夕食の片付けをしている最中に、綾さんがポツリと言った。
「私……就職しようと思うの」
「え」
綾さんは手際よく食器を水で流しながら、言葉を続けた。
「内職の仕事の担当の方が紹介してくれたデザイン事務所なんだけどね。とりあえず今度の月曜日から一か月は試用期間で、それで大丈夫だったら本採用ってことらしいんだけど」
「……どんな仕事?」
「事務所の雑用とか、サンプル品の縫製とか、色々みたい。あと電話応対。海外からの電話も多いらしくて、それで英語を話せるっていうのが第一条件なんですって」
綾さんは元々英語が得意だった上に、10年以上アメリカに住んでいたため、英語を不自由なく話せる。5年前に帰国してからも、あちらの友人から時折電話がかかってくることがあるらしく、つい先日も綾さんが流暢な英語で電話をしていたのでちょっと驚いたのだ。綾さんは本当に引き出しの多い人だ。
「働いても……いいかしら」
「綾さん……」
綾さんの言い方が、なんというか……旦那さんやお義母さんに対する言い方と同じな感じがして、泣きたくなってくる。あの家から解放してあげたくて連れ出したのに、同じ顔をさせているんじゃないか……と。
(綾さん……今、幸せ?)
本当に聞きたい言葉は奥に押し込めて、綾さんを後ろからギューッと抱きしめる。
「当たりまえじゃない。綾さんの好きなようにして」
「………ありがと」
綾さんが静かに言う。
果てしなく不安が広がってくる。
(綾さん。ねえ、綾さん。今、何を考えているの? 後悔してない? 私と一緒にいて楽しい? 私とずっと一緒にいてくれる?)
「…………」
後ろから、綾さんの髪に顔を埋める。
私のせいで怪我までさせてしまった。綾さんの意思を無視して家族と引き離してしまった。罪悪感で頭が破裂しそうだ。
「あかね? どうしたの?」
「うん……」
綾さんの優しい声が余計に苦しい。
「髪……同じ匂いだね」
「そうね。同じシャンプー使ってるもの」
「うん……」
そう。同じものを使って同じものを食べて同じベッドで寝て……それなのに、こんなに遠い。
苦しい。苦しいよ。綾さん……。
「どうしたの?」
食器を洗い終わった綾さんが、手をふいてこちらを振り返った。黒曜石のような瞳がすぐ近くにある。
(今……幸せ?)
その一言が聞けない。
普段の私は、聞きたいことはすぐにでも聞かないと気がすまない性分なのに、今回ばかりはどうしても踏み出せない。怖い。綾さんを失うのが怖い。
でも……このままじゃ、私、おかしくなる。意を決して、綾さんの瞳を見つめ返す。
「あのね、綾さん……」
「うん」
「あの………、あ」
綾さんの携帯の着信音……。
張り詰めていた緊張が切れて、体の力が抜ける。
「……どうぞ。取って?」
「ごめんね」
すいっと私の横をすり抜け、リビングにおいてある携帯をとる綾さん。
旦那だったら嫌だな、と即座に思ってしまう自分の器の小ささに嫌気がさす。自分でも嫌になるほど、綾さんの旦那さんに対する嫉妬心は強い。なにせ、19年も綾さんと暮らしていた男だ。それに比べて私は1年と少ししか一緒にいなかった。過ごした期間がケタ違い過ぎる。それに、奴は法的に綾さんを守ってきた。私にはどうやってもできないことだ。それが悔しくて悔しくてしょうがない。
そんな妬み嫉みでいっぱいになった頭に、綾さんの緊迫した声が聞こえてきた。
「美咲、落ちついて。大丈夫だから」
「………美咲さん?」
私が聞くと、綾さんは眉を寄せたままコックリと肯いた。
「ピンクのフリルのでしょう? 5月のフェスティバルで着たやつね? ……うん。うん。分かった。今からすぐ行くから。……え? うん。それで意味分かるの? 分かった。伝えておく。じゃあね」
携帯を切り、綾さんが私をふり仰いだ。
