木の匂いと、朝日と、温かい腕と、優しい手の感触に包まれながら、目を覚ました。あかねの手がゆっくりゆっくりと私の頭をなでている。
「……あかね?」
「あ、おはよう。綾さん」
こつん、とおでこを合わせる。あかねが目を細めてこちらを見ている。
「……おはよ。どうしたの?」
「んー。愛する人が自分の腕の中にいるという喜びをかみしめてるの」
「………変な子」
「そう?」
言いながらも、あかねが首元にキスをしてくる。
「んん……今何時?」
「もうすぐ6時」
「え、6時?」
あかねを押しのけ体を起こし、机の上の目覚まし時計を取る。5時55分。ああ、あと5分で鳴る。
「もう起きないと。6時に起きるつもりだったからちょうどよかった」
「えー、じゃ、あと5分あるよ? しよ?」
「何言ってんの。5分じゃ終わらないでしょ」
「努力します」
「なんの努力……っ」
思わずのけぞる。あかねの唇が背中から腰にかけておりてきたのだ。どうしようもなく全身で感じてしまう。
「ん……、あかね……」
「ホント、綾さんって感度いいよね……」
「!」
なにそれ。ムカッときた。腹立たしいままに、後ろから胸のあたりに伸ばされてきた手を、思いきりつねる。
「痛い痛い痛いってっ」
悲鳴を挙げたあかねの頬をさらにつねりあげる。
「何、何怒って……」
「そういう、誰かと比べるような発言、やめてくれる?」
「……え、比べる?って?」
きょとんとしたあかね。もう知らない。さっさと着替えはじめる。
「え、何、何? 分かんない。比べてなんかないよ?」
「比べたでしょっ」
枕を掴んで投げつける。ちょっと待って、と言いながらあかねは枕を受け取り、
「えーと……私、何言った? えーと、綾さんの感度がいいって……」
「…………」
「……………それ?」
「…………」
むっとしていると、強引に引っ張られベッドに座らさせられた。そっぽを向いている頬をあかねがつんつんとつついてくる。
「あーやーさん」
「………なによ」
「かわいいね」
こめかみのあたりに軽いキス。
「かわいくない」
「かわいいよ?」
「誤魔化そうったって……」
「誤魔化してないよ」
引き寄せられ、ぎゅううっと抱きしめられる。
「もう、他の人のことなんか忘れちゃった。綾さんのことしか覚えてないよ」
「……………」
調子のいいこと言って……。
でもこれで許してしまうのが惚れた弱みというやつなのか。
大きくため息をついて、肩をすくめる。
「……もう、いいわ」
「じゃ、ね、綾さん。言って?」
「………」
ニコニコのあかね。この「言って」は朝のお約束。飽きもせず、毎日のようにせがんでくる。
「…………あ」
「あ?」
なんか悔しい。いいたくない。
「…………もう行く」
「え?! 綾さん?!」
行こうとした手をつかまれた。振り返ると……泣きそうなあかねの瞳。ギョッとする。
「やだ、あかね。泣かなくても……」
「だって、綾さん怒ってる……」
うるうるとした瞳。最近あかねはよく泣く。学生時代は一度も涙なんてみせたことなかったのに、家族になるって言ったあの日から、やたらと涙を流すようになった。私と二人きりのときにだけ見せる、幼い子供のようなあかね。かわいいかわいいあかね。きっと幼少時代に出すことのできなかった泣き虫のあかねの人格がようやく出てきたのだろう。いい傾向だと思う。
私も私で枕を投げるくらいには感情をぶつけられるようになったのだから、お互いいい傾向なのかもしれない。
「もう怒ってないから。ね?」
頭を引き寄せ、なでていると、あかねは私の胸に顔を埋めながらコクコク肯き、
「じゃあ、言って」
「…………あかね」
その愛しい額に口づける。
「愛してるわ。あかね」
「うん」
あかねが安心したように微笑む。こちらまで幸せになるような微笑み。愛おしい、と心の底から思う。
