人って、そばにいる人がテンパっていると、一緒になってテンパるか、逆にものすごく冷静になるかのどちらかだと思う。今回、私はまさに後者だった。妙に冷静だった。
(あかね先生……変)
両手を祈るように組んで、『処置中』の表示を見上げているあかね先生。その手がブルブルと震えている。真っ青な顔をして、ママの血で赤く染まったシャツを着ているので、まるで先生が大怪我をしたかのように見える。ここまで先生が動揺するなんて……。
「美咲」
お兄ちゃんが小走りにやってきた。病院についてすぐにパパとお兄ちゃんとおばあちゃんにメールしたんだ。お兄ちゃん一番乗り。
「お母さんは?」
「今、手術?みたいなのしてる。お医者さんが縫うって言ってた」
「そうか……あれ? あかね先生……」
お兄ちゃんが先生に気が付いて言ったけど、先生はまったく聞こえてない。震えながら祈っている。お兄ちゃんがその様子を見て眉を寄せた。
「あかね先生も怪我してるのか? あの血……」
「あれは全部ママの血。ママ、すごい血が出て……」
言いかけたところで、処置中のランプが消えた。
「綾さん……っ」
「ママッ」
あれ? ママ、担架で運ばれたのに、普通に立って歩いてる。頭にネットみたいなのはかぶってるけど。
「あや……っ」
「一之瀬先生」
駆け寄っていこうとしたあかね先生を制するように、ママが手の平をこちらに向けた。ビクッとしてあかね先生が止まる。
「ご心配おかけして申し訳ありません。大丈夫ですので」
「あ……はい」
大きく息をつくあかね先生。ママは安心させるようにニッコリとした。
「健人も美咲も、きてくれてありがとうね」
「ママ……歩いて大丈夫なの?」
あんなに血が出て、気まで失ったのに……。
「うん。8針縫ったけど、もう大丈夫。でもこれから脳の検査もして、今日は一応入院することになるみたい。運ばれた時、意識がなかったのが気になるからって」
「そう……」
「健人、入院の手続きお願いしていい?」
「了解」
お兄ちゃんがコックリと肯くと、ママは優しく微笑んで、今度は私を見た。
「美咲、悪いんだけど、私のカバン……」
「オッケー。部室に置いてたよね。取ってくるよ」
「ありがとう」
いつも通りの穏やかなママだ。
「じゃあ、よろしくね」
ママは看護師さんに促されて、歩きかけたけれど、あかね先生の前でふいに立ち止った。
「一之瀬先生」
「……はい」
「これは、偶然起きてしまった事故、ですので、くれぐれも大ごとにならないように……お願いします」
「……………」
あかね先生の大きな目がますます大きく見開かれた。ママは軽く会釈をすると、また歩き始めた。
あかね先生はその後ろ姿を、微動だにしないまま、じっと見つめていた。
**
病院から学校まで、先生がタクシーで送ってくれることになった。
その車中でも、先生はじっと押し黙ったまま、心こここにあらず、という感じで……
「先生っていつの間に、ママのこと『綾さん』って呼ぶようになったんだね?」
「………え? あ、うん……」
「いつから?」
「え? ああ、うん、そうだね……」
終始こんな感じ。聞いても、返事にならない返事をして終わりになっていた。
でも、植木鉢のことを言った時だけ、意識がこちらに向いた。
「え……ごめん、美咲さん、もう一回言って」
「うん。だからね、植木鉢が落ちてきたとき、二階のベランダに人影を見た……気がするの」
「二階………」
ギリッとあかね先生が親指の爪を噛んだ。その目がここではないどこかを見つめていて……怖い。
「あ、でも、一瞬だったし、見間違いかもしれないんだけど……」
「…………」
「でも、偶然起きた事故ってママは言ってたけど、本当に単なる事故、なのかな、とか思って……」
「そう………」
また先生の意識がどこかへ飛んで行ってしまった。
この数時間の先生は、私が知っていた先生とはまったく違う人みたいだった。
決定的に別人の先生を見たのは、学校に着いてからだ。
先生は校長先生に報告があるというので、校内に入ってすぐに一度別れた。私は荷物を回収したら先生の車が停めてある学校の駐車場に向かうことになっていた。先生は合宿の荷物を運ぶために、車できていたんだ。病院まで送ってくれるというから、駐車場で待ち合わせをしていたんだけど……。
(あそこの真上の2階って、なんの教室だっけ……)
ふと気になった。先生がくるまでには時間があるだろうから行ってみることにした。
裏庭はきれいに片付けられていた。ママの血のあとのあたりは水びだしになっていた。誰かが水で流してくれたんだろう。
合宿は昼食後に終わる予定だったから、もう演劇部の人は誰もいなかった。……みんなご飯どうしたかな? 食べたのかな? 考えてみたら私、お昼食べてなかった。でも不思議とお腹は空いてない。
(ここの真上だから……)
近くの入り口から入って、階段をのぼろうとしたけれど、
(………?)