「あの子、明日着る衣装を自分でアイロンかけたら、縮んじゃったらしくて、それで無理やり引っ張ったら破けちゃったって……」
「あらま……」
美咲は明日、ダンス教室の発表のステージがあるのだ。今まではもちろん綾さんが全部準備していたのだろう……。
「ちょっと行ってくる。車、借りてもいい?」
「送っていこうか?」
「ううん。何時になるか分からないから、先に寝てて?」
「………あ、うん」
バタバタと用意をしてまわる綾さんを見ていて、首を絞められたように苦しくなってくる。
今日は、確か、旦那さんがいる日。
でも、美咲のためだ。そんなことで「行かないで」なんて言いたくない。
「じゃあ、行ってくるわね」
「うん……気をつけて」
不安な気持ちを押し殺して、笑顔で手を振る。
靴を履きかけて、ふと、綾さんが思いだしたように振り返った。
「そうそう、美咲からの伝言。『ごめんね、先生。でも私がついてるから大丈夫だから』だって。どういうこと?」
「……………」
子供に気を遣われてどうする、私……。
「……ありがとうって美咲さんに言っておいてもらえる?」
「だから、どういう意味なの?」
首をかしげる綾さん。私が言わなくてもどうせ美咲から話が回るか……。
「あの、今日、美咲さんのお父さん、家にいる日でしょ?」
「ああ……そうね。それが?」
「だから」
「だから、何?」
眉を寄せる綾さん。我慢できなくて、そっとその唇に顔を寄せた。軽い軽いキス。
「………あかね?」
きょとんとした綾さんを抱き寄せる。
「美咲さんが、パパの魔の手から綾さんを守ってくれるってこと」
「ああ……」
ぷっと綾さんが噴き出した。
「二人ともそんなこと気にしてたの?」
「だって……」
「今さら何もないわよ」
「だって」
泣きたくなってくる。
「綾さんと旦那さんは19年も一緒に暮らしてたんだもん。私なんて、1年3ヶ月と…あと再会してからの何か月しかなくて……全然負けてる」
「……ばかねえ」
綾さんの優しい手に、そっと唇をなぞられる。
「出会ったのはあかねの方が先よ。私はまだ10代だったあなたを知ってるわ」
「綾さん……」
「考えてみたら、あの時のあかねと今の健人って同じ歳なのね。若いわよね」
「うん……」
綾さんの黒い目がじっとこちらを見上げている。
しばらくの沈黙の後、綾さんは大きく瞬きをすると、肩に担いでいた大きなカバンをおろして、口調をあらためた。
「あかね」
「は、はい」
ドキリとする。
「立ち話でするような話じゃないんだけど、せっかくの機会だから言うわね。本当はそのうち時間を取ってもらってゆっくり話したかったんだけど」
「……なに?」
何を言われるんだろう。別れ話だったら聞きたくない。いや、この機会だから言うってことは別れ話ではないはず……。じゃあ、なに?
不安で震える手が、ふわりと包まれた。綾さんの柔らかい手。
「私、あかねのことが大切よ。ずっと一緒にいたいって思ってる」
「…………え」
真剣な瞳の綾さん。予想外に突然告げられた、私が欲しかった言葉……。
「綾さ……」
「でもね」
ぎゅっと手に力がこもった。
「優先順位はどうしても子供たちの方が上なの。何年か後に子供たちが自立したら変わるのかもしれないけど、今は……」
「…………」
「それを許してもらえないなら、この関係は続けられない」
綾さんの強い瞳。
私が何か言おうとする前に、綾さんはすっと視線を落とした。
「でも、私はもうあかねと離れたくない。一緒にいたい」
「………」
「だから、子供を優先することを許してほしい」
コツン、と綾さんのおでこが私の胸に落ちてきた。
「ごめんね。私、わがままなこと言ってる。でもどちらも譲れない」
「………」
愛おしい綾さん。ずっと聞きたかった綾さんの本心。……本心、だよね?
