「公正証書を作ろうと思うの」
と、あかねが言いだした。私の「娘にならない?」に対する返答がこれだった。
「綾さんの申し出は本当にうれしいし、法的にも家族になれたらどんなに幸せかとも思う。でも、私は綾さんの娘になりたいわけではない。将来的に日本でも同性婚が認められるようになったら、その時は正式に家族になってほしい。それまでは我慢する」
あかねもあかねで色々と考えていたようで、弁護士事務所でもらったという資料を見せてくれた。
私も離婚による財産分与でそこそこまとまったお金を手に入れたけれども、あかねの貯金は額が違った。どうやったらこんなに貯められるんだ、と驚くほどの金額だった。
「これが母に全額渡ると思うとぞっとするのよ。私」
そうあっさり言うあかねの本当の気持ちは分からない。
「これは、綾さんと綾さんの子供たちに残したい」
「…………」
若い頃だったら……「死んだときのことを考えるなんて」とたしなめたくなったかもしれない。でも、平均寿命の半分近くまできた今となっては、そういうことを考えるのも大切なことだと、冷静に思えるようになっていた。
美咲と鈴子ちゃんがうちに来た翌日、昼休みを少し早目にもらって、あかねと一緒に区役所に行った。あかねの分籍届を提出するためだ。こんな悲しい思いで提出するものを一人で行かせたくなかった。
あかねは3,4時間目が空き時間だったそうで、私に会う前に弁護士事務所に行っていたらしい。踏ん切りがついたようなサバサバとした表情ではあったけれど、本当のところはわからない。わからないけれど、本人が踏ん切りがついている、と思おうとしているのなら、そう受け入れてあげたいと思う。
一方、私の実家の方はというと……。
離婚の報告の電話をした際、電話口に出た弟が真っ先に言ったことは、
「姉ちゃんの部屋、未央に使わせようと思って、もう学習机も発注しちゃったんだけど」
だった。未央、というのは弟の娘。来年小学校一年生になる。弟一家は実家で同居している。だから、私が離婚して実家に戻ってくるのは困る、ということだ。
「実家には戻らないから大丈夫よ」
「じゃ、姉ちゃん一人暮らしすんの?」
「ううん。一緒に住む人が……」
そこで、え!?と弟。
「男?!」
「……ううん。女性」
「あーそう。ああ、びっくりした。姉ちゃんの浮気で離婚とか、そういうことじゃねえんだよな?」
「………」
こういうとき、本当に返答に困る。確かに、男ではないけれども……。
弟は一人納得したように、「今流行ってるよな。独身女性の共同生活とかってさ。ようはそういうことだろ?」と言った。訂正するのも面倒だし、理解もされないだろうから、そういうことにしておくことにする。
母は、離婚したことを告げると、そりゃそうよ。遅いぐらいよ。と納得したように言った後、
「あんた、慰謝料の請求はちゃんとするんでしょうね? 充則さん他に子供がいるんでしょ?」
ときた……。
「慰謝料の請求って時効があるのよ。不倫の事実を知った時から3年って。だから私は請求できないの」
「えー何よそれ」
母に言うつもりはないが、それを言ったら、私の方が請求される立場にあるのだ。夫とは話し合いの結果、お互い慰謝料請求をしないことにしている。
母はふーんとかへーとか言っていたけれど、最後には結論付けるように、こう言ってくれた。
「まあ、とにかく今までよく頑張ったわね。お疲れ様。あとは自由に生きなさいよ」
「………ありがとう」
あとは自由に……。そういわれることが何よりも有り難かった。
***
11月のはじめに中学の文化祭があった。
美咲は菜々美ちゃんとさくらちゃんと仲良さそうにクラスの出店である和菓子屋さんを切り盛りしていた。一時期、三人の間には不穏な空気が漂ったらしいのだけれども、なんとか乗り切ったようだ。美咲は強い。
……そう。強い、と思い込んでいた。
美咲の本当の気持ちに気が付けなかったことが悔やまれる。美咲は切れそうな糸の上をこらえながら必死に歩いていたのだ。その細い糸が切れて、はじめて、私は彼女の本心を知ることになる。
