団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

核兵器廃絶の矛盾

2009-09-28 13:58:25 | Weblog
 たとえ話ではあるが、町内に3つの暴力団があったとしよう。2つの暴力団は長年張り合い、武器を準備して睨み合っている。第三勢力はこれから武器を調達してのし上がろうとしている。
 ところがある日、2つの暴力団が武器を捨てるから、町内の仲間に入れてほしい、といってきた。町内の人々はなにをいまさら、と思うが平和になることは歓迎だ。しかし本当に武器を捨てるのかは疑心暗鬼だ。
 2つの暴力団はまず第三勢力に、おまえも捨てろ、うちの中を見せろ、といっている。そっちが先だろう、と第三勢力は反発している。
 2つの暴力団は武器廃棄をしたのは、景気が悪く実入りが少なくなり、武器を買う金がなくなってきたからだ。勢力拡大よりも生活第一で身内の生活を優先した。
 さて、どうなるのか、というのが現在の状況だ。アメリカのオバマ大統領は核廃絶に向けた方向性を掲げた。世界は歓迎しているが、大国の勝手な論理といえる。
 確かに広島・長崎で核兵器を使い、二度と使えないことが分かったが、軍拡は続く。膨大な核兵器が造られたが、第三者機関が検証したのではないから、実際はあるのかないのか分からない。使ってみないから使えるのかも分からない。それを捨てる捨てない、といってもはじまらない。
 そこに核兵器の大いなる矛盾がある。二度と使えない兵器を捨てる、といっているからだ。二度と使えない兵器は、兵器とはいえないだろう。しかも保有しているだけで莫大な維持費がかかる。
 抑止力として有効に作用したかもしれないが、もし広島・長崎で使われなかったら、やはりどこかで使われたのだろうか。
 使わなければ、二度と使えない、という認識も生まれない。朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争など、その機会はあったろうが、広島・長崎で使ったことによって、二度と使えないことが分かったがゆえに、真の意味で戦後の世界の平和が保たれたのだろう。
 その意味で、戦後の平和を作ったのは日本なのだ、という結論になる。使ったアメリカもその一翼を担ったともいえ、皮肉な論理になるわけだ。
 その核兵器を廃棄する。人類のジェノサイドはなくなりそうだが、人類の敵は、核兵器から貧困、温暖化と新型ウイルスに変わったのだ、という認識が21世紀の世界観であろう。

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