愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 125 旅-6、 唐/白居易(楽天)--香炉峰下新卜山居……

2019-11-23 14:54:45 | 漢詩を読む
この一対の句:
遺愛寺の鐘の音は枕を斜めにして聴き、
香炉峰の雪はすだれを撥ねあげて、窓越しにみる。

追ったてられるような毎日の宮仕えよ サヨウナラ! 日が高くなるまでゆっくりと休んで、なお、布団にくるまったままでお寺の鐘に耳を澄まし、遥かに香炉峰の雪を見遣る。新しくできた草堂での、身も心も安らかな一日が始まります。

白居易は、長安の都で高級官僚として出世コースに乗っていた。しかし40代半ば、江州に左遷され、大きな挫折を味わうことになります。左遷の3年目、件の草堂を構え、悠々自適を決め込みます。長安のみが故郷ではあるまい、と嘯きながら。

詩題にあるように、新しい草堂ができた折に作った白居易の詩、七言律詩です。下に示しました。

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<漢詩原文および読み下し文>
---香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁
-----香炉峰下新たに山居を卜(ボク)し草堂初めて成り偶(タマ)たま東壁に題す
日高睡足猶慵起、 日高く睡(ネム)り足りて猶お起くるに慵(モノウ)し、
小閣重衾不怕寒。 小閣に衾(シトネ)を重ねて 寒さを怕(オソ)れず。
遺愛寺鐘欹枕聴、 遺愛寺の鐘は枕を欹(ソバダ)てて聴き、
香炉峰雪撥簾看。 香炉峰の雪は簾(スダレ)を撥(カカ)けて看(ミ)る。
匡廬便是逃名地、 匡廬(キョウロ)は便(スナワ)ち是れ名を逃(ノガ)るるの地、
司馬仍為送老官。 司馬は仍(ナ)お老いを送るの官為(タ)り。
心泰身寧是帰処、 心泰(ヤス)く身寧(ヤス)きは是れ帰する処、
故鄕何独在長安。 故鄕 何ぞ独(ヒト)り長安にのみ在(ア)らんや。
----註]
香炉峰:廬山の北峰の名。   山居:山中の住居。
卜:占いで場所を定める。   
匡廬:廬山の別名。周代に仙人の匡俗(字な君平)が隠れ住んだことに依る。
逃名:名声や名誉心から逃避する。
司馬:州の長官を補佐する役。 泰:やすらかでのびのびしていること。
寧:おだやかで触りがないこと。帰処:落ち着くべき所。最終目的地。

<現代語訳>
---香炉峰の麓に草堂ができたのを機会に詩を作る
日が高く昇るまで十分に寝たが、まだ起きるのは億劫だ、
小さな部屋で布団にくるまっていると、寒いことはない。
遺愛寺の鐘の音は枕を斜めにして聴き、
香炉峰の雪はすだれを撥ねあげて、窓越しにみる。
廬山は、俗世間から逃れるのにふさわしいところであり、
長官の補佐役は、老人が余生を送るのに丁度よい官職だ。
身も心も安らかであれば、安住の所と言ってよい、
どうして長安だけが故郷であろうか。
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先に小倉百人一首から清少納言の歌(62番)の漢詩版を紹介しました(閑話休題123、飛蓬シリース35 ご参照)。その歌では、中国 戦国時代の故事--秦国の追捕から逃れる孟嘗君の話—が歌い込まれていました。

清少納言の教養の高さが伺われる歌でした。彼女には、今一つ才気渙発なことを示す逸話があります。上に挙げた白居易の詩と関係した事柄で、ご存じの方が多いと思いますが。

清少納言が、著書『枕草子』(「雪のいと高う降りたるを」の段)に自ら書いている話で、そのあらすじは以下のとおりです:

“随分と雪が降っていた折、女房たちが中宮定子(テイシ)を中心に火鉢を囲んで談笑していた。中宮が、私に「少納言よ、香炉峰の雪はどうであろうか?」と聞かれた。私は他の女房に格子を上げ、御簾を巻き上げさせた。

中宮は、ニコッ とされた。他の女房たちは、白居易の詩の事についてはよく知っていたし、歌にも詠んだりしていたが、私のしたことは、「思いもよらないこと、さすがに中宮に仕えるにふさわしい人だ」と囁きあった。“ と。

ところで、廬山には北と南の2か所に“香炉峰”と呼ばれる峰があるという話。前回は李白/“望廬山瀑布”を読みました。滝が眺められる峰は、廬山の南に位置しているという。

