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愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題96 酒に対す-18;曽鞏:虞美人草 (2)

2018-12-29 17:01:26 | 漢詩を読む
この一句:
 靑血化為原上草

“流れ出た鮮血は、野原で姿を変えてヒナゲシとなった”と。長編詩「虞美人草」の中で、曽鞏の熱い想いが最も籠もったと思える中央部分(9~14句、下記ご参照)の中の一句です。

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 虞美人草 (9~14句) 北宋 / 曾鞏 
……(省略)……
三軍散尽旌旗倒, 三軍散じ尽して 旌旗(セイキ)倒れ,
玉帳佳人坐中老。 玉帳(ギョクチョウ)の佳人(カジン) 坐中に老ゆ。
香魂夜逐劍光飛, 香魂(コウコン) 夜 劍光を逐(オ)って飛び,
靑血化為原上草。 靑血(セイケツ)化して 原上(ゲンジョウ)の草と為(ナ)る。
芳心寂莫寄寒枝, 芳心(ホウシン) 寂莫(セキバク)として寒枝(カンシ)に寄り,
旧曲聞来似斂眉。 旧曲聞き来りて 眉を斂(オサ)むるに似たり。
……(省略)……
註]
三軍:全軍;先陣・中堅・後拒、または左翼・中軍・右翼など。
玉帳:将軍の陣屋のとばり
靑血:新しく流れた生血
寒枝:葉が落ちて、寒々として枝
旧曲:垓下で聞いた古い歌

<現代語訳>
(項羽の)軍勢は散り散りとなり、軍旗も倒れてしまい、
とばりの中の虞美人は居ながらにして老けてしまった。
亡くなった彼女の魂は、あの夜、剣の光を追うように飛び去り、
流れ出た鮮血は、野原で姿を変えてヒナゲシとなった。
(花の揺れる様子は,)けなげな虞美人の魂がひっそりと茎にすがっていて、
垓下で古い歌を聴いて眉根を寄せた(虞美人の)あの姿容に見える。
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垓下の陣中で目に見えて老いていく虞姫に、“虞や虞 若(ナンジ)を如何せん”と、剛の者項羽が弱音を吐く局面に至りました。項羽は、“時に利あらず”と詠いますが、曾鞏は、「虞美人草」の前部で、“天が滅ぼすに非ず”と詠っていました。

“天が滅ぼすに非ず”と詠われたその心とは? その“?”を念頭に置きながら、項羽・劉邦の戦いぶりを見て行きます。先ずは「鴻門の会」に至るまでの両雄の行軍の模様を見てみます。

項羽、劉邦の決起の状況は、先に概観しました。両雄は、上将項梁の下で、自ずと、対秦戦の状況へと発展していきます。対する秦軍の体制は如何だったでしょうか? 秦朝廷の内情から見て行きます。

始皇帝は、巡幸の途中、斉郡平原県で没した(BC210)。死の直前に長男扶蘇(フソ)に宛てた遺書を記しています:“咸陽で我が遺骸を迎えて葬れ、”と。扶蘇は、辺境の地で蒙恬(モウテン)将軍に預けられていたのです。帝は、扶蘇を後継者に指名したことを意味します。

趙高は、丞相の李斯と謀り遺書を改ざん、人望が厚かった扶蘇を自害へと追いやり、末子・胡亥(コガイ)を二世皇帝に据えた。さらに策を弄して、李斯をはじめ、有力な人々を次々に粛清、自ら丞相となり、権力をほしいままにします。

秦軍は、名将章邯(ショウカン)将軍に率いられて善戦していた。援軍として司馬欣(シバキン)らが加わり、陳勝らの本拠地・陳を攻撃して、BC208年陳勝を敗走させています。“腐っても鯛”よろしく、秦軍は善戦し、反乱軍を圧倒していきます。

陳勝呉広ら農民の造反で幕開けした大乱は、旧侯国の対秦復讐戦の様相を濃くしていきます。楚の懐王は諸将に、「最終目標は秦を滅ぼすこと。最初に関中を平定した者を関中の王にしよう」と諸将に約束しました。関中とは、函谷関の西、咸陽を中心とする地方のことです。

