愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 135飛蓬-42: 小倉百人一首 (在原業平) ちはやぶる

2020-02-25 09:52:27 | 漢詩を読む
(17番) ちはやぶる 神代もきかず 龍田川
      から紅に 水くくるとは
<訳> 不思議で奇跡的なことが多かったという神代にも、こんなことは聞いたことがありません。この龍田川で、鮮やかな紅色に水を括り染めにするなどということは。(板野博行)
   
紅葉の名所、奈良・竜田川の晩秋を描いた屏風絵を見て詠った。川面が、真っ赤な落葉で敷き詰められて道をなしているような情景から、絞り染めの布へと想像を膨らませている。水に絞り染めを施すなんて、かつて聞いたことがないことだ と。

色鮮やかな屏風絵に対する感嘆の情を詠っているようではある。さりながら実は、遂げることの叶わなかった今に蘇る昔の熱い胸の内を訴えているのであろう と読む人もおり、後述するように、肯けるように思える。

七言絶句にしてみました。以下ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文>  [去声七遇韻]
・看屏風上龍田河楓画詠 屏風上龍田河楓(モミジ)の画を看(ミ)て詠む               
一片絶佳奇眺望。 一片の絶佳 奇(マレ)な眺望、
龍田河面血紅路, 龍田河の面(カワモ) 血紅(マッカ)な路,
激捷神世誰聴见, 激捷(チハヤブル)神世(カミノヨ) 誰か聴见(チョウケン)せしか,
把水絞染成錦布。 水を把(トッ)て絞染(シボリゾメ)して錦布(キンプ)と成すを。
 註]
・ 龍田河:奈良県生駒郡斑鳩町竜田にある竜田川。紅葉の名所。和歌に多く読み込まれる名所の一つで歌枕。
  一片:あたり一面。     血紅:真っ赤な。
  激捷:“ちはやぶる”に相当する枕詞。“ちはやぶる”の成り立ち「“ち(いち)”=激しい勢いで、“はや”=敏捷に、“ぶる”=ふるまう」を考慮した筆者の造語。
  絞染:絞り染め、括り染め。

<現代語訳>
 龍田川楓の屏風絵を見て詠む
辺り一面、すばらしく稀にみる眺めで、
龍田川の川面は真っ赤に染まった道のようだ。
様々な不思議なことが起こっていたという神代の昔でさえ誰が耳にしたであろうか、
水を絞り染めにして錦の布に仕立てるとは。

<簡体字およびピンイン>
 看屏风上龙田河枫画咏 Kàn píngfēng shàng Lóngtián hé fēng huà yǒng
一片绝佳奇眺望。Yīpiàn jué jiā qí tiàowàng,
龙田河面血红路,Lóngtián hé miàn xuèhóng lù.
激捷神世谁听见,Jī jié shén shì shéi tīngjiàn,
把水绞染成锦布。bǎ shuǐ jiǎo rǎn chéng jǐn bù.
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作者・在原業平(825~880)は、父方を辿れば平城天皇(51代、在位806~809)の孫・桓武天皇(50代、同781~806)の曾孫、母方を辿れば桓武天皇の孫と、高貴な血筋の人である。しかし高尊の生まれながら、役職の面でやや不遇な生涯であったと言えようか。

当時の政治状況が災いしたのでしょうか。皇統は、平城天皇から嵯峨天皇(52代、809~823)に移り(809)、また平城・嵯峨両帝の争い(通称・薬子の変、810)があり、平城帝の側にいた業平は臣籍降下して、在原朝臣を名乗るようになった。 

美男子の代名詞としての在原業平は、しっかりと歴史書に記されているようである。当時編纂された歴史書『日本三代実録』(後注参照)中、“容貌は雅やかで麗しいが、物事に囚われず奔放。基礎的学力は乏しいが、和歌はすばらしい”と。

掲題の和歌は、『古今和歌集』に収められた在原業平の代表的な一首である。『古今和歌集』の30首を含めて、勅撰和歌集に87首入撰している と。ただ自撰の私家集はないようである。

紀貫之は、在原業平を“その心余りて言葉足らず(感情ばかりが溢れて、言葉で表現しきれていない)”と『古今和歌集仮名序』で評している由である。が目にした限りの歌について言えば、心惹かれる歌ばかりである。六歌仙・三十六歌仙の一人である。

在原業平と言えば、その奔放なプレイボーイぶり、中でも二条后(藤原高子)との恋愛は、避けて通れない話題である。高子がまだ宮中に上がる前に、二人は密かに逢瀬を重ねる関係にあった。

恐らく高子は、(筆者の勘繰りだが)藤原家にとっては外戚関係を築くための貴重なコマであった筈である。業平如き身分の低い者と想いが遂げられることはあり得ない。悟った二人は駆け落ちを決行した。が露呈して、高子は兄に連れ戻された。