一方、今回取り上げた白居易の詩が生まれたのは、北側にある“香炉峰“である という。陶淵明の世界にぞっこん惚れ込み、「陶潜の体に倣う十六首」などを書いている白居易としては、陶淵明の故郷に向かうよう北面に草堂を建てたのも頷けます。

白居易の「陶潜の体に倣う十六首」については以前に読んでいます。またその稿で、白居易の生涯について触れてありますので、ご参照いただきたく(閑話休題66、酒シリーズ3、’18.02.15)。
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閑話休題 124 旅-5、 唐/李白 廬山の瀑布(バクフ)を望む

2019-11-17 17:26:11 | 漢詩を読む
この一対の句:
飛流(ヒリュウ)直下三千尺、
疑うらくは 是れ銀河の九天より落つるかと。

長江の下流南岸域にある名山、廬山に掛かる滝の情景である。“三千尺”、“銀河が九天から落ちた…”など、いかにも李白らしい誇張表現ではある。しかしそれに相応しい天下一の名山・名所と言えるでしょう。

廬山は、文人・墨客の鑑賞の対象としてばかりでなく、いろいろな側面から人々の関心を引いています。ここでは漢詩を通して、廬山の姿を覗いていきます。まず、李白の「望廬山瀑布二首 其二」(下記参照)を読みます。

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<漢詩原文および読み下し文>
望廬山瀑布二首 其二 廬山の瀑布(バクフ)を望む二首 其の二
 
日照香炉生紫煙, 日は香炉(コウロ)を照らして紫烟(シエン)を生ず,
遙看瀑布挂長川。 遙かに看(ミ)る瀑布(バクフ)の長川(チョウセン)を挂(カ)くるを。
飛流直下三千尺, 飛流(ヒリュウ)直下三千尺,
疑是銀河落九天。 疑うらくは 是れ銀河の九天より落つるかと。
 註]
香炉:香を焚くための器。ここでは形が香炉に似た廬山の一つの峰、香炉峰。
紫煙:山気が日光に映じて紫色にかすんでいること。
三千尺:長い・高いことのたとえ。  九天:天の最も高い所。

<現代語訳>
廬山の香炉峰は太陽に照らされて、紫色の煙をくゆらしており、
遥か彼方には滝が長い川が掛かったように流れ落ちている。
滝は飛ぶように勢いよくまっすぐに三千尺も落ちており、
あたかも天の川が天空から落ちて来たのかと思われるほどである。
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廬山に文人・墨客が訪れる契機を作ったのは司馬遷であった。司馬遷は、前漢・武帝(在位BC156~BC87)の治世の頃、20歳のとき旅に出て、2年ほど放浪の旅を続けた。その折、廬山に登っており(BC126)、その模様を、後に彼の著書『史記』に記してある と。

以後、多くの詩人が廬山を訪ね、4,000首を越す廬山にまつわる山水の詩詞が詠まれている と。またその山容に魅せられた画家が筆を振るい、画の名作も生まれた。廬山は中国の山水詩、山水画の発祥の地とされている。

李白は、廬山を5度訪ねていて、 14首の詩を残している と。2年ほど宮廷詩人として玄宗皇帝に仕えていたが、讒言に遭い宮廷を追われます。以後10余年放浪の後、廬山の麓にしばらく隠棲していた。上記の詩は、その折の作とされています。

廬山は、ヒマラヤ造山運動で断層活動により隆起してできた地形で、さらに氷河期を経て、断裂構造から幾多の峰々を形成してきた。奇峰峻嶺が多く、秀麗なことから「匡廬(キョウロ)奇秀甲天下(匡廬の奇秀は天下一だ)」と称えられている。“匡廬”は廬山の別名である。

その山容・地形や地理的条件などから、中国の長い歴史を通じて関心の的であり続けてきた。文人・墨客の鑑賞の対象であり、諸宗教の聖地であり、政治・経済の活動の場であり、避暑地であり、また観光地なのである。

廬山およびその周囲を詩の視点から点描してみます。廬山は、江西省の長江下流南岸に位置する。長江からも見える高山で、最高峰の漢陽峰は海抜1,474m。詩の世界で関心が高いのは、香炉峰である。また廬山の北、長江に近く、陶淵明の故郷九江(市)があります。

廬山の南、南昌に近く、滕王閣がある。唐の高祖(李淵)の子で、滕王に封じられた李元嬰(ゲンエイ)が、洪州(南昌市)都督のときに築いた楼閣である。黄鶴楼(コウカクロウ)、岳陽楼(ガクヨウロウ)とともに江南三大楼閣の一つであり、初唐の詩人王勃(オウボツ)の詩で知られる。

西山麓には、西林寺や東林寺があり、詩によく現れます。いずれも中国における浄土仏教の祖とされている慧遠(エオン)と関連のある古刹です。西林寺に関連した詩については、先に触れたことがあります[閑話休題1(2015.4.12),2(同14),3(同17)]。

一部、口語訳を再録すると、廬山の真の姿とは?

