何かにつけて悪名高き朝日新聞ですが、個人的に一番「それは人としてどうなのよ」と思うのは、将棋の名人戦です。
元々名人戦は毎日新聞の主催でした。
しかし現在は毎日新聞と朝日新聞の共催です。
なぜそんな中途半端な状態になっているかというと、朝日新聞が金に物を言わせて毎日新聞から名人戦を奪おうとしたからです(詳しくはこちら)。
道義もへったくれもありゃしない、それが新聞社のやることか、と言いたくなります。
他にも腹立たしかったことがあって、三谷幸喜のエッセイ『ありふれた生活』がある日を境に紙面から消え去ったことです。
当初は三谷幸喜も何かと忙しいだろうから、連載が終わっちゃったのかなと思っていたのですがさにあらず、連載の場が朝刊の文化欄から夕刊の文化欄に移ったのでした。
そりゃないよ、と思いました。
夕刊の文化欄に空きがあるなら、別の文化人に連載を依頼すればいいことじゃないの?
腐っても天下の朝日新聞なんだから、しっぽを振って依頼を受ける輩は少なくないでしょう。
それをどうして朝刊で好評を博している連載を引き抜くんですかね?
あの時は本気で朝日新聞の購読を止めようかと思いましたよ(と言いつつ、今でも購読していますが)。
そんなわけで三谷幸喜のエッセイ『ありふれた生活』は朝日新聞の朝刊に連載されていたころから読んでいますし、連載の場が夕刊になってからも単行本で読んでいます。
その単行本、『三谷幸喜のありふれた生活⑰未曾有の出来事』を読み終えました。
実はこの単行本、発売が去年の年末だったんですよね。
で、購入したのが今年の2月になってからです。
なぜ購入がそんなに遅れたのか。
理由は簡単、発売されていたのを知らなかったからです。
これは夕刊連載におけるデメリットでしょう。
朝刊に連載されていたころ買い遅れたことはなかったので。
逆に夕刊連載での唯一のメリットがすべてのエッセイが新作で読めるということですね(まぁありがたくもないメリットだけれど)。
ただ、ぶっちゃけ以前に比べるとエッセイにキレが無くなったような気がします。
以前は視点は斬新で、語り口は巧妙、さらにオチのつけ方は秀逸と文句のつけようがなかったのですが、今巻のエピソードはそこまで感心するほどではないかな。
まぁでも連載も1000回(!)を越えれば、多少文章にキレも無くなるだろうし、マンネリにもなりますよね。
ただ、それはちょっといただけないと思うことがあります。
それは何かというとイラストです。
ご存じの方も多いと思いますが、『ありふれた生活』のイラストを担当してきた和田誠氏が亡くなりました。
なので前巻の表紙絵は三谷幸喜本人が、今巻ではイラストレーターのヨシタケシンスケ氏が手掛けています。
問題は挿画で、前巻も、今巻も亡くなった和田氏のものを使っているのですが、これがまたエッセイの内容とはまったくシンクロしてなくて。
例えば「シットコム」について書かれたエッセイのイラストがこちら。
ハイヒールなんでしょうね。
でもエッセイの中に「ハイヒール」なんて単語、出て来やしません。
内容もまったく関係ないのです。
三谷幸喜が和田誠氏を敬愛していることはよくわかります。
自分も和田氏のイラストが嫌いだと言っているのではありません。
でも書かれてある文章とはまったく関係のないイラストが挿画に使われるのってどうなんでしょうね。
そういうふうにイラストが使われることを亡くなった和田氏も望んではいないと思うのですが。
表紙絵を別のイラストレーターが手掛けたのであれば、挿画もそれに倣うべきなんじゃないでしょうか。
カルロス・ゴーンについて書かれてあるエッセイの挿画が玩具のロボットで、どういう意味があるんだろうと考えてしまった自分はそう思います。
元々名人戦は毎日新聞の主催でした。
しかし現在は毎日新聞と朝日新聞の共催です。
なぜそんな中途半端な状態になっているかというと、朝日新聞が金に物を言わせて毎日新聞から名人戦を奪おうとしたからです(詳しくはこちら)。
道義もへったくれもありゃしない、それが新聞社のやることか、と言いたくなります。
他にも腹立たしかったことがあって、三谷幸喜のエッセイ『ありふれた生活』がある日を境に紙面から消え去ったことです。
当初は三谷幸喜も何かと忙しいだろうから、連載が終わっちゃったのかなと思っていたのですがさにあらず、連載の場が朝刊の文化欄から夕刊の文化欄に移ったのでした。
そりゃないよ、と思いました。
夕刊の文化欄に空きがあるなら、別の文化人に連載を依頼すればいいことじゃないの?
腐っても天下の朝日新聞なんだから、しっぽを振って依頼を受ける輩は少なくないでしょう。
それをどうして朝刊で好評を博している連載を引き抜くんですかね?
あの時は本気で朝日新聞の購読を止めようかと思いましたよ(と言いつつ、今でも購読していますが)。
そんなわけで三谷幸喜のエッセイ『ありふれた生活』は朝日新聞の朝刊に連載されていたころから読んでいますし、連載の場が夕刊になってからも単行本で読んでいます。
その単行本、『三谷幸喜のありふれた生活⑰未曾有の出来事』を読み終えました。
実はこの単行本、発売が去年の年末だったんですよね。
で、購入したのが今年の2月になってからです。
なぜ購入がそんなに遅れたのか。
理由は簡単、発売されていたのを知らなかったからです。
これは夕刊連載におけるデメリットでしょう。
朝刊に連載されていたころ買い遅れたことはなかったので。
逆に夕刊連載での唯一のメリットがすべてのエッセイが新作で読めるということですね(まぁありがたくもないメリットだけれど)。
ただ、ぶっちゃけ以前に比べるとエッセイにキレが無くなったような気がします。
以前は視点は斬新で、語り口は巧妙、さらにオチのつけ方は秀逸と文句のつけようがなかったのですが、今巻のエピソードはそこまで感心するほどではないかな。
まぁでも連載も1000回(!)を越えれば、多少文章にキレも無くなるだろうし、マンネリにもなりますよね。
ただ、それはちょっといただけないと思うことがあります。
それは何かというとイラストです。
ご存じの方も多いと思いますが、『ありふれた生活』のイラストを担当してきた和田誠氏が亡くなりました。
なので前巻の表紙絵は三谷幸喜本人が、今巻ではイラストレーターのヨシタケシンスケ氏が手掛けています。
問題は挿画で、前巻も、今巻も亡くなった和田氏のものを使っているのですが、これがまたエッセイの内容とはまったくシンクロしてなくて。
例えば「シットコム」について書かれたエッセイのイラストがこちら。
ハイヒールなんでしょうね。
でもエッセイの中に「ハイヒール」なんて単語、出て来やしません。
内容もまったく関係ないのです。
三谷幸喜が和田誠氏を敬愛していることはよくわかります。
自分も和田氏のイラストが嫌いだと言っているのではありません。
でも書かれてある文章とはまったく関係のないイラストが挿画に使われるのってどうなんでしょうね。
そういうふうにイラストが使われることを亡くなった和田氏も望んではいないと思うのですが。
表紙絵を別のイラストレーターが手掛けたのであれば、挿画もそれに倣うべきなんじゃないでしょうか。
カルロス・ゴーンについて書かれてあるエッセイの挿画が玩具のロボットで、どういう意味があるんだろうと考えてしまった自分はそう思います。
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