章邯率いる秦軍は、定陶で楚の上将軍項梁を敗死させます(BC208)。翌年、章邯は、趙の叛乱鎮圧のため趙に進撃、首都邯鄲を破壊しました。さらに距鹿(キョロク)城に逃れた趙王らを、部下の王離らに包囲させます。

項梁を失った楚軍では、懐王が宋義(ソウギ)を上将軍に、項羽を副将に任命します。しかし宋義は、趙が苦戦を強いられている中、46日間も動こうとしなかった。業を煮やした項羽は、宋義を殺害、趙の救援のため、自ら主将となって距鹿へ進軍した。 

項羽は、全軍が漳河を渡り終えると、船をすべて沈め、鍋釜を壊し、携帯する食料を三日分に限る、“退却はないぞ”という決意を示した。“楚の戦士、一をもって十に当たらざるなし”と記録されるほどに奮戦し、章邯率いる秦軍を破った。史上名高い「距鹿の戦い」である。

増援依頼のため咸陽を訪れた司馬欣は、趙高から増援を断られたばかりか、自らの命も狙われる羽目に逢う。そこで章邯に対して、「勝・敗に関係なく、命が危ない、投降すべし」と勧める。章邯は、投降を決意し、項羽軍は、20万の兵を加えて咸陽へ急ぐ。

一方、3万超の身軽な劉邦軍は、碭(トウ)を発った後、黄河の南側を咸陽に向かう。進軍行動は、すべて軍師張良が放った諜報員の情報に基づいて決められる。時には人脈を活用して、また戦意が低い土地では素通り、または戦うが攻め滅ぼすことなく、先に進む。

強い反撃に会えば、戦いを避けて進む方向を変える。ただ南陽郡では素通り作戦を避けた。南陽郡は、大きな郡で数十の城があり、兵士も精強である。また人も物産も豊富なところである。したがって素通りして西へ進めば、必ず追撃に会うであろう と読んだ。

そこで、一旦素通りして後、踵を返して攻めることにした。ただし引き返す時には旗幟を取り替えたのである。つまり別動隊がいるものと思わせたのである。実際、南陽郡の宛城では、反撃はなく通過できた。逆に援軍の提供を受ける結果となったようである。

劉邦軍の進軍は、結果的にジグザグの行軍となったが、南陽から武関(函谷関の南に位置する当時の関所)を通過して、“関中に一番乗り”を果たした。実際は咸陽に入城する前に、覇水の辺の覇上(ハジョウ)に軍旅を解いた(BC206)。兵はほぼ10万に達していたようである。

秦側では、趙高の横暴は目に余るものがあった。二世皇帝を殺害して、扶蘇の子息・子嬰(シエイ)を秦王に据えた。今や“皇帝”とは言えず“秦王”としたのである。しかし趙高は、身の危険を感じた子嬰によって殺害される結果となった。

子嬰は、“組みひもを首にかけ、白馬に引かせた白木の車に乗って”覇上の劉邦のもとに参上した。降伏の作法に則ってきたのである。作法に則ってきた子嬰に対して作法によって対応する との考えで、子嬰を許した。咸陽の民すべてが安堵の感を持ったのである。

劉邦は、咸陽に入城した。諸宮殿の財宝には封を施した。後宮の三千とも言われる選りすぐりの美女たちにも目をくれることはなかった(?)。好色の劉邦にとっては、最も辛かったことであろう。張良や樊噲たちの諫言を聞き入れたのである。

劉邦軍は、咸陽を退去し、覇上に本陣を置いた。退去に際して劉邦は、秦の人たちと有名な『法三章』の約束をした。すなわち、秦の法律をすべて廃止して、“人を殺す者は死、人を傷つける者、盗みをする者はそれ相応の罪にあたる”と極めて簡単な三原則にする と。

