この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

映画の見方。

2012-06-25 22:02:42 | 新作映画
 いうまでもなく、映画の見方は自由です(無知、もしくは誤った知識によって間違った映画の見方をしていたとしたら、それは正されるべきだと思いますが)。
 自由というか、人それぞれ違う、といった方がいいのかもしれません。
 
 なぜ映画の見方が人それぞれ違うのか?
 それもまたいうまでもなく、人それぞれ、歩んできた人生が違うから。
 歩んできた人生が違うのであれば、その人生の中で磨いてきた感性も当然異なるはずであり、異なった感性である以上、映画の見方も違うのがまた当然です(見方以前に映画そのものにまったく価値を見いだせない人もいます。でもそれも別に非難されることじゃない。)。
 
 登場人物に感情移入する映画の見方と、そうでない見方があります。
 別段、どちらが正しいとか、どちらが間違ってるとか、そういうことはないと自分は思います。
 二つの見方に上下はない。

 しかし最近、登場人物に感情移入する映画の見方は、そうでない見方に比べて、映画の見方としてレヴェルが低い、という意見をネットで目にします。
 感情移入できるかどうかなんてどうでもいいことだ、と。

 先ほど述べた通り、映画の見方は自由です。
 だから、登場人物に感情移入せず映画を見ることも自由だと思います。
 
 しかし、他者の、登場人物に感情移入する映画の見方を否定したり蔑んだりする権利は、誰にもないはずです。
 それは、誰かの人生を否定したり蔑んだりする権利が誰にもないのと同様です。

 自分は、ティム・バートン監督の『ビッグ・フィッシュ』を観たとき、ちょうど親父を亡くしたばかりだったので、主人公と父親の不器用な関係が、自分と親父のそれに重なってしまい、映画の終盤は泣けて泣けて仕方がありませんでした。
 もし、親父が存命であったときに同作を観ていても、それほど心が揺さぶられることはなかったかもしれません。
 でも、このときは、主人公に自分を重ねて、つまり、感情移入して、感動したのです。
 自分はこの感動を誰かに否定されたり、蔑まされたりしたくはありません。

 繰り返しますが、映画の見方は自由です。感情移入せずに映画を見ることもまったくの自由だと思います。
 しかし、感情移入することを最初から否定して映画鑑賞に臨むのは、映画の見方を最初から半分放棄するようなものだと思います。
 自分はそんな窮屈な映画の見方はしたくありません。
コメント (6)
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