この本は「鉄道旅行のたのしみ」と「駅は見ている」の2編で構成されている。元々は、別冊の文庫本だったそうだ。
いつものように、パソコンを起動させ、グーグルマップとウィキペディアで検索しながらの黙読である。
まずは、「鉄道旅行のたのしみ」
東海道、関東、近畿云々と全国各地の国鉄に加え、東日本・西日本の私鉄にまで手を出している。各編の冒頭や文末に鉄道に関する思いが述べられている。
東海道の巻、東海道といえば、新幹線である。著者は「新幹線によって、どれほど東海道の旅が味気なくされたことか。」、しかし、「新幹線の責任ではない。問題は、どう乗るかにある。東海道といえば新幹線、というふうに発送が短絡しては負けである。」と。新幹線乗車の必要性や楽しみ方を著者なりに論じている。東海道本線から枝線についても記載がある。これは、「時刻表2万キロ」で訪れたところであろう。この項末に「私は、汽車旅の再興のたのしみは居眠りにあるのではないか、と本気で思っている。・・・目が覚めると汽車が走っている。そこがなんともいえない。」
関東の巻は「遠くへ行くばかりが旅ではない。『旅』は身近なところにあるものだということを、私なりに示してみたい。」。いわゆる「本線」については、東京を出てから、都会的なものと自然との境目で、急に旅心地が沸いてくる瞬間についての記述がある。「本線」から外れると、「鄙びた地方」に接することができる。木原線は、大原から上総中山まで、現在は、第3セクター「いすみ鉄道」となっている。そして、著者が東京にいて面白いと思うこと、各方面からやって来る列車が見られることである。
近畿の巻では、冒頭「鉄道の旅は全国一律、どこへいっても同じかというと、そうではない。どの線区に乗っても、共通点のほうが多いコトは確かであるけれど、やはり違いがある。」と、その例えを「モーツアルトの音楽」に似ているとしている。
北陸・山陰の巻では、山陰本線の行が面白い。「山陰の海岸は岩とマツが美しく、水もきれいだ。工場が少なく、かわりに艶やかな瓦屋根の民家や漁村がある。この線に乗って汽車旅のたのしさを感じない人がいたら不干渉で、とても、ともに語る気がしない」というほど、良い景色のようである。これが書かれてから数十年、今は、どの様な景色になっているのだろうか。
東北の巻、冒頭で「汽車に乗りたくなると、上野駅へ足が向く。」「上野駅の場合は、二時間も乗れば旅心地がしてくる。行き先も多彩で、東北、常磐、奥羽、上越、信越と、よりどりみどりである。」「残された民族のふるさと、それがみちのくには色濃く残っている。」「上野駅独自の雰囲気は低いほうのホームにある。」「上野駅の低いほうのホームはみちのくの一部なのであって、これほど体臭を発散させる駅は少ない。」と、上野駅に対する著者の思いが伝わってくる。
北海道の巻、「北海道への旅は青函連絡船からはじまる、あるいは、はじまるべきだと私は信じている。」といいつつも、飛行機の時代は否定できない。北海道は、夏の風景と冬の風景が全く異なり、それぞれを堪能することも旅の醍醐味である。
東日本の私鉄の巻、「好ききらいでいえば、むしろ私鉄のほうが好きだ。」例えば、接客態度。「感じの悪いほうから順に、①国鉄の幹線、②大手私鉄、③国鉄のローカル線、④ローカル中小私鉄、となる。・・・時刻表でのおもしろさの順と同じで、感じの悪いほど時刻表がおもしろいというかたちになっている。」こえrは、あらゆる鉄道を乗った著者ならではの帰結であろう。そして、中小私鉄の赤字対策事業など、涙ぐましい経営努力を紹介している。
西日本の私鉄の巻、「一般に西日本の私鉄は対応のしかたが柔軟であり、個性的だ。関東の私鉄には公共事業臭が漂うが、こちらは商売意識が強く感じられる。」確かに、例えば、大阪から神戸にかけて、JR、阪神、阪急など、客の取り合い路線がひしめき合っている。経営感覚が問われているのはあきらかだ。
私鉄は格別、国鉄改めJRは、廃線となった路線、第3セクターに移行した路線が多い。とりわけ、廃線となった背景を考えると、時代の流れ、と一言で言い切って良いものかどうか。新幹線も時間を大切にしたい面々にとっては最良の移動手段であるが、「旅」をするという気持からすると、「鈍行列車」というのもいい。本書にも記述があったが、門司発5:22、福知山着23:51、595.1キロを18時間29分で走破する「鈍行」、こういった汽車は、面白いに違いない。常磐線の「いわき~上野」の鈍行も無くなってしまった。乗客が少ないと、そうなってしまう。