劉邦が関中入りを果たした頃、項羽は、黄河を渡って新安(洛陽の東)に達した。そこで劉邦の関中入りを知る。項羽の怒りようは、想像に難くないでしょう。約40万の大軍であったことと、行く先々で戦い、攻め落とした後に進むという行軍行動が足を遅くしたようである。

関中に近づくにつれて、項羽軍内では不穏な空気が漂い始めていた。距鹿の戦い後に編入された20万の“関西兵”と項羽陣営純血の“関東兵”の確執である。そこで項羽は、捨て置けない と、「20万の“関西兵”を阬(アナ)うめに」と断を下したのでした。

項羽軍は、函谷関を通過するに当たって秦軍の頑強な抵抗に会ったという。“項羽は、城を陥落させると住民を皆殺しにする”という評判をすでに伝え聞いていたのです。「負けたら殺される」という恐怖心が戦意を高めていたのでしょう。

項羽もようやく関中に入り、鴻門に陣を布いた。劉邦が咸陽の財宝に手を触れていない状況を目にした范増は、“劉邦の志は小さくない”と判断、“劉邦は殺害すべし”と項羽に強く進言します。

項羽の到着を待って、劉邦は、鴻門の陣中に項羽を訪ねて弁明します。この「鴻門の会」の模様は、前々回(閑話休題94)に記した通りです。「鴻門の会」後の“漢楚の戦い”は、次回に見て行きます。

[蛇足]
劉邦は、覇上を「吉祥の地」と捉えていて、本陣を置く決め手の一つとしたようです。十数年前、宮殿造営のため駆り出されて、鞭打たれながら働かされていた。その折、親切な老婆が井戸から汲んで来た水を恵んでくれたのが、ここ覇上であった と。

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閑話休題95 酒に対す-17;項羽:垓下の歌

2018-12-18 16:16:22 | 漢詩を読む
この一句:
 力 山を拔き 氣 世を蓋(オオ)う、

怪力で連戦連勝、しかし時運に見放され、最後に垓下の砦で、劉邦に負けを喫した項羽の慨嘆の一句と言えるでしょう。項羽作の七言絶句「垓下の歌」の起句です。詩は下に挙げました。

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 垓下歌        垓下の歌  秦末 / 項羽
力拔山兮氣蓋世, 力 山を拔き 氣 世を蓋(オオ)う、
時不利兮騅不逝。 時に利あらず 騅(スイ)逝(ユ)かず。
騅不逝兮可奈何, 騅 逝かざる 奈何(イカ)にす可(ベ)き、
虞兮虞兮奈若何。 虞(グ)や虞 若(ナンジ)を 奈何(イカン)せん。
 註]
兮:ケイ;[助詞] 語調を整える助字、『楚辞』や『楚辞』風の作品に多くみられる、
(訓 読しないことが多い)
騅:項羽の愛馬の名
虞:項羽の愛姫の名
奈何:(反後の形)どうしたものか;「奈何」と、二字で用いた時の訓読と意味は、
「奈(いかん、いかん・セン)」と同じ。処置する対象(A)があるときは、「奈A何」
のように「奈何」の間に置き、「Aヲいかんセン」と訓読する。戸川芳郎 監修『全訳
漢辞海』に拠る

<現代語訳>
  垓下の歌
私の勢威は山をも引き抜くほどに強く、気概は広く天下を掩っていたが、
時運に恵まれることなく、愛馬の騅は進もうとしない。
騅が進もうとしないのを どうすることもできない、
虞よ、お前をどうしたものか。
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今回は、再び乱世となった秦末に活躍した主人公級の人物像に脚光を当てていきます。但し究極的には、上掲の、また以後取り上げる詩を鑑賞、理解するには必須の事柄といるでしょう。

「陳勝呉広の乱」を先駆けとして、各地で地方官が殺され、また地方官が率先して造反を起す状況となっています。江東の会稽郡(現浙江省)の郡守である殷通(イントウ)も立ち上がるべく意を決しました。後れては、自分が百姓たちに血祭りの対象にされるであろうから と。 