11月23日日曜日。あかねと一緒に暮らし始めてちょうど3ヶ月。「明日も振替休日で休みだし、何か食べにいこうか」なんてのんきなことを言っていた夕方のことだった。
「そっちに美咲きてない?」
電話越しの緊迫した健人の声。美咲が何も言わないまま出ていってしまい、その後連絡がつかないそうなのだ。
「何かあったの?」
聞くと、健人は、たぶんだけど、と前置きをしてから、言った。
「あっちの子供の七五三の写真を見ちゃったらしくて」
「七五三?」
そういえば、三歳になるのか。
「お父さんと愛人とその子供と、ばあちゃんの4人で、写真屋さんで撮った写真なんだって」
「…………」
お義母さんが、あちらの子供と会っていたなんて知らなかった。愛人のことを「絶対に許さない」と言っていた義母。でも子供は、義母にとっては同じ孫だ。
美咲には、ショックが大きかっただろう……。
「オレも今、そっちに向かってるから」
健人の電話は一方的に切られた。健人も相当あわてている。
電話を横できいていたあかねが、「私が探しに出るから、綾さんはここで待機してて」と、携帯だけ持って出ていった。
取り残された私。ボーっとしていてもしょうがない。美咲がもしうちに向かっているのなら、ついた時に何か食べられるように夕飯を作って待っていよう。
美咲の好きなもの……美咲は何を食卓にだしても喜んでくれたので、何が特別好きなのかよくわからない。あえていうならハンバーグとかだろうか……。
弁当用に大量に作って冷凍しておく予定だった、ハンバーグのたねを全部使ってハンバーグを作りはじめる。料理をしている間は無心になれる。
黙々とハンバーグとサラダとスープを作っていたところで、あかねから連絡が入った。美咲が見つかったという。健人も一緒らしい。一安心だ。
さっそくハンバーグを焼きはじめたところで、帰ってきた。
「わーいいにおいー」
明るい美咲の声。表情も明るい。健人は肩をすくめてみせると、
「ばあちゃんには連絡しておいたから。夕飯食べたら帰るよ」
「うん……」
あかねはなんだか難しい顔をしている。私と目があうと、少し眉を寄せて首を振った。
美咲……ただの気まぐれの外出ではない。
夕飯の間、いつものように美咲はよく喋った。
ここに来るまで、道を間違えてしまったこと。犬の散歩の人にたくさん会ったこと。その犬が懐いてきてとてもかわいかったこと。親切なおじいさんがここの近くまで連れてきてくれたこと。そこであかねと健人が別々の方向からそれぞれ歩いてきて驚いたこと。美咲はニコニコと明るく話し続けている。いつもの、美咲だ。
食後の珈琲を挟んで、ようやく美咲と真正面から向き合った。
「何も言わずに出てきたら、おばあちゃん心配するでしょう?」
言うと、美咲は「はあーい」と明るく返事をしたが、私がジッと見つめていたら、ふっと息を吐いた。
「だってさあ。おばあちゃんと話したら文句言っちゃいそうだったからさ」
「文句?」
美咲の口はへの字に曲がったままだ。
「それは……おばあちゃんが、あちらの子供と会ってたこと?」
「あーそれは別に。最近おばあちゃんがあっちの子と会ってることは知ってたし」
「……そうなの?」
私は知らなかった。美咲はムッとした顔のまま続けた。
「ただね。あの子、ピンクの着物着てたんだよ」
「ピンクの着物?」
七五三……三歳の時、美咲は赤い着物を着た。
「ママ、覚えてない? 私ピンク着たいっていったのに、おばあちゃんが赤じゃないとダメっていって赤になったでしょ?」
「……そうだったわね」
そういえば、そんなことがあった……。
「ずるいよね。私の時はダメっていったくせに、あの子はいいなんて……」
「…………」
本当にそれだけだろうか……
「本当に、それだけ?」
「何が?」
「それだけが理由で家を出てきたの?」
「それだけだよ。っていうか、大きな問題だよ! 私もピンク着たかったのにずるいよ!」
「……………」
「おばあちゃん、あの子のいうことは聞いてあげたってことだよね」
美咲は腹立だしげにリンゴを咀嚼していたが、ごっくんと飲み込むと、大きく息を吐いた。
