団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

団塊世代は切れやすいか

2013-07-27 09:18:16 | Weblog
 最近、気になる論調がある。団塊世代は切れやすい、という指摘だ。自分に限っていえば、切れやすいわけではないし、私の周辺にもさほど切れやすい同世代の人間はいない。
 ただ周南市の63歳の殺人犯などを新聞で読んでいると、たぶんに激高しやすい人間像が浮かび上がってくる。同じ世代である。
 そろそろ老境に入りつつある人間にとって、切れやすくなる原因はなんだろう、と考えてみた。感情的にいえば、バカにされた、ないがしろにされた、という直接的な原因は指摘できよう。
 それよりも、多くの人は、それまで一定の仕事をして社会的地位を築き、60歳を過ぎてリタイヤしたか、転職したか、あるいは新しい人生に踏み出しているか、とさまざまであろう。
 問題は、その人生の区切りが、自分にとってどんな意味を持つかであろう。不本意に退職させられたケースもあるだろうし、定年での円満退社もあろう、また転職で思うような仕事に就けなかった場合もあるだろう。退職で家庭内が不和になることも多々あるかもしれない。
 そうした時に、その問題をどう受け止め、自分を見つめ直す機会にすることができたか。あるいは社会や他人のせいにして、不満を鬱積させたのか。酒やギャンブルに走り、自暴自棄になってしまったか。
 そうした人生の一大転機を、我々は間近に経験して、いまを生きている。その人それぞれの対応によって、うまく乗り越えられなかった人たちが、ある程度切れやすくなり、それが社会の中で目立つ、ということではないだろうか。
 人口構成も多いのだから、目立っても当たり前ではあるだろうが、それでも結局、人はそうした人生を背負って生きて行かなければならない。ならば、切れてばかりはいられない。新しい自分を再発見して、人生の意味をまた見い出していく生き方をしなければならない。
 それからは逃げることはできない。60歳を過ぎ、豊穣な人生が待っているわけではない。むろん恋だって、新しいときめきだってあるだろう。それも生きる意味になれば、新しい一歩を踏み出すことができるわけだ。
 多くの人は、これからたんたんと人生を歩んでいくことになろう。病気にもなるし、身体が不自由になることもある、伴侶や親しい人との離別も多くなるだろう。
 これが老境ということであり、齢をとることによって、精神や肉体の衰えと同時に、死への覚悟もまた自然と受け入れられるようになっていくものだろう。
 なんだか悟ったようなことを書いてしまったが、この齢まで生き、いろいろと経験し、それだけを頼りに、まだ深酒をしてバカをやっている自分も情けないものであるが、それが人生なんだろう、人生そのものだ、と思うようになっている。私は、まだ生きているのだ、という思いを強くしている。

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