殷通は、土地の有力者・項梁(コウリョウ)に「将軍として江東の子弟を率いて戦ってもらいたい」と持ち掛けた。項梁は驚いた。“郡守を殺して、自ら旗を挙げよう”と心中に思いを巡らしていた矢先なのである。下がった項梁は、項羽と相談の上、両人揃って郡守の前に現れます。

項羽は、いきなり抜刀して駆け出し、殷通の首めがけて力まかせに白刃を振り下ろした。呆気にとられて総立ちになっていた多数の幕僚たちも斬り倒された。項羽は、身長180cmの大男で、まさに“力 山を抜く”怪力の持ち主であることを衆に示しました。

項梁は、殷通から印綬を取りあげ、わが身に佩び、“我こそ郡守なり”と宣言したのである。そこで衆に挙兵のことを告げると、郡所属の諸県から精兵八千が集まった。旗揚げである。

項梁は、楚の名将項燕(コウエン)の子であり、項羽は、項燕の孫にあたる。項羽は幼くして両親を亡くしたため、叔父の項梁に養われていた。項羽は、文字の覚えも悪く、剣術を習ってもあまり上達しなかった と。そのことで項梁は怒っていたようである。

項羽は、「文字は名前が書ければ充分。独りを相手にする剣術はつまらん、万人を相手にする兵法を学びたい」と。先の曽鞏の詩中で、「英雄 本 学ぶ 万人の敵」と詠われていました。項梁は、集団戦の極意を教えたが、項羽は概略を理解すると、それ以上学ぶことはなかった と。

一方、沛県の亭長・劉邦は、驪山陵の工事のために徴用された人夫を連れて咸陽に向けて出発した。途中脱走者が相次ぎ、少人数では目的地に進むこともできず、引き返しても処罰される。というわけで逃走することになり、結局、劉邦は逃亡者の頭領となっていた。

沛県の県令は、腰が定まらず、立つべきかどうか迷った挙句、造反に踏みきる。書記の蕭何(ショウカ)らに相談すると、「秦の役人では衆は付いてこない。逃亡中の劉邦が百人ほどの手下を持っているという」と 統率者として劉邦を推薦します。県令も納得したのである。

犬の業をしている怪力の持ち主・樊噲(ハンカイ)が伝令役でその旨劉邦に伝え、劉邦らは沛県に引き返します。ところが、一行が県に近づいたことを知った県令は、前言を覆して、「城門を閉じ、劉邦の徒党を一人たりとも城内に入れてはならぬ!」と、変心します。

蕭何らは、身の危険を感じて夜陰にまぎれて城外に逃れ、劉邦に合流します。劉邦は蕭何に、絹布に次のような檄文を書かせて、矢に結んで城内の父老らに送った。「県令を誅し、然るべき人物を立てて、諸侯に応じよ。さもなくば父子ともに屠られるぞ」と。

住民は、県令を殺し城門の扉を開けた。父老たちは、劉邦を城内に迎え入れ、彼に県令の印綬を押し付けた。劉邦は、綻びて、垢だらけの衣服を指して、「見よ、この格好を。県令って柄じゃねえわ!」と辞退するが、結局県令を引き受けて、沛公と称されるようになった。

秦の行政区分は2段階で全国を36郡に、各郡は幾つかの県に分けられていた。長官は、郡では郡守、県では県令である。時に、項梁は“郡守”(年齢不詳)、項羽(23歳)、劉邦は“県令”(38歳)であった。当然、県令に比して群令が格は上である。

BC208年、陳勝・呉広の軍が秦の将・章邯(ショウカン)に大敗し、陳勝・呉広ともに自らの部下に殺害されます。以後、十余万の軍勢を率いる項梁が造反軍の主流となっていきます。項梁は造反陣の諸将を薛(現山東省滕県の辺)に召集し、今後の方針を検討する会合を開いた。

この会合に70歳の一老人・范増(ハンゾウ)が勝手に参加し、演説を行った。曰く:「秦に滅ぼされた六国の怨念こそ、秦を打つ原動力。中でも最も酷い目に遭ったのは楚だ。造反諸将が君につくのは、君が楚の将軍の家系で、楚の子孫を王に立てるものと期待しているからだ」と。