蘇軾(東坡)「題西林壁」(西林の壁に題す)

横から見れば連なる嶺、側で見れば切り立つ峰、
見る位置の遠近高低によってそれぞれ違った姿となる。
廬山の真の姿がわからないのは、
自分がこの山の中にいるからなのだ。

以後、廬山に関わる詩を何首か読んでいきます。
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閑話休題 123 飛蓬-35 小倉百人一首:(清少納言) 夜をこめて

2019-11-08 10:41:15 | 漢詩を読む
 (62番) 夜をこめて 鳥のそらねを はかるとも
      よに逢坂の 関はゆるさじ
清少納言
<訳> まだ夜の深いうちに鶏の鳴き声をまねて上手くだまそうとしても、中国の函谷関ならともかく、あなたと私の間にある逢坂の関は決して通ることを許さないでしょう.(板野博行)

清少納言の教養と才気がほとばしり出た歌と言えるでしょう。しかし前置きの解説なしでは、難解な内容の歌です。歌のできた経緯について、漢詩では“序”として添えました。

深刻な恋の遣り取りではなく、非常に仲のよい友人同志の問答、軽口の叩きあいという雰囲気でしょうか。ともに教養を共有していて、丁々発止と渡り合っている情景が目に浮かびます。

とは言え、中国の故事や掛詞(カケコトバ)の技法(“会い・愛”と“逢”坂関)などが含まれていて、漢詩化するのに非常に難儀をした一首です。この歌を七言絶句にしました(下記参照)。ご批判頂けるとありがたいです。

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<漢字原文と読み下し文>
恋愛的争論     恋愛の争論  [上平声十五删韻]
序 有的夜半,行成先生在愉快地談笑中途退席回去了。次晨来了的他信説:「因今天的宮中儀式,昨晚被鶏
叫催促退席了」。我回答了:「您撒謊!您回去的不是即将晨鶏報暁之前,是夜半的」。于是発起来了的
交談如次。
問是田文函谷事, 是(コレ)は田文(デンブン)の函谷(カンコク)の事か と問えば,
言為通愛逢坂関。 愛を通(カヨ)わす逢坂関の事である と言う。
夜蘭策略学鶏叫, 夜蘭(ヤラン) 策略(サクヲメグ)らし 鶏(トリ)の学叫(マネナキ)しても,
衛士不開心自閒。 衛士は(関を)開くことなく、心には自ずから閒(カン)あり。
 註]
  田文:孟嘗君。中国・戦国時代の四君のひとり。
函谷:函谷関。
  逢坂関:山城国(京都)と近江国(滋賀)との国境となっていた関所。幹線の東海道と東山道の二本が越え
るため交通の要となる重要な関所であった。
  夜蘭:夜更け。 学鶏叫:鶏の鳴き声をまねる。
  閒:あいだ、二者の関係、物と物との隔たり。

<簡体字とピンイン>
恋爱的争论
序 有的夜半,行成先生在愉快地谈笑中途退席回去了。次晨来了的他信说:「因今天的宫中仪式,昨晚被鸡
叫催促退席了」。我回答了:「您撒谎!您回去的不是即将晨鸡报晓之前,是夜半的」。于是发起来了的
交谈如次。
问是田文函谷事, Wèn shì Tián Wén Hángǔ shì,
言为通爱逢坂关。 yán wèi tōng ài Féngbǎn guān.
夜阑策略学鸡叫, Yèlán cèlüè xué jījiào,
卫士不开心自閒。 wèishì bù kāi xīn zì jiān.