あかねの額に再度口づけると、
「まだ寝てていいわよ? 部屋戻ったら?」
「んー綾さんは?」
「私はサンドイッチ作りがあるからもう起きるの」
「あ、そっか。今日、美咲のステージだもんね」
美咲は、ステージ成功のゲン担ぎに、お弁当は必ずサンドイッチを持って行く。
「私も手伝う」
「そう? ありがと。じゃあお願い」
木の匂いのする階段を降りていく。吹き抜けのリビング。大きな窓に雲間からの朝日。
このシェアハウスは4部屋で構成されている。元々は普通の4LDKの広い一軒家だった家を、シェアハウスとして貸し出すようにリフォームしたらしい。斜面に沿う形で建っており、二階に広い玄関がある。
玄関を入って左手に2部屋。手前をあかね、奥を私が借りている。玄関の右手に洗面台・トイレ・もう1部屋。こちらは健人用に借りている。廊下の手すりの向こうは吹き抜けのリビングだ。
大きな階段の下には、隠し部屋のような1部屋。クの字をした変な形だし、入口も背が高い人はかがまないと入れない小さなドアの部屋なため、この部屋だけ賃料も少し安い。もしかしたら、元々は広めの物置だったのかもしれない。でも、美咲が一目見て気に入ったため、即決で美咲の部屋となった。
広いリビングの続きにダイニング。あこがれのカウンターキッチン。かなり広いので3人で台所に立っても大丈夫なところがさらにいい。
そして何よりいいのは、ログハウス調の建物で、木の匂いがすること。広い窓から太陽の光が燦々と降りそそいでくること。こんな贅沢なことはない。
あかね名義のマンションに住むことは、自立できていないようで気が引ける……と感じていたことを、あかねは気が付いてくれていた。老後、二人だけになった時にはまたマンションに戻るかもしれないけれど、とりあえず、子供がいるうちは他で借りよう、ということになったのだ。
名義の問題などで悩んでいたところ、あかねの知り合いの不動産屋さんから、シェアハウスを勧められた。シェアハウスならば、一緒の家に住みながらも、それぞれの部屋での契約になる。話し合いの結果、私と美咲の部屋を私が、あかねと健人用の部屋をあかねが契約することになった。
初めての自分名義での住居。ようやく一人前になった気がする。
サンドイッチというのは、前日に作っておくわけにはいかないから面倒だったりする。具材だけは前日に仕込んでおけるけれども、バターを塗って具材をはさんでカットする、という工程はどうしても当日になる。これが何気に手間がかかる。
あかねにバター塗りをお願いして、朝食の準備とサンドイッチ作りを平行してやっていたところ、
「おはよー……」
美咲が眠たげに目をこすりながら起きてきた。今日、本番だというのにずいぶんダルそうだ。
「大丈夫? 昨日遅くまで勉強してたでしょ?」
「うん。平気……。それより、ママ、髪の毛……は無理そうだね」
美咲は言いかけたけれども、私が忙しそうにしているところをみて、あかねに目をうつした。
「あかねママでいいや。あかねママー髪の毛結ってー」
「美咲……。でいいや、とはなによ。でいいやとは」
ちょうどすべてのパンにバターを塗り終わったあかねが、ぴんっと美咲のおでこをはじく。あかねと美咲はいつの間にか「美咲」「あかねママ」と呼び合うようになった。学校で間違えて呼んでいないか心配だ。
「最近、腕あげてきたでしょ? 今日は綾さんと遜色ない仕上がりにしてみせます!」
「ほんとにー? じゃあ、編み込みできる?」
「できるできる……たぶん」
「たぶんって言った!」
二人がはしゃぎながらリビングで髪の毛を結いはじめたところに、パタパタとスリッパの音が響いてきた。
「もう綾さん、起こしてくれれば私も手伝うのにっ」
「おはようございます。季美子さん。じゃ、出来上がってるのからカットお願いします」