項梁は頷いた。かつて秦に騙し討ちにあった楚の懐王の孫で、羊飼いをしている‘心’という男に“懐王”を名乗らせた。錦の御旗である。以後、范増は、項梁、続いて項羽の軍師として活躍、数々の功績を挙げていく。“鴻門の会”で存在感を示したことは先に触れました。

劉邦と彼の軍師となる張良との出会いは奇である。劉邦は、沛県で旗上げした後、必ずしも戦績が良いとは言えなかった。碭(現安徽省碭山)を攻略してやっと六千の兵を加えて兵九千の部隊に成長していたが、まだ自立はできない。ちょうどその頃、張良に逢った。

当時、陳勝の死は、“王将”の亡失を意味していて、“造反はおしまいだ”という空気があった。“頭(王将)が要る”との考えが圧倒的で、張良は、“頭”を求めてさ迷っていた。偶然下邳の西方で活躍していた劉邦と逢う。

「天下を経略する妙法はないものか?」劉邦は人懐っこく張良に問うた。「太公望の兵書には、揺るぎないものを人々に与えた者こそ天下を経略しうる」 と。劉邦:「迷っていても迷っている風を見せてはならん と?」張良:「さよう」。

十余万の兵を率いた項梁が薛にいること知ると、張良は劉邦に言う:「五千ほど兵を借りに行きなさい。二千なら貸さないだろうが、五千なら貸すよ」と。果たして項梁は、五千の兵卒と十人の将校を劉邦に貸したのである。劉邦は、項梁の配下となったわけでもある。

劉邦は、借りた五千の兵を率いて、薛からの帰り道、馬上考え考え帰って来たが、張良に「おまえの提言の意味がやっとわかったよ」と。張良:「おわかりになれば、それで結構です」と。

その心は、二千なら九千の中に溶け込んでしまい貸す妙味がないが、五千なら部隊の中核となり、あわよくば九千の部隊を乗っ取ることも可能である と。張良は、「九千を乗っ取られないよう注意せよ」と。

劉邦は、「何事もお前に任せて大丈夫のようだ。以後、お前の言には、理由を聞かずに実行するよ」と、張良に心服した様子である。一方、張良は、「こいつは人物だ。人の言葉に耳を傾ける、誤りを指摘されても悪びれずに訂正できる」と、劉邦を買っていた。お互い結びつきを深めていった。

張良は、父や祖父が曾ての大国・韓の宰相で、名門の出である。太公望の兵書を学んでいた。秦に対し復讐心が強く、巡行中の始皇帝に鉄槌を投げ込み、暗殺を謀ったこともある。失敗に終わり、逃亡中の身であった。

逃亡の間、食客を多数養い、世の中の動静を注視していた。殺人の廉で追われていた項梁と項伯を匿ったことがある。項梁は二日ほどであったようだが、項伯は結構な期間匿ってもらったようである。その恩義を感じた項伯が“鴻門の会”で剣舞を舞ったことは既に触れた。

世の中が騒々しい中、秦朝廷の中枢はどのような状況であったろうか。続けて次回に見て行きます。

[追記]
先に閑話休題40の修正稿を出しました。修正部分は、漢詩「拜古樹縄文杉」の差し替えです。実は、恥ずかしながら、当時、詩作での“押韻”の規則に不慣れでした。今回、脚韻を踏み、少なくとも形の上では、近代詩(唐詩)として、整った漢詩となったかな と。改めてご鑑賞頂けると有難い。
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閑話休題94 酒に対す-16;曾鞏:虞美人草

2018-12-05 16:49:06 | 漢詩を読む
この一句:
 鴻門(コウモン)の玉斗(ギョクト) 紛(フン)として雪の如し

曾鞏の詩「虞美人草」の第一句である。鴻門での会見の途中、劉邦が身の危険を感じて会場を中座する。そのお詫びとして項羽と彼の軍師・范増に玉の品を届ける。范増は、“怒り”の余り、その品・玉斗を受け取ることなく地に置くと、剣を抜いて粉々に打ち砕いた と。

