降格される。また娘婿・氷上川継の変(782)に連座して、参議・侍従をも解任された。晩年は不遇な身に終わり、790年67歳で薨去された。

浜成と他3者と歩調が合わなかった深層には、皇統に関わる確執があったように思われる。称徳帝まで続いた天武系は、光仁帝で天智系に代わる。ただ光仁帝は、聖武帝の皇女・井上内親王を妻として他戸親王を設けていたことから、女系では天武系と言え、両系の“橋渡し役(?)”にも見える。

浜成は、歌論書『歌経標式』を光仁帝に献上しており、光仁帝は浜成の文学的才能を高く評価されていたようである。同帝の時期に順調に昇進を重ねている。ただ同書に引用された皇族歌人の数は、天武系に偏っている と。

祖母・五百重娘は、不比等の前に天武夫人であったこと。さらに娘婿・氷上川継は天武帝の曾孫にあたる等々、天武系により深い繋がりがあるように思われる。浜成は、天武帝に対して愛着と尊敬の念を抱いていたのではないか と推測されている。

光仁期は、ある種節目にあたる激動の変革期にあり、浜成はその大波に飲まれた偉人の一人であったように読める。藤原京家は、以後衰退していった と。上掲の歌の作者・興風およびその父・道成は、その余波を受けていたのであろう。

興風の別の面を示す歌を紹介して、本項の締めとします。管弦、特に琴に秀でていたようで、女性に人気があったのではないでしょうか。「あなたは本気なのかしら」と言ってきた恋人に、我が恋心は尽きることはないよ と応えているようです。

わが恋を 知らむと思えば、田子の浦に 
   たつらむ波の 数をかぞえよ (後撰和歌集 恋 藤原興風) 
  [わたしの恋心がどれほどのものか知りたいと思うなら 
  田子の浦に立つであろう波の数をかぞえてみなさい](小倉山荘氏) 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 185 飛蓬-92 はやぶさ2が届けた「玉手箱」 

2020-12-22 09:34:35 | 漢詩を読む
令和2年12月7日(月)の昼、TVニュースで、街の雑踏の中で涙に潤む目にハンカチを当てている中年女性の顔が大写しされた。さらに若者、中年、……とマイクを向けられて、誰もが感激の一声を発していた。快挙!と。

朝の新聞でも一面に“46億年のタイムカプセル”、“生命誕生の謎 迫れるか”、“技術で欧米に10年先行”(毎日)等々、胸の躍る見出しで飾り、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の宇宙の旅計画(サンプルリターンプロジェクト)の成功を報じた。

この一年、コロナに泣かされて来た一年であった。国際交流もままならず、友との語らいの場も消え、一家団欒の機会さえ脅かされる状況である。国内ばかりでなく、全地球の人々の命が脅かされており、鬱陶しい日々である。

そんな中での JAXAの快挙である。大げさでなく、心の憂さを吹っ飛ばしてくれた。胸の内で快哉を発し、あるいは感激のあまり涙した人も多々居たと思う。筆者も快哉に、胸の熱くなるのを覚えた一人である。

その思いを漢詩として書き留め置くことにした。下記ご参照ください。 

xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [上声七麌韻]
庚子晩祥禽隼的玉匣 
    庚子(コウシ)の晩(クレ) 祥禽(ショウキン)隼(ハヤブサ)の玉匣(ギョクコウ)
六龍導航祥禽隼, 六龍(ロクリュウ) 祥禽 隼を導航(ドウコウ)し,
萬里啄取龍宮土。 萬里に龍宮の土を啄取(タクシュ)せしむ。
流星一閃澳砂漠, 流星一閃(イッセン) 澳(オウ)の砂漠,
誰不歡喜疼頰部。 誰か疼(イタ)む頰部(ホオブ)に歡喜せざらんや。
 註]
  庚子:令和二年。       玉匣:玉の小箱、玉手箱、カプセル。 
  六龍:太陽を乗せた車を牽く六頭の龍。郭璞(カクハク):遊仙詩 其四、
    六龍安可頓 に依る。此処ではJAXA。 
  導航:飛行機などを誘導する。 啄取:ついばみ取る。“取”は助辞。
  龍宮:(神話の)竜宮城、此処では小惑星の名称。 
  澳:豪州、オーストラリア。 
  疼頰部:頰部をつねって痛いことで、夢でなく現実であることを知る。