1階と2階の間の踊り場のあたりから声が聞こえてきて、思わず隠れてしまった。誰か、いる。
声の主の一人は、女の人。すすり泣いている。聞いたことがあるようなないような声。もう一人は……男?女? 低い声で判別がつかない。
女の人がか細い声でしゃくりあげながら何か謝っている。
「ごめんなさい……だって……」
「だって?」
関係のない私までドキッとするくらい冷たい声。この声……あかね先生……?
そう思ったのと同時に、
「!」
バンッとものすごい音がして、ビクッと跳ね上がってしまった。たぶん、壁を蹴ったか殴ったかした音。
静寂の中で、あかね先生らしき人の低い声が響いてくる。
「今度、あの人に何かしたら……」
小さく、でも体の奥の方に響く声。
「………殺すよ?」
「!」
ゾッとした。本気だ……こんな殺意のある声……声だけで殺されてしまいそうな……。
腰が抜ける、というやつ。へなへなと座り込んでしまった。
言われたわけでもない私がこの状態になっているんだから、言われた女の人は気を失ったのかもしれない。さっきまで聞こえていたすすり泣く声がやんでいる。
(……やばい)
カツカツカツと階段を下りてくる音がする。階段裏の壁にへばりついて息をとめていたら、気がつかれなかったらしく、足音の主は私がいたほうとは反対に向かって歩いていった。
そうっと顔をだして、その後ろ姿を確認したら………
(……あかね先生)
やっぱりあかね先生だった。背中にまだ殺気を漂わせている。怖くてとても声なんてかけられない。
相手の女の人は……誰? それに、さっきの会話……
(「あの人に何かしたら、殺すよ?」……って)
あの人、っていうのは……ママのこと?
じゃあ、やっぱり、ママは故意に狙われたってこと?
あかね先生があそこまで犯人に殺意をむき出しにするって……どういうこと?
(あ、それに……)
ママはなぜか「偶然起きた事故」ってわざわざ言いきった。あれは、本当はそうじゃないって知ってたからわざといったんじゃないの……?
