30人ほどで満席になる薄暗い店内は、今、8割ほど席が埋まっている。甘いタバコとお酒の匂い。
半年ぶりのさざめきに身をゆだねる。半年前までは毎週通っていた第二の我家といえる女性限定のバー。カウンターの一番端の席で壁に頭をあずけ、目を閉じる。心地いいんだか悪いんだかもわからない。でも、一人でいるよりはマシな気がする。
「姫、そろそろ終電じゃない?」
「……………」
カウンターの中から陶子さんがぶっきらぼうに言う。
駅でしゃがみこんでいたところを、偶然、通りがかり、拾ってくれた陶子さん。半年ぶりに会うけれど少しも変わらない。あいかわらずの濃いピンクのアイシャドーに真っ赤な口紅。クレオパトラみたいなボブの黒髪。スパンコールの散りばめられた黒いドレスがよく似合う。
「……帰りたくない。今日閉店5時でしょ? そのあと陶子さんちいってもいい?」
「いいけど………宿代は体で払ってもらうわよ?」
「ウーソーつーきー。そんな気ないくせに」
陶子さんは小柄で元気な子が好き。スピッツみたいな子犬のような子がタイプ。それは出会ったころ……私が18歳の時から変わらない。バイト中にもよく「姫があと身長20センチ低かったら考えないでもない」って言われてた。ここにいる人達はみんな、大学時代のあだ名である「姫」と私のことを呼ぶ。
「新境地を開拓するのもやぶさかではないけど?」
「……なにいってんだか」
10歳年上の陶子さん。私も結構若く見えるほうだけれど、陶子さんにはかなわない。私より年下といっても信じられるくらいの肌の艶やかさ。何でも見透かしているような切れ長の黒い瞳が、こちらをまっすぐに見返している。
「なんで帰りたくないの? 愛しの綾さんとはどうなったのよ? 見つけたんでしょ?」
「うん。今、一緒に住んでる」
「へえ。すごいじゃない」
陶子さんが全然すごくなさそうに言う。この人はセリフに抑揚があまりない。そこがウソっぽくなくて好き。
「でも、綾さんは人の物なの。かっさらったつもりだったけど、私の勘違いだった」
「勘違い?」
「綾さんは……私といない方が幸せになれる」
子供たちと一緒にいたい、と即答した綾さん。それを無理やり引き離したのは私。
それに……、今まで、気がついていないフリをしていたけれど……、本当は、あの旦那が愛人と別れさえすれば、佐藤家の問題はすべて丸く収まるのだ。そこへ私が出てきたから、その可能性も立ち消えてしまった。でも、愛人は結婚するつもりはないらしい。だったらなおのこと、綾さんは離婚する必要はない……。
「私なんかいないほうがいいんだよ。私なんかいなければ……」
綾さんは幸せになれる。
母も……幸せになれる。
母から渡された封筒を思い出し、足元が冷たくなる。携帯の番号ももう分からない。母にはもう一生、会わない。……会えない。
「それは早計ね」
深淵に沈みそうになったところを、陶子さんの声に引き上げられた。
「綾さんが幸せかどうかは、綾さんが決める話。姫が決めつける話じゃないでしょ」
「…………でも」
「姫、変わったわね」
「え」
陶子さんが、グラスを差し出してくれながら、少し微笑んだ。
「人間らしくなってきたじゃないの」
「人間らしくって」
「みんなそうやって色々悩んだりしてんのよ。今までの姫は、みーんなと表面上うまくやって、みーんなに好かれて、うまーく人生渡って……。誰のものにもならない人気者、だったものね」
誰のものにもならない……昔、綾さんに言われたことがある……。
「20年前、大好きな綾さんと付き合ってたころだってそうだったじゃない。綾さんだけを愛するのも愛されるのも怖くて、他の女に手だしまくって……」
「……………」
そんなつもりは……、ない? いや、どうだったのだろう……。
「まさか姫の口から『私なんか』って言葉が聞けるとは思わなかったわね」