<現代語訳>
 令和2年の暮れ、祥禽・隼 玉手箱 齎(モタラ)す
JAXAは宇宙を高速で飛ぶ「はやぶさ2」を誘導し、 
万里の小惑星・竜宮の土を啄取させる。
土の入った玉手箱は、豪州の砂漠に一瞬の流星の尾をひいて降りる、
つねった頬の痛みで夢でないことを知り、誰しもが歓喜したことだ。 

<簡体字およびピンイン>
庚子晩祥禽隼的玉匣 Gēngzi wǎn xiáng qín sǔn de yùxiá

六龙导航祥禽隼, Liùlóng dǎoháng xiáng qín sǔn,
万里啄取龙宫土。 wànlǐ zhuó qǔ lónggōng .  
流星一闪澳沙漠, Liúxīng yī shǎn Ào shāmò,  
谁不欢喜疼颊部。 shéi bù huānxǐ téng jiá .  
xxxxxxxxxxxxxxxxx

“はやぶさ2”が、まさに6年に及ぶ地球‐小惑星・竜宮間の長旅を完遂。竜宮から、2回にわたって“啄んだ”土(砂、岩石のかけら?)をしまい込んだ玉手箱(カプエル)を豪州のウーメラ砂漠に無事に届けてくれたのである。

3億km離れた地球-竜宮の間、52,4億km飛んで往復。“はやぶさ2”は、さらに113億km離れた小惑星の探査へと宇宙へ舞い戻った と。技術の粋を結集したミクロン以下の精度の部品からなる極精細な機器をゴロゴロと岩石が散在するその隙間に着地 と。

この長旅を再現する諸々の極大・極微小な数字群、また齎されるであろう大きな科学的成果等々、実は、筆者の想像・実感する力からはるかに食みだすものばかりではある。ただ,とてつもない成果が齎されるであろう佳い夢をみせてくれた感激は他の人に劣らない。

英国ではワクチンの接種も開始された。その波は徐々に他国にも広がっていくことでしょう。我が国でも、2機関でワクチン研究開発が進行中で、臨床第I相試験の開始が伝えられている。トンネルの先に微かな光が見えているように思える。

“はやぶさ2”が齎した感激を機に、他力本願ながら、さらにコロナ感染症撲滅に向けた光がより輝きを増していくよう願って止まない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 184 飛蓬-91 小倉百人一首:(中納言朝忠)逢ふことの

2020-12-20 09:28:57 | 漢詩を読む
(44番)逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに  
      人をも身をも 恨みざらまし 
         中納言朝忠 『拾遺集』恋一・678 
<訳> もし、あなたと逢うことがなかったら、あなたの無情やわが身のつらさを恨んだりすることもないだろうに。(板野博行) 

ooooooooooooooo
なまじ逢ったことがあるだけに、今の君の冷淡な振る舞いに、また自分の辛い運命に恨み言も言いたくなるのだよ と。恋慕の情はますます募り、遣る瀬無い思いに駆られている様子が読み取れます。

作者は、中納言朝忠こと藤原朝忠(910~967)、従三位・中納言まで昇進した平安中期の公家・歌人。三十六歌仙の一人で、漢文にも優れ、和楽器・笙の名手でもあったと伝えられている。

「恨み節」の七言絶句としました。

xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文>  [去声十四願韻] 
 怨言 怨言(エンゲン) 
好久没有逢機会, 好久(ズイブン)と逢う機会なく,
不勝恋慕転愁闷。 恋慕(レンボ)に勝(タ)えず 転(ウタ)た愁闷(シュウモン)。
曾無経歴所相爱, 曾て相愛せし所の経歴無かりせば,
対自和君何抱恨。 自(ミズカラ)和(ト)君に対し 何ぞ恨みを抱(イダ)かんか。 
 註] 
  好久:長い間。     転:だんだん甚だしくなるさま。 
  愁闷:気が滅入る。
  
<現代語訳> 
 恨み節 
長らく逢う機会がなくなって、 
思慕の念に堪えられず、ますます気が滅入ってくる。
嘗て愛し合ったことがなかったなら、
自分にもまた君にも、こんなに恨みを抱くことはなかったろうに。

<簡体字およびピンイン> 
 怨言 Yuànyán 
好久没有逢机会, Hǎojiǔ méiyǒu féng jīhuì, 
不胜恋慕转愁闷。 bùshèng liànmù zhuǎn chóumèn. 
曾无经历所相爱, Céng wú jīnglì suǒ xiāng'ài, 
对自和君何抱恨。 duì zì hé jūn hé bàohèn. 
xxxxxxxxxxxxxxx