「あーああ。美咲、おばあちゃんランキングも一位から転落しちゃったってことだよなー」
自分のことを名前で言った美咲。久しぶりだ。素が出ている感じがする。
「ランキングって何?」
「人にはランキングがあるでしょ?」
「?」
なんの話? と見返すと、美咲は、だーかーらーと人差し指を立てた。
「ママの今のランキング一位はあかね先生でしょ?」
「え?」
「お兄ちゃんの一位は瑠美ちゃん」
「は?」
健人も眉を寄せて美咲を見る。瑠美ちゃんというのは健人の彼女の名前だ。
「あかね先生の一位は当然ママ」
「………」
「パパの一位は愛人の子。おばあちゃんの一位はずっと美咲だったのに、やっぱり会うようになって情がうつっちゃったのかなー」
「…………」
「顔だけ言ったら美咲の方がずっとかわいいけど、三歳児の無邪気な可愛さっていうのにはかなわないよね」
美咲の声だけが、部屋に響き渡る。美咲は2個目のリンゴを口に入れると、あーああ、と大きくため息をついた。
「美咲、結構がんばってきたんだけどなー。みんなが美咲がいると家が明るくなるって喜んでくれるからさー頑張って明るくしてさー」
「…………」
「お兄ちゃんの橋渡しだって美咲がずっとしてあげてたでしょー? それなのにいつのまにお兄ちゃんとママ仲良くなってるしさー」
「…………」
「なんか頑張り損だなー。ことごとく一位から転落。あーああ。もう誰の一位でもないなんてなー」
「美咲………」
美咲がそんなこと思ってたなんて………。
いつもニコニコと明るかった美咲。本当は故意に明るく振舞っていたということか…。美咲の張り詰めていた糸は切れてしまったようだ。ようやく吐露してくれた本音……。
「あーああ」と天井を仰いでいる美咲に、健人が眉を寄せて言う。
「美咲? バカなこと言うなよ。みんな美咲のこと大切に思ってるよ。今日だってみんなどれだけ心配したか……」
「一番に大切な人なんて誰もいないでしょ。美咲はみんなの二番目、三番目」
健人の言葉に、美咲が乾いた笑顔を浮かべた。
何を言ってあげればいいんだろう。何を言えば、美咲の心に届くんだろう……。
「美咲さん」
ふいにあかねが立ち上がった。美咲のそばまでくると、美咲の頭をポンポンとなでる。今にも泣きそうだった美咲がふにゃっとした顔をしてあかねを見上げた。
「センセー、そのポンポンって反則だよー。キュンってなるー」
「うん。知ってる」
にっこりとするあかね。悪魔的に魅力的な笑顔。わざとだ。その顔。
あかねは引き続き美咲の頭をなでながら、低い声で続けた。
「あのね、愛は増えていくものなのよ」
「増えていく?」
「一位がたった一人とは限らないってこと」
「えーそんなことないよ。一位は一位だもん!」
「そうしたら、私が綾さんの一位じゃなくなるから困るよ」
「え?」
あかねがしゃがみ、美咲を見上げる。
「忘れちゃった? 病院での話。綾さんは真っ先に『健人と美咲と離れたくない』って言ったの」
この既視感なんだろう、と思ったら、病院でのシーンの再現だ。あの時あかねはベッドの横にひざまずいていた。
「綾さんの一番は、いつまでたっても健人さんと美咲さんなんだよ」
「そんなことないよー」
「そんなことあるよ? でもね」
あかねが穏やかな笑みを浮かべる。
「きっとその中に、私も入ってる、と思う」
「…………」
あかねの話の着地点が見えなくて、何もコメントできない。
あかねは「そして」と言って、手をあげた。
「私の一番はもちろん、綾さんだけれども、その中に美咲さんと健人さんも入ってほしい」
「え」
美咲と健人がキョトンとする。
「正式な文書ができてからあらためて話そうと思ってたんだけど」
「………あ」
あかねの話が見えてきた。あかねに目で尋ねられ、こくんと肯く。今が二人に話す良いタイミングなのかもしれない。
「私は、綾さんの大切な大切な健人さんと美咲さんのこと、自分の子供同様に一緒に成長を見守り、支えていきたいと思っています。もちろん、二人が迷惑でなければなんだけれども」
「え?」
「えええ!」
