団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

原発もイジメも一緒

2012-07-18 06:18:12 | Weblog
 イジメも原発も同じ、という論法は一見、乱暴に聞こえそうだが、つまりその論拠は無謬性から来ている。
 原発は安全神話が完全に崩壊したが、それまでは原発は安全、だから事故はない、という根拠のない神話ができあがってしまった。
 だから、事故があっても、事故ではなく、隠蔽体質が染み込んでしまい、原発の聖域化が進行して、福島のような事態を招いてしまった。
 イジメはどうか。これも学校にイジメは存在しない、という学校現場の聖域化ができあがり、イジメがあっても、イジメではない、という現実を無視する関係者の無責任体質がベースにあった。
 原発はこれからきっと健全な産業に体質転換し、ひとつのエネルギーとしてノーマルな見方がされるようになっていくだろう。いずれは廃炉するにしろ、徐々にエネルギー比率を低減していく方向が社会に合っている。
 教育はむつかしい。すぐに答えが出せない問題だからだが、同じようなイジメによる自殺が続くということは、教育界の体質・制度が悪いと考えるべきだろう。
 基本的な姿勢は、イジメによって犠牲者を出さない、という関係者の覚悟であろう。だから、まず学校現場でイジメが報告されたら、徹底的に調べ、早めに被害者の子は転校かフリースクールなどへの配置を図ったうえで、警察に捜査を委ねることではないか。
 学校現場は聖域でもなんでもなくも、下手をすれば暴力団の予備軍を作っているケースもあるだろう。だったら早めに芽を摘むという考え方は必要だ。
 イジメは、まず犯罪である、という考え方を文科省も教育委員会も現場も徹底する。その予兆があれば、警察が捜査できる法律を作る必要もあろう。イジメ事前防止法などは条例などで成立させることができる。
 そして、因果関係を徹底的に調べ上げ、それを公表する。加害者のある程度の人権侵害も許容されるようにすべきだ。
 捜査の過程で、苛めた側は、自分たちのやったことが、いかに卑怯で無惨なことだったのかを知ろう。それで考え直す子もいよう。
 これまでは、イジメがあっても、まず認めない。自分の学校からイジメ事件が出ることは、関係者にとっては恥で面子丸潰れだからだ。だからあってもないことにする。
 ところが自殺者が出る。そうすると、大津のような態度に終始する。親が怒り警察沙汰になって、はじめて公になってしまう。
 それでは遅いのである。教育現場を神聖化したことによって、こんな事態になってしまった。人間がやることに、無謬はあり得ないことを、我々はどうして学べなかったのだろうか。
  
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