「だって………」
「私なんかって言葉は、そんなことないよって言ってもらうために使う言葉。そんなことない。あなたが必要よっていってほしいわけね?」
「…………」
それは……。
「今、姫は初めて、人のものになりたいって思ってるってところね」
「…………」
「自分のすべてを受け入れてほしいと思ってる。でも、怖くて戸惑ってる」
「…………」
グラスの中の氷が傾く。陶子さんの言葉が、頭の中で渦巻いている。
「怖くて逃げ出したいなら、また、前みたいに女の子とっかえひっかえすれば気持ちが落ちつくんじゃないの? この半年、綾さん以外に手だしてないんでしょ?」
「…………なんでそれ」
陶子さんが肩をすくめた。
「姫が一度ここに連れてきた子……由衣ちゃんね。あの子が言ってたわよ」
「………え」
なぜ、由衣先生の名前がここで……。
綾さんにあんな怪我を負わせた由衣先生。綾さんの希望もあって、あれは事故、ということで処理することになり、由衣先生には何のお咎めもなかった。校長と教頭には報告してあるけれど(もちろん、植木鉢を落とした理由は言っていないけど)、学校側も騒ぎになることを恐れて隠蔽することに決めたらしい。
由衣先生、学校を辞めるのでは、と思ったが、見た目によらず図太い神経をしていたようで、今も変わらず家庭科の教師を続けている。私に対しては怯えるような態度を取るようになったけれど、日常業務に差しさわりはないので放っておいている。
「あの子、姫がこなくなったころから、時々来るようになったのよ。はじめのうちは、姫のことをあちこちで聞きまわってストーカーみたいでちょっと……って感じだったけど、最近は別にお目当ての人できたみたいで、すっかり明るくなったわよ」
「…………あっそ」
それで私が他の女の子たちと手を切ったことを知っていたわけね……。写真を隠し撮りして綾さんの旦那に送りつけたり、綾さんにけがをさせたり、まるでストーカーそのものだったけど……。でも、今他に目がいっているならそれは願ってもない。彼女は彼女で勝手に幸せになってもらいたい。
店の時計が深夜0時を告げた。土曜日の夜はこれからが本番だ。
「そろそろユリアがくるかも。姫が最後に付き合ってたのってユリアでしょ? 今あの子フリーよ」
「あー………」
ユリアのつかみどころのないふわふわした天使のような微笑みを思い出す。
「苦しいなら、今まで通り、可愛い花と楽しい時間を過ごしていけば?」
「……………」
かりそめの欲情、かりそめの愛……
あの子ならたぶん、何も聞かず、ただ微笑んで一緒に過ごしてくれるだろう。
でも……
すうっとまわりの音が消えていき、本当に愛しいその声だけが脳内に響き渡る。
『あかね……』
綾さんの優しい声。綾さんの細い指。温かい腕。潤んだ瞳。しなやかな肢体……。
綾さんに……会いたい。
「…………帰る」
「そう?」
陶子さんが、なぜかニッと口の端をあげて笑った。
「いい気味」
「え」
「いつでも余裕ぶちかましてた姫が、こんな顔するなんてね」
いい気味って……先週、綾さんにも言われたな……。私の嫉妬に「いい気味だわ」って……。
「……陶子さんは、嫉妬する人?」
「するわよ。嫉妬深いわよ私。姫は全然しない子だったよね。執着心がないから嫉妬もしないんでしょうね」
「そう……だったよね……」
それが今ではどうだろう。私は嫉妬の塊でできている。
押し黙った私に、陶子さんは、へえと低くつぶやくと、ポツリといった。
「驚いた。姫、ホントに人間らしくなったのね。ようやく身も心も抱かれることができるかもよ」
「………抱かれる?」
これも、昔、綾さんに言われた。あかねは誰にも抱かれないって……。
陶子さんはこちらに両手を広げてみせると、
「まあ、ダメだったら戻っておいで。私が慰めてあげる」