季美子さん……夫の母は、昨晩もこちらに泊まった。しょっちゅう泊まりにきている。
2月の夫の父の一周忌は、結局私が取り仕切った。これが最後のつもりで、すべて取り仕切り、以降の法事への引継ぎノートまで作成した。
親戚一同には、夫と私が離婚したこと、近々夫が再婚することをこの場で発表した。新しい佐藤家の嫁は、この日来ていなかった。嫁業をやるのは真っ平ごめん、らしい。
「綾さんは、私の見込んだ通り、完璧な嫁だったわ」
義母は法事の席でしみじみとつぶやいた。そう。考えてみたら、私が結婚した理由は、義母に気にいられたからだった。
「あなたにはお父さんのことも全部見てもらって……感謝してもしたりないわ。お父さんも、綾さんのこと本当の娘……いえ、お母さん、とでも思ってたみたいよね。お父さんが穏やかに逝くことができたのは綾さんのおかげ」
「やだ、お義母さん?」
義母は何を思ったのか深々と私に頭をさげた。あわててやめさせようとすると、
「それなのに、充則がバカな真似を……本当にごめんなさい。三年も辛かったでしょう」
「お義母さん……」
頭をあげた義母は寂しそうに微笑んだ。
「でも、バカな息子でも私にとっては息子は息子。支えていってやりたいと思うの」
「……はい」
「今度の嫁は手ごわそうだから、私のほうが追い出されちゃうかもしれないわね」
「そしたらうちに泊まりにおいでよ、おばあちゃん!」
いつの間に私の後ろに美咲がいた。美咲はⅤサインをつくると、
「せっかくお兄ちゃんのために一部屋空けてあるのに、お兄ちゃん中島先輩のところに住んじゃって、こっちにくる気ないみたいだから、一部屋余ってるんだよ」
「え……でも」
「ええ。どうぞ。是非泊まりにいらしてください」
80%くらい社交辞令での誘い文句だったけれど、義母は本当に泊まりにやってきた。新しいお嫁さんは相当手ごわいらしい。ストレスがたまってしょうがない!とプリプリしている。
もう、お義母さんと呼ぶのもなんなので、「季美子さん」と呼ぶことになった。季美子さんは私のことは変わらず「綾さん」。そして、あかねのことはなぜか「あかねちゃん」と呼ぶ……。
あかねと季美子さんはすっかり打ち解けて、季美子さんが泊まりに来た日は遅くまで一緒に飲んでいたりする。
冗談でもなんでもなく、近い将来、本当に季美子さんが空き部屋に引っ越してくるような気がする……。
「あら……」
あかねと美咲の声に、我に返った。
「大丈夫だよーコッソリ隠れてるから」
「ダーメ。今日は学校の子たちも来てるから絶対にばれるよ。あかねママ、自分のオーラ自覚しなよ」
「消す消す。オーラ消す」
「じゃあ、今消してみて。はい、消えてません。残念」
「なんでー!」
まだやってる…。あかねが美咲のダンスを見に行きたいとずっと駄々をこねているのだ。
「もーママー。あかねママがしつこいー」
「あかね、今日は本当に無理よ。5月の駅前のフェスティバルだったら、偶然通りかかったってことで誤魔化せるからいいけど、今日のは市民ホールだから」
「えー5月までなんて待てない」
ブツブツブツブツ……。あかねは眉間にシワを寄せている。
「せっかくのうちの子の晴れ舞台を見れないなんて……。やっぱり転職、本気で考えようかな……」
「バカなこと言ってないで。はい。みんな時間。遅れちゃうわよ」
手を叩き、3人を玄関に送り出す。
美咲は午前中リハーサルで、午後から本番。季美子さんは一度家に戻ってから、本番に間に合うように会場入りするという。私も持ち帰っている仕事を午前中にすませて、午後から見に行く予定。あかねは午前中、学校で演劇部の練習がある。
「あかねちゃん、健ちゃんがビデオ撮ってくれるから、それ楽しみにしてて」
「えー……生で見たいのに……」
季美子さんの言葉にもあかねはブツブツと言い返している。美咲が楽しげに笑ってあかねの背中を叩いた。