後に高子は清和天皇(57代、同858~876)の后となり、次代の陽成天皇(同876~884)の母となる。ある時、二条后のサロンで催しがあり、文屋康秀(閑話休題127参照、百人一首22番)、素性法師(同21番)らに交じって、業平も招かれて后に和歌を献上した。

后のサロンには、竜田川に紅葉の落葉が流れる様子を描いた屏風があった。その屏風絵を見て、在原業平が詠ったのが掲題の歌である。“神世にも見たことがない麗しいあなたへ、真っ赤に燃える我が思いを” と、后に訴えていると読めそうである。

作者・成立年は不詳であるが、『古今和歌集』と同じ頃に成立したとされている読み物に『伊勢物語』がある。在原業平の和歌をふんだんに用い、業平と思しき男の生涯を、恋愛を中心に描いた“歌物語”である と。

注]
『日本三代実録』:平安時代に編纂された歴史書。清和・陽成・光孝天皇の3代、858年8月~887年8月の30年間を扱う。編年体、漢文、全30巻。901年成立。編者:藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。
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閑話休題 134 旅-8、 李白 黄鶴楼にて孟浩然の…

2020-02-14 15:58:04 | 漢詩を読む
この一対の句:

孤帆 遠影 碧空(ヘキクウ)に尽き,
惟(タ)だ見る長江 天際(テンサイ)に流るるを。

武漢(武汉)と聞けば黄鶴楼。黄鶴楼は、“江南三大名楼”の一つ、是非訪ねてみたい名所の一つです。現在、思いもよらぬ災害に見舞われています。一日も早く安寧な日々に戻ることを祈念しつつ、想いを武漢に馳せ、黄鶴楼に関わる詩を読んでいきます。

加油!!武汉。大家一定会克服一切困难。盼望你们早日恢复安宁的情况。

若い頃の李白が、すでに名の知れた孟浩然と黄鶴楼で再会します。いろいろと詩論を語ったであろう。さらに長江を下って旅を続ける孟浩然を見送る李白は、いつまでもいつまでも、舟の影が天際に尽きても……。別れを惜しむ念がひしひしと感じられます。

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<原文および読み下し文> 
・黄鶴楼送孟浩然之広陵  黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之(ユ)くを送る
故人西辞黄鶴楼, 故人 西のかた黄鶴樓を辞し,
煙花三月下揚州。 煙花(エンカ) 三月 揚州(ヨウシュウ)に下る。
孤帆遠影碧空尽, 孤帆 遠影 碧空(ヘキクウ)に尽き,
惟見長江天際流。 惟(タ)だ見る長江 天際(テンサイ)に流るるを。
 註]
  広陵:現江蘇省揚州市。    故人:古くからの友人。
  煙花:春霞のかかった景色。  三月:陰暦三月、晩春の頃。
<現代語訳>
 黄鶴楼で孟浩然が広陵に行くのを見送る
友人の孟浩然は、揚州の西に位置する黄鶴楼を発ち、
春霞に煙る三月、長江を揚州へと下っていった。
一艘の帆掛け船の舟影は、遥か彼方の碧空に消えて、
ただ見えるのは、天の際(キワ)まで流れていく長江だけである。
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孟浩然(689~740)は、まず誰でもが耳にしたことがあろう“春眠 暁(アカツキ)を覚えず、……(春暁)”の作者で、唐代の山水田園詩人と言われています。本稿でも、いつかは話題にしたい と胸に仕舞っている作者の一人です。

孟浩然についての詳細については、別の機会に譲ることにします。李白(701~762)は、孟浩然より12歳ほど若く、孟浩然に対しては、“先生、先生”と呼び、非常に慕っていたようで、「孟浩然に贈る」と題する詩も書いています。

李白が初めて孟浩然に逢い、知己を得たのは、726年でした。現江蘇省揚州の維楊区の辺りであったとのことです。ともに漂泊の旅にあったものと思います。李白25歳、孟浩然37歳でした。

728年、李白は、黄鶴楼で孟浩然と再会します。その折に書かれたのが、上に挙げた七言絶句です。別れを惜しむ情景が想像されて、感動を覚えます。孟浩然は、科挙の試験に失敗して、呉越漫遊に出掛けていて、その途上であったようです。

舞台となっている黄鶴楼は、三国時代の223年、呉の孫権が物見やぐらとして、軍事目的に建てたのが始まりという。以後は観光目的に建設されてきたが、戦乱による焼失と再建が繰り返されてきたという。

その間、名称に因む伝説も生まれ、観光名勝の地として、各時代に多くの墨客を引きつけてきたようです。黄鶴楼を詠った詩も多く残されています。続いて2,3首読んでいくことにします。

現在の楼は、清代の資料に基づいて、1985年に再建されたものであるという。今日、江西省南昌の滕王閣、湖南省岳陽の岳陽楼とともに“江南三大名楼”と並称されている。

さて、こうして原稿を書いている間にも、COVID-19の勢力は衰えを見せていません。日本でも感染患者が徐々に増える状況にあり、注意を怠らず、その撲滅にともに戦っていかねばなりません。
コメント (1)
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閑話休題 133飛蓬-41: 小倉百人一首 (壬生忠見) 恋すてふ