范増の“怒り”とは、劉邦を討ち取る絶好の機会を逸した項羽の愚鈍さに対する軍師としての“怒り”である。両雄の以後の運命が予見されて、憤懣やるかたなく現れた范増の行動を表現した一句と言えるのではないでしょうか。

詩は、20句から成っていますが、前半の8句を下にあげてあります。後半部12句については、その要旨を本稿の末尾に示した。

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 虞美人草  宋/曾鞏
鴻門玉斗紛如雪, 鴻門(コウモン)の玉斗(ギョクト) 紛(フン)として雪の如し,
十万降兵夜流血。 十万の降兵(コウヘイ) 夜 血を流す。
咸陽宮殿三月紅, 咸陽(カンヨウ)の宮殿 三月(サンゲツ)紅(クレナイ)に,
覇業已随煙燼滅。 覇業(ハギョウ)已(スデ)に煙燼(エンジン)に随いて滅ぶ。
剛強必死仁義王, 剛強(ゴウキョウ)なるは必ず死して 仁義なるは王たり,
陰陵失道非天亡。 陰陵(インリョウ)に道を失うは 天の亡(ホロボス)すには非ず。
英雄本学万人敵, 英雄 本 学ぶ 万人が敵と,
何用屑屑悲紅粧。 何ぞ用いん 屑屑(セツセツ)として紅粧を悲しむ。
  …… 省略 ……
 註] 
鴻門:鴻門の会;秦末のBC206年、劉邦と項羽が鴻門において行った会見。
玉斗:玉製の酒器
陰陵:地名;現安徽省定遠近傍
失道:道に迷う
屑屑:こせこせと小さなことにこだわるさま

<現代語訳>
 虞美人草
鴻門の会において(范増)は、剣をもって玉斗を打ち砕き、かけらが雪のように散り、
降伏した(秦の)兵十万は夜に殺傷され生き埋めにされた。
咸陽の宮殿は火を放たれて三か月も火の海となり、
(項羽の成した)覇業はすでに煙燼となり消滅してしまった。
武力の強さだけに頼る者は必ず滅び、仁と義があって初めて王たり得る、
(項羽が垓下を脱出して逃げた際に)陰陵で道に迷ったのは、天が滅ぼすところではない。
英雄(項羽)は、本来万人を敵とする戦法を学んできた、
何でこせこせと紅化粧した美人のことで悲しむことがあろうか。
…… 省略 ……
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――燕雀(エンジャク)、安(イズク)んぞ鴻鵠(コウコク)の志を知らんや
   (ツバメやスズメなどの小者に オオトリなど大人物の志は分かるまい)

――王(オウ)侯(コウ)将(ショウ)相(ショウ)、寧(ナン)ぞ種(シュ)有らんや
   (王、侯、将軍や宰相に成るのに 別に種族があるわけではない、誰でも成れるのだ)

始皇帝が没した翌年(BC209)、陳勝と呉広など900人が守備隊の兵士となるために徴用されて、漁陽(現北京近郊)に向かっていた。陳勝(チンショウ)と呉広(ゴコウ)は偶々輪番制で徴用されたこの集団の世話役‘屯長’に当たっていた。

大沢郷(現安徽省宿州市近傍)に差し掛かった際、大雨で道路が通じなくなり、足止めを余儀なくされた。結果、期日までに着任することができなくなった。勿論、期日に間に合わなければ、理由の如何を問わず、法違反で斬殺される。

当時秦は、厳罰を伴う法治至上主義の時代である。仲間と相談の結果、遅刻は死罪、逃亡も死罪、謀反も死罪、同じ死ぬなら謀反を という結論に達した。「陳勝呉広の乱」である。その折に仲間を鼓舞して発した陳勝の名セリフが「王侯将相、寧ぞ……」である と。

なお、陳勝は、貧農で日雇いの暮らしをしていた人のようである。日雇いの頃、まともな教育を受ける機会があった人とは思えないが、「燕雀安んぞ……」と豪語して、仲間内でも一風変わった存在であったらしい。