ぎゅっと抱きしめて、耳元にささやく。
「許すもなにも……私も綾さんの子供たちのこと大切だよ」
「あかね……」
綾さんの細い腕が私の背中に回される。すっぽりと私に包まれる綾さん。
「あのね、私、あかねに謝らないとってずっと思ってたの」
「何を?」
「病院でのこと。私、あかねのところにいけないって言ったでしょ?」
「ああ……」
子供たちと離れたくない、と言った綾さん。ぞくっとするほど凛々しい瞳だった。
「あかね、嫌な気持ちになったわよね。ごめんね」
「え」
「最近のあかね、ずっと様子が変だったじゃない? そのせいなのかなって思って」
「え……やだ」
思わずつぶやくと、「やだ?」と綾さんが顔をあげた。
「やだって?」
「変ってバレてたんだ?」
「当たり前じゃないの。ずっと何か言いたげだったし……」
「………」
やっぱりかなわないな。普通に接していたつもりだったのに……。
「何を言いたかったの? あ、もしかしてさっき電話がかかってくる前に言いかけてた?」
「あーーー、うん。でももう大丈夫」
こつんとおでこを合わせる。
「さっき聞いた」
「何を?」
「私と一緒にいたいって言ってくれたでしょ? 聞きたかったこと、その言葉だから」
「……それだけ?」
うん。と肯く。うん。それだけで充分だ。
想いが募って、ギューギューギューッと抱きしめる。
「綾さんがいなくなっちゃうんじゃないかって、ずっと不安だったの。変でごめんね」
「……やっぱりあのとき私が言ったことが原因よね?」
「ううん。違う違う」
慌てて訂正する。
「綾さん勘違いしてるよ。あの時、私、嫌な気持ちになんてなってないよ」
綾さんの白い頬を囲い、その美しい瞳を覗き込む。
「子供たちと離れたくないって答えた綾さんに惚れ直したんだよ。私」
強がりでも何でもなく、あの時の綾さんを心から誇らしいと思った。
「子供のことを一番に考えてる綾さんだから好き」
「…………」
「子供たちが羨ましいけどね。私も綾さんみたいなお母さんがいたらどんなに幸せかなって思う」
「あかね……」
戸惑った表情をした綾さんにそっと口づける。
「ま、本当にお母さんだったらこんなこともあんなこともできないから困るけど」
「……もう」
綾さんが笑った。つられて私も笑ってしまう。
ようやく、心から笑えた。
「美咲さん待ってるよ。行ってあげて」
「うん。ありがとう。行ってくるわね」
「気をつけて」
さっきとは違う気持ちで手を振る。
「あかね、本当に大丈夫?」
心配げに振り返った綾さんの頬に軽くキスをする。
「ありがと。もう大丈夫」
「………」
おでこにも唇を寄せると、ようやく綾さんがしかめていた眉をもどした。
「じゃ、行ってきます」
何か吹っ切れたような表情をして出ていった綾さん。
「……美咲さん、頼んだわよ」
閉まったドアに向かってつぶやいてみる。願わくはあの男が変な気を起こしませんように……。
この日、綾さんは朝帰りをした。不安がなかったといったらウソになる。正直に言うと、心配で眠れなかった。
綾さんは朝、美咲の髪の毛を結ってあげてから家を出たそうだ。帰ってくるなりシャワーを浴びて着替えてまた行ってしまった。ステージの本番を見にいくのだ。私も行きたかったけれども、一生徒だけの課外活動を見に行くのは問題になるので行くことができなかった。
綾さんのいないこの部屋は、こわいくらい静かだ。
「あかねと離れたくない。一緒にいたい」
綾さんの言ってくれた言葉を口に出して言ってみる。それでもまだ、不安は消えない。綾さんは、ここに帰ってきてくれるのだろうか……。
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私の中では分かっていたことで、あえて書かずにきた設定なのですが……
あかねは綾さんに理想の母親像を見ているところがあります。