「5月のは見にきていいから。ね。今日は我慢して」
「うー……」
ようやくあかねが首を縦にふった。美咲もここまで見たい見たい言われて相当嬉しいようだ。いつもよりもさらに元気いっぱいに玄関を開けた。
「じゃ、ママ、あとでね!」
「うん。頑張ってね」
「綾さん、私はいつものように前の方で見てますからね」
「はい。あとで会場で」
行ってきまーす!と、ようやく三人がにぎやかに出ていった。やれやれだ。
ホッと一息ついたところで、再びドアが開いた。あかねだけがスルリと中に入ってくる。
「あかね? 忘れ物?」
「うん」
いきなり手をつかまれ、引き寄せられる。ぎゅーぎゅーぎゅーと抱きしめられてから、
「行ってきます」
頬に軽くキスされた。思わず笑ってしまう。これが忘れ物ね。
「行ってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
あかねの幸せそうな笑顔。心が温かくなる。笑顔にさせてあげられる自分が誇らしい。閉まったドアを見つめながら、ぐっとガッツポーズを作る。
さっき、あかねは美咲のことを「うちの子」と言っていた。「うちの子」。そう。私たちは「うち」だ。
私たち、ここまで来られた。
20年前、あの悲しい別れをしたときには想像もできなかった。あの時の私は、諦めてばかり言い訳ばかりの勇気がない女の子だった。でも、今は違う。私はもう言い訳はしない。20年あったから、ここまで行きつくことができた、幸せの場所。
これから先、もしかしたら心揺らぐようなことが起きるかもしれない。
でも、私はもう、一番大切なことを見失うことはない。絶対に離さない。私の愛。私の光………。
--------------------------
綾さん視点の最後の回でした。
みんな幸せそう……。
でも、あかねがまだ若干不安定かな。でも母性愛あふれる綾さんならきっとその愛で包み込んでくれることでしょう。
次回、あかね視点。最終回です。
「……あかね?」
「あ、おはよう。綾さん」
こつん、とおでこを合わせる。あかねが目を細めてこちらを見ている。
「……おはよ。どうしたの?」
「んー。愛する人が自分の腕の中にいるという喜びをかみしめてるの」
「………変な子」
「そう?」
言いながらも、あかねが首元にキスをしてくる。
「んん……今何時?」
「もうすぐ6時」
「え、6時?」
あかねを押しのけ体を起こし、机の上の目覚まし時計を取る。5時55分。ああ、あと5分で鳴る。
「もう起きないと。6時に起きるつもりだったからちょうどよかった」
「えー、じゃ、あと5分あるよ? しよ?」
「何言ってんの。5分じゃ終わらないでしょ」
「努力します」
「なんの努力……っ」
思わずのけぞる。あかねの唇が背中から腰にかけておりてきたのだ。どうしようもなく全身で感じてしまう。
「ん……、あかね……」
「ホント、綾さんって感度いいよね……」
「!」
なにそれ。ムカッときた。腹立たしいままに、後ろから胸のあたりに伸ばされてきた手を、思いきりつねる。
「痛い痛い痛いってっ」
悲鳴を挙げたあかねの頬をさらにつねりあげる。
「何、何怒って……」
「そういう、誰かと比べるような発言、やめてくれる?」
「……え、比べる?って?」
きょとんとしたあかね。もう知らない。さっさと着替えはじめる。
「え、何、何? 分かんない。比べてなんかないよ?」
「比べたでしょっ」
枕を掴んで投げつける。ちょっと待って、と言いながらあかねは枕を受け取り、
「えーと……私、何言った? えーと、綾さんの感度がいいって……」
「…………」
「……………それ?」
「…………」
むっとしていると、強引に引っ張られベッドに座らさせられた。そっぽを向いている頬をあかねがつんつんとつついてくる。
「あーやーさん」
「………なによ」