女の人が誰なのか知りたかったけど、知らない方がいい気がして、踊り場は見ないでそのままコッソリとまた裏庭に出た。
水びだしの場所……ママが倒れたあの場所の上の教室は……。
(ああ、そうか)
かかっているカーテンで思い出した。あそこは、家庭科室だ。
(あ)
それで、ピピピッと頭の中で一致した。あの女の人の声……由衣先生に似てた。でも確信は持てない。持てないし持ちたくもない。由衣先生がママに怪我させたなんて……。そして、あかね先生が由衣先生に「殺すよ?」って言うなんて……。
あまりもの出来事の連続に、考えがまとまらない。まとまらないから、考えないことにした。
でも、もっと衝撃的な事がこれから起こる。私は人生の分岐点に立つことになる。
--------------------------
もう少し続けたかったけど、長くなるのでここで切ります。
今、3500字くらい。やっぱりこのくらいが一回量としては適量な気がするんだよね。
次まで美咲視点で。
(あかね先生……変)
両手を祈るように組んで、『処置中』の表示を見上げているあかね先生。その手がブルブルと震えている。真っ青な顔をして、ママの血で赤く染まったシャツを着ているので、まるで先生が大怪我をしたかのように見える。ここまで先生が動揺するなんて……。
「美咲」
お兄ちゃんが小走りにやってきた。病院についてすぐにパパとお兄ちゃんとおばあちゃんにメールしたんだ。お兄ちゃん一番乗り。
「お母さんは?」
「今、手術?みたいなのしてる。お医者さんが縫うって言ってた」
「そうか……あれ? あかね先生……」
お兄ちゃんが先生に気が付いて言ったけど、先生はまったく聞こえてない。震えながら祈っている。お兄ちゃんがその様子を見て眉を寄せた。
「あかね先生も怪我してるのか? あの血……」
「あれは全部ママの血。ママ、すごい血が出て……」
言いかけたところで、処置中のランプが消えた。
「綾さん……っ」
「ママッ」
あれ? ママ、担架で運ばれたのに、普通に立って歩いてる。頭にネットみたいなのはかぶってるけど。
「あや……っ」
「一之瀬先生」
駆け寄っていこうとしたあかね先生を制するように、ママが手の平をこちらに向けた。ビクッとしてあかね先生が止まる。
「ご心配おかけして申し訳ありません。大丈夫ですので」
「あ……はい」
大きく息をつくあかね先生。ママは安心させるようにニッコリとした。
「健人も美咲も、きてくれてありがとうね」
「ママ……歩いて大丈夫なの?」
あんなに血が出て、気まで失ったのに……。
「うん。8針縫ったけど、もう大丈夫。でもこれから脳の検査もして、今日は一応入院することになるみたい。運ばれた時、意識がなかったのが気になるからって」
「そう……」
「健人、入院の手続きお願いしていい?」
「了解」
お兄ちゃんがコックリと肯くと、ママは優しく微笑んで、今度は私を見た。
「美咲、悪いんだけど、私のカバン……」
「オッケー。部室に置いてたよね。取ってくるよ」
「ありがとう」
いつも通りの穏やかなママだ。
「じゃあ、よろしくね」
ママは看護師さんに促されて、歩きかけたけれど、あかね先生の前でふいに立ち止った。
「一之瀬先生」
「……はい」
「これは、偶然起きてしまった事故、ですので、くれぐれも大ごとにならないように……お願いします」
「……………」
あかね先生の大きな目がますます大きく見開かれた。ママは軽く会釈をすると、また歩き始めた。
あかね先生はその後ろ姿を、微動だにしないまま、じっと見つめていた。
**
病院から学校まで、先生がタクシーで送ってくれることになった。
その車中でも、先生はじっと押し黙ったまま、心こここにあらず、という感じで……
「先生っていつの間に、ママのこと『綾さん』って呼ぶようになったんだね?」
「………え? あ、うん……」
「いつから?」
「え? ああ、うん、そうだね……」
終始こんな感じ。聞いても、返事にならない返事をして終わりになっていた。
でも、植木鉢のことを言った時だけ、意識がこちらに向いた。
「え……ごめん、美咲さん、もう一回言って」
「うん。だからね、植木鉢が落ちてきたとき、二階のベランダに人影を見た……気がするの」
「二階………」
ギリッとあかね先生が親指の爪を噛んだ。その目がここではないどこかを見つめていて……怖い。
「あ、でも、一瞬だったし、見間違いかもしれないんだけど……」
「…………」
「でも、偶然起きた事故ってママは言ってたけど、本当に単なる事故、なのかな、とか思って……」
「そう………」
また先生の意識がどこかへ飛んで行ってしまった。
この数時間の先生は、私が知っていた先生とはまったく違う人みたいだった。
決定的に別人の先生を見たのは、学校に着いてからだ。
先生は校長先生に報告があるというので、校内に入ってすぐに一度別れた。私は荷物を回収したら先生の車が停めてある学校の駐車場に向かうことになっていた。先生は合宿の荷物を運ぶために、車できていたんだ。病院まで送ってくれるというから、駐車場で待ち合わせをしていたんだけど……。
(あそこの真上の2階って、なんの教室だっけ……)
ふと気になった。先生がくるまでには時間があるだろうから行ってみることにした。
裏庭はきれいに片付けられていた。ママの血のあとのあたりは水びだしになっていた。誰かが水で流してくれたんだろう。
合宿は昼食後に終わる予定だったから、もう演劇部の人は誰もいなかった。……みんなご飯どうしたかな? 食べたのかな? 考えてみたら私、お昼食べてなかった。でも不思議とお腹は空いてない。
(ここの真上だから……)
近くの入り口から入って、階段をのぼろうとしたけれど、
(………?)