あかねは母親に愛されずに育ったので、マザコン気味というかなんというか……
家事を完璧にこなす綾さん、家族(綾さん、学生時代は実家の家族の世話をしてました)を大事にする綾さん。そして今、子供たちを一番に想っている綾さん。
綾さんはあかねの中の理想の母親像そのものです。
次回。あかねの昔話からはじまる。
「私……就職しようと思うの」
「え」
綾さんは手際よく食器を水で流しながら、言葉を続けた。
「内職の仕事の担当の方が紹介してくれたデザイン事務所なんだけどね。とりあえず今度の月曜日から一か月は試用期間で、それで大丈夫だったら本採用ってことらしいんだけど」
「……どんな仕事?」
「事務所の雑用とか、サンプル品の縫製とか、色々みたい。あと電話応対。海外からの電話も多いらしくて、それで英語を話せるっていうのが第一条件なんですって」
綾さんは元々英語が得意だった上に、10年以上アメリカに住んでいたため、英語を不自由なく話せる。5年前に帰国してからも、あちらの友人から時折電話がかかってくることがあるらしく、つい先日も綾さんが流暢な英語で電話をしていたのでちょっと驚いたのだ。綾さんは本当に引き出しの多い人だ。
「働いても……いいかしら」
「綾さん……」
綾さんの言い方が、なんというか……旦那さんやお義母さんに対する言い方と同じな感じがして、泣きたくなってくる。あの家から解放してあげたくて連れ出したのに、同じ顔をさせているんじゃないか……と。
(綾さん……今、幸せ?)
本当に聞きたい言葉は奥に押し込めて、綾さんを後ろからギューッと抱きしめる。
「当たりまえじゃない。綾さんの好きなようにして」
「………ありがと」
綾さんが静かに言う。
果てしなく不安が広がってくる。
(綾さん。ねえ、綾さん。今、何を考えているの? 後悔してない? 私と一緒にいて楽しい? 私とずっと一緒にいてくれる?)
「…………」
後ろから、綾さんの髪に顔を埋める。
私のせいで怪我までさせてしまった。綾さんの意思を無視して家族と引き離してしまった。罪悪感で頭が破裂しそうだ。
「あかね? どうしたの?」
「うん……」
綾さんの優しい声が余計に苦しい。
「髪……同じ匂いだね」
「そうね。同じシャンプー使ってるもの」
「うん……」
そう。同じものを使って同じものを食べて同じベッドで寝て……それなのに、こんなに遠い。
苦しい。苦しいよ。綾さん……。
「どうしたの?」
食器を洗い終わった綾さんが、手をふいてこちらを振り返った。黒曜石のような瞳がすぐ近くにある。
(今……幸せ?)
その一言が聞けない。
普段の私は、聞きたいことはすぐにでも聞かないと気がすまない性分なのに、今回ばかりはどうしても踏み出せない。怖い。綾さんを失うのが怖い。
でも……このままじゃ、私、おかしくなる。意を決して、綾さんの瞳を見つめ返す。
「あのね、綾さん……」
「うん」
「あの………、あ」
綾さんの携帯の着信音……。
張り詰めていた緊張が切れて、体の力が抜ける。
「……どうぞ。取って?」
「ごめんね」
すいっと私の横をすり抜け、リビングにおいてある携帯をとる綾さん。
旦那だったら嫌だな、と即座に思ってしまう自分の器の小ささに嫌気がさす。自分でも嫌になるほど、綾さんの旦那さんに対する嫉妬心は強い。なにせ、19年も綾さんと暮らしていた男だ。それに比べて私は1年と少ししか一緒にいなかった。過ごした期間がケタ違い過ぎる。それに、奴は法的に綾さんを守ってきた。私にはどうやってもできないことだ。それが悔しくて悔しくてしょうがない。
そんな妬み嫉みでいっぱいになった頭に、綾さんの緊迫した声が聞こえてきた。
「美咲、落ちついて。大丈夫だから」
「………美咲さん?」
私が聞くと、綾さんは眉を寄せたままコックリと肯いた。
「ピンクのフリルのでしょう? 5月のフェスティバルで着たやつね? ……うん。うん。分かった。今からすぐ行くから。……え? うん。それで意味分かるの? 分かった。伝えておく。じゃあね」