「かわいいね」
こめかみのあたりに軽いキス。
「かわいくない」
「かわいいよ?」
「誤魔化そうったって……」
「誤魔化してないよ」
引き寄せられ、ぎゅううっと抱きしめられる。
「もう、他の人のことなんか忘れちゃった。綾さんのことしか覚えてないよ」
「……………」
調子のいいこと言って……。
でもこれで許してしまうのが惚れた弱みというやつなのか。
大きくため息をついて、肩をすくめる。
「……もう、いいわ」
「じゃ、ね、綾さん。言って?」
「………」
ニコニコのあかね。この「言って」は朝のお約束。飽きもせず、毎日のようにせがんでくる。
「…………あ」
「あ?」
なんか悔しい。いいたくない。
「…………もう行く」
「え?! 綾さん?!」
行こうとした手をつかまれた。振り返ると……泣きそうなあかねの瞳。ギョッとする。
「やだ、あかね。泣かなくても……」
「だって、綾さん怒ってる……」
うるうるとした瞳。最近あかねはよく泣く。学生時代は一度も涙なんてみせたことなかったのに、家族になるって言ったあの日から、やたらと涙を流すようになった。私と二人きりのときにだけ見せる、幼い子供のようなあかね。かわいいかわいいあかね。きっと幼少時代に出すことのできなかった泣き虫のあかねの人格がようやく出てきたのだろう。いい傾向だと思う。
私も私で枕を投げるくらいには感情をぶつけられるようになったのだから、お互いいい傾向なのかもしれない。
「もう怒ってないから。ね?」
頭を引き寄せ、なでていると、あかねは私の胸に顔を埋めながらコクコク肯き、
「じゃあ、言って」
「…………あかね」
その愛しい額に口づける。
「愛してるわ。あかね」
「うん」
あかねが安心したように微笑む。こちらまで幸せになるような微笑み。愛おしい、と心の底から思う。
あかねの額に再度口づけると、
「まだ寝てていいわよ? 部屋戻ったら?」
「んー綾さんは?」
「私はサンドイッチ作りがあるからもう起きるの」
「あ、そっか。今日、美咲のステージだもんね」
美咲は、ステージ成功のゲン担ぎに、お弁当は必ずサンドイッチを持って行く。
「私も手伝う」
「そう? ありがと。じゃあお願い」
木の匂いのする階段を降りていく。吹き抜けのリビング。大きな窓に雲間からの朝日。
このシェアハウスは4部屋で構成されている。元々は普通の4LDKの広い一軒家だった家を、シェアハウスとして貸し出すようにリフォームしたらしい。斜面に沿う形で建っており、二階に広い玄関がある。
玄関を入って左手に2部屋。手前をあかね、奥を私が借りている。玄関の右手に洗面台・トイレ・もう1部屋。こちらは健人用に借りている。廊下の手すりの向こうは吹き抜けのリビングだ。
大きな階段の下には、隠し部屋のような1部屋。クの字をした変な形だし、入口も背が高い人はかがまないと入れない小さなドアの部屋なため、この部屋だけ賃料も少し安い。もしかしたら、元々は広めの物置だったのかもしれない。でも、美咲が一目見て気に入ったため、即決で美咲の部屋となった。
広いリビングの続きにダイニング。あこがれのカウンターキッチン。かなり広いので3人で台所に立っても大丈夫なところがさらにいい。
そして何よりいいのは、ログハウス調の建物で、木の匂いがすること。広い窓から太陽の光が燦々と降りそそいでくること。こんな贅沢なことはない。
あかね名義のマンションに住むことは、自立できていないようで気が引ける……と感じていたことを、あかねは気が付いてくれていた。老後、二人だけになった時にはまたマンションに戻るかもしれないけれど、とりあえず、子供がいるうちは他で借りよう、ということになったのだ。