1階と2階の間の踊り場のあたりから声が聞こえてきて、思わず隠れてしまった。誰か、いる。
声の主の一人は、女の人。すすり泣いている。聞いたことがあるようなないような声。もう一人は……男?女? 低い声で判別がつかない。
女の人がか細い声でしゃくりあげながら何か謝っている。
「ごめんなさい……だって……」
「だって?」
関係のない私までドキッとするくらい冷たい声。この声……あかね先生……?
そう思ったのと同時に、
「!」
バンッとものすごい音がして、ビクッと跳ね上がってしまった。たぶん、壁を蹴ったか殴ったかした音。
静寂の中で、あかね先生らしき人の低い声が響いてくる。
「今度、あの人に何かしたら……」
小さく、でも体の奥の方に響く声。
「………殺すよ?」
「!」
ゾッとした。本気だ……こんな殺意のある声……声だけで殺されてしまいそうな……。
腰が抜ける、というやつ。へなへなと座り込んでしまった。
言われたわけでもない私がこの状態になっているんだから、言われた女の人は気を失ったのかもしれない。さっきまで聞こえていたすすり泣く声がやんでいる。
(……やばい)
カツカツカツと階段を下りてくる音がする。階段裏の壁にへばりついて息をとめていたら、気がつかれなかったらしく、足音の主は私がいたほうとは反対に向かって歩いていった。
そうっと顔をだして、その後ろ姿を確認したら………
(……あかね先生)
やっぱりあかね先生だった。背中にまだ殺気を漂わせている。怖くてとても声なんてかけられない。
相手の女の人は……誰? それに、さっきの会話……
(「あの人に何かしたら、殺すよ?」……って)
あの人、っていうのは……ママのこと?
じゃあ、やっぱり、ママは故意に狙われたってこと?
あかね先生があそこまで犯人に殺意をむき出しにするって……どういうこと?
(あ、それに……)
ママはなぜか「偶然起きた事故」ってわざわざ言いきった。あれは、本当はそうじゃないって知ってたからわざといったんじゃないの……?
女の人が誰なのか知りたかったけど、知らない方がいい気がして、踊り場は見ないでそのままコッソリとまた裏庭に出た。
水びだしの場所……ママが倒れたあの場所の上の教室は……。
(ああ、そうか)
かかっているカーテンで思い出した。あそこは、家庭科室だ。
(あ)
それで、ピピピッと頭の中で一致した。あの女の人の声……由衣先生に似てた。でも確信は持てない。持てないし持ちたくもない。由衣先生がママに怪我させたなんて……。そして、あかね先生が由衣先生に「殺すよ?」って言うなんて……。
あまりもの出来事の連続に、考えがまとまらない。まとまらないから、考えないことにした。
でも、もっと衝撃的な事がこれから起こる。私は人生の分岐点に立つことになる。
--------------------------
もう少し続けたかったけど、長くなるのでここで切ります。
今、3500字くらい。やっぱりこのくらいが一回量としては適量な気がするんだよね。
次まで美咲視点で。