この一句:
靑血化為原上草
“流れ出た鮮血は、野原で姿を変えてヒナゲシとなった”と。長編詩「虞美人草」の中で、曽鞏の熱い想いが最も籠もったと思える中央部分(9~14句、下記ご参照)の中の一句です。
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虞美人草 (9~14句) 北宋 / 曾鞏
……(省略)……
三軍散尽旌旗倒, 三軍散じ尽して 旌旗(セイキ)倒れ,
玉帳佳人坐中老。 玉帳(ギョクチョウ)の佳人(カジン) 坐中に老ゆ。
香魂夜逐劍光飛, 香魂(コウコン) 夜 劍光を逐(オ)って飛び,
靑血化為原上草。 靑血(セイケツ)化して 原上(ゲンジョウ)の草と為(ナ)る。
芳心寂莫寄寒枝, 芳心(ホウシン) 寂莫(セキバク)として寒枝(カンシ)に寄り,
旧曲聞来似斂眉。 旧曲聞き来りて 眉を斂(オサ)むるに似たり。
……(省略)……
註]
三軍:全軍;先陣・中堅・後拒、または左翼・中軍・右翼など。
玉帳:将軍の陣屋のとばり
靑血:新しく流れた生血
寒枝:葉が落ちて、寒々として枝
旧曲:垓下で聞いた古い歌
<現代語訳>
(項羽の)軍勢は散り散りとなり、軍旗も倒れてしまい、
とばりの中の虞美人は居ながらにして老けてしまった。
亡くなった彼女の魂は、あの夜、剣の光を追うように飛び去り、
流れ出た鮮血は、野原で姿を変えてヒナゲシとなった。
(花の揺れる様子は,)けなげな虞美人の魂がひっそりと茎にすがっていて、
垓下で古い歌を聴いて眉根を寄せた(虞美人の)あの姿容に見える。
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垓下の陣中で目に見えて老いていく虞姫に、“虞や虞 若(ナンジ)を如何せん”と、剛の者項羽が弱音を吐く局面に至りました。項羽は、“時に利あらず”と詠いますが、曾鞏は、「虞美人草」の前部で、“天が滅ぼすに非ず”と詠っていました。
“天が滅ぼすに非ず”と詠われたその心とは? その“?”を念頭に置きながら、項羽・劉邦の戦いぶりを見て行きます。先ずは「鴻門の会」に至るまでの両雄の行軍の模様を見てみます。
項羽、劉邦の決起の状況は、先に概観しました。両雄は、上将項梁の下で、自ずと、対秦戦の状況へと発展していきます。対する秦軍の体制は如何だったでしょうか? 秦朝廷の内情から見て行きます。
始皇帝は、巡幸の途中、斉郡平原県で没した(BC210)。死の直前に長男扶蘇(フソ)に宛てた遺書を記しています:“咸陽で我が遺骸を迎えて葬れ、”と。扶蘇は、辺境の地で蒙恬(モウテン)将軍に預けられていたのです。帝は、扶蘇を後継者に指名したことを意味します。
趙高は、丞相の李斯と謀り遺書を改ざん、人望が厚かった扶蘇を自害へと追いやり、末子・胡亥(コガイ)を二世皇帝に据えた。さらに策を弄して、李斯をはじめ、有力な人々を次々に粛清、自ら丞相となり、権力をほしいままにします。
秦軍は、名将章邯(ショウカン)将軍に率いられて善戦していた。援軍として司馬欣(シバキン)らが加わり、陳勝らの本拠地・陳を攻撃して、BC208年陳勝を敗走させています。“腐っても鯛”よろしく、秦軍は善戦し、反乱軍を圧倒していきます。
陳勝呉広ら農民の造反で幕開けした大乱は、旧侯国の対秦復讐戦の様相を濃くしていきます。楚の懐王は諸将に、「最終目標は秦を滅ぼすこと。最初に関中を平定した者を関中の王にしよう」と諸将に約束しました。関中とは、函谷関の西、咸陽を中心とする地方のことです。
章邯率いる秦軍は、定陶で楚の上将軍項梁を敗死させます(BC208)。翌年、章邯は、趙の叛乱鎮圧のため趙に進撃、首都邯鄲を破壊しました。さらに距鹿(キョロク)城に逃れた趙王らを、部下の王離らに包囲させます。
項梁を失った楚軍では、懐王が宋義(ソウギ)を上将軍に、項羽を副将に任命します。しかし宋義は、趙が苦戦を強いられている中、46日間も動こうとしなかった。業を煮やした項羽は、宋義を殺害、趙の救援のため、自ら主将となって距鹿へ進軍した。
項羽は、全軍が漳河を渡り終えると、船をすべて沈め、鍋釜を壊し、携帯する食料を三日分に限る、“退却はないぞ”という決意を示した。“楚の戦士、一をもって十に当たらざるなし”と記録されるほどに奮戦し、章邯率いる秦軍を破った。史上名高い「距鹿の戦い」である。