「陳勝呉広の乱」を契機に動乱は、燎原の火の如く瞬く間に全土に広がっていった。秦に滅ぼされた曾ての諸王国も立ち上がっていく。秦の圧政・いびつな法治至上主義に対する世人の不満、鬱憤がいかに大きかったかを物語る現象であると評されている。

劉邦や項羽もその動機は異なるが、動乱の最前線に躍り出ていきます。幾多の戦いを経て、世の趨勢はこの両者に集約される形となり、終には、劉邦が咸陽一番乗りを果たします。しかし劉邦は、一旦灞上(ハジョウ)に退去して、項羽の到着を待ちます。

やがて項羽の軍が関中に入り、鴻門に駐屯します。劉邦は、釈明の為鴻門に向かいます。ここでなされた両雄の会見がいわゆる「鴻門の会」(BC206)である。歴史的な名場面である「鴻門の会」の模様を覗いて見ます。

項羽の軍師范増は、項羽に「劉邦を殺すべし」と進言し、また項羽の従弟項荘には「剣舞を演ずる際に劉邦を刺せ」と言いつけました。一方、項羽の叔父項伯は、このような項羽陣の空気を劉邦の軍師張良に伝えます。曾て張良に命を助けられた恩義があったのです。

劉邦が会見場に参上して、非常に恭順な態度で挨拶の口上を述べます。宴が始まり、項荘が剣舞を舞う。項羽には自ら手を出す気配はありません。項荘の剣舞が激しさを増していくと、項伯も剣を抜いて舞い、項荘の動きを牽制します。緊迫した空気に満ちた場面です。

そこへ張良の指示で、力自慢の樊噲(ハンカイ)が剣を佩び、盾をもって会場に押し入って来ます。項羽を睨み付けつゝ、項羽と問答を交わす。その形相は、“頭髪は逆立ち、まなじりは裂けんばかり”であった と。

項羽と樊噲のやり取りの間に、張良の機転で劉邦は厠に立ち、機を見て樊噲共々灞上に脱出することに成功しました。張良は会見の中座を詫びる印として項羽に白璧(ハクヘキ)を、范増には玉斗を献上しました。項羽はそれを受け取ると傍らに置いた。

范増は、玉斗を地に置き、剣を抜いて粉々に打ち砕き、怒り心頭に発して項羽に向かって怒鳴った:「この青二才、天下を語るに足らぬ。項王の天下を奪う者は、必ずや沛公であろう。いまにわが一族も彼の虜になろう」と。上に挙げた詩の第一句の状況である。

項羽は、楚の国の名門出身であることに加えて連戦連勝の自信から、沛県の田舎者である劉邦など自分の敵では有り得ないと思っていたのでしょう。また劉邦の恭順な態度に心を許したのでしょうか。劉邦を‘殺害する’という気は毛頭なかったようです。

その後、項羽は、劉邦を巴・蜀(現四川省重慶・成都市の辺)・漢中の王、“漢王”に封じ、自らは、“西楚覇王”として楚の国への帰還の途についた。咸陽で秦が遺した財宝を略奪し、都に火を点けた後に である。都は3ケ月も燃え続けた と、上の詩の通りである。

なお上の詩では、第1句に続いて、項羽の行状に対してかなり批判的に詠っています。省略した部分は、その要旨は以下のようで、虞姫に対する哀憫の情が感じられる内容です:

[(垓下において)項羽に付き添っていた虞姫は自害し、その魂は剣の光を追うように飛び去り、鮮血は野原に流れていきヒナゲシ(虞美人草)に姿を変えた。揺れるヒナゲシをみると、憐れにも健気な虞姫が、彷徨っているようにも見えるが、一言も語ることはない。]

[時は過ぎて、川の流れは今も昔も変わらないが、曾て戦いに明け暮れた両雄はともに墳丘の下で眠っている。風に揺れるヒナゲシは、誰の為に舞っているのであろうか。]

詩の作者曾鞏(1019~1083)は、北宋時代の文学者で、主に散文に長じていた。後に“唐宋八大家”の一人に数えられている。
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