「……新境地?」
「そうそう。一緒に新境地を切り開こう」
「そんなこといって……と、これ!」
陶子さんが入れてくれていたグラスを飲んで、思わず声をあげる。
「水じゃないの」
「そうよ? そろそろ帰るって言うと思ったからお水にしておいたの。お酒臭いまま帰りたくないでしょ?」
「……………」
陶子さんの予知能力健在。
陶子さんは真面目な顔になり、私を正面から見た。
「姫。私が言えることはただ一つよ。愛すること、愛されることを恐れないで」
「………」
「当たって砕けてきなさいな」
「……砕けるのはやだなあ」
苦笑する。当たって……砕けろ、か。
会計をその場に置き、荷物を持って立ち上がると、わらわらっと女の子達が寄ってきた。
「姫様帰っちゃうのー?」
「せっかく久しぶりなのにー」
あいかわらずここに来る子はかわいい子が多い。半年前までの私ならテンション上がりまくって朝までコースになるところだけれども……
「ごめんね。大切な人が待ってるんだ」
「えーーーー」
可愛い花たちの間を抜け、小さく手を振ってくれている陶子さんに手を振り返し、赤い扉を開く。地上に続く階段。
私は……私は、進むことができるだろうか。
*****
マンションについたのは、深夜一時すぎだった。ミネラルウォーターを買ってガブ飲みし、夜風に当たりながら歩いてきたので酒も抜けた。
公園から見て、部屋の電気がついていることは確認済みなので、綾さんがいることは分かっていた。まずは第一関門突破だ。あのまま綾さんが旦那さんと一緒に佐藤家に帰ってしまっていたらどうしよう、と不安に思っていたのだ。
「………ただいま」
せっかく晩御飯はグラタンにするって言ってくれてたのに、こんな時間まで連絡もしなかった……。
何て言えばいいんだろう?
そして……何て聞けばいいんだろう。今日、旦那さんと二人でいるところをみてしまったことを……。
「おかえりなさい」
ひょいとキッチンから顔を出した綾さん。いつも通りの表情だ。
なんか……ものすごく良い匂いがするんですけど……。
「……なにしてるの?」
「クッキー焼いてるの」
「ク、クッキー?」
深夜一時にクッキーですか?
「冷めてからもおいしいけど、出来立てもおいしいのよ。第一陣が焼けてるけど食べる?」
「う……うん」
「じゃあ、手洗ってきて。珈琲でいい?」
「う、うん」
あの、重ねて言いますが、今、深夜の一時過ぎてます。お茶してる場合でしょうか……。
「わあ。すごい。かわいい」
お皿に並んだ市松模様のクッキーをみて感嘆の声をあげる。こんなもの、家で作れるんだ! 食べてみてさらに驚く。
「おいしい。売ってるのよりずっとおいしい」
「良かった」
にっこりとして、珈琲を差し出してくれる綾さん。
「こういうの、もしかして美咲さんと一緒に作ったりしてた?」
「そうね……アメリカにいたころはね。美咲よりも健人の方が上手だったけど」
綾さんが子供たちとクッキーを作る姿を想像して、なんだか切なくなってくる。私が奪ってしまった時間……。そして、私には有り得なかった時間。母とお菓子作りをするなんて想像すらできない。
珈琲を一口飲む。フワッとした香り。絶妙な苦み。……完璧だ。
「すごい……ホテルの珈琲よりおいしい」
「ホテル?」
はてな?という顔をした綾さんに、コックリとうなずく。
「今日、母がね、珈琲おごってくれたの。最初で最後だって」
「…………」
きゅきゅっと、おしぼりで手をふき(完璧な綾さんはテーブルにおしぼりも用意してくれている)、もらってきた封筒を綾さんに渡す。
いぶかしげに中身を取り出した綾さんが息を飲んだ。
「分籍……?」
「うん。なんかねえ、再婚するから私が同じ籍にいると都合が悪いんだって」
「都合……?」
何でもないことのように、セリフを読むように、説明する。