戸惑った健人とは対照的に、美咲の目はキラキラと輝いている。
「とりあえず、金銭面での援助。遺産相続は、通常の婚姻と同様、配偶者に2分の1、子供に残りの2分の1を……」
「ちょ、ちょっと待って」
健人があかねを制する。
「それって遺言とかそういう?」
「今、公正証書を作成している最中なの」
「ああ、公正証書……聞いたことある……」
「聞いたことなーい!」
美咲の声が明るく響く。
「なんかよくわかんないけど、あかね先生が美咲のママになるってことでしょ?!」
「そうね。保護者の一人っていうのかな? 美咲さんがよければだけど」
「いいよ! いいに決まってる!」
無邪気に喜ぶ美咲。健人は慌てて首を振った。
「ちょっと待って。オレはパス」
「なんでっ」
健人の言葉に美咲がブーっとする。
「あかね先生にそんなことしてもらう義理ないから」
「義理はなくても私がそうしたいからなんだけど、ダメですか?」
「いや、マジでパス」
健人がブンブンと手をふる。
「あかね先生とお母さんが一緒に暮らすのも賛成だし、お母さんと遺産相続とかの手続きするのも賛成だよ。でも、オレの話は別。オレはあかね先生に支えてもらうつもりはないよ。オレはもうすぐ成人するし、あと三年半で大学も卒業する。自分の力で生きていけるし、生きていきたい」
「健人……」
健人はもう、大人の目をしている。まだ18歳。もう18歳。大人の階段を着実に上っている。
美咲はフーンと肩をすくめると、
「へー、じゃあ、あかね先生の財産の2分の1、美咲が全部もらっちゃうからねーだ。あとからやっぱり欲しかったっていっても知らないよー?」
「いわねえよ」
健人が美咲を軽く小突く。すると、美咲がニヤニヤと、
「お兄ちゃん知らないんでしょ。あかね先生の貯金額。あと何年かで確実に億いくよ、億。その4分の1って言ったら……」
「え、マジで?!」
すぐに揺らいだ健人。顔を見合わせみんなで笑いだしてしまった。
この日、美咲ははじめてマンションに泊まった。
子供に愛が伝わっていないなんて、母親失格だ。ベッドの中で、私がどれだけ美咲が生まれてきてくれて嬉しかったか、美咲のことを大切に思っているか、という話を延々としていたら、美咲にあきれたように「わかったからもういいよー」と止められ、ソファで寝ていたあかねにクスクス笑われた。
みんなに喜んでもらうために無理に明るく振舞っていた、といっていた美咲だが、結局、明るいのが素なのか、無理しないでいいといっても明るいままだ。
この日以降、美咲は週の半分はマンションに泊まるようになった。義母はあまり良い顔をしなかったけれども、自分の写真の件がきっかけなので強くも言えないようだった。
そして、元夫と義母と美咲と話し合いを重ねた結果、親権は夫側のままで、美咲は年明けから私たちと一緒に住むことになった。色々と考慮した結果、今のマンションではなく、シェアハウスを借りることにした。
結局、遺産の件に関しては健人も名を連ねることになった。養育の件に関しては健人は断固拒否したので、美咲だけとなったけれど、4部屋で構成されたシェアハウスの1部屋は健人のために借りてある。
私たちの新生活は冬休み明けからはじまった。
------------------------
イチャイチャが足りない物足りない回でした。はい。
綾さん、実家の両親・弟にはカミングアウトしていません。まあそのうち機会があったら話してもいいかな……というくらいで……。
たぶん、綾さん両親も弟も、話されても「ふーん。それで?」って感じかもしれない。そのくらい、今は付き合いの薄い親子です。
綾さん子供時代は、忙しい両親に変わり家事を一手に引き受けて、弟の世話までしていましたが、大学出てすぐ嫁にいって、そのまま渡米しちゃって、帰国後も家から出なかったので、この20年近く、正月くらいにしか連絡とってなかったんですよね…。嫁にいったら相手の家のもの、という考えの両親だったので…。仲が悪いわけではないんだけどね。
次回綾さん視点最後。
そしてその次にあかね視点で最終回。