増援依頼のため咸陽を訪れた司馬欣は、趙高から増援を断られたばかりか、自らの命も狙われる羽目に逢う。そこで章邯に対して、「勝・敗に関係なく、命が危ない、投降すべし」と勧める。章邯は、投降を決意し、項羽軍は、20万の兵を加えて咸陽へ急ぐ。
一方、3万超の身軽な劉邦軍は、碭(トウ)を発った後、黄河の南側を咸陽に向かう。進軍行動は、すべて軍師張良が放った諜報員の情報に基づいて決められる。時には人脈を活用して、また戦意が低い土地では素通り、または戦うが攻め滅ぼすことなく、先に進む。
強い反撃に会えば、戦いを避けて進む方向を変える。ただ南陽郡では素通り作戦を避けた。南陽郡は、大きな郡で数十の城があり、兵士も精強である。また人も物産も豊富なところである。したがって素通りして西へ進めば、必ず追撃に会うであろう と読んだ。
そこで、一旦素通りして後、踵を返して攻めることにした。ただし引き返す時には旗幟を取り替えたのである。つまり別動隊がいるものと思わせたのである。実際、南陽郡の宛城では、反撃はなく通過できた。逆に援軍の提供を受ける結果となったようである。
劉邦軍の進軍は、結果的にジグザグの行軍となったが、南陽から武関(函谷関の南に位置する当時の関所)を通過して、“関中に一番乗り”を果たした。実際は咸陽に入城する前に、覇水の辺の覇上(ハジョウ)に軍旅を解いた(BC206)。兵はほぼ10万に達していたようである。
秦側では、趙高の横暴は目に余るものがあった。二世皇帝を殺害して、扶蘇の子息・子嬰(シエイ)を秦王に据えた。今や“皇帝”とは言えず“秦王”としたのである。しかし趙高は、身の危険を感じた子嬰によって殺害される結果となった。
子嬰は、“組みひもを首にかけ、白馬に引かせた白木の車に乗って”覇上の劉邦のもとに参上した。降伏の作法に則ってきたのである。作法に則ってきた子嬰に対して作法によって対応する との考えで、子嬰を許した。咸陽の民すべてが安堵の感を持ったのである。
劉邦は、咸陽に入城した。諸宮殿の財宝には封を施した。後宮の三千とも言われる選りすぐりの美女たちにも目をくれることはなかった(?)。好色の劉邦にとっては、最も辛かったことであろう。張良や樊噲たちの諫言を聞き入れたのである。
劉邦軍は、咸陽を退去し、覇上に本陣を置いた。退去に際して劉邦は、秦の人たちと有名な『法三章』の約束をした。すなわち、秦の法律をすべて廃止して、“人を殺す者は死、人を傷つける者、盗みをする者はそれ相応の罪にあたる”と極めて簡単な三原則にする と。
劉邦が関中入りを果たした頃、項羽は、黄河を渡って新安(洛陽の東)に達した。そこで劉邦の関中入りを知る。項羽の怒りようは、想像に難くないでしょう。約40万の大軍であったことと、行く先々で戦い、攻め落とした後に進むという行軍行動が足を遅くしたようである。
関中に近づくにつれて、項羽軍内では不穏な空気が漂い始めていた。距鹿の戦い後に編入された20万の“関西兵”と項羽陣営純血の“関東兵”の確執である。そこで項羽は、捨て置けない と、「20万の“関西兵”を阬(アナ)うめに」と断を下したのでした。
項羽軍は、函谷関を通過するに当たって秦軍の頑強な抵抗に会ったという。“項羽は、城を陥落させると住民を皆殺しにする”という評判をすでに伝え聞いていたのです。「負けたら殺される」という恐怖心が戦意を高めていたのでしょう。
項羽もようやく関中に入り、鴻門に陣を布いた。劉邦が咸陽の財宝に手を触れていない状況を目にした范増は、“劉邦の志は小さくない”と判断、“劉邦は殺害すべし”と項羽に強く進言します。
項羽の到着を待って、劉邦は、鴻門の陣中に項羽を訪ねて弁明します。この「鴻門の会」の模様は、前々回(閑話休題94)に記した通りです。「鴻門の会」後の“漢楚の戦い”は、次回に見て行きます。
[蛇足]
劉邦は、覇上を「吉祥の地」と捉えていて、本陣を置く決め手の一つとしたようです。十数年前、宮殿造営のため駆り出されて、鞭打たれながら働かされていた。その折、親切な老婆が井戸から汲んで来た水を恵んでくれたのが、ここ覇上であった と。