名義の問題などで悩んでいたところ、あかねの知り合いの不動産屋さんから、シェアハウスを勧められた。シェアハウスならば、一緒の家に住みながらも、それぞれの部屋での契約になる。話し合いの結果、私と美咲の部屋を私が、あかねと健人用の部屋をあかねが契約することになった。
初めての自分名義での住居。ようやく一人前になった気がする。
サンドイッチというのは、前日に作っておくわけにはいかないから面倒だったりする。具材だけは前日に仕込んでおけるけれども、バターを塗って具材をはさんでカットする、という工程はどうしても当日になる。これが何気に手間がかかる。
あかねにバター塗りをお願いして、朝食の準備とサンドイッチ作りを平行してやっていたところ、
「おはよー……」
美咲が眠たげに目をこすりながら起きてきた。今日、本番だというのにずいぶんダルそうだ。
「大丈夫? 昨日遅くまで勉強してたでしょ?」
「うん。平気……。それより、ママ、髪の毛……は無理そうだね」
美咲は言いかけたけれども、私が忙しそうにしているところをみて、あかねに目をうつした。
「あかねママでいいや。あかねママー髪の毛結ってー」
「美咲……。でいいや、とはなによ。でいいやとは」
ちょうどすべてのパンにバターを塗り終わったあかねが、ぴんっと美咲のおでこをはじく。あかねと美咲はいつの間にか「美咲」「あかねママ」と呼び合うようになった。学校で間違えて呼んでいないか心配だ。
「最近、腕あげてきたでしょ? 今日は綾さんと遜色ない仕上がりにしてみせます!」
「ほんとにー? じゃあ、編み込みできる?」
「できるできる……たぶん」
「たぶんって言った!」
二人がはしゃぎながらリビングで髪の毛を結いはじめたところに、パタパタとスリッパの音が響いてきた。
「もう綾さん、起こしてくれれば私も手伝うのにっ」
「おはようございます。季美子さん。じゃ、出来上がってるのからカットお願いします」
季美子さん……夫の母は、昨晩もこちらに泊まった。しょっちゅう泊まりにきている。
2月の夫の父の一周忌は、結局私が取り仕切った。これが最後のつもりで、すべて取り仕切り、以降の法事への引継ぎノートまで作成した。
親戚一同には、夫と私が離婚したこと、近々夫が再婚することをこの場で発表した。新しい佐藤家の嫁は、この日来ていなかった。嫁業をやるのは真っ平ごめん、らしい。
「綾さんは、私の見込んだ通り、完璧な嫁だったわ」
義母は法事の席でしみじみとつぶやいた。そう。考えてみたら、私が結婚した理由は、義母に気にいられたからだった。
「あなたにはお父さんのことも全部見てもらって……感謝してもしたりないわ。お父さんも、綾さんのこと本当の娘……いえ、お母さん、とでも思ってたみたいよね。お父さんが穏やかに逝くことができたのは綾さんのおかげ」
「やだ、お義母さん?」
義母は何を思ったのか深々と私に頭をさげた。あわててやめさせようとすると、
「それなのに、充則がバカな真似を……本当にごめんなさい。三年も辛かったでしょう」
「お義母さん……」
頭をあげた義母は寂しそうに微笑んだ。
「でも、バカな息子でも私にとっては息子は息子。支えていってやりたいと思うの」
「……はい」
「今度の嫁は手ごわそうだから、私のほうが追い出されちゃうかもしれないわね」
「そしたらうちに泊まりにおいでよ、おばあちゃん!」
いつの間に私の後ろに美咲がいた。美咲はⅤサインをつくると、
「せっかくお兄ちゃんのために一部屋空けてあるのに、お兄ちゃん中島先輩のところに住んじゃって、こっちにくる気ないみたいだから、一部屋余ってるんだよ」
「え……でも」
「ええ。どうぞ。是非泊まりにいらしてください」
80%くらい社交辞令での誘い文句だったけれど、義母は本当に泊まりにやってきた。新しいお嫁さんは相当手ごわいらしい。ストレスがたまってしょうがない!とプリプリしている。