その2は(駅はみている編)
いつものように、パソコンを起動させ、グーグルマップとウィキペディアで検索しながらの黙読である。
まずは、「鉄道旅行のたのしみ」
東海道、関東、近畿云々と全国各地の国鉄に加え、東日本・西日本の私鉄にまで手を出している。各編の冒頭や文末に鉄道に関する思いが述べられている。
東海道の巻、東海道といえば、新幹線である。著者は「新幹線によって、どれほど東海道の旅が味気なくされたことか。」、しかし、「新幹線の責任ではない。問題は、どう乗るかにある。東海道といえば新幹線、というふうに発送が短絡しては負けである。」と。新幹線乗車の必要性や楽しみ方を著者なりに論じている。東海道本線から枝線についても記載がある。これは、「時刻表2万キロ」で訪れたところであろう。この項末に「私は、汽車旅の再興のたのしみは居眠りにあるのではないか、と本気で思っている。・・・目が覚めると汽車が走っている。そこがなんともいえない。」
関東の巻は「遠くへ行くばかりが旅ではない。『旅』は身近なところにあるものだということを、私なりに示してみたい。」。いわゆる「本線」については、東京を出てから、都会的なものと自然との境目で、急に旅心地が沸いてくる瞬間についての記述がある。「本線」から外れると、「鄙びた地方」に接することができる。木原線は、大原から上総中山まで、現在は、第3セクター「いすみ鉄道」となっている。そして、著者が東京にいて面白いと思うこと、各方面からやって来る列車が見られることである。
近畿の巻では、冒頭「鉄道の旅は全国一律、どこへいっても同じかというと、そうではない。どの線区に乗っても、共通点のほうが多いコトは確かであるけれど、やはり違いがある。」と、その例えを「モーツアルトの音楽」に似ているとしている。
北陸・山陰の巻では、山陰本線の行が面白い。「山陰の海岸は岩とマツが美しく、水もきれいだ。工場が少なく、かわりに艶やかな瓦屋根の民家や漁村がある。この線に乗って汽車旅のたのしさを感じない人がいたら不干渉で、とても、ともに語る気がしない」というほど、良い景色のようである。これが書かれてから数十年、今は、どの様な景色になっているのだろうか。
東北の巻、冒頭で「汽車に乗りたくなると、上野駅へ足が向く。」「上野駅の場合は、二時間も乗れば旅心地がしてくる。行き先も多彩で、東北、常磐、奥羽、上越、信越と、よりどりみどりである。」「残された民族のふるさと、それがみちのくには色濃く残っている。」「上野駅独自の雰囲気は低いほうのホームにある。」「上野駅の低いほうのホームはみちのくの一部なのであって、これほど体臭を発散させる駅は少ない。」と、上野駅に対する著者の思いが伝わってくる。
北海道の巻、「北海道への旅は青函連絡船からはじまる、あるいは、はじまるべきだと私は信じている。」といいつつも、飛行機の時代は否定できない。北海道は、夏の風景と冬の風景が全く異なり、それぞれを堪能することも旅の醍醐味である。
東日本の私鉄の巻、「好ききらいでいえば、むしろ私鉄のほうが好きだ。」例えば、接客態度。「感じの悪いほうから順に、①国鉄の幹線、②大手私鉄、③国鉄のローカル線、④ローカル中小私鉄、となる。・・・時刻表でのおもしろさの順と同じで、感じの悪いほど時刻表がおもしろいというかたちになっている。」こえrは、あらゆる鉄道を乗った著者ならではの帰結であろう。そして、中小私鉄の赤字対策事業など、涙ぐましい経営努力を紹介している。
西日本の私鉄の巻、「一般に西日本の私鉄は対応のしかたが柔軟であり、個性的だ。関東の私鉄には公共事業臭が漂うが、こちらは商売意識が強く感じられる。」確かに、例えば、大阪から神戸にかけて、JR、阪神、阪急など、客の取り合い路線がひしめき合っている。経営感覚が問われているのはあきらかだ。
私鉄は格別、国鉄改めJRは、廃線となった路線、第3セクターに移行した路線が多い。とりわけ、廃線となった背景を考えると、時代の流れ、と一言で言い切って良いものかどうか。新幹線も時間を大切にしたい面々にとっては最良の移動手段であるが、「旅」をするという気持からすると、「鈍行列車」というのもいい。本書にも記述があったが、門司発5:22、福知山着23:51、595.1キロを18時間29分で走破する「鈍行」、こういった汽車は、面白いに違いない。常磐線の「いわき~上野」の鈍行も無くなってしまった。乗客が少ないと、そうなってしまう。
その2は(駅はみている編)