靑血化為原上草
“流れ出た鮮血は、野原で姿を変えてヒナゲシとなった”と。長編詩「虞美人草」の中で、曽鞏の熱い想いが最も籠もったと思える中央部分(9~14句、下記ご参照)の中の一句です。
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虞美人草 (9~14句) 北宋 / 曾鞏
……(省略)……
三軍散尽旌旗倒, 三軍散じ尽して 旌旗(セイキ)倒れ,
玉帳佳人坐中老。 玉帳(ギョクチョウ)の佳人(カジン) 坐中に老ゆ。
香魂夜逐劍光飛, 香魂(コウコン) 夜 劍光を逐(オ)って飛び,
靑血化為原上草。 靑血(セイケツ)化して 原上(ゲンジョウ)の草と為(ナ)る。
芳心寂莫寄寒枝, 芳心(ホウシン) 寂莫(セキバク)として寒枝(カンシ)に寄り,
旧曲聞来似斂眉。 旧曲聞き来りて 眉を斂(オサ)むるに似たり。
……(省略)……
註]
三軍:全軍;先陣・中堅・後拒、または左翼・中軍・右翼など。
玉帳:将軍の陣屋のとばり
靑血:新しく流れた生血
寒枝:葉が落ちて、寒々として枝
旧曲:垓下で聞いた古い歌
<現代語訳>
(項羽の)軍勢は散り散りとなり、軍旗も倒れてしまい、
とばりの中の虞美人は居ながらにして老けてしまった。
亡くなった彼女の魂は、あの夜、剣の光を追うように飛び去り、
流れ出た鮮血は、野原で姿を変えてヒナゲシとなった。
(花の揺れる様子は,)けなげな虞美人の魂がひっそりと茎にすがっていて、
垓下で古い歌を聴いて眉根を寄せた(虞美人の)あの姿容に見える。
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垓下の陣中で目に見えて老いていく虞姫に、“虞や虞 若(ナンジ)を如何せん”と、剛の者項羽が弱音を吐く局面に至りました。項羽は、“時に利あらず”と詠いますが、曾鞏は、「虞美人草」の前部で、“天が滅ぼすに非ず”と詠っていました。
“天が滅ぼすに非ず”と詠われたその心とは? その“?”を念頭に置きながら、項羽・劉邦の戦いぶりを見て行きます。先ずは「鴻門の会」に至るまでの両雄の行軍の模様を見てみます。
項羽、劉邦の決起の状況は、先に概観しました。両雄は、上将項梁の下で、自ずと、対秦戦の状況へと発展していきます。対する秦軍の体制は如何だったでしょうか? 秦朝廷の内情から見て行きます。
始皇帝は、巡幸の途中、斉郡平原県で没した(BC210)。死の直前に長男扶蘇(フソ)に宛てた遺書を記しています:“咸陽で我が遺骸を迎えて葬れ、”と。扶蘇は、辺境の地で蒙恬(モウテン)将軍に預けられていたのです。帝は、扶蘇を後継者に指名したことを意味します。
趙高は、丞相の李斯と謀り遺書を改ざん、人望が厚かった扶蘇を自害へと追いやり、末子・胡亥(コガイ)を二世皇帝に据えた。さらに策を弄して、李斯をはじめ、有力な人々を次々に粛清、自ら丞相となり、権力をほしいままにします。
秦軍は、名将章邯(ショウカン)将軍に率いられて善戦していた。援軍として司馬欣(シバキン)らが加わり、陳勝らの本拠地・陳を攻撃して、BC208年陳勝を敗走させています。“腐っても鯛”よろしく、秦軍は善戦し、反乱軍を圧倒していきます。
陳勝呉広ら農民の造反で幕開けした大乱は、旧侯国の対秦復讐戦の様相を濃くしていきます。楚の懐王は諸将に、「最終目標は秦を滅ぼすこと。最初に関中を平定した者を関中の王にしよう」と諸将に約束しました。関中とは、函谷関の西、咸陽を中心とする地方のことです。
章邯率いる秦軍は、定陶で楚の上将軍項梁を敗死させます(BC208)。翌年、章邯は、趙の叛乱鎮圧のため趙に進撃、首都邯鄲を破壊しました。さらに距鹿(キョロク)城に逃れた趙王らを、部下の王離らに包囲させます。
項梁を失った楚軍では、懐王が宋義(ソウギ)を上将軍に、項羽を副将に任命します。しかし宋義は、趙が苦戦を強いられている中、46日間も動こうとしなかった。業を煮やした項羽は、宋義を殺害、趙の救援のため、自ら主将となって距鹿へ進軍した。
項羽は、全軍が漳河を渡り終えると、船をすべて沈め、鍋釜を壊し、携帯する食料を三日分に限る、“退却はないぞ”という決意を示した。“楚の戦士、一をもって十に当たらざるなし”と記録されるほどに奮戦し、章邯率いる秦軍を破った。史上名高い「距鹿の戦い」である。