すべてが丸く収まる。大団円。
と、あかねが言いだした。私の「娘にならない?」に対する返答がこれだった。
「綾さんの申し出は本当にうれしいし、法的にも家族になれたらどんなに幸せかとも思う。でも、私は綾さんの娘になりたいわけではない。将来的に日本でも同性婚が認められるようになったら、その時は正式に家族になってほしい。それまでは我慢する」
あかねもあかねで色々と考えていたようで、弁護士事務所でもらったという資料を見せてくれた。
私も離婚による財産分与でそこそこまとまったお金を手に入れたけれども、あかねの貯金は額が違った。どうやったらこんなに貯められるんだ、と驚くほどの金額だった。
「これが母に全額渡ると思うとぞっとするのよ。私」
そうあっさり言うあかねの本当の気持ちは分からない。
「これは、綾さんと綾さんの子供たちに残したい」
「…………」
若い頃だったら……「死んだときのことを考えるなんて」とたしなめたくなったかもしれない。でも、平均寿命の半分近くまできた今となっては、そういうことを考えるのも大切なことだと、冷静に思えるようになっていた。
美咲と鈴子ちゃんがうちに来た翌日、昼休みを少し早目にもらって、あかねと一緒に区役所に行った。あかねの分籍届を提出するためだ。こんな悲しい思いで提出するものを一人で行かせたくなかった。
あかねは3,4時間目が空き時間だったそうで、私に会う前に弁護士事務所に行っていたらしい。踏ん切りがついたようなサバサバとした表情ではあったけれど、本当のところはわからない。わからないけれど、本人が踏ん切りがついている、と思おうとしているのなら、そう受け入れてあげたいと思う。
一方、私の実家の方はというと……。
離婚の報告の電話をした際、電話口に出た弟が真っ先に言ったことは、
「姉ちゃんの部屋、未央に使わせようと思って、もう学習机も発注しちゃったんだけど」
だった。未央、というのは弟の娘。来年小学校一年生になる。弟一家は実家で同居している。だから、私が離婚して実家に戻ってくるのは困る、ということだ。
「実家には戻らないから大丈夫よ」
「じゃ、姉ちゃん一人暮らしすんの?」
「ううん。一緒に住む人が……」
そこで、え!?と弟。
「男?!」
「……ううん。女性」
「あーそう。ああ、びっくりした。姉ちゃんの浮気で離婚とか、そういうことじゃねえんだよな?」
「………」
こういうとき、本当に返答に困る。確かに、男ではないけれども……。
弟は一人納得したように、「今流行ってるよな。独身女性の共同生活とかってさ。ようはそういうことだろ?」と言った。訂正するのも面倒だし、理解もされないだろうから、そういうことにしておくことにする。
母は、離婚したことを告げると、そりゃそうよ。遅いぐらいよ。と納得したように言った後、
「あんた、慰謝料の請求はちゃんとするんでしょうね? 充則さん他に子供がいるんでしょ?」
ときた……。
「慰謝料の請求って時効があるのよ。不倫の事実を知った時から3年って。だから私は請求できないの」
「えー何よそれ」
母に言うつもりはないが、それを言ったら、私の方が請求される立場にあるのだ。夫とは話し合いの結果、お互い慰謝料請求をしないことにしている。
母はふーんとかへーとか言っていたけれど、最後には結論付けるように、こう言ってくれた。
「まあ、とにかく今までよく頑張ったわね。お疲れ様。あとは自由に生きなさいよ」
「………ありがとう」
あとは自由に……。そういわれることが何よりも有り難かった。
***
11月のはじめに中学の文化祭があった。
美咲は菜々美ちゃんとさくらちゃんと仲良さそうにクラスの出店である和菓子屋さんを切り盛りしていた。一時期、三人の間には不穏な空気が漂ったらしいのだけれども、なんとか乗り切ったようだ。美咲は強い。
……そう。強い、と思い込んでいた。
美咲の本当の気持ちに気が付けなかったことが悔やまれる。美咲は切れそうな糸の上をこらえながら必死に歩いていたのだ。その細い糸が切れて、はじめて、私は彼女の本心を知ることになる。