携帯を切り、綾さんが私をふり仰いだ。
「あの子、明日着る衣装を自分でアイロンかけたら、縮んじゃったらしくて、それで無理やり引っ張ったら破けちゃったって……」
「あらま……」
美咲は明日、ダンス教室の発表のステージがあるのだ。今まではもちろん綾さんが全部準備していたのだろう……。
「ちょっと行ってくる。車、借りてもいい?」
「送っていこうか?」
「ううん。何時になるか分からないから、先に寝てて?」
「………あ、うん」
バタバタと用意をしてまわる綾さんを見ていて、首を絞められたように苦しくなってくる。
今日は、確か、旦那さんがいる日。
でも、美咲のためだ。そんなことで「行かないで」なんて言いたくない。
「じゃあ、行ってくるわね」
「うん……気をつけて」
不安な気持ちを押し殺して、笑顔で手を振る。
靴を履きかけて、ふと、綾さんが思いだしたように振り返った。
「そうそう、美咲からの伝言。『ごめんね、先生。でも私がついてるから大丈夫だから』だって。どういうこと?」
「……………」
子供に気を遣われてどうする、私……。
「……ありがとうって美咲さんに言っておいてもらえる?」
「だから、どういう意味なの?」
首をかしげる綾さん。私が言わなくてもどうせ美咲から話が回るか……。
「あの、今日、美咲さんのお父さん、家にいる日でしょ?」
「ああ……そうね。それが?」
「だから」
「だから、何?」
眉を寄せる綾さん。我慢できなくて、そっとその唇に顔を寄せた。軽い軽いキス。
「………あかね?」
きょとんとした綾さんを抱き寄せる。
「美咲さんが、パパの魔の手から綾さんを守ってくれるってこと」
「ああ……」
ぷっと綾さんが噴き出した。
「二人ともそんなこと気にしてたの?」
「だって……」
「今さら何もないわよ」
「だって」
泣きたくなってくる。
「綾さんと旦那さんは19年も一緒に暮らしてたんだもん。私なんて、1年3ヶ月と…あと再会してからの何か月しかなくて……全然負けてる」
「……ばかねえ」
綾さんの優しい手に、そっと唇をなぞられる。
「出会ったのはあかねの方が先よ。私はまだ10代だったあなたを知ってるわ」
「綾さん……」
「考えてみたら、あの時のあかねと今の健人って同じ歳なのね。若いわよね」
「うん……」
綾さんの黒い目がじっとこちらを見上げている。
しばらくの沈黙の後、綾さんは大きく瞬きをすると、肩に担いでいた大きなカバンをおろして、口調をあらためた。
「あかね」
「は、はい」
ドキリとする。
「立ち話でするような話じゃないんだけど、せっかくの機会だから言うわね。本当はそのうち時間を取ってもらってゆっくり話したかったんだけど」
「……なに?」
何を言われるんだろう。別れ話だったら聞きたくない。いや、この機会だから言うってことは別れ話ではないはず……。じゃあ、なに?
不安で震える手が、ふわりと包まれた。綾さんの柔らかい手。
「私、あかねのことが大切よ。ずっと一緒にいたいって思ってる」
「…………え」
真剣な瞳の綾さん。予想外に突然告げられた、私が欲しかった言葉……。
「綾さ……」
「でもね」
ぎゅっと手に力がこもった。
「優先順位はどうしても子供たちの方が上なの。何年か後に子供たちが自立したら変わるのかもしれないけど、今は……」
「…………」
「それを許してもらえないなら、この関係は続けられない」
綾さんの強い瞳。
私が何か言おうとする前に、綾さんはすっと視線を落とした。
「でも、私はもうあかねと離れたくない。一緒にいたい」
「………」
「だから、子供を優先することを許してほしい」
コツン、と綾さんのおでこが私の胸に落ちてきた。
「ごめんね。私、わがままなこと言ってる。でもどちらも譲れない」
「………」
愛おしい綾さん。ずっと聞きたかった綾さんの本心。……本心、だよね?