2020-02-04 10:19:16 | 漢詩を読む
(41番) 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 
        人知れずこそ 思ひそめしか
                   壬生忠見(ミブノタダミ)
<訳> 恋をしているという私の浮名が、早くも世間に広まってしまった。誰にも知られないように、ひそかに心のうちだけで思い始めたばかりなのに。(板野博行)

恋心を抱き始めたばかりで、まだ内緒に……と思っている矢先に、浮名が立ってしまった。隠しおおすことの何と難しことか と。胸の内は、知らず知らずに何らかの形で表出されるもののようです。

前回に触れたように、「天徳内裏歌合」(960年)の折、最後の20番目の組合わせで平兼盛の歌「忍ぶれど」と争い、負けてしまった歌です。作者・壬生忠見は、負けた悔しさに食も喉を通らず、寝込んで遂には悶死……とも伝えられているようですが。

歌の趣旨は、「忍ぶれど」とほとんど同じです。題を少し変えて、同じく五言絶句にしてみました。下記ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文>  [下平声一先韻]
・初恋的困惑  初恋の困惑 
人謂迷情網, 人は謂(イ)う 情網(ジョウモウ)に迷うかと,
已聞艷風伝。 早くも艷な風伝(フウデン)を聞く。
剛覚初恋意, 初恋の意(オモイ)を覚(オボエ)た剛(バカリ)で,
不管厭公然。 公然たるを厭(イト)うにも管(カカワ)らず。
 註]
  情網:恋の闇路。 已:もはや、早くも
風伝:うわさ。         剛:…したばかりである。
不管:…にかかわらず。 厭:嫌う。
<現代語訳>
 初恋の戸惑い
恋の闇路に迷い込んでいるのかと人が言っており、
早くも浮名の噂が聞こえてきた。
初恋の思いを抱きだしたばかりで、
公然となることを厭うているのにも関わらず。

<簡体字およびピンイン>
初恋的困惑 Chūliàn de kùnhuò 
人谓迷情网, Rén wèi mí qíngwǎng,
已闻艳风传。 yǐ wén yàn fēngchuán.
刚觉初恋意, Gāng jué chūliàn yì, 
不管厌公然。 bùguǎn yàn gōngrán.
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作者・壬生忠見について触れます。平安中期の歌人であるが、その生没年は不詳である。天徳二 (958) 年に摂津大目(ダイサカン)に叙任されたことが知られているほか、正六位上・伊予掾に叙任されたようですが、経歴の詳細は不明である。

幼少の頃から歌の才能はよく知られていたようで、次のような逸話が語られている と。内裏からお召があったが、家が貧乏であったらしく、「乗り物がなく参内できない」と答えた。すると、「竹馬に乗ってでも参内せよ」と仰せられた。そこで:

「竹馬は ふしかげにして いと弱し 今夕陰に 乗りて参らむ」
  [概意]=竹には節があり、竹馬はふし鹿毛という毛色で弱いので、今日の夕日かげに乗って参上いたします)と歌を詠んで奉った と。

歌人としては、父・忠岑ともに三十六歌仙の一人に数えられていて、屏風歌で活躍した と。また「天徳内裏歌合」をはじめ、他の歌合せにも出詠している。勅撰歌人としては、『後撰和歌集(1首)以下の勅撰和歌集に36首入っており、家集『忠見集』もある と。

さて、「天徳内裏歌合」における「忍ぶれど」との決着は、前回の稿で、“天皇のササヤキで決まった”としたが、真相は少々異なるようである。同歌合せについては、詳細な記録が残っている とのことで、記録によると:

「一旦は、持(ジ=引き分け)としたが、天皇は納得しなかった」。「わたし(藤原実頼)が天皇の様子を窺ってみたところ、優劣の判断は下されなかったが、右方の歌をひそかに口ずさんでいた。そこで兼盛を勝ちと定めた」とのことである。

敗れた忠見は、落胆のあまり、食も進まず、病に臥して悶死した、と語られることがありますが、これは作り話のようです。家集には、年老いた自らの境遇を詠んだ歌もあるとのことである。

「天徳内裏歌合」に関連して、主催者の村上天皇は、本音かあるいは謙遜(?)しているのか、同様の趣旨の歌を2首残しているようです。その一首は:

 「ことのはを くらぶの山の おぼつかな 深き心の何れ優れる」
   [概意]=言の葉(和歌)を比べようと思うが、暗部山(=鞍馬山)の道が暗いように(わたしは和歌の道に暗くて)よくわからない。歌の心の奥深さはどれが優れているのか(見極められようか)。

[参考資料]
百人一首に関わる記載は、主に以下の資料を参考にしています。
・(ネット)「ちょっと差がつく『百人一首講座』、筆者不詳 小倉山荘
・板野博行:既報。
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