11月23日日曜日。あかねと一緒に暮らし始めてちょうど3ヶ月。「明日も振替休日で休みだし、何か食べにいこうか」なんてのんきなことを言っていた夕方のことだった。
「そっちに美咲きてない?」
電話越しの緊迫した健人の声。美咲が何も言わないまま出ていってしまい、その後連絡がつかないそうなのだ。
「何かあったの?」
聞くと、健人は、たぶんだけど、と前置きをしてから、言った。
「あっちの子供の七五三の写真を見ちゃったらしくて」
「七五三?」
そういえば、三歳になるのか。
「お父さんと愛人とその子供と、ばあちゃんの4人で、写真屋さんで撮った写真なんだって」
「…………」
お義母さんが、あちらの子供と会っていたなんて知らなかった。愛人のことを「絶対に許さない」と言っていた義母。でも子供は、義母にとっては同じ孫だ。
美咲には、ショックが大きかっただろう……。
「オレも今、そっちに向かってるから」
健人の電話は一方的に切られた。健人も相当あわてている。
電話を横できいていたあかねが、「私が探しに出るから、綾さんはここで待機してて」と、携帯だけ持って出ていった。
取り残された私。ボーっとしていてもしょうがない。美咲がもしうちに向かっているのなら、ついた時に何か食べられるように夕飯を作って待っていよう。
美咲の好きなもの……美咲は何を食卓にだしても喜んでくれたので、何が特別好きなのかよくわからない。あえていうならハンバーグとかだろうか……。
弁当用に大量に作って冷凍しておく予定だった、ハンバーグのたねを全部使ってハンバーグを作りはじめる。料理をしている間は無心になれる。
黙々とハンバーグとサラダとスープを作っていたところで、あかねから連絡が入った。美咲が見つかったという。健人も一緒らしい。一安心だ。
さっそくハンバーグを焼きはじめたところで、帰ってきた。
「わーいいにおいー」
明るい美咲の声。表情も明るい。健人は肩をすくめてみせると、
「ばあちゃんには連絡しておいたから。夕飯食べたら帰るよ」
「うん……」
あかねはなんだか難しい顔をしている。私と目があうと、少し眉を寄せて首を振った。
美咲……ただの気まぐれの外出ではない。
夕飯の間、いつものように美咲はよく喋った。
ここに来るまで、道を間違えてしまったこと。犬の散歩の人にたくさん会ったこと。その犬が懐いてきてとてもかわいかったこと。親切なおじいさんがここの近くまで連れてきてくれたこと。そこであかねと健人が別々の方向からそれぞれ歩いてきて驚いたこと。美咲はニコニコと明るく話し続けている。いつもの、美咲だ。
食後の珈琲を挟んで、ようやく美咲と真正面から向き合った。
「何も言わずに出てきたら、おばあちゃん心配するでしょう?」
言うと、美咲は「はあーい」と明るく返事をしたが、私がジッと見つめていたら、ふっと息を吐いた。
「だってさあ。おばあちゃんと話したら文句言っちゃいそうだったからさ」
「文句?」
美咲の口はへの字に曲がったままだ。
「それは……おばあちゃんが、あちらの子供と会ってたこと?」
「あーそれは別に。最近おばあちゃんがあっちの子と会ってることは知ってたし」
「……そうなの?」
私は知らなかった。美咲はムッとした顔のまま続けた。
「ただね。あの子、ピンクの着物着てたんだよ」
「ピンクの着物?」
七五三……三歳の時、美咲は赤い着物を着た。
「ママ、覚えてない? 私ピンク着たいっていったのに、おばあちゃんが赤じゃないとダメっていって赤になったでしょ?」
「……そうだったわね」
そういえば、そんなことがあった……。
「ずるいよね。私の時はダメっていったくせに、あの子はいいなんて……」
「…………」
本当にそれだけだろうか……
「本当に、それだけ?」
「何が?」
「それだけが理由で家を出てきたの?」
「それだけだよ。っていうか、大きな問題だよ! 私もピンク着たかったのにずるいよ!」
「……………」
「おばあちゃん、あの子のいうことは聞いてあげたってことだよね」
美咲は腹立だしげにリンゴを咀嚼していたが、ごっくんと飲み込むと、大きく息を吐いた。