ぎゅっと抱きしめて、耳元にささやく。
「許すもなにも……私も綾さんの子供たちのこと大切だよ」
「あかね……」
綾さんの細い腕が私の背中に回される。すっぽりと私に包まれる綾さん。
「あのね、私、あかねに謝らないとってずっと思ってたの」
「何を?」
「病院でのこと。私、あかねのところにいけないって言ったでしょ?」
「ああ……」
子供たちと離れたくない、と言った綾さん。ぞくっとするほど凛々しい瞳だった。
「あかね、嫌な気持ちになったわよね。ごめんね」
「え」
「最近のあかね、ずっと様子が変だったじゃない? そのせいなのかなって思って」
「え……やだ」
思わずつぶやくと、「やだ?」と綾さんが顔をあげた。
「やだって?」
「変ってバレてたんだ?」
「当たり前じゃないの。ずっと何か言いたげだったし……」
「………」
やっぱりかなわないな。普通に接していたつもりだったのに……。
「何を言いたかったの? あ、もしかしてさっき電話がかかってくる前に言いかけてた?」
「あーーー、うん。でももう大丈夫」
こつんとおでこを合わせる。
「さっき聞いた」
「何を?」
「私と一緒にいたいって言ってくれたでしょ? 聞きたかったこと、その言葉だから」
「……それだけ?」
うん。と肯く。うん。それだけで充分だ。
想いが募って、ギューギューギューッと抱きしめる。
「綾さんがいなくなっちゃうんじゃないかって、ずっと不安だったの。変でごめんね」
「……やっぱりあのとき私が言ったことが原因よね?」
「ううん。違う違う」
慌てて訂正する。
「綾さん勘違いしてるよ。あの時、私、嫌な気持ちになんてなってないよ」
綾さんの白い頬を囲い、その美しい瞳を覗き込む。
「子供たちと離れたくないって答えた綾さんに惚れ直したんだよ。私」
強がりでも何でもなく、あの時の綾さんを心から誇らしいと思った。
「子供のことを一番に考えてる綾さんだから好き」
「…………」
「子供たちが羨ましいけどね。私も綾さんみたいなお母さんがいたらどんなに幸せかなって思う」
「あかね……」
戸惑った表情をした綾さんにそっと口づける。
「ま、本当にお母さんだったらこんなこともあんなこともできないから困るけど」
「……もう」
綾さんが笑った。つられて私も笑ってしまう。
ようやく、心から笑えた。
「美咲さん待ってるよ。行ってあげて」
「うん。ありがとう。行ってくるわね」
「気をつけて」
さっきとは違う気持ちで手を振る。
「あかね、本当に大丈夫?」
心配げに振り返った綾さんの頬に軽くキスをする。
「ありがと。もう大丈夫」
「………」
おでこにも唇を寄せると、ようやく綾さんがしかめていた眉をもどした。
「じゃ、行ってきます」
何か吹っ切れたような表情をして出ていった綾さん。
「……美咲さん、頼んだわよ」
閉まったドアに向かってつぶやいてみる。願わくはあの男が変な気を起こしませんように……。
この日、綾さんは朝帰りをした。不安がなかったといったらウソになる。正直に言うと、心配で眠れなかった。
綾さんは朝、美咲の髪の毛を結ってあげてから家を出たそうだ。帰ってくるなりシャワーを浴びて着替えてまた行ってしまった。ステージの本番を見にいくのだ。私も行きたかったけれども、一生徒だけの課外活動を見に行くのは問題になるので行くことができなかった。
綾さんのいないこの部屋は、こわいくらい静かだ。
「あかねと離れたくない。一緒にいたい」
綾さんの言ってくれた言葉を口に出して言ってみる。それでもまだ、不安は消えない。綾さんは、ここに帰ってきてくれるのだろうか……。
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私の中では分かっていたことで、あえて書かずにきた設定なのですが……
あかねは綾さんに理想の母親像を見ているところがあります。
あかねは母親に愛されずに育ったので、マザコン気味というかなんというか……
家事を完璧にこなす綾さん、家族(綾さん、学生時代は実家の家族の世話をしてました)を大事にする綾さん。そして今、子供たちを一番に想っている綾さん。
綾さんはあかねの中の理想の母親像そのものです。
次回。あかねの昔話からはじまる。