「分籍届って出したところで、戸籍が離れるだけで、別に縁が切れるわけでもなんでもないんだけどね。でも、母は私のことは死んだものと思ってずっと連絡とってないって、相手に言ってるらしくて、一緒の戸籍にいること知られたくないんですって」
「………」
「再婚相手の娘さんともうまくやってるらしくてね、チャコちゃんっていう孫になる子の写真を待ち受けにしちゃったりしててさ」
「………」
「もう金輪際連絡してくるなって。仕送りもしないでいいってさ。仕送りしてた分だけお金余るし、やっぱり引っ越ししてもいいかもね」
「………あかね」
なぜだかわからないけれども、色々な感情が渦巻いて、言葉が止まらない。
「携帯の電話帳からも削除されたの。だからもう、電話がかかってくることも、かけることもない。せいせいするよ」
「………」
「ホント勝手だよね。木村の父と離婚するときに、無理やり私を一之瀬姓にさせておいてさ。こんなことならやっぱり、木村にしておけばよかった。今さら一人で一之瀬の籍ってなにそれって感じ」
止まらない。自分でも何をいっているのか分からない。ただただ感情が湧き上がってくる。
「そもそも、どうせ邪魔になるなら、父が亡くなったときに引き取らなきゃよかったのに」
お母さん。お母さん。いつも冷たい目で私のこと見てた。
「それ以前に、いらなくなるんだったらさ!」
ソファを拳で叩く。
「いらなくなるんだったら、はじめっから産まなきゃよかったのにっ」
母の背中。遠ざかっていく背中……。
「そうしたらこんな……」
「あかね」
「こんな……」
言葉が続けられなくなった。綾さんの胸に抱き寄せられたからだ。
「綾さ……」
「あかね」
ぎゅうううっと頭をかき抱かれ、耳元で力強く言われる。
「大丈夫。大丈夫だから。私がいるから」
「そんなこといって……」
綾さんだってどうせいなくなる。お似合いの旦那さん。かわいい子供たち。綾さんはあちらの世界に戻る。ここからいなくなる。みんな、私のそばからいなくなる。お父さんも、おばあちゃんもいなくなった。お母さんとももう会えない。だから嫌なんだ。いなくなってしまうのなら、はじめから求めたくない。期待したくない。
「綾さんはいなくなる」
「いなくならないわよ」
「いなくなるよ」
今日だって旦那さんと一緒にいた。楽しそうに笑ってた。私が入る隙なんてなかった。二人がうまくやっていけるなら、美咲だって母親と離れなくてすむ。私がいなくなれば……
「綾さんにとっても、私なんかいない方がいいんだよ」
「何いってるの!?」
綾さんの腕に力がこもる。
「私はあなたと一緒にいたい。あなたが必要なの」
「………」
あ、陶子さんの言っていた通りだ。「私なんか」は「必要」っていってもらうための言葉……。
泣きたくなってきた。言わせてしまった……。
「綾さん、私………」
「あかね。聞いて」
肩をつかまれ、正面から顔を覗き込まれる。綾さんの漆黒の瞳が真摯な光をたたえこちらを見ている。
「…………」
すうっと興奮状態がおさまってくる。綾さんの瞳、吸い込まれそうだ……。
私が落ちついたのを見計らって、綾さんが表情をあらためた。
「あかね、提案があるんだけど」
そして、綾さんは、ものすごく真面目な顔で、言った。
「私の娘にならない?」
-----------------------
綾さんの「私の娘にならない?」
というセリフは、今年1月にこの物語が脳内に再生された時点で、ポイントになる言葉として出てきてたので、書けて安心しました。
安心したのと同時に、ああ、そろそろ本当にこの話ともお別れなんだなあと寂しくなってきました。
あかねと陶子さんの話とか、ユリアの話とか、私の頭の中にはありますが、綾さん出てこないから書く気しないなーって感じなのでパスです。