「あーああ。美咲、おばあちゃんランキングも一位から転落しちゃったってことだよなー」
自分のことを名前で言った美咲。久しぶりだ。素が出ている感じがする。
「ランキングって何?」
「人にはランキングがあるでしょ?」
「?」
なんの話? と見返すと、美咲は、だーかーらーと人差し指を立てた。
「ママの今のランキング一位はあかね先生でしょ?」
「え?」
「お兄ちゃんの一位は瑠美ちゃん」
「は?」
健人も眉を寄せて美咲を見る。瑠美ちゃんというのは健人の彼女の名前だ。
「あかね先生の一位は当然ママ」
「………」
「パパの一位は愛人の子。おばあちゃんの一位はずっと美咲だったのに、やっぱり会うようになって情がうつっちゃったのかなー」
「…………」
「顔だけ言ったら美咲の方がずっとかわいいけど、三歳児の無邪気な可愛さっていうのにはかなわないよね」
美咲の声だけが、部屋に響き渡る。美咲は2個目のリンゴを口に入れると、あーああ、と大きくため息をついた。
「美咲、結構がんばってきたんだけどなー。みんなが美咲がいると家が明るくなるって喜んでくれるからさー頑張って明るくしてさー」
「…………」
「お兄ちゃんの橋渡しだって美咲がずっとしてあげてたでしょー? それなのにいつのまにお兄ちゃんとママ仲良くなってるしさー」
「…………」
「なんか頑張り損だなー。ことごとく一位から転落。あーああ。もう誰の一位でもないなんてなー」
「美咲………」
美咲がそんなこと思ってたなんて………。
いつもニコニコと明るかった美咲。本当は故意に明るく振舞っていたということか…。美咲の張り詰めていた糸は切れてしまったようだ。ようやく吐露してくれた本音……。
「あーああ」と天井を仰いでいる美咲に、健人が眉を寄せて言う。
「美咲? バカなこと言うなよ。みんな美咲のこと大切に思ってるよ。今日だってみんなどれだけ心配したか……」
「一番に大切な人なんて誰もいないでしょ。美咲はみんなの二番目、三番目」
健人の言葉に、美咲が乾いた笑顔を浮かべた。
何を言ってあげればいいんだろう。何を言えば、美咲の心に届くんだろう……。
「美咲さん」
ふいにあかねが立ち上がった。美咲のそばまでくると、美咲の頭をポンポンとなでる。今にも泣きそうだった美咲がふにゃっとした顔をしてあかねを見上げた。
「センセー、そのポンポンって反則だよー。キュンってなるー」
「うん。知ってる」
にっこりとするあかね。悪魔的に魅力的な笑顔。わざとだ。その顔。
あかねは引き続き美咲の頭をなでながら、低い声で続けた。
「あのね、愛は増えていくものなのよ」
「増えていく?」
「一位がたった一人とは限らないってこと」
「えーそんなことないよ。一位は一位だもん!」
「そうしたら、私が綾さんの一位じゃなくなるから困るよ」
「え?」
あかねがしゃがみ、美咲を見上げる。
「忘れちゃった? 病院での話。綾さんは真っ先に『健人と美咲と離れたくない』って言ったの」
この既視感なんだろう、と思ったら、病院でのシーンの再現だ。あの時あかねはベッドの横にひざまずいていた。
「綾さんの一番は、いつまでたっても健人さんと美咲さんなんだよ」
「そんなことないよー」
「そんなことあるよ? でもね」
あかねが穏やかな笑みを浮かべる。
「きっとその中に、私も入ってる、と思う」
「…………」
あかねの話の着地点が見えなくて、何もコメントできない。
あかねは「そして」と言って、手をあげた。
「私の一番はもちろん、綾さんだけれども、その中に美咲さんと健人さんも入ってほしい」
「え」
美咲と健人がキョトンとする。
「正式な文書ができてからあらためて話そうと思ってたんだけど」
「………あ」
あかねの話が見えてきた。あかねに目で尋ねられ、こくんと肯く。今が二人に話す良いタイミングなのかもしれない。
「私は、綾さんの大切な大切な健人さんと美咲さんのこと、自分の子供同様に一緒に成長を見守り、支えていきたいと思っています。もちろん、二人が迷惑でなければなんだけれども」
「え?」
「えええ!」
