この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

劇場に観に行かなくてよかったと心底思った『キングダム』。

2019-11-20 20:39:30 | 旧作映画
 本記事は映画『キングダム』をお好きな方が読むと非常に高い確率で気分を害することになると思うので、そういう方は読まれない方がいいと思います。

 映画『キングダム』、実はちょっとだけ映画館に観に行こうかなと思っていたんですよね。
 監督の佐藤信介は『いぬやしき』や『アイアムアヒーロー』が面白かったし、ネットでの評判は高かったし、知り合いでハマった人がいて何度もリピートしているようだったし、観に行ってもいいかなと思える条件が整っていたのです。

 ただ、実際観に行くことはありませんでした。
 なぜ観に行かなかったのか、明確な理由は覚えていませんが、たぶんタイミングの問題だったのでしょう。

 その『キングダム』を機会があったので見てみました。
 ぶっちゃけた感想を言わせてもらうと、作劇のレベルが学芸会レベルだと思いました。
 高いお金を払って劇場に観に行かなくてよかったです。
 
 何がダメかと思ったのか、まず主人公の信がウザいぐらいに熱血漢であること、、、は置いといて、彼が剣術の腕が上の相手に対して、気合いだけで勝ってしまうこと、ですかね。
 そういうのは反則技なので止めて欲しい、やるにしても作中一回だけにして欲しいです。

 脚本はお世辞にも上出来とは言えなかったと思います。
 最初山の民たちは橋本環奈演じる河了貂を介して主人公たちと会話をします。
 そうか、河了貂は通訳として必要なのだなと思ったら、山の民の女首領である楊端和は当たり前のように主人公たちの言葉を話すので「え?」と思ってしまいました。
 結局山の民って何語を話すんでしょうか?
 それとも楊端和だけが特別なのか?
 そこら辺が気になったのは自分だけなんですかね?

 終盤、信たちが王都に乗り込んだ際に立てた作戦もデタラメもいいところでしたね。
 信たちは山の民に扮して王都へとやってくるのですが、王宮内に入れるのは楊端和と従者の50人だけ、と入城を制限されます。
 すると信たちは50人を40人の本隊と10人の別動隊に分けて戦いを挑むのです。
 ちょっと待てよ、と言いたくなりました。
 この50人というのは信たちが言い出したのではなくて、敵側が言い出したことなんだよね?
 この50人が仮に30人であったとしてもやはり信たちは本体と別動隊を分けていたんでしょうか?20人であったとしても?10人であったとしても?
 信たちが立てた作戦は作戦と呼べるものじゃないですよね。
 まぁ結局信が気合いですべてを解決してしまうのでどういう作戦であっても構わないわけですが。

 大沢たかお扮する王騎の存在もわからなかったなぁ。
 最初王兄の忠臣の首を王弟に差し出すのですが、それが偽物の首なんですよね。
 そんなことをして一体何の意味があるのか、いや、すべてが上手く行ったので結果オーライではあるのだけれど、上手く行かなかった場合はどうなのかって話ですよ。
 王兄が玉座を奪い返すと見込んでいた?
 だとしたらもっと積極的に王兄の味方になればよいのでは、と思いました。

 まだまだ言いたいことはあるのですが、長くなるので止めておきます。
 脚本はお粗末で、剣劇アクションも目を見張るものでなく、役者の演技もパッとしない、およそ自分からしたら褒めるところがない映画でしたが、それでも本年の邦画の実写作品ナンバー1なんですよね。
 『キングダム』より『王宮の夜鬼』の方がはるかに面白いと思う自分は世間一般の評価基準と大きな乖離があることを痛感せずにはいられません。
コメント
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