増援依頼のため咸陽を訪れた司馬欣は、趙高から増援を断られたばかりか、自らの命も狙われる羽目に逢う。そこで章邯に対して、「勝・敗に関係なく、命が危ない、投降すべし」と勧める。章邯は、投降を決意し、項羽軍は、20万の兵を加えて咸陽へ急ぐ。
一方、3万超の身軽な劉邦軍は、碭(トウ)を発った後、黄河の南側を咸陽に向かう。進軍行動は、すべて軍師張良が放った諜報員の情報に基づいて決められる。時には人脈を活用して、また戦意が低い土地では素通り、または戦うが攻め滅ぼすことなく、先に進む。
強い反撃に会えば、戦いを避けて進む方向を変える。ただ南陽郡では素通り作戦を避けた。南陽郡は、大きな郡で数十の城があり、兵士も精強である。また人も物産も豊富なところである。したがって素通りして西へ進めば、必ず追撃に会うであろう と読んだ。
そこで、一旦素通りして後、踵を返して攻めることにした。ただし引き返す時には旗幟を取り替えたのである。つまり別動隊がいるものと思わせたのである。実際、南陽郡の宛城では、反撃はなく通過できた。逆に援軍の提供を受ける結果となったようである。
劉邦軍の進軍は、結果的にジグザグの行軍となったが、南陽から武関(函谷関の南に位置する当時の関所)を通過して、“関中に一番乗り”を果たした。実際は咸陽に入城する前に、覇水の辺の覇上(ハジョウ)に軍旅を解いた(BC206)。兵はほぼ10万に達していたようである。
秦側では、趙高の横暴は目に余るものがあった。二世皇帝を殺害して、扶蘇の子息・子嬰(シエイ)を秦王に据えた。今や“皇帝”とは言えず“秦王”としたのである。しかし趙高は、身の危険を感じた子嬰によって殺害される結果となった。
子嬰は、“組みひもを首にかけ、白馬に引かせた白木の車に乗って”覇上の劉邦のもとに参上した。降伏の作法に則ってきたのである。作法に則ってきた子嬰に対して作法によって対応する との考えで、子嬰を許した。咸陽の民すべてが安堵の感を持ったのである。
劉邦は、咸陽に入城した。諸宮殿の財宝には封を施した。後宮の三千とも言われる選りすぐりの美女たちにも目をくれることはなかった(?)。好色の劉邦にとっては、最も辛かったことであろう。張良や樊噲たちの諫言を聞き入れたのである。
劉邦軍は、咸陽を退去し、覇上に本陣を置いた。退去に際して劉邦は、秦の人たちと有名な『法三章』の約束をした。すなわち、秦の法律をすべて廃止して、“人を殺す者は死、人を傷つける者、盗みをする者はそれ相応の罪にあたる”と極めて簡単な三原則にする と。
劉邦が関中入りを果たした頃、項羽は、黄河を渡って新安(洛陽の東)に達した。そこで劉邦の関中入りを知る。項羽の怒りようは、想像に難くないでしょう。約40万の大軍であったことと、行く先々で戦い、攻め落とした後に進むという行軍行動が足を遅くしたようである。
関中に近づくにつれて、項羽軍内では不穏な空気が漂い始めていた。距鹿の戦い後に編入された20万の“関西兵”と項羽陣営純血の“関東兵”の確執である。そこで項羽は、捨て置けない と、「20万の“関西兵”を阬(アナ)うめに」と断を下したのでした。
項羽軍は、函谷関を通過するに当たって秦軍の頑強な抵抗に会ったという。“項羽は、城を陥落させると住民を皆殺しにする”という評判をすでに伝え聞いていたのです。「負けたら殺される」という恐怖心が戦意を高めていたのでしょう。
項羽もようやく関中に入り、鴻門に陣を布いた。劉邦が咸陽の財宝に手を触れていない状況を目にした范増は、“劉邦の志は小さくない”と判断、“劉邦は殺害すべし”と項羽に強く進言します。
項羽の到着を待って、劉邦は、鴻門の陣中に項羽を訪ねて弁明します。この「鴻門の会」の模様は、前々回(閑話休題94)に記した通りです。「鴻門の会」後の“漢楚の戦い”は、次回に見て行きます。
[蛇足]
劉邦は、覇上を「吉祥の地」と捉えていて、本陣を置く決め手の一つとしたようです。十数年前、宮殿造営のため駆り出されて、鞭打たれながら働かされていた。その折、親切な老婆が井戸から汲んで来た水を恵んでくれたのが、ここ覇上であった と。