あと1回であかね視点は終わり。「幸せになりなさいな」と陶子さんなら言ってくれそう。
半年ぶりのさざめきに身をゆだねる。半年前までは毎週通っていた第二の我家といえる女性限定のバー。カウンターの一番端の席で壁に頭をあずけ、目を閉じる。心地いいんだか悪いんだかもわからない。でも、一人でいるよりはマシな気がする。
「姫、そろそろ終電じゃない?」
「……………」
カウンターの中から陶子さんがぶっきらぼうに言う。
駅でしゃがみこんでいたところを、偶然、通りがかり、拾ってくれた陶子さん。半年ぶりに会うけれど少しも変わらない。あいかわらずの濃いピンクのアイシャドーに真っ赤な口紅。クレオパトラみたいなボブの黒髪。スパンコールの散りばめられた黒いドレスがよく似合う。
「……帰りたくない。今日閉店5時でしょ? そのあと陶子さんちいってもいい?」
「いいけど………宿代は体で払ってもらうわよ?」
「ウーソーつーきー。そんな気ないくせに」
陶子さんは小柄で元気な子が好き。スピッツみたいな子犬のような子がタイプ。それは出会ったころ……私が18歳の時から変わらない。バイト中にもよく「姫があと身長20センチ低かったら考えないでもない」って言われてた。ここにいる人達はみんな、大学時代のあだ名である「姫」と私のことを呼ぶ。
「新境地を開拓するのもやぶさかではないけど?」
「……なにいってんだか」
10歳年上の陶子さん。私も結構若く見えるほうだけれど、陶子さんにはかなわない。私より年下といっても信じられるくらいの肌の艶やかさ。何でも見透かしているような切れ長の黒い瞳が、こちらをまっすぐに見返している。
「なんで帰りたくないの? 愛しの綾さんとはどうなったのよ? 見つけたんでしょ?」
「うん。今、一緒に住んでる」
「へえ。すごいじゃない」
陶子さんが全然すごくなさそうに言う。この人はセリフに抑揚があまりない。そこがウソっぽくなくて好き。
「でも、綾さんは人の物なの。かっさらったつもりだったけど、私の勘違いだった」
「勘違い?」
「綾さんは……私といない方が幸せになれる」
子供たちと一緒にいたい、と即答した綾さん。それを無理やり引き離したのは私。
それに……、今まで、気がついていないフリをしていたけれど……、本当は、あの旦那が愛人と別れさえすれば、佐藤家の問題はすべて丸く収まるのだ。そこへ私が出てきたから、その可能性も立ち消えてしまった。でも、愛人は結婚するつもりはないらしい。だったらなおのこと、綾さんは離婚する必要はない……。
「私なんかいないほうがいいんだよ。私なんかいなければ……」
綾さんは幸せになれる。
母も……幸せになれる。
母から渡された封筒を思い出し、足元が冷たくなる。携帯の番号ももう分からない。母にはもう一生、会わない。……会えない。
「それは早計ね」
深淵に沈みそうになったところを、陶子さんの声に引き上げられた。
「綾さんが幸せかどうかは、綾さんが決める話。姫が決めつける話じゃないでしょ」
「…………でも」
「姫、変わったわね」
「え」
陶子さんが、グラスを差し出してくれながら、少し微笑んだ。
「人間らしくなってきたじゃないの」
「人間らしくって」
「みんなそうやって色々悩んだりしてんのよ。今までの姫は、みーんなと表面上うまくやって、みーんなに好かれて、うまーく人生渡って……。誰のものにもならない人気者、だったものね」
誰のものにもならない……昔、綾さんに言われたことがある……。
「20年前、大好きな綾さんと付き合ってたころだってそうだったじゃない。綾さんだけを愛するのも愛されるのも怖くて、他の女に手だしまくって……」
「……………」
そんなつもりは……、ない? いや、どうだったのだろう……。
「まさか姫の口から『私なんか』って言葉が聞けるとは思わなかったわね」
「だって………」