<現代語訳>
  恋の遣り取り
序 ある晩、大納言藤原行成さんは、話がはずんでいる最中に退席して帰ってしまった。翌朝便りが届
き、「今日宮中で儀式があるゆえ、昨晩は鶏の鳴き声に促されてそそくさと帰った」という。「嘘を
おっしゃい!(あなたと朝まで語り明かそうと思っていたのに)あなたがお帰りになったのは、一番
鶏が鳴く頃ではなく、夜中でしたよ」。と答えた。そこで次のような遣り取りをしたのである。

(鶏の鳴き声と言えば)孟嘗君の函谷関での話の事でしょうね と問うと、
いや、あなたと私の愛を通わす逢坂関の事ですよ と言う。
夜更けに鶏のまね鳴きをしたとしても(函谷関ならいざ知らず)、
衛士は、逢坂の関を開くことはなく(心が通うことはなく、)自ずと私の心は隔たったままですよ(と逢うことはないよと断りを入れた。)
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中国に“鶏鳴狗盗(ケイメイクトウ)”という故事成語があります。今回取り上げた歌の中心話題ですので、その故事について触れておきます。中国の戦国時代(BC403~BC221)の末に近く、戦国七雄が覇を競っていた頃の話です。

東の雄・斉(現山東省)の孟嘗君は、優れた統治能力を示し、当時四君の一人に数えられていた。彼は、何らかの一芸に秀でた人材、数千人の食客を養っていた。物まねがうまい、盗みが得意など、いずれも一芸の内であった。

一方、西の雄・秦(現甘粛省)では、第3代昭襄王の時代である。昭襄王は、56年もの長期にわたって在位し、秦を強国に育てた人物で、始皇帝の曽祖父に当たる。やはり人材を求めていた。

世上、孟嘗君の評判が高いことから、昭襄王は、孟嘗君を宰相に抜擢して、さらに国力の充実を図ることにした。両者の話し合いはうまく進み、孟嘗君は、BC298年秦に身を移します。

しかし、いざ宰相に という段階で異論が出た。「孟嘗君はなんといっても、斉王の叔父にあたる人物。わが秦の宰相になっても、ひそかに斉の利益を第一にするであろう」と。昭襄王も同調せざるを得ず、その処遇が取りざたされた。

空気を察した孟嘗君は秦を離れる策を練る。まず、昭襄王の寵姫・幸姫に狐白裘(コハクキュウ)を贈って、釈放するよう王に働きかけさせる。狐白裘は、王に贈った手土産の逸品であったが、食客の“盗みの名人(狗盗)”に盗ませたものである。

釈放された孟嘗君一行は、夜陰に乗じて東に逃げた(BC207)。やっと函谷関に至ったが、関は夜間には閉鎖され、一番鶏が鳴くまでは開かない。後方には追手が迫っている、さて….。そこで“物まねの名人”が進み出て、“時”をつくると、鶏どもは一斉に夜明けを告げ、関は開かれた(鶏鳴)。

この話は、中国の正史『史記』にあるという。ここでは、主に陳舜臣の歴史書の記載を参考にした。

清少納言と言えば、紫式部と対で語られますが、境遇もよく似ているようです。曽祖父・清原深養父および父・清原元輔ともに歌が百人一首に取り上げられています。

清少納言は966年生まれで、恵まれた家庭環境で、幼いころから和歌や漢字の英才教育を受けていた。974年(8歳ころ)父・元輔の周防守赴任に際して同行し、4年ほど田舎暮らしをしている。この点でも両人は類似点があるようです。

清少納言について、その名を高からしめているのは、随筆集『枕草子』を書き残していることによるでしょうか。同書は、第66代一条天皇(在位986~1011)の中宮定子(テイシ)に女房として仕えていたときに書かれています。

清少納言・紫式部ともに一条天皇(在位26年間)の頃に活躍しています。両人ともに一条天皇の中宮の女房として仕えていますが、清少納言が先輩にあたるでしょうか。ただし、仕えた中宮は異なりますが。

清少納言は、993年から第一中宮、定子の女房として仕えた。博学で才気渙発な彼女は、定子の恩寵を被り、さらに公家や殿上人との機知に富んだ応酬から、宮廷社会で羽振りの良い生活を送っていたようです。上に挙げた歌はその一端を示すものでしょう。

1001年に中宮定子が亡くなると、間もなく清少納言は宮仕えから去ります。その後の人生については、詳細は知られていず、没年も不明のようです。

一方、999年には、一条天皇の第二の中宮として彰子(ショウシ)が入内します。藤原道長の娘である。紫式部は、1006年彰子の女房として宮仕えします。その間の活躍については、前回に触れたとおりである。

さて清少納言と紫式部との間には、宮仕えの時期に10年弱の差があり、直接の接点はなかったようです。ただ、『紫式部日記』には清少納言を否定するような記載があるが、『枕草子』では紫式部に関する記載はない と言われています。

同時期に、一時代を画した宮廷女流歌人としてのご両人、我々第三者としてはやはり対比して見たくなります。しかし当人同志、取り立てて言う程の“ライバル”意識があったのでしょうか、どうでしょう?。

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