もう、お義母さんと呼ぶのもなんなので、「季美子さん」と呼ぶことになった。季美子さんは私のことは変わらず「綾さん」。そして、あかねのことはなぜか「あかねちゃん」と呼ぶ……。
あかねと季美子さんはすっかり打ち解けて、季美子さんが泊まりに来た日は遅くまで一緒に飲んでいたりする。
冗談でもなんでもなく、近い将来、本当に季美子さんが空き部屋に引っ越してくるような気がする……。
「あら……」
あかねと美咲の声に、我に返った。
「大丈夫だよーコッソリ隠れてるから」
「ダーメ。今日は学校の子たちも来てるから絶対にばれるよ。あかねママ、自分のオーラ自覚しなよ」
「消す消す。オーラ消す」
「じゃあ、今消してみて。はい、消えてません。残念」
「なんでー!」
まだやってる…。あかねが美咲のダンスを見に行きたいとずっと駄々をこねているのだ。
「もーママー。あかねママがしつこいー」
「あかね、今日は本当に無理よ。5月の駅前のフェスティバルだったら、偶然通りかかったってことで誤魔化せるからいいけど、今日のは市民ホールだから」
「えー5月までなんて待てない」
ブツブツブツブツ……。あかねは眉間にシワを寄せている。
「せっかくのうちの子の晴れ舞台を見れないなんて……。やっぱり転職、本気で考えようかな……」
「バカなこと言ってないで。はい。みんな時間。遅れちゃうわよ」
手を叩き、3人を玄関に送り出す。
美咲は午前中リハーサルで、午後から本番。季美子さんは一度家に戻ってから、本番に間に合うように会場入りするという。私も持ち帰っている仕事を午前中にすませて、午後から見に行く予定。あかねは午前中、学校で演劇部の練習がある。
「あかねちゃん、健ちゃんがビデオ撮ってくれるから、それ楽しみにしてて」
「えー……生で見たいのに……」
季美子さんの言葉にもあかねはブツブツと言い返している。美咲が楽しげに笑ってあかねの背中を叩いた。
「5月のは見にきていいから。ね。今日は我慢して」
「うー……」
ようやくあかねが首を縦にふった。美咲もここまで見たい見たい言われて相当嬉しいようだ。いつもよりもさらに元気いっぱいに玄関を開けた。
「じゃ、ママ、あとでね!」
「うん。頑張ってね」
「綾さん、私はいつものように前の方で見てますからね」
「はい。あとで会場で」
行ってきまーす!と、ようやく三人がにぎやかに出ていった。やれやれだ。
ホッと一息ついたところで、再びドアが開いた。あかねだけがスルリと中に入ってくる。
「あかね? 忘れ物?」
「うん」
いきなり手をつかまれ、引き寄せられる。ぎゅーぎゅーぎゅーと抱きしめられてから、
「行ってきます」
頬に軽くキスされた。思わず笑ってしまう。これが忘れ物ね。
「行ってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
あかねの幸せそうな笑顔。心が温かくなる。笑顔にさせてあげられる自分が誇らしい。閉まったドアを見つめながら、ぐっとガッツポーズを作る。
さっき、あかねは美咲のことを「うちの子」と言っていた。「うちの子」。そう。私たちは「うち」だ。
私たち、ここまで来られた。
20年前、あの悲しい別れをしたときには想像もできなかった。あの時の私は、諦めてばかり言い訳ばかりの勇気がない女の子だった。でも、今は違う。私はもう言い訳はしない。20年あったから、ここまで行きつくことができた、幸せの場所。
これから先、もしかしたら心揺らぐようなことが起きるかもしれない。
でも、私はもう、一番大切なことを見失うことはない。絶対に離さない。私の愛。私の光………。
--------------------------
綾さん視点の最後の回でした。
みんな幸せそう……。
でも、あかねがまだ若干不安定かな。でも母性愛あふれる綾さんならきっとその愛で包み込んでくれることでしょう。
次回、あかね視点。最終回です。