歌の作者・藤原朝忠は、藤原北家高藤流、右大臣・藤原定方(百人一首-25番、閑話休題-129)の五男。官位は、従三位・中納言まで昇進、60代醍醐-61代朱雀-62代村上天皇の3代にわたり厚い信任を受けていた。

上掲の和歌について少々触れておく必要がある。同歌は、村上天皇主催の天徳内裏歌合(960、閑話休題-132)では「まだ逢ったことのない相手への恋(未逢恋)」の題部で詠われ、“勝ち”を収めた歌のようである。『拾遺和歌集』にもその部類として載っている と。

しかし藤原定家は、「一度逢ったのち何かの事情で逢えなくなった恋(逢不逢恋)」、失恋の歌として読んだ。後世の主たる百人一首の注釈書も同様の解釈を採っている と。漢訳はその解釈に従った。但しこの歌は、朝忠51歳時の作のようではあるが。

歌人として『後撰和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に21首を入集され、家集に『朝忠集』がある。三十六歌仙の一人である。天徳内裏歌合では巻頭歌を出詠しており、また6番中5番で“勝ち”を収めているということで、名に恥じない優れた歌人と言えよう。

和楽器の笛・笙の名手ということで、女性にモテたようである。少弐、大輔、右近衛府(右近)などの宮廷の才女、また村上天皇の中宮や女御に仕える才女たちとの恋の贈答歌が遺されている と。恋人という話題のあった右近の一首は百人一首に選ばれている(38番、閑話休題-136)。

中納言朝忠の逸話として、時々見掛けるのに「水飯の事」がある。その話の筋はこうである。普段の立ち居振る舞いにも難儀をかこつ肥満の三条中納言が、思い余って医者にダイエット法を相談した。医者は、「冬は湯漬け、夏は水漬け」で食事をするよう助言する。

暫く経って医者を呼びつけ、“助言通りにしたが、一向に効き目がない”と言い、賄い役に“水飯”を用意させ、食事摂取の具合を再現した。3寸切り干し瓜十ほど盛った食器、尾頭つき大ぶりの鮎の塩辛三十ばかり、それに大盛りのご飯に水を入れた椀が並べられた。

三条中納言は、干し瓜を五つ六つ、塩辛五つ六つをぺろりと平らげ、水飯の椀を取り空っぽにする。これを2,3度おかわりして、ご飯のお櫃も追加し、出された食べ物を平らげる。医者はその様子を見て、“御太りなど治るはずはない”と言って逃げ去った と。

『宇治拾遺物語』にある話であるが、“三条中納言”とは、藤原定方の六男・朝成の号である。因みに朝忠の号は、“土御門中納言”または“堤中納言”とされている。

歴史のどっかで話題の主が、朝成から朝忠に化けたようである。話を混乱させているのは、朝成も才賢く、唐(モロコシ)に詳しく、笙の腕前も見事、ともに定方の子息で“中納言”と、重なる部分が多いことによるのであろうか。

本稿の本論からやや逸れた話題ではあるが、“普段の立ち居振る舞いにも難儀をかこつ”ほどの肥満体では、上掲の歌のイメージとあまりにも掛け離れているため、敢えて朝忠の“名誉(?)”にかけて触れることにしました。

天徳内裏歌合に出詠された朝忠の歌をもう一首紹介して本稿の締めとします。

わが宿の 梅が枝に鳴く 鶯は 
   風のたよりに 香をや尋めこし (玉葉集 42) 
  [私の居る家の梅の枝で鳴く鴬は 風の案内によって香りを求めて 
  やって来たのだろうか] (Wikipedia)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 183 飛蓬-90 小倉百人一首:(大中臣能宣)夜は燃え 

2020-12-14 09:31:43 | 漢詩を読む
49番 御垣守(ミカキモリ) 衛士(ゑジ)の焚く火の 夜は燃え
     昼は消えつつ ものをこそ思へ 
        大中臣能宣(オオナカオミヨシノブ)『詞花集』恋上・225 
<訳> 宮中の門を警護する衛士のたくかがり火が、夜は燃え昼には消えるように、私の恋の炎も夜は激しく燃え上がり、昼は消え入るばかりに物思いに沈む日が続くことだ。(板野博行)

ooooooooooooo
夜に焚かれる宮門の篝火が昼に消えるように、我が恋の炎も夜に激しく燃え上がり、恋人に離れた昼間には思いが募るばかりで滅入ってしまう と。街灯のない時代の暗闇に、天を焦がすほどに燃え上がる炎の情景が想像されて、恋の炎の熱さが一層思われる。