戸惑った健人とは対照的に、美咲の目はキラキラと輝いている。
「とりあえず、金銭面での援助。遺産相続は、通常の婚姻と同様、配偶者に2分の1、子供に残りの2分の1を……」
「ちょ、ちょっと待って」
健人があかねを制する。
「それって遺言とかそういう?」
「今、公正証書を作成している最中なの」
「ああ、公正証書……聞いたことある……」
「聞いたことなーい!」
美咲の声が明るく響く。
「なんかよくわかんないけど、あかね先生が美咲のママになるってことでしょ?!」
「そうね。保護者の一人っていうのかな? 美咲さんがよければだけど」
「いいよ! いいに決まってる!」
無邪気に喜ぶ美咲。健人は慌てて首を振った。
「ちょっと待って。オレはパス」
「なんでっ」
健人の言葉に美咲がブーっとする。
「あかね先生にそんなことしてもらう義理ないから」
「義理はなくても私がそうしたいからなんだけど、ダメですか?」
「いや、マジでパス」
健人がブンブンと手をふる。
「あかね先生とお母さんが一緒に暮らすのも賛成だし、お母さんと遺産相続とかの手続きするのも賛成だよ。でも、オレの話は別。オレはあかね先生に支えてもらうつもりはないよ。オレはもうすぐ成人するし、あと三年半で大学も卒業する。自分の力で生きていけるし、生きていきたい」
「健人……」
健人はもう、大人の目をしている。まだ18歳。もう18歳。大人の階段を着実に上っている。
美咲はフーンと肩をすくめると、
「へー、じゃあ、あかね先生の財産の2分の1、美咲が全部もらっちゃうからねーだ。あとからやっぱり欲しかったっていっても知らないよー?」
「いわねえよ」
健人が美咲を軽く小突く。すると、美咲がニヤニヤと、
「お兄ちゃん知らないんでしょ。あかね先生の貯金額。あと何年かで確実に億いくよ、億。その4分の1って言ったら……」
「え、マジで?!」
すぐに揺らいだ健人。顔を見合わせみんなで笑いだしてしまった。
この日、美咲ははじめてマンションに泊まった。
子供に愛が伝わっていないなんて、母親失格だ。ベッドの中で、私がどれだけ美咲が生まれてきてくれて嬉しかったか、美咲のことを大切に思っているか、という話を延々としていたら、美咲にあきれたように「わかったからもういいよー」と止められ、ソファで寝ていたあかねにクスクス笑われた。
みんなに喜んでもらうために無理に明るく振舞っていた、といっていた美咲だが、結局、明るいのが素なのか、無理しないでいいといっても明るいままだ。
この日以降、美咲は週の半分はマンションに泊まるようになった。義母はあまり良い顔をしなかったけれども、自分の写真の件がきっかけなので強くも言えないようだった。
そして、元夫と義母と美咲と話し合いを重ねた結果、親権は夫側のままで、美咲は年明けから私たちと一緒に住むことになった。色々と考慮した結果、今のマンションではなく、シェアハウスを借りることにした。
結局、遺産の件に関しては健人も名を連ねることになった。養育の件に関しては健人は断固拒否したので、美咲だけとなったけれど、4部屋で構成されたシェアハウスの1部屋は健人のために借りてある。
私たちの新生活は冬休み明けからはじまった。
------------------------
イチャイチャが足りない物足りない回でした。はい。
綾さん、実家の両親・弟にはカミングアウトしていません。まあそのうち機会があったら話してもいいかな……というくらいで……。
たぶん、綾さん両親も弟も、話されても「ふーん。それで?」って感じかもしれない。そのくらい、今は付き合いの薄い親子です。
綾さん子供時代は、忙しい両親に変わり家事を一手に引き受けて、弟の世話までしていましたが、大学出てすぐ嫁にいって、そのまま渡米しちゃって、帰国後も家から出なかったので、この20年近く、正月くらいにしか連絡とってなかったんですよね…。嫁にいったら相手の家のもの、という考えの両親だったので…。仲が悪いわけではないんだけどね。
次回綾さん視点最後。
そしてその次にあかね視点で最終回。
すべてが丸く収まる。大団円。