「私なんかって言葉は、そんなことないよって言ってもらうために使う言葉。そんなことない。あなたが必要よっていってほしいわけね?」
「…………」
それは……。
「今、姫は初めて、人のものになりたいって思ってるってところね」
「…………」
「自分のすべてを受け入れてほしいと思ってる。でも、怖くて戸惑ってる」
「…………」
グラスの中の氷が傾く。陶子さんの言葉が、頭の中で渦巻いている。
「怖くて逃げ出したいなら、また、前みたいに女の子とっかえひっかえすれば気持ちが落ちつくんじゃないの? この半年、綾さん以外に手だしてないんでしょ?」
「…………なんでそれ」
陶子さんが肩をすくめた。
「姫が一度ここに連れてきた子……由衣ちゃんね。あの子が言ってたわよ」
「………え」
なぜ、由衣先生の名前がここで……。
綾さんにあんな怪我を負わせた由衣先生。綾さんの希望もあって、あれは事故、ということで処理することになり、由衣先生には何のお咎めもなかった。校長と教頭には報告してあるけれど(もちろん、植木鉢を落とした理由は言っていないけど)、学校側も騒ぎになることを恐れて隠蔽することに決めたらしい。
由衣先生、学校を辞めるのでは、と思ったが、見た目によらず図太い神経をしていたようで、今も変わらず家庭科の教師を続けている。私に対しては怯えるような態度を取るようになったけれど、日常業務に差しさわりはないので放っておいている。
「あの子、姫がこなくなったころから、時々来るようになったのよ。はじめのうちは、姫のことをあちこちで聞きまわってストーカーみたいでちょっと……って感じだったけど、最近は別にお目当ての人できたみたいで、すっかり明るくなったわよ」
「…………あっそ」
それで私が他の女の子たちと手を切ったことを知っていたわけね……。写真を隠し撮りして綾さんの旦那に送りつけたり、綾さんにけがをさせたり、まるでストーカーそのものだったけど……。でも、今他に目がいっているならそれは願ってもない。彼女は彼女で勝手に幸せになってもらいたい。
店の時計が深夜0時を告げた。土曜日の夜はこれからが本番だ。
「そろそろユリアがくるかも。姫が最後に付き合ってたのってユリアでしょ? 今あの子フリーよ」
「あー………」
ユリアのつかみどころのないふわふわした天使のような微笑みを思い出す。
「苦しいなら、今まで通り、可愛い花と楽しい時間を過ごしていけば?」
「……………」
かりそめの欲情、かりそめの愛……
あの子ならたぶん、何も聞かず、ただ微笑んで一緒に過ごしてくれるだろう。
でも……
すうっとまわりの音が消えていき、本当に愛しいその声だけが脳内に響き渡る。
『あかね……』
綾さんの優しい声。綾さんの細い指。温かい腕。潤んだ瞳。しなやかな肢体……。
綾さんに……会いたい。
「…………帰る」
「そう?」
陶子さんが、なぜかニッと口の端をあげて笑った。
「いい気味」
「え」
「いつでも余裕ぶちかましてた姫が、こんな顔するなんてね」
いい気味って……先週、綾さんにも言われたな……。私の嫉妬に「いい気味だわ」って……。
「……陶子さんは、嫉妬する人?」
「するわよ。嫉妬深いわよ私。姫は全然しない子だったよね。執着心がないから嫉妬もしないんでしょうね」
「そう……だったよね……」
それが今ではどうだろう。私は嫉妬の塊でできている。
押し黙った私に、陶子さんは、へえと低くつぶやくと、ポツリといった。
「驚いた。姫、ホントに人間らしくなったのね。ようやく身も心も抱かれることができるかもよ」
「………抱かれる?」
これも、昔、綾さんに言われた。あかねは誰にも抱かれないって……。
陶子さんはこちらに両手を広げてみせると、
「まあ、ダメだったら戻っておいで。私が慰めてあげる」
「……新境地?」
「そうそう。一緒に新境地を切り開こう」
「そんなこといって……と、これ!」
陶子さんが入れてくれていたグラスを飲んで、思わず声をあげる。
「水じゃないの」
「そうよ? そろそろ帰るって言うと思ったからお水にしておいたの。お酒臭いまま帰りたくないでしょ?」
「……………」
陶子さんの予知能力健在。
陶子さんは真面目な顔になり、私を正面から見た。
「姫。私が言えることはただ一つよ。愛すること、愛されることを恐れないで」
「………」
「当たって砕けてきなさいな」
「……砕けるのはやだなあ」
苦笑する。当たって……砕けろ、か。
会計をその場に置き、荷物を持って立ち上がると、わらわらっと女の子達が寄ってきた。
「姫様帰っちゃうのー?」
「せっかく久しぶりなのにー」
あいかわらずここに来る子はかわいい子が多い。半年前までの私ならテンション上がりまくって朝までコースになるところだけれども……
「ごめんね。大切な人が待ってるんだ」
「えーーーー」
可愛い花たちの間を抜け、小さく手を振ってくれている陶子さんに手を振り返し、赤い扉を開く。地上に続く階段。
私は……私は、進むことができるだろうか。
*****
マンションについたのは、深夜一時すぎだった。ミネラルウォーターを買ってガブ飲みし、夜風に当たりながら歩いてきたので酒も抜けた。
公園から見て、部屋の電気がついていることは確認済みなので、綾さんがいることは分かっていた。まずは第一関門突破だ。あのまま綾さんが旦那さんと一緒に佐藤家に帰ってしまっていたらどうしよう、と不安に思っていたのだ。
「………ただいま」
せっかく晩御飯はグラタンにするって言ってくれてたのに、こんな時間まで連絡もしなかった……。
何て言えばいいんだろう?
そして……何て聞けばいいんだろう。今日、旦那さんと二人でいるところをみてしまったことを……。
「おかえりなさい」
ひょいとキッチンから顔を出した綾さん。いつも通りの表情だ。
なんか……ものすごく良い匂いがするんですけど……。
「……なにしてるの?」
「クッキー焼いてるの」
「ク、クッキー?」
深夜一時にクッキーですか?
「冷めてからもおいしいけど、出来立てもおいしいのよ。第一陣が焼けてるけど食べる?」
「う……うん」
「じゃあ、手洗ってきて。珈琲でいい?」
「う、うん」
あの、重ねて言いますが、今、深夜の一時過ぎてます。お茶してる場合でしょうか……。
「わあ。すごい。かわいい」
お皿に並んだ市松模様のクッキーをみて感嘆の声をあげる。こんなもの、家で作れるんだ! 食べてみてさらに驚く。
「おいしい。売ってるのよりずっとおいしい」
「良かった」
にっこりとして、珈琲を差し出してくれる綾さん。
「こういうの、もしかして美咲さんと一緒に作ったりしてた?」
「そうね……アメリカにいたころはね。美咲よりも健人の方が上手だったけど」
綾さんが子供たちとクッキーを作る姿を想像して、なんだか切なくなってくる。私が奪ってしまった時間……。そして、私には有り得なかった時間。母とお菓子作りをするなんて想像すらできない。
珈琲を一口飲む。フワッとした香り。絶妙な苦み。……完璧だ。
「すごい……ホテルの珈琲よりおいしい」
「ホテル?」
はてな?という顔をした綾さんに、コックリとうなずく。
「今日、母がね、珈琲おごってくれたの。最初で最後だって」
「…………」
きゅきゅっと、おしぼりで手をふき(完璧な綾さんはテーブルにおしぼりも用意してくれている)、もらってきた封筒を綾さんに渡す。
いぶかしげに中身を取り出した綾さんが息を飲んだ。
「分籍……?」
「うん。なんかねえ、再婚するから私が同じ籍にいると都合が悪いんだって」
「都合……?」
何でもないことのように、セリフを読むように、説明する。