作者・大中臣能宣は、伊勢神宮の祭主で、歌才にすぐれ、三十六歌仙の一人である。951年、62代村上天皇の命で“梨壷の五人”の一人として、『万葉集』の訓読や『後撰和歌集』の編纂に関わっている。家集に『能宣集』がある。

五言絶句の漢詩としました。

xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文>  [下平声十二侵韻]  
 難以控制的恋愛心 控制(コウセイ)し難き恋愛の心 
衛士焚篝火, 衛士(エジ)の焚(タ)く篝火(カガリビ)は,
似人恋愛心。 人(ヒト)が恋愛(レンアイ)の心に似る。
夜燃天隠没, 夜は燃(モ)え 天(ヒル)は隠没(キエ)て,
纏綿念弥深。 纏綿(テンメン)として念(オモ)い弥(イヨ)いよ深し。 
 註] 
  難以:…しがたい。     控制:抑える。 
  隠没:隠れて見えなくなる。 天:昼間。 
  纏綿:(感情が)まつわりつく。 

<現代語訳> 
 制御し難きは恋心 
宮殿の門の衛士が焚く篝火の
人の恋する心に似ていることよ。
夜は燃えて、昼間には消えて、
我が思いは、心にまつわりついて深くなるばかりである。

<簡体字およびピンイン> 
 难以控制的恋爱心 Nányǐ kòngzhì de liàn'ài xīn 
卫士焚篝火, Wèishì fén gōuhuǒ, 
似人恋爱心。 sì rén liàn'ài xīn. 
夜燃天隐没, Yè rán tiān yǐnmò, 
缠绵念弥深。 chánmián niàn mí shēn. 
xxxxxxxxxxxxxxxx

大中臣家は代々、伊勢神宮の祭主の家柄で、父・大中臣頼基は同祭主、神祇大副(ジンギタイフ)であった。大中臣能宣(921~991)自身、伊勢神宮祭主(973)・神祇大副となり、986年正四位下に叙位されている。

父・頼基が優れた歌人で、その影響で能宣は若いころから歌に親しみ、その才能を発揮していた。その血は能宣の孫娘・伊勢大輔(タイフ、百人一首-61番)に継がれていく。能宣は、31歳で当代歌人の代表者の一人として“梨壷の五人”(閑話休題-161)に選ばれている。

因みに“梨壷の五人”とは、各人の能力や立場に応じて選ばれ、能宣と清原元輔(百人一首-42番、閑話休題-139)が歌人の代表者、源順(シタゴウ)は和漢にわたる学識者、紀時文は能筆者、また坂上望城(モチキ)は御書所の図書責任者等から成る。

能宣は、三十六歌仙の一人に選ばれており、『拾遺和歌集』(59首)以下の勅撰和歌集に124首が入集されている。家集に『能宣集』がある。かの有名な「天徳四年内裏歌合」(960、閑話休題-132)はじめ多くの歌合せに出詠している。

実は、上掲の歌「御垣守」は、能宣の作品ではないのでは と疑問が呈されている。まず家集である『能宣集』に集載されていない。一方、私撰集の『古今和歌六帖』(970~984頃成立)に“詠み人知らず”として次の歌がある と。 

 御垣守 衛士の焚く火の 昼はたえ
夜は燃えつつ ものをこそ思へ(詠み人知らず)

とは言え、能宣の歌才に疑問符が付くわけではない。当時、能宣は、権門の求めに応じて屏風歌や行事和歌の専門歌人として清原元輔と双璧をなしていたようである。行事和歌に関連して次のような逸話が伝わっている。

59代宇多天皇(在位887~897)の第八皇子・敦実(アツミ、893~967)親王家の“子(ネ)の日遊び”に招かれて、次のような歌(下記)を献じた。礼儀としての招待主を言祝ぐ趣旨の歌と言えよう。(註:“子の日遊び”とは、正月の子(ネ)の日に、野に出て小松を引き抜いて、千代を祝う行事。)

能宣は、よくできたと自賛して父の頼基に提示した。恐らく父の賞賛の一声を期待していたであろう。しかし頼基は何回かこの歌を吟じていたが、突然、枕を投げつけて、「帝に招かれた折、これ以上どんな歌を詠めるというのだ」と怒鳴りつけたという。

 ちとせまで かぎれる松も 今日よりは
   君に引かれて よろず代や経む
[松でさえ寿命は千年と限られているが、今日からは君に引きずられて万年の 
  寿命となるであろうよ]
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする