団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

まだいじめで死ぬのか

2013-07-12 15:24:05 | Weblog
 またいじめで生徒が死んでいる。これだけ世間で、いじめは悪い、いじめはこうして対処しよう、いじめは犯罪だ、とうるさいほどに報道されているが、まったく是正される兆候すらなく、ますます事態は悪くなっているようだ。
 どうしてなくならないのだろう。確かにいじめで死ぬことはない。逃げればいい。学校を替えるか、どこかに避難するか、うちで勉強してもいい。
 そんな簡単な選択肢すら発見できなくて死を選ぶ。そこに行きつくまで、親はいったい何をしているのだろうか。つまり親はなんだかんだいっても子供を見ていないのだろう。怒鳴ってもわめき散らしても、向き合ってとことん話し合うことをすべきだろう。なぜそれができなかったか、まず親は自らを問うしかない。
 それよりも学校であろう。どうしていじめられている生徒を発見できないのか。被害者の生徒と加害者の数人の生徒、そして傍観者の生徒がいるわけだが、そこの中にどうして担任や生徒指導の先生は入っていかないのか。
 その前兆はなかった、いじめの風聞がなかった、というのは多くの先生の言い訳として聞く。以前も書いたことがあるが、いじめはある、あるのが当たり前だ、という認識がそこにはなく、学校現場でまちがいやいじめはあり得ない、という教条主義がいまでもまかり通っているのだろう。
 中国だって北朝鮮だって、かつてはこの世のパラダイスといわれたことがあるが、その実態は一党独裁の恐怖政治だった。学校内も、ひとつの信仰にとらわれたパラダイス化しているのではないか。
 そこから教諭は抜け出て、もっと多様な価値観を持てる努力をすべく、教師自体の改革をもっと本気で考えたほうがいい。
 そして生徒だ。いじめは悪いことだ、と認識がどうしてないのだろうか。みんなそんなバカか。てめえの欲求不満を弱いものにぶつける卑怯者か。そんな卑劣漢が、どうして同じ教室で学ぶことができるのか。
 その根本をもっと生徒全体が考えて、少しでもいじめをなくす努力をすることだ。見て見ぬふりで一生、悔いを残すのか。そんなつまらない人生を送りたいのだろうか。
 私も軽いいじめにあった。5年後ぐらいにそのクラスメートにあったが、まったくなにごともない顔をしていた。受験や家庭環境の状況がそうさせたのかもしれないが、やはりそのことでともに酒を酌み交わす相手ではなくなった。
 所詮、いじめは自らを貶める。それは一生ついて回る。まともな人間のすることではないだろう。結局、なんらかの形でいじめとは戦うしかない。逃げることであっても、自らの人生と戦うことになろう。

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