「分籍届って出したところで、戸籍が離れるだけで、別に縁が切れるわけでもなんでもないんだけどね。でも、母は私のことは死んだものと思ってずっと連絡とってないって、相手に言ってるらしくて、一緒の戸籍にいること知られたくないんですって」
「………」
「再婚相手の娘さんともうまくやってるらしくてね、チャコちゃんっていう孫になる子の写真を待ち受けにしちゃったりしててさ」
「………」
「もう金輪際連絡してくるなって。仕送りもしないでいいってさ。仕送りしてた分だけお金余るし、やっぱり引っ越ししてもいいかもね」
「………あかね」
なぜだかわからないけれども、色々な感情が渦巻いて、言葉が止まらない。
「携帯の電話帳からも削除されたの。だからもう、電話がかかってくることも、かけることもない。せいせいするよ」
「………」
「ホント勝手だよね。木村の父と離婚するときに、無理やり私を一之瀬姓にさせておいてさ。こんなことならやっぱり、木村にしておけばよかった。今さら一人で一之瀬の籍ってなにそれって感じ」
止まらない。自分でも何をいっているのか分からない。ただただ感情が湧き上がってくる。
「そもそも、どうせ邪魔になるなら、父が亡くなったときに引き取らなきゃよかったのに」
お母さん。お母さん。いつも冷たい目で私のこと見てた。
「それ以前に、いらなくなるんだったらさ!」
ソファを拳で叩く。
「いらなくなるんだったら、はじめっから産まなきゃよかったのにっ」
母の背中。遠ざかっていく背中……。
「そうしたらこんな……」
「あかね」
「こんな……」
言葉が続けられなくなった。綾さんの胸に抱き寄せられたからだ。
「綾さ……」
「あかね」
ぎゅうううっと頭をかき抱かれ、耳元で力強く言われる。
「大丈夫。大丈夫だから。私がいるから」
「そんなこといって……」
綾さんだってどうせいなくなる。お似合いの旦那さん。かわいい子供たち。綾さんはあちらの世界に戻る。ここからいなくなる。みんな、私のそばからいなくなる。お父さんも、おばあちゃんもいなくなった。お母さんとももう会えない。だから嫌なんだ。いなくなってしまうのなら、はじめから求めたくない。期待したくない。
「綾さんはいなくなる」
「いなくならないわよ」
「いなくなるよ」
今日だって旦那さんと一緒にいた。楽しそうに笑ってた。私が入る隙なんてなかった。二人がうまくやっていけるなら、美咲だって母親と離れなくてすむ。私がいなくなれば……
「綾さんにとっても、私なんかいない方がいいんだよ」
「何いってるの!?」
綾さんの腕に力がこもる。
「私はあなたと一緒にいたい。あなたが必要なの」
「………」
あ、陶子さんの言っていた通りだ。「私なんか」は「必要」っていってもらうための言葉……。
泣きたくなってきた。言わせてしまった……。
「綾さん、私………」
「あかね。聞いて」
肩をつかまれ、正面から顔を覗き込まれる。綾さんの漆黒の瞳が真摯な光をたたえこちらを見ている。
「…………」
すうっと興奮状態がおさまってくる。綾さんの瞳、吸い込まれそうだ……。
私が落ちついたのを見計らって、綾さんが表情をあらためた。
「あかね、提案があるんだけど」
そして、綾さんは、ものすごく真面目な顔で、言った。
「私の娘にならない?」
-----------------------
綾さんの「私の娘にならない?」
というセリフは、今年1月にこの物語が脳内に再生された時点で、ポイントになる言葉として出てきてたので、書けて安心しました。
安心したのと同時に、ああ、そろそろ本当にこの話ともお別れなんだなあと寂しくなってきました。
あかねと陶子さんの話とか、ユリアの話とか、私の頭の中にはありますが、綾さん出てこないから書く気しないなーって感じなのでパスです。
あと1回であかね視点は終わり。「幸せになりなさいな」と陶